安田長秀

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安田 長秀
時代 戦国時代
生誕 永正13年(1516年)?[要出典]
死没 天正10年(1582年[1]
異説あり
別名 有清、武包、治部少輔、伯耆守、但馬守[2]
戒名 浄知院殿法宗了身居士[2]
墓所 山形県米沢市の常安寺[2]
主君 長尾為景晴景景虎(上杉謙信)景勝
氏族 安田氏
父母 安田実秀?
長尾政景[2]
堅親[1]
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安田 長秀(やすだ ながひで)は、戦国時代武将上杉氏の家臣。越後国北蒲原郡白河庄の安田城主。安田氏は北越後の豪族・揚北衆の一つ。

出自[編集]

桓武平氏大掾氏流城氏支流の大見氏の末裔とされる。上杉謙信の家臣に安田景元安田顕元安田能元などの同姓の人物がいるが、こちらは大江姓安田氏であり別の一族である。本拠もそれぞれ安田城ではあるが、長秀の平姓安田氏は越後蒲原郡(現在の新潟県阿賀野市)の安田城主であり、大江姓安田氏は越後刈羽郡安田城主である。また、出自から長秀の方の安田氏を大見安田氏、景元らの方の安田氏を毛利安田氏と呼ぶこともある。

生涯[編集]

長秀の史料初見は享禄4年(1531年)であり、その頃既に長尾為景に属する豪族の一人として署名が見られる。以降は通称の「治部少輔」として史料上散見される。なお「安田氏系譜」では別称を但馬守としたとしているが、史料上からは確認できない。

上条定憲の乱で長尾氏に従って以降、長尾氏・上杉氏の家臣として従い、特に永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおいては上杉政虎(謙信)従って勇戦し、同じ揚北衆の色部勝長中条藤資らと共に謙信から「血染めの感状」を賜った[3]。謙信の死後に起きた御館の乱では上杉景勝を支持。安田城は上杉景虎を支援する蘆名氏による攻撃を受けている。

長秀と比定されている「安田治部少輔」の史料終見は天正9年(1581年)である。没年は、長秀の末裔が仕えた米沢藩が後に編纂した「御家中諸士略系譜」によると天正10年(1582年)。安田氏の家督は河田元親の三男である与親が相続した。一方、長秀の末裔が幕末に編纂した「安田氏系譜」では長秀の没年を弘治2年(1556年)とし、以後に史料上現れる「安田治部少輔」は長秀の子で、名を安田有重としている(後述)。

安田有重[編集]

前述の通り、『安田町史』の引く「安田氏系譜」によると、安田長秀(但馬守、治部少輔)は弘治2年(1556年)に没しており、川中島の戦いや御館の乱で活躍した「安田治部少輔」は、長秀の子にあたる「安田有重」(伯耆守、治部少輔)の事績であるとしている。

同系譜によると有重は長秀の実子で、母は長尾政景の妹。妹に下条忠親安田堅親の室がいる。「御家中諸士略系譜」などで長秀の養子とされる安田堅親(与親)は有重の養子であり、有重は文禄2年4月8日1593年5月8日)に没。戒名は自性院殿本安利源居士で、墓所は父・長秀と同じ米沢市の常安寺にあるという。

逸話[編集]

  • 弘治元年(1555年)に上杉謙信(当時は長尾景虎)が北条氏康と戦うために関東に出兵した際、長尾政景が春日山城の留守居役となった。政景が景虎に留守のことを相談する書状を送ったところ、景虎は「安田長秀を使いとしてやったから、詳細は安治(部少輔=長秀)に聞け」と返書している。

脚注[編集]

  1. ^ a b 「御家中諸士略系譜」
  2. ^ a b c d 「安田氏系譜」
  3. ^ 「御家中諸士略系譜」による。なた『新潟県史』『越佐史料』などでも、この感状を賜った「安田治部少輔」を長秀の事と解釈している。

参考文献[編集]

  • 『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)
  • 『安田町史 中世編』(安田町、1996年)
  • 『上杉家御年譜』(米沢温故会、1986年)
  • 『大見安田・水原氏文書 越後文書宝翰集』(新潟県立歴史博物館、2009年)

関連項目[編集]