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長尾政景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
長尾 政景
長尾政景と仙桃院の肖像
時代 戦国時代
生誕 大永6年(1526年
死没 永禄7年7月5日1564年8月11日
改名 新六(幼名)→政景→道宗(戒名
別名 仮名:六郎、新五郎
墓所

長尾政景公墓所(新潟県南魚沼市

長尾政景の墓(長野県上水内郡信濃町
官位 越前守
主君 長尾晴景上杉謙信
氏族 上田長尾氏
父母 父:長尾房長 母:不明
兄弟 通天存達、政景大井田景国、女(市河信房室)、女(安田長秀室)
正室:仙洞院長尾為景の娘)
義景、女(上条政繁[1])、清円院上杉景虎継室)、顕景、時宗?、桂姫
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長尾 政景(ながお まさかげ)は、戦国時代武将上田長尾氏の当主で越後国坂戸城主。上杉景勝の実父。

生涯

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大永6年(1526年)、長尾房長の子として生まれる。上田長尾氏の血統で、長尾景虎(後の上杉謙信)の遠縁に当たる。父方の祖母は上条上杉氏の娘[2]。妻は長尾為景の娘(景虎(謙信)の姉)である仙洞院

天文16年(1547年)、府中長尾の家中で長尾晴景と景虎との間で抗争が起こると、政景は晴景側につく。上田長尾氏と対立していた古志長尾氏は景虎側だった。

天文17年(1548年)12月、晴景は景虎に家督を譲って隠居した。

天文19年(1550年)、景虎が家督を継いだことに不満を持って謀反を起こすが、天文20年(1551年)、景虎の猛攻に遭って降伏した。このとき、和睦の証として景虎の姉・綾姫(後の仙洞院)を正室に迎えている[3]

以後は配下の上田衆を率いて景虎の重臣として活躍し、弘治2年(1556年)に家督を捨てて出家しようとする景虎を説得して押し止め、復帰させる。また、永禄3年(1560年)、春日山城の留守居役に任じられるなど功を挙げた。

永禄7年(1564年)7月5日、野尻池(「野尻の池」「野尻ヵ池」「信州野尻城下の池」「上田野尻ノ池」等さまざまな表記あり)で溺死したとされる。享年38。これには、舟遊びの最中、酒に酔っていたため溺死した説、謙信の命を受けた宇佐美定満(定行)による謀殺(『北越軍談』)、下平吉長による謀殺(『穴沢文書』)などの説がある。同船していた家臣の国分彦五郎の母の後日談では、引き揚げられた政景の遺骸の肩下には傷があったという。彦五郎はこの事件で一緒に死んだといわれる。(『国分威胤見聞録』)

野尻池の場所については、長野県信濃町野尻湖(芙蓉湖)[4]新潟県南魚沼市の魚野川にあった「銭淵」と呼称される河川の屈曲部分[5]、同県湯沢町の大源太川にあったとされる池[6]など諸説あるが、一次史料に乏しくいずれも推測の域を出ない。信濃町の野尻湖に作られた墓は、墓前での落馬が多かった事から、後に野尻湖に近い真光寺に移されたとされる[7]。また、南魚沼市には、龍言寺(現在は山形県米沢市に移る)の跡地に長尾政景公墓所(道宗塚)がある。

家督は早世した長男義景に代わり、次男の顕景(のちの上杉景勝)が継いだが謙信の養子となったため、山内上杉氏と統合された形で上田長尾氏自体は事実上断絶する。また、謙信の養子とされる長尾時景が永禄13年(1570年)頃まで上田衆を率いていた記録があるが、義景が弟同様に謙信の養子に迎えられた際の別名なのか、他家から謙信の養子を経て上田長尾氏を相続した者なのかは不明であり、いずれにしても同年以降の記録がないことから早世した可能性が高い[8]

逸話

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  • 一門衆の筆頭として家中を差配したが、父・房長の叛服(はんぷく)常無き遍歴に対して眉をひそめる向きは多く、その孫の顕景(景勝)の代に至るまで、「上田衆」の語そのものが差別感情を含んで扱われた。
  • 正室仙洞院とは円満な夫婦生活を営んだ。米沢市常慶院に残る「長尾政景夫妻像」の掛軸は、上部に2人の位牌と仙洞院一族の法名、来迎する阿弥陀如来が描かれている。この仙洞院の姿が俗体の若い姿で描かれていることから、政景死後に仙桃院によって制作され、御館の乱で一族の多くを失った際に法名が書き加えられ、以後も長く供養されたと考えられる[9]。また、政景夫妻の子供である上杉景勝の法名がないのは、仙洞院が亡くなったときに健在であったからであるが、彼女の兄である晴景の法名があるのに、弟である謙信の法名がないのは、晴景は同母兄弟であるが、謙信は異母兄弟であるからと考えられている[10]

出典

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  1. 『寛政譜』が上条政繁とその養子である上条義春を同一人物にしているとする指摘があり、政景の娘が嫁いだのも義春の可能性もある。また『上杉家御家年譜』所収「外姻譜略」では義春の妻は景勝の姉と記されている。
  2. 今福匡 著「越後長尾氏と上杉謙信の閨閥 -「越後長尾殿之次第」の検討を通して -」、渡邊大門 編『戦国・織豊期の諸問題』歴史と文化の研究所、2017年、30-59頁。
  3. ただし、井上鋭夫は著書『上杉謙信』人物往来社、1966年。で、政景と綾姫の婚姻を天文6年頃であると主張している
  4. 野尻湖にある琵琶島の宇賀神社には、政景と共に溺死した宇佐美定行(定満)の墓があり「長野県公式観光ウェブサイト」・「信濃町観光協会」ホームページや「野尻湖ナウマンゾウ博物館」の野尻湖周辺史跡案内では写真付きで解説されている
  5. 平成8年の魚野川の河川改修により現在は銭淵公園内の池として形を残している。ただし、この銭渕説の根拠である「古城徴考」という史料が確認できるのは1979年刊行の入広瀬村教育委員会編『越後入広瀬村編年史中世編』で翻刻された内容のみであるにもかかわらず、その著書において著者、所蔵、成立年代等について一切の記載がないため、史料としての信頼性が極めて低い。
  6. 昭和14年の大源太川第1号砂防堰堤の建設により現在は大源太湖の湖底に位置している。
  7. 野尻湖での溺死説と落馬による墓の移築は、「真光寺」の寺山(墓地山)にある案内板や「野尻湖ナウマンゾウ博物館」にある野尻湖周辺史跡案内にも写真付きで解説されている
  8. 片桐昭彦「謙信の家族・一族と養子たち」福原圭一・前嶋敏 編『上杉謙信』高志書院、2017年、P43.
  9. 田沢裕賀『女性の肖像』至文堂〈日本の美術384〉、1998年、2,23頁。ISBN 978-4-784-33384-4
  10. 片桐昭彦「謙信の家族・一族と養子たち」福原圭一・前嶋敏 編『上杉謙信』高志書院、2017年、P34-35・55.

参考書籍

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  • 加澤昌人「「長尾政景夫妻画像」にみられる信仰と供養のかたち-阿弥陀仏、位牌、列記された法名からの考察-」『米沢史学』33号、2017年。 

関連項目

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