星野行男
星野 行男 ほしの ゆきお | |
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生年月日 | 1932年2月22日 |
没年月日 | 2014年4月10日(82歳没) |
死没地 | 日本 新潟県小千谷市 |
出身校 | 中央大学法学部卒業 |
所属政党 |
(無所属→) (自由連合→) (自由民主党→) (新生党→) (新進党→) (無所属→) 自由民主党 |
選挙区 |
(旧新潟3区→) 新潟5区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 |
1990年 - 1996年9月27日 2002年 - 2003年10月10日 |
内閣 | 第1次小泉第2次改造内閣 |
在任期間 | 2003年9月25日 - 2003年11月19日 |
内閣 | 羽田内閣 |
在任期間 | 1994年5月10日 - 1994年6月30日 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1975年4月30日 - 1989年5月31日 |
星野 行男(ほしの ゆきお、1932年(昭和7年)2月22日[1] - 2014年(平成26年)4月10日)とは、日本の弁護士(登録番号:21388、新潟県弁護士会)、政治家。衆議院議員(3期)、新潟県小千谷市市長(4期)を歴任した。元秘書に、金融担当大臣を歴任した民主党元衆議院議員中塚一宏。
経歴
[編集]新潟県立小千谷高等学校を経て、1960年、中央大学法学部卒業。
1965年、司法修習17期を修了(同期に松本啓二弁護士)し、東京弁護士会に入会。
1975年、小千谷市長に就任(以後4期務める)。同年、東京弁護士会を退会。
1989年5月31日、小千谷市長を辞職。同年10月、保守系無所属新人候補の政策集団自由連合の旗揚げに参加。
1990年の第39回衆議院議員総選挙で旧新潟3区から自由民主党・経世会公認で出馬し、初当選。
1993年、改革フォーラム21の同志と宮澤改造内閣不信任案に賛成して自民党を集団離党し、新生党を結成。第40回衆議院議員総選挙では旧新潟3区から新生党公認として出馬して再選。
1994年、羽田内閣の運輸政務次官に就任。その後、新進党の結党に参加。
1996年10月、第41回衆議院議員総選挙で新潟5区にて、師田中角栄の娘である田中真紀子と対決するも敗北し落選。同年11月、弁護士活動再開(新潟弁護士会所属)。
1998年、第18回参議院議員通常選挙で新潟県選挙区から民主党推薦で出馬し、同じく衆院からの鞍替え目指す田中直紀の後塵を拝し落選。
2000年、第42回衆議院議員総選挙直前に不出馬を表明。
2002年4月、勲三等旭日中綬章受章。同年10月、田中真紀子の議員辞職に伴う第42回衆議院議員補欠選挙に無所属で出馬し当選。後に自民党に復党した。
2003年1月、自民党新潟県第5区支部長就任。同年8月、第1次小泉内閣第2次改造内閣で法務副大臣に就任。同年の第43回衆議院議員総選挙で落選した。
2014年4月10日午前2時17分、膵臓癌のため小千谷総合病院にて死去[2]。82歳没。
主な著書
[編集]- 『雪国からの提案 新しい時代を開く』
- 『やればできる』
脚注
[編集]- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、167頁。
- ^ 元衆院議員の星野行男氏が死去 Archived 2014年4月13日, at the Wayback Machine. 新潟日報 2014年4月10日
公職 | ||
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先代 増田敏男 |
法務副大臣 2002年 - 2003年 |
次代 実川幸夫 |
先代 佐藤武 |
新潟県小千谷市長 1975年 - 1989年 |
次代 小出弘 |