寺内内閣

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寺内内閣
内閣発足時[注釈 1]
内閣総理大臣 第18代 寺内正毅
成立年月日 1916年大正5年)10月9日
終了年月日 1918年(大正7年)9月29日
与党・支持基盤超然内閣→)
立憲政友会立憲国民党
施行した選挙 第13回衆議院議員総選挙
衆議院解散 1917年(大正6年)1月25日
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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寺内内閣(てらうちないかく)は、元帥陸軍大将軍事参議官寺内正毅が第18代内閣総理大臣に任命され、1916年大正5年)10月9日から1918年(大正7年)9月29日まで続いた日本の内閣

内閣の顔ぶれ・人事

国務大臣

1916年(大正5年)10月9日任命[1]。在職日数721日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 18 寺内正毅 元帥陸軍大将
伯爵
外務大臣臨時兼任
大蔵大臣兼任
外務大臣 - 寺内正毅 元帥陸軍大将
伯爵
臨時兼任
(内閣総理大臣、大蔵大臣兼任)
1916年11月21日免兼[2]
23 本野一郎 外務省
子爵
初入閣
1916年11月21日任[2]
1918年4月23日免[3]
24 後藤新平 貴族院
無所属
茶話会
男爵
鉄道院総裁 1918年4月23日任[3]
内務大臣 30 後藤新平 貴族院
無所属
(茶話会)
男爵
1918年4月23日免[3]
31 水野錬太郎 貴族院
立憲政友会
交友倶楽部
初入閣
1918年4月23日任[3]
大蔵大臣 19 寺内正毅 元帥陸軍大将
伯爵
内閣総理大臣兼任 1916年12月16日免[4]
20 勝田主計 貴族院
無所属
初入閣
1916年12月16日任[4]
陸軍大臣 13 大島健一 陸軍中将
陸士旧4期
留任
海軍大臣 8 加藤友三郎 海軍大将
海兵7期
子爵
留任
司法大臣 21 松室致 司法省
文部大臣 28 岡田良平 貴族院
無所属
研究会
子爵
初入閣
農商務大臣 27 仲小路廉 貴族院
無所属
逓信大臣 24 田健治郎 貴族院
無所属
初入閣
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

1916年(大正5年)10月9日任命[1]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 20 児玉秀雄 貴族院
無所属
甲寅倶楽部
伯爵
法制局長官 18 有松英義 貴族院
無所属
(研究会)
内閣恩給局長
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

参政官

任命なし。

勢力早見表

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身 国務大臣 その他
きぞくいん貴族院 4 内閣書記官長法制局長官
ぐんぶ軍部 3 国務大臣のべ4
かんりょう官僚 2
9 国務大臣のべ10

内閣の動き

寺内内閣は1916年(大正5年)、第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された。

海軍大臣以外は全部山縣系という超然内閣であり、寺内が当時流行のビリケン人形にそっくりであったことと、「非立憲(主義)」をかけて「ビリケン内閣」とも呼ばれた。

当初、第1党の立憲同志会(後に憲政会を結成)と第3党の立憲国民党野党の立場を取ったものの、第2党の立憲政友会は「是々非々」として政策次第であるとした。

1917年(大正6年)に、国民党が提案して憲政会が呼応した内閣不信任上奏案の審議の場で、国民党の犬養毅総裁が一転して政友会・憲政会両党を攻撃する演説を行ったことから両党の対立が煽られ、政府は衆議院を解散した。

その際寺内は「帝国議会は貴衆両院から成り、衆議院の決議だけで直ちに国民の世論とすることのできないのは言うまでもない。我が帝国は、欽定憲法の規定により、国務大臣の任免は全く大権によって定まり、いささかも外間の容喙を許すべきではない。(中略)英国の例に倣い、内閣は衆議院多数党の代表者が組織すべきことを主張するのは、我が憲法の規定に反し、至尊の大権を干犯するとともに、両院制度を無視するものである……」(1917年(大正6年)2月10日地方長官会議における首相訓示)と述べて超然内閣の正当性を主張した。

第13回衆議院議員総選挙で勝利した政友会(第1党に躍進)と立憲国民党は多少の意見の相違はあったものの、与党を宣言したため、政局は一応の安定を見せた。寺内は政友会総裁の原敬と立憲国民党総裁の犬養毅を臨時外交調査会委員に任命してその取り込みを図った。

第1次世界大戦によって欧米が中国に目を向ける余裕が無くなった最中において、寺内内閣は積極的に中国への介入を乗り出していく。特に従来の北京政府中華革命党(後の中国国民党)両睨みの中立政策を放棄して、寺内の朝鮮総督時代からの側近である実業家西原亀三の提議による西原借款を行って段祺瑞の北京政府を支援した。さらに、アメリカとの間で中国東北部における日本の権益の優越性を確認する石井・ランシング協定を締結した。

これを受けて北京政府が連合国として第1次世界大戦に参戦すると、日本と日支共同防敵軍事協定と呼ばれる軍事同盟を締結した。これはアジアでの戦闘がほぼ終わった段階での同盟であり、中国国民の疑惑を買って後の反日運動の一因となった。

また、国内では金本位制の停止を始め、戦時中を理由とした軍備拡張などを推進した(その一方で、欧米諸国からの西部戦線参加要求には応えず不信を買うことになる)。

1917年(大正6年)にロシア帝国においてレーニンによる十月革命が発生すると、ロシア革命への干渉議論が湧き上った。当初寺内はウラジオストックに艦船を派遣して居留民保護に留める方針であったが、アメリカの誘いと外務大臣だった本野一郎の勧めでシベリア出兵に踏み切った。

1918年(大正7年)1月のウラジオストックへの艦隊派遣の頃から、シベリア出兵の噂によって米価が高騰し、各地で米騒動が発生した。寺内は軍隊を用いてこれを取り締まり、また言論統制を敷くも、これが却って世論の反発を買って全国的な反政府の動きに拡大する。

同年5月には三菱造船の会長に海軍中将武田秀雄が就任していたが、7月には徳山湾に停泊中の弩級戦艦河内で621名が死亡する爆発事故が発生した。

同年8月、大阪朝日新聞が政府を批判したところ編集者らが告発され、社長が右翼黒龍会に襲撃されるという事件も発生した(白虹事件)。

同じ8月、中国の段祺瑞政権が金本位制導入を目指した「金券条例」を公布したが、この条例を巡って大蔵大臣勝田主計と外務大臣の後藤新平(本野の後任)が対立した。後藤は中国が日本と欧米が結成した国際借款団からの融資を原資として金本位制を導入する約束であったのに「金券条例」はそれを破ったとして中国に抗議をしようとしたところ、実は「金券条例」の財源には西原借款が充てられることを勝田も知っていたからである(後藤は中国統一後の金本位制導入を構想していたのに対し、勝田や西原は段祺瑞政権支配地域において先行的に金本位制を導入してその経済力を強めて中国統一を実現させようとした)[5]

この頃、既に体調を崩していた寺内は政権運営に自信を失い、9月、内閣総辞職を決定。後任は立憲政友会の原敬による原内閣となった。

脚注

注釈

  1. ^ 前列左から 松室致司法相、寺内正毅首相、後藤新平内相・鉄道院総裁、大島健一陸相、後列左から仲小路廉農商務相、有松英義法制局長官、岡田良平文相、田健治郎逓相、池邊龍一内閣総理大臣秘書官、児玉秀雄内閣書記官長

出典

  1. ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、大正5年10月9日
  2. ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、大正5年11月21日
  3. ^ a b c d 『官報』号外「叙任及辞令」、大正7年4月23日
  4. ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、大正5年12月16日
  5. ^ 塚本英樹『日本外交と対中国借款問題 「援助」を巡る協調と競合』(法政大学出版局、2020年)ISBN 978-4-588-32605-9 P95-96・118-132.

参考文献

外部リンク