村上正邦
村上 正邦 むらかみ まさくに | |
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生年月日 | 1932年8月21日(91歳) |
出生地 | 日本 福岡県嘉穂郡 |
出身校 | 拓殖大学 |
前職 | 参議院議員 |
所属政党 |
(自由民主党→) 無所属 |
第57代 労働大臣 | |
内閣 | 宮沢改造内閣 |
在任期間 | 1992年12月12日 - 1993年8月9日 |
選挙区 |
(全国区→) 比例区 |
在任期間 | 1980年7月8日 - 2001年2月26日 |
村上 正邦(むらかみ まさくに、1932年8月21日 - )は、日本の政治家である。元参議院議員(4期)。福岡県田川郡添田町出身。在職中は参議院自民党において多大な影響力を持ち、「参院のドン」と呼ばれていた[1]。日本会議の結成に関わった[2]。「生長の家政治連合」の出身[2]。
議員当選
1932年、福岡県嘉穂郡に生まれる。1956年、拓殖大学政経学部卒業後、東洋紡を経て、生長の家本部に職員として入る。自由民主党参議院議員玉置和郎の秘書を通算14年務める。
1974年の第10回参議院議員通常選挙では、生長の家の組織票をバックに、全国区から自由民主党公認で出馬するも次々点で落選。生長の家を代表する形でしばらく「日本を守る会」事務局にいた[3]。再び玉置の秘書を務めた後、1980年、第12回参議院議員通常選挙で初当選。以後4期当選。生長の家政治連合、神道政治連盟など、宗教票の取りまとめを得意とする。また、労働族議員でもあった。
福岡県出身だが、埼玉県志木市に在住していたことから自由民主党埼玉県連合会に所属。一時は埼玉県選挙区からの立候補や埼玉県からの衆議院議員転身も取り沙汰された。
参議院での影響力拡大
比較的ハト派が多かった当時の参議院自民党の中にあって、「タカ派の武闘派」として頭角を現す。1982年、玉置が青嵐会に参加していたことが縁で、自由民主党総裁選挙において中川一郎を出馬させるべく参議院での推薦に集めに奔走して、中川一郎を総裁選に立候補をさせる。中川の死去後、動揺する参議院の中川シンパを事実上とりまとめ、その後で中曽根康弘に請われ中曽根派に入り、参議院での中曽根派の勢力拡大に力を発揮。1986年、中曽根首相が自らの政治生命をかけた死んだふり解散による衆参ダブル選挙では自民党全国組織副委員長として、中曽根の全国遊説すべてに同行し、首相演説の前座を務めた。玉置の死後、参議院自民党国会対策委員長に就任してから日本社会党・民社党などの野党議員にも人脈を広げ、自身の影響力を参議院全体に拡大した。
1983年、生長の家が運動方針を一部転換して政治運動から手を引くことになり、以後は豊明会中小企業政治連盟(豊政連、KSD中小企業経営者福祉事業団(理事長古関忠男)関連の政治団体)を支持母体とした。
1991年4月、中小企業経営問題議員連盟(豊明議連)が発足、同議連の幹事長に就任。のち会長となる。更にKSDによる「国際技能工芸大学」(ものつくり大学)設立構想を支援する「国際技能工芸大学設立推進議員連盟(KGS議連)」会長にも就任。
終戦五十年決議の阻止
1992年、宮沢改造内閣で労働大臣として初入閣。1995年、自社さ連立政権の村山富市の強い意向で衆議院で可決された終戦五十年決議を参議院でも決議させる動きがあったが、村上は保守の立場から戦争謝罪的な内容に徹底抗戦した。加藤紘一政調会長ら自民党執行部は欧米諸国側の植民地支配や侵略に言及する修正案を提示して村上も妥協して受け入れたことで提出の動きとなったが、提出直前で村上への事前通告なく未修正の決議案が発表されたことに村上が反発して提出されなくなり、参議院では決議がされなかった[1]。山本富雄の急死を受けて参議院自民党幹事長に就任する。
参院のドン
1997年、当時の小泉純一郎厚生大臣と厚生省幹部が村上の知らないところで参議院厚生委員会理事と食事を取っていたことに反発。円滑な参議院審議を求める参議院理事のスケジュール管理の立場から、村上への事前通告もなく参議院理事を動かしたことで参議院スケジュール管理に支障を来たしたとして、参議院厚生委員長に対して議事権発動を促し、厚生省幹部の出席を差し止めにした。加藤紘一幹事長ら党執行部はこの事態を打開するために村上を参議院幹事長から更迭しようとするが、村上は参議院の独自性を盾に抵抗。村上更迭という強行案には、党内連立反対派らの反発を刺激を党執行部が恐れ、野中広務幹事長代理から「あなたは実質的に参議院を支配しようとしている。まさか天下を取るつもりじゃないだろうね」と述べるほどであった。党執行部は小泉厚相に対して村上参院幹事長に全面謝罪させることを提案。小泉が村上に謝罪したことで丸く納まった(この事件が2001年に小泉が首相になった時、トップダウン方針と言われながらも参議院の実力者である青木幹雄に一定の配慮を示す原因になったと言われている)。
1998年、参議院選挙を取り仕切り、このとき野中広務と公認問題をめぐり対立。選挙で自民党は惨敗し、参院幹事長を辞任。青木幹雄が後を継ぐ。1998年12月、山崎拓グループ(山崎派)の派閥離脱を受け、渡辺派会長に就任(自民党参院議員で派閥領袖は番町政策研究所で2015年の山東昭子と2人だけ)。1999年3月に志帥会旗揚げで、同派最高顧問の中曽根康弘元首相の後押しもあり、初代会長を務める。同年7月、派閥会長の職を退いて自民党参議院議員会長に就任し、「参議院の法王」「参議院の尊師」「村上天皇」と異名を取るほど「参院のドン」として影響力を発揮する。亀井静香から「2,000メートルの地下から這い上がった男」と呼ばれた。
1999年8月、長年の懸案だった国旗国歌法で、小渕恵三が全体の参議院審議の良好な雰囲気作りや中間政党であった公明党対策などの助言をし、成立にこぎつけた。
1999年11月12日、今上天皇の即位10周年にあたり国立劇場で行われた政府主催「天皇陛下御在位10年記念式典」の後、同日午後から皇居外苑において開催された「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」の主催者「天皇陛下御即位10年奉祝委員会」(稲葉興作会長。委員に森喜朗ほか)の委員となり祭典の運営に当たる。同祭典の第2部「祝賀式典」において奉祝委員会委員を代表して祝辞を述べた。
2000年4月、村上は、小渕恵三首相危篤の際には、当時、次期総裁の最有力候補と目されていた加藤・山崎を差し置く形で五人組と呼ばれる密室談合政治を展開し、早々に森喜朗幹事長を後継総裁に決定する過程で最も主導的な役割を果たした。この五人組には森幹事長、亀井静香政調会長は出席していたが、池田行彦総務会長は党三役で唯一欠席した。当時池田は体調不良であったが、五人組に池田が加わらなかったのは、池田が加藤の側近だったことも影響したと思われる。
失脚・逮捕
2000年10月、KSDの不正経理疑惑発生(KSD事件)。翌2001年1月、村上の側近だった自民党参議院議員小山孝雄(村上の元政策担当公設秘書、生長の家出身)が逮捕され、村上の周囲にも疑惑が広がる中、自民党参議院議員会長を辞任。同年2月、KSD事件で賄賂を受け取ったと報道される。2月28日に証人喚問された際、訴追の恐れを理由にいくつかの質問に対して証言拒否をした。世間の混乱を招いたとして、自民党を離党し、議員辞職した。3月1日に受託収賄の容疑で逮捕された。
2003年5月20日、東京地裁で懲役2年2ヶ月、追徴金約7288万円の実刑判決を受ける。2005年12月19日、東京高裁でも一審判決と同じく懲役2年2ヶ月、追徴金約7280万円の実刑判決を受ける。2008年3月27日、上告が棄却され、実刑が確定。その後、異議申し立ても4月14日に却下され、5月15日、東京高等検察庁により東京拘置所に収監された。6月10日に栃木県にある「喜連川社会復帰促進センター」に移され、2009年10月28日に仮釈放され、2010年5月5日に刑期満了となった。
引退後
国会外では拓殖大学評議員、株式会社ハリカの最高顧問等を歴任。
1997年の厚生省理事問題もあったことで郵政民営化を始めとする小泉元首相の政策や政治手法に対しては批判的で、2005年の郵政国会の際、参議院本会議で反対票が上回った理由に村上の影響力があったとされる。2011年6月には全自民党参議院議員に「党議拘束に縛られず、良心に従って政治意思を表明すべきだ」などと訴える文書を配布。また総務政務官に就任した浜田和幸の自民党離党(離党届は受理されず除名処分)などは亀井静香国民新党代表らと組んで参議院自民党議員の与党引き抜き工作の黒幕と目された。2015年3月11日、さとやま・草莽の会の結成に参画した[4][5]。
エピソード
- 保釈後もしばらくは、メディアの表舞台には現れなかったが、近年再登場し、言論活動を行っている。
- ニュース番組のインタビュー取材等の形でテレビにも出演している。2006年4月30日、テレビ朝日系列のニュース番組「スーパーJチャンネル」に出演。堀江貴文保釈のニュースの中で、同様に逮捕・東京拘置所拘置経験者である鈴木宗男・佐藤優とともに奈良県吉野を訪れ、後醍醐天皇陵を参拝して再起を誓った後、鼎談する様子が放送された。また山田洋行事件で逮捕された守屋武昌にも逮捕後に差し入れをするなどして人脈を広げている。これにより、逮捕・起訴されて刑事被告人と自分と同じ境遇を受けた鈴木宗男・佐藤優・守屋武昌ら様々な分野で政官界の舞台裏を知りうる主要人物と人脈ネットワークを構築している。
- 左派論壇誌の『世界』誌上で魚住昭のインタビューを複数回受け、連載。この連載は2007年10月、村上正邦/述・魚住昭/著『我、国に裏切られようとも 証言村上正邦』(講談社、ISBN 9784062143332)として刊行。
- 宮崎学のWebマガジン『直言』にも登場。
- 2007年5月、元参議院議員の平野貞夫・筆坂秀世と共に幻冬舎から『参議院なんかいらない』(幻冬舎新書041・ISBN 9784344980402)を上梓。同年7月の第21回参議院議員通常選挙の結果を受け、11月には再び平野・筆坂とともに『自民党はなぜ潰れないのか 激動する政治の読み方』(幻冬舎新書066・ISBN 9784344980655)を刊行した。両書とも「政界・三浪人の鼎談本」と銘打っている。
- 永田町に事務所を構えており、「日本の司法を考える会」を開催するなど、政治活動再開への意欲も見せている。
- 早くから人工妊娠中絶には批判的であり玉置の秘書だった時には中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合の抗議を受けている。議員を退いた今も中絶違法化を訴えている。
著書・共著
- 『政治にスジを通す』 日本教文社 1973年9月
- 『混迷の東欧を探る』 読売新聞社 1991年6月
- 『汗にむくいる 徳おこし労相奮戦記 ちょっとガラッパチですが』 労務行政研究所 1994年7月 ISBN 4845240742
- 『我、国に裏切られようとも 証言村上正邦』(村上正邦述/魚住昭著) 講談社、2007年10月 ISBN 9784062143332
- 『参議院なんかいらない』(平野貞夫/筆坂秀世との共著、幻冬舎新書041:幻冬舎)2007年5月 ISBN 9784344980402
- 『自民党はなぜ潰れないのか 激動する政治の読み方』(平野貞夫/筆坂秀世との共著、幻冬舎新書066:幻冬舎) 2007年11月 ISBN 9784344980655
- 『大和ごころ入門 日本の善によって現代の悪を斬る』(佐藤優との共著) 扶桑社、2008年4月 ISBN 4594055842
- 『「情」の国家論』 (山本峯章/佐藤優との共著) 光人社、2008年11月 ISBN 4769814097
脚注
- ^ a b “村山談話、削られなかった“4文字”の文言 元「参院のドン」村上正邦氏が激白”. ZAKZAK (夕刊フジ). (2015年5月9日) 2015年5月10日閲覧。
- ^ a b 「(日本会議研究)憲法編:中 国民投票へ、賛同拡大運動」、朝日新聞、2016年3月24日。
- ^ 菅野完「日本会議の源流を作った男――シリーズ【草の根保守の蠢動 第5回】」、2015年4月9日
- ^ 星野典久 (2015年3月11日). “村山元首相「日本が孤立しないか」 安倍首相の談話懸念:朝日新聞デジタル” (HTML) (日本語). 村山元首相「日本が孤立しないか」――安倍首相の談話懸念. 朝日新聞社. 2015年3月11日閲覧。
- ^ “70年談話「反省」継承を/村山元首相ら勉強会発足 | 全国ニュース | 四国新聞社” (HTML) (日本語). 70年談話「反省」継承を/村山元首相ら勉強会発足. 四国新聞社 (2015年3月11日). 2015年3月11日閲覧。
関連項目
外部リンク
議会 | ||
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先代 井上裕 |
参議院大蔵委員長 1987年 - 1988年 |
次代 梶原清 |
公職 | ||
先代 近藤鉄雄 |
労働大臣 第57代:1992年 - 1993年 |
次代 坂口力 |
党職 | ||
先代 井上裕 |
自由民主党参院議員会長 第23代:1999年 - 2001年 |
次代 竹山裕 |