明治大学硬式野球部

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明治大学硬式野球部
明治大学のユニフォーム(画面左側)
加盟団体 東京六大学野球連盟
本拠地 東京都府中市若松町5-6-1
明治大学内海・島岡ボールパーク
創部 1910年
監督 田中武宏
公式サイト 明治大学硬式野球部
リーグ戦成績
リーグ成績 優勝42回(2022年時点)
全日本大学野球選手権大会
出場回数 18回
最高成績 優勝6回
明治神宮野球大会
出場回数 14回
最高成績 優勝7回
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明治大学硬式野球部(めいじだいがくこうしきやきゅうぶ、: Meiji University Baseball Club)は、東京六大学野球連盟に所属する大学野球チーム。明治大学の学生によって構成されている。OB組織の名称は駿台倶楽部。

創部

1910年(明治43年)。

歴史

(詳細は野球部HPを参照)

戦前

明治大学では1906年(明治39年)、伴清吉なる人物が同志を集めて野球チームを結成したが、学校当局はそれを正式な野球部とは認めなかった[1]

1910年(明治43年)5月、明治大学錦町分校の有志チームが中央大学有志チーム[2]三菱ケ原で対戦した(1勝1敗)。この分校チームをベースに野球部を創設しようという動きが起こり、岸本辰雄校長が理事会内の反対論を押し切って創部を承認した[3]

当時教授であった内海弘蔵が部長を、慶應OB佐竹官二がコーチを務め、佐竹の縁で慶應野球部がたびたびコーチに訪れた。翌1911年(明治44年)には早慶と試合を行い、1912年(大正元年)秋の早明2回戦(10月5日)で早稲田に初勝利[4]1914年(大正3年)秋から始まる早慶明の三大学リーグ戦の足がかりとなった。

1913年(大正2年)には第1回極東オリンピックに日本代表として出場し、全フィリピンを破って優勝[5][6]。これが初の海外遠征となった。

三大学リーグの明慶戦
(1915年5月15日、柏木球場)

翌年6月には「ワシントン大学」の招待を受けてアメリカ遠征に旅立ったが、いざシアトルに上陸してみるとワシントン大学の招待というのは真っ赤な嘘で、同大学の名を騙る悪徳ブローカーの仕業であることが判明する。そのため対戦相手を探しながらの遠征旅行(56戦26勝28敗2引き分け)は大赤字となり、創部5年目にして廃部の危機に直面する。この苦境を脱する一法として思い立ったのが早慶両校との有料試合であり、三大学リーグ戦で徴収した入場料は外国チーム招聘の費用・各野球部の海外遠征補助・グラウンド整備費・各野球部に必要な費用に充てるなど使途を明確に定めたものだった[7]

三大学リーグ開幕戦となった1914年11月2日の慶明1回戦で慶應に初勝利を収めた[8]

早慶戦復活時の明大審判団(右から岡田源三郎湯浅禎夫二出川延明

当時の明治に期待されていた役割のひとつが、1906年(明治39年)以降中断されて久しい早慶戦の復活であった。海外遠征などを通じて力をつけた明治は1923年(大正12年)秋に五大学リーグ(すでに法政立教が加盟)で悲願の初優勝を遂げた。その頃には剣道ラグビー陸上競技などでも早慶戦が始まっており、機が熟したと判断した明治は、内海部長が中心となり早慶戦復活の斡旋に入ることとなる[9]。ところが早慶野球部ともに復活に異存はないものの慶應OBが強硬に反対しており[10]、これに対して内海らは「早稲田との試合を拒む慶應を除外して、新リーグを組織する」[11] という実質的な最後通牒をつきつけて慶應の説得に成功、ようやく早慶戦復活が決し、東大を加えて東京六大学野球連盟が発足した(1925年)。明治は期待通り早慶戦復活の大任を果たしたのである。

1936年春優勝時の野球部

六大学リーグ当初は湯浅禎夫・リーグ初の30勝投手中村峰雄ら強力投手陣を擁して秋春連覇するなど黄金時代を迎えた。この時期日本の野球チームとして初めて「世界一周」(アメリカ・ヨーロッパ・香港・中国などへ遠征。1929年)を行った。1931年(昭和6年)には読売新聞社の招聘により来日した、ルー・ゲーリッグらを擁するメジャーリーグ選抜チームと、全明治大チームとして対戦。そして1937年(昭和12年)からは史上初めて4シーズン連続で優勝を果たし第二の黄金時代が到来した。しかし戦局の悪化と野球統制の強化に伴い1943年(昭和18年)11月を最後に一時解散を余儀なくされた。この戦争で嶋清一加藤三郎など多くの有望な選手たちを失った。

戦後

1946年秋の明東戦

1945年(昭和20年)終戦、9月30日に練習を再開した。しかし部員たちはまだ復員しておらず、テスト生のみによる再出発だった。11月4日には戦後初試合となる現役学生とOB(駿台倶楽部)との試合を行った。しかし早慶がいち早く隆盛を迎える一方でリーグ優勝から遠ざかる日々が続いた。また一方で有望な選手らが途中退部してプロ野球に引き抜かれるといった事態も起きた。

こうしたことから大学当局が野球部の刷新に乗り出し1952年(昭和27年)、武田孟部長・島岡吉郎監督という人事を発表する。特に野球は素人同然だった島岡の就任に4年生の主力たちが猛然と反発、集団退部し「黒雲なびく駿河台」と校歌を捩った見出しが新聞を賑わす大騒動に発展した。しかし島岡の情熱的な指導と秋山登土井淳ら有力選手たちの大量入部で息を吹き返し、1953年(昭和28年)秋に戦後初優勝を遂げると1955年までに2度の大学日本一を果たし黄金時代を再来させた。島岡の指導は途中総監督に退任した時期を含め37年に及び、その独特の指導は「人間力野球」といわれた。その間リーグ優勝15回、全国大会優勝8回(大学選手権5回、神宮大会3回)を達成した。

内海弘蔵島岡吉郎の胸像

島岡の死去後は戦後野球部再建に奔走した別府隆彦が監督を継ぎ、数年の沈黙の後1992年(平成4年)から毎年のように優勝を重ねた。1995年には大学野球史上初の女性選手ジョディ・ハーラーが東大戦に先発登板、2001年(平成13年)にも小林千紘が登板するなど、進取に富んだ行動で話題を集めた。他方、1997年(平成9年)10月14日の立教4回戦9回表1死で、明治・安田聖寛(育英・4年)の一ゴロを立教・長島大輔(宇都宮・4年)が、安田の顔付近にタッチしたところ、安田が仰向けにひっくり返り、長島につかみかかってしまい、これを見て両チームの殺到し、乱闘となり、立教・樋渡勇哉(市川・3年)が右わき腹を傷める事態が発生した。この試合は、6回表にも明治の選手が本塁に突入した際、捕手と接触して口論となり、両チームがもみ合いとなっていた[12]。翌15日に、東京六大学連盟に、山口孝部長と別府隆彦総監督の辞任、荒井信久監督と選手5人(4年3人、2年2人)のリーグ戦終了までの謹慎を申し入れ了承されている[13]

21世紀に入ってから優勝は2004年(平成16年)春季の1回のみとやや低迷していたが、2008年(平成20年)春季リーグ戦で4年8季ぶりに優勝を果たし、2006年(平成14年)秋に移転した新本拠地(次項にて詳述)に初めて天皇杯をもたらした。2019年(平成31年/令和元年)は故・島岡監督の干支である亥年から、袖に猪のワッペンを復活させると春季リーグ戦優勝後の大学選手権では主将、エースの森下の活躍もあって38年ぶりの優勝を飾った。指揮をとった善波達也監督が1年生時以来であり、恩師である島岡監督退任後は初めての同大会優勝であった。

本拠地

明治大学内海・島岡ボールパーク 第一球場

東京都府中市若松町5-6-1 明治大学内海・島岡ボールパーク

本拠地は柏木(東中野)→駒沢→和泉→調布と移転を重ね、2006年11月に調布市(島岡が設置に奔走したことから通称「島岡球場」)から府中市の旧三井物産グラウンドに移転。多磨霊園と道路を挟み、人工芝の第一球場と天然芝の第二球場、室内練習場、室内投球練習場、合宿所完備。メイン球場には電光スコアボードを配するなど、全国屈指の施設に生まれ変わった。球場名には初代部長内海弘蔵と島岡の名を冠した。合宿所は島岡寮。2007年より全国高等学校野球選手権東東京大会の試合会場として使用されている(2021年は除く)。また2009年のみ西東京大会でも使用された。

かつて存在したグラウンド

柏木グラウンド
和泉グラウンド(1935年)
跡地には財団法人徳光育英会運営の中野中学校が開校。1949年に明治大学付属となり、明治大学付属中野中学校・高等学校と改称した[15]
戦後まもなく神宮球場が占領軍に接収されていた時期には東京六大学野球の公式戦が行われたこともある[19]
  • 明法2回戦(1947年5月10日、明2-0法)
  • 慶立決勝戦(1948年5月1日、慶1-2立)
  • 法立1回戦(1948年5月22日、法0-1立)
  • 慶東決勝戦(1948年10月12日、慶1-0東)
  • 調布グラウンド -

ユニフォーム

チームカラーはスクールカラーでもある紫紺、紫色がやや強い。ユニフォームは白地に筆記体で「Meiji[20] 丸帽子と襟付きのユニフォームは早稲田と同様、野球草創期のスタイルを踏襲し、リーグ戦開始時から現在のスタイルを貫いている。1959年から一時期、後攻用のグレーのユニフォームを着用していた。島岡監督時代には左袖に島岡監督の干支である(島岡監督は1911年の生まれ、干支は辛亥)のエンブレムを着けていたが、現在は校章をあしらったものに代わっている。また野球帽には、「M」の一文字が取り付けられている。

記録

2011年11月27日 明治神宮野球場にて
  • リーグ戦(※2022年度秋季リーグ戦終了時点)
優勝:42回(戦前9回、戦後33回。最近の優勝=2022年秋季。4連覇=1937年春季~1938年秋季。全勝優勝=1996年秋季[21]。完全優勝=戦後17回。)

※獲得タイトルは、東京六大学野球リーグ最多の計58回である。

関連人物

※多数につき、主な選手はCategory:明治大学野球部の選手を参照。以下、特に野球部の発展に功労のあった数人のみピックアップ。

小西得郎野球殿堂表彰者)
岡田源三郎(野球殿堂表彰者)
湯浅禎夫(大正時代の明大を代表する剛腕投手)
田部武雄(野球殿堂表彰者)
二出川延明(野球殿堂表彰者)
松木謙治郎(阪神初代監督、野球殿堂表彰者)
藤本英雄(巨人監督(プロ史上最年少)、野球殿堂表彰者))
天知俊一(野球殿堂表彰者(雑誌『ホームラン』4巻3号表紙))
大下弘が表紙を飾った『ベースボールマガジン』創刊号(1946年4月20日発行)
黄金期を築いた秋山登土井淳のバッテリー(右側)
星野仙一(楽天監督時代、後に野球殿堂表彰者)
川上憲伸アトランタ・ブレーブス時代)

戦前 - 島岡監督以前

戦後(島岡監督時代)

戦後(島岡監督没後)

トリヴィア

関係者を題材にしたメディア作品

内海・島岡ボールパークでロケが行われたメディア作品

脚注

  1. ^ 天知俊一ほか 『六大学野球部物語』 ベースボール・マガジン社、1956年、87頁)
  2. ^ この有志チームが現在の中央大学硬式野球部と組織的なつながりを有するかは不明。
  3. ^ 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、学校法人明治大学、1992年、565頁
  4. ^ 飛田穂洲 『早稲田大学野球部史』 明善社、1925年、163-164頁
  5. ^ JOC - JOCについて|JOC年表 1909 - 1920
  6. ^ 広瀬謙三 『日本の野球史』 日本野球史刊行会、1964年、18頁
  7. ^ 大和球士 『真説 日本野球史 《大正篇》』 ベースボール・マガジン社、1977年、23-33頁
  8. ^ 『東京朝日新聞』 1914年11月3日付5面
  9. ^ 「その頃の五大学リーグ会議といふものは、シーズンの初めに一回だけ明治大学で開かれたのであるが、試合組合せの抽籤になると、早慶戦はざる片輪リーグの不便さは、いつも苦情の種となった。協議事項などは殆んどないのであるから、組合せが主なるもので、各ティムの代表者はこれが為に夜の十二時までも引張られる。なぜ早慶戦をやらないのかと、明治、法政、立教がぶつぶついふ。たうとう[大正]十三年の春になって、此の不平が爆発した。」(飛田穂洲球道半世記』 博友社、1951年、210頁)
  10. ^ 早慶戦復活に最後まで反対したのは三井財閥池田成彬であったという(『球道半世紀』 215頁)。
  11. ^ 『球道半世紀』 214-216頁
  12. ^ 朝日新聞、1997年10月15日朝刊35面
  13. ^ 朝日新聞、1997年10月16日朝刊、29面
  14. ^ 『図録明治大学百年』 明治大学、78-79頁
  15. ^ 明治大学(明治法律学校)の校友・校友会の歴史・由来と知っていてためになる明大トリヴィア(校友会編)
  16. ^ 『球道半世記』 50頁
  17. ^ 明治大学 『明治大学六十年史』 54頁
  18. ^ 北島忠治 『「前へ」明治大学ラグビー部 受け継がれゆく北島忠治の魂』 カンゼン、34-36頁
  19. ^ 『激動の昭和スポーツ史 6 大学野球』 ベースボール・マガジン社、1989年、70-73頁
  20. ^ Meiji」のロゴマークをデザインしたのは慶大OBの小山万吾で、佐竹官二の依頼を受けて書いたものである。(天知俊一ほか 『六大学野球部物語』 ベースボール・マガジン社、1956年、88-89頁)
  21. ^ 1928年春季には8戦全勝で優勝しているが、慶應が渡米によりリーグ戦不参加のため、全勝優勝としては扱われていない。

関連項目

外部リンク