寺尾常史

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土俵下の錣山親方

寺尾 常史(てらお つねふみ、1963年2月2日 - )は、鹿児島県姶良市(旧:姶良郡加治木町)出身(生まれは東京都墨田区)で井筒部屋所属の元大相撲力士。得意技は突っ張り、いなし。最高位は東関脇。本名は福薗 好文(ふくぞの よしふみ)。身長186cm、体重117kg。現在は、年寄錣山として錣山部屋の指導にあたる。角界での愛称は「アビ」、血液型はA型、趣味はパチンコ、音楽鑑賞、ゴルフ。

来歴

寺尾の手形

父はもろ差し名人として鳴らした元関脇鶴ヶ嶺、母は25代横綱2代西ノ海の孫娘、長兄は元十両鶴嶺山、次兄は元関脇逆鉾(現井筒)という力士の家系に生まれた(家系で詳述)。

安田学園高校2年生の時に最愛の母がで他界したことを契機に、高校を中退して兄達を追うようにして角界入りする(母・節子は死ぬ間際に「相撲取りになって」と寺尾に告げていた)。入門後は寺尾節男を名乗った。これは母(福薗節子)の旧姓・寺尾から取ったものである。1979年7月場所初土俵1984年7月場所新十両のとき源氏山力三郎と改名する。源氏山の四股名は同部屋に所属した30代横綱西ノ海が横綱昇進直後の場所まで名乗ったものである。この四股名は1場所限りで、翌場所から元の四股名に戻している[1]1985年1月場所で十両優勝し翌場所新入幕。負け越して陥落するが2度目の十両優勝で1場所で返り咲く。1987年11月から名を常史(つねふみ)と改める。

長兄の鶴嶺山は十両止まりだったが、次兄の逆鉾は三役まで昇進しており、様々な兄弟記録を残している。1986年9月場所には同時三賞受賞、1989年3月場所には同時関脇を果たした。また1990年11月場所には千代の富士横綱土俵入り太刀持ち露払いを務めた。

1995年3月場所には新横綱貴乃花から初の供給となる金星を獲得した。1997年3月場所には旭鷲山戦で右足親指を骨折し途中休場。初土俵以来続いた連続出場記録が1359で途切れた。30代後半を迎えた寺尾の突っ張りはなお衰えを知らなかったが、力士の大型化が進んだこともあってか2000年7月にはついに十両陥落。周囲からは引退の声も囁かれたが寺尾は続行を決意。翌年3月場所、5場所ぶりに幕内復帰した。38歳であった。再陥落後は昇進のチャンスもあったが、十両上位の星運に泣いた。2002年9月場所千秋楽で勝利を決めて引退

現役時代は相撲界では珍しい甘いマスクと筋肉質のソップ体型で、女性ファンからの人気と声援が多かった。若い頃は回転の速い上突っ張りといなしで勝負しており、その敏捷な動きから海外公演で「タイフーン」の通称がついたほどだった。また右を差すこともあり、下手投げは強かった。晩年は突っ張りの後父・兄が得意としていた両差しの相撲を取るようになった。引退後は年寄・錣山を襲名、井筒部屋の部屋付き親方を経て2004年1月、錣山部屋を創設。同部屋からは2011年11月場所現在で小結豊真将を出している。

家系

西ノ海(25代横綱)の曾孫(養女の養女の子供)、加賀錦(元幕下・本名は寺尾政喜)の孫、鶴ヶ嶺(元関脇)の三男、薩摩錦(元幕下)の従兄の孫。井筒3兄弟と言われ、長男が鶴嶺山(元十両)、次男が逆鉾(元関脇)、三男が寺尾。また、福薗洋一郎(元十両)は従弟に当たり、中日ドラゴンズ打撃コーチの井上一樹は再従弟に当たる。長男(夫人と前夫との実子)は俳優寺尾由布樹

加賀錦は廃業後に国技館サービス株式会社の常務取締役を務めた。その妻・寺尾文子は相撲茶屋「吉可和」(よしかわ、相撲案内所 四番)を経営し、その経営権は寺尾の親族へと引き継がれた。

主な成績

寺尾常史
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1979年
(昭和54年)
x x x (前相撲) 東序ノ口34枚目
6–1 
西序二段80枚目
6–1 
1980年
(昭和55年)
東序二段19枚目
2–5 
西序二段42枚目
6–1 
東三段目77枚目
2–5 
西序二段7枚目
3–4 
東序二段21枚目
5–2 
東三段目68枚目
3–4 
1981年
(昭和56年)
西三段目79枚目
4–3 
西三段目58枚目
3–4 
西三段目69枚目
6–1 
東三段目20枚目
4–3 
東三段目8枚目
4–3 
西幕下55枚目
2–5 
1982年
(昭和57年)
西三段目14枚目
6–1 
西幕下37枚目
5–2 
西幕下19枚目
4–3 
西幕下16枚目
4–3 
東幕下12枚目
3–4 
西幕下18枚目
4–3 
1983年
(昭和58年)
東幕下11枚目
3–4 
東幕下20枚目
3–4 
西幕下34枚目
4–3 
東幕下23枚目
3–4 
東幕下31枚目
4–3 
西幕下22枚目
5–2 
1984年
(昭和59年)
西幕下10枚目
5–2 
西幕下4枚目
5–2 
東幕下筆頭
5–2 
東十両10枚目
7–8 
西十両11枚目
8–7 
西十両8枚目
8–7 
1985年
(昭和60年)
西十両7枚目
優勝
12–3
西前頭14枚目
6–9 
東十両3枚目
優勝
12–3
西前頭12枚目
10–5 
西前頭2枚目
6–9 
西前頭5枚目
7–8 
1986年
(昭和61年)
東前頭7枚目
7–8 
西前頭9枚目
8–7 
西前頭4枚目
4–11 
東前頭12枚目
8–7 
東前頭8枚目
9–6
東前頭筆頭
6–9 
1987年
(昭和62年)
西前頭4枚目
6–9 
東前頭7枚目
8–7 
東前頭2枚目
5–10 
東前頭5枚目
7–8 
東前頭6枚目
6–9 
西前頭9枚目
8–7 
1988年
(昭和63年)
東前頭3枚目
7–8
西前頭3枚目
6–9 
西前頭6枚目
8–7 
西前頭筆頭
6–9 
西前頭4枚目
7–8 
東前頭6枚目
8–7 
1989年
(平成元年)
西前頭筆頭
8–7
西関脇0
5–10 
東前頭3枚目
7–8 
西前頭3枚目
10–5
西関脇0
8–7
西関脇0
8–7 
1990年
(平成2年)
東張出関脇0
7–8 
西小結0
8–7 
東関脇0
7–8 
西小結0
8–7 
西関脇0
9–6 
東関脇0
5–10 
1991年
(平成3年)
東前頭2枚目
8–7
西小結0
8–7 
東小結0
5–10 
西前頭3枚目
6–9 
東前頭7枚目
8–7 
東前頭4枚目
6–9
1992年
(平成4年)
東前頭8枚目
8–7 
西前頭4枚目
8–7 
東前頭2枚目
2–13 
東前頭13枚目
9–6 
東前頭8枚目
9–6 
東前頭2枚目
7–8 
1993年
(平成5年)
東前頭5枚目
6–9 
西前頭9枚目
8–7 
東前頭5枚目
5–10 
東前頭11枚目
8–7 
西前頭4枚目
6–9 
西前頭6枚目
7–8 
1994年
(平成6年)
東前頭8枚目
8–7 
西前頭2枚目
9–6
西小結0
8–7
西小結0
4–11 
東前頭3枚目
4–11 
西前頭9枚目
9–6 
1995年
(平成7年)
西前頭2枚目
5–10 
東前頭6枚目
8–7
東前頭筆頭
5–10 
西前頭5枚目
5–10 
西前頭9枚目
8–7 
東前頭3枚目
5–10 
1996年
(平成8年)
東前頭7枚目
6–9 
東前頭11枚目
9–6 
東前頭3枚目
5–10 
西前頭6枚目
5–10 
西前頭10枚目
9–6 
東前頭3枚目
4–11 
1997年
(平成9年)
西前頭8枚目
8–7 
東前頭3枚目
2–12–1[2] 
東前頭13枚目
休場
0–0–15
東前頭13枚目
9–6 
西前頭8枚目
7–8 
西前頭9枚目
6–9 
1998年
(平成10年)
西前頭13枚目
9–6 
東前頭8枚目
5–10 
西前頭12枚目
9–6 
東前頭9枚目
4–11 
東前頭16枚目
9–6 
西前頭11枚目
8–7 
1999年
(平成11年)
東前頭7枚目
8–7 
西前頭3枚目
5–10 
西前頭7枚目
6–9 
西前頭11枚目
8–7 
西前頭7枚目
8–7 
東前頭4枚目
5–10
2000年
(平成12年)
東前頭7枚目
5–10 
東前頭12枚目
7–8 
西前頭13枚目
5–10 
西十両3枚目
6–9 
東十両6枚目
8–7 
東十両5枚目
8–7 
2001年
(平成13年)
西十両2枚目
8–7 
西前頭12枚目
8–7 
東前頭9枚目
2–13 
西十両3枚目
9–6 
西十両筆頭
7–8 
西十両2枚目
休場[3]
0–0–15
2002年
(平成14年)
西十両2枚目
5–10 
西十両6枚目
8–7 
西十両2枚目
2–3–10[4] 
東十両11枚目
休場[5]
0–0–15
東十両11枚目
引退
5–8–2
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 通算成績:860勝938敗58休 勝率.478
    • 通算勝星860は歴代6位、通算負星938は歴代1位
  • 通算出場:1795回(歴代2位)
  • 通算連続出場:1359回(歴代6位)
  • 幕内成績:626勝753敗16休 勝率.454
  • 幕内在位:93場所(歴代3位)
  • 幕内出場:1378回(歴代3位)
  • 幕内連続出場:1063回(歴代4位)
  • 三役在位:13場所(関脇7場所、小結6場所)
  • 三賞:7回
    • 殊勲賞:3回(1989年1月場所、1994年5月場所、1995年3月場所)
    • 敢闘賞:3回(1986年9月場所、1989年9月場所、1994年3月場所)
    • 技能賞:1回(1989年7月場所)
  • 金星:7個(千代の富士1個、北勝海1個、大乃国3個、貴乃花1個、武蔵丸1個)
  • 各段優勝:十両2回(1985年1月場所・5月場所)

改名歴

  • 寺尾 節男(てらお せつお)1979年7月場所 - 1984年5月場所
  • 源氏山 力三郎(げんじやま りきさぶろう)1984年7月場所
  • 寺尾 節男(てらお せつお)1984年9月場所 - 1987年9月場所
  • 寺尾 常史( - つねふみ)1987年11月場所 - 2002年9月場所

年寄変遷

  • 錣山 常史(しころやま つねふみ)2002年9月 - 2002年11月
  • 錣山 矩幸( - つねゆき)2002年11月 -

エピソード

1991年3月場所、18歳の貴花田に敗れ、さがりを叩きつけるなど悔しさを露にした(引退直後の会見で「今まで一番悔しかった取組」としてこの一番を挙げた)。それでも寺尾は引退後に「あの悔しさがあったから長く相撲が取れた」と語っている。

寺尾と同じ昭和38年(1963年)生まれ(但し寺尾は昭和38年2月の早生まれ)の「花のサンパチ組」で良きライバルだった、元横綱北勝海・元大関小錦・元関脇琴ヶ梅引退相撲では、異例とも言える最後の取組相手として指名され、寺尾はそれぞれ3人の力士と土俵に上がり勝負していた。

高所恐怖症で(兄の逆鉾も同様)、飛行機に乗るのも苦手だった。しかし部屋設立後は新弟子集めの移動のために飛行機嫌いを克服。今や航空会社のマイレージ集めが趣味となっているらしい。阪神タイガースファンとして知られ、野球中継のゲストを務めたこともある。プロレスラー高田延彦との親交が深い。

マスコミに対して好意的であり、普段は寡黙ながらユニークな人柄を買われ、現在でもテレビのバラエティ番組に度々出演している。

現役最後の場所となった2002年9月場所の12日目、元関脇貴闘力と十両の地位で対戦したが、寺尾に敗れて負け越し幕下陥落が確定的となった貴闘力は、その日限りで現役引退を表明。その取り組み後には、寺尾が土俵上で貴闘力の肩をそっと叩き、互いの労をねぎらうというシーンが見られた。また同じ関脇同士ながら栃司には圧倒的に強く、幕内昇進前も含め13戦全勝と一方的に勝っている。

2010年5月現在、関取在位110場所(昭和59年7月〜平成14年9月)は魁皇の117場所(平成4年1月〜平成23年7月)に次ぐ史上2位。また幕内在位93場所も魁皇の107場所(平成5年5月、平成5年11月〜平成23年7月)、高見山の97場所に次ぐ史上3位(現在。寺尾の引退直後は当時史上2位)の記録である。

ファミコンゲームソフトに『寺尾のどすこい大相撲』(ジャレコ、1989年)がある。

脚注

  1. ^ 負け越したことからゲン直ししたともいわれる。また本人はかつて出演したテレビ番組『いつみても波瀾万丈』で、『源氏山』は横綱の名跡だから自分には重過ぎたとも語っていた
  2. ^ 右足第1趾基節骨骨折
  3. ^ 公傷
  4. ^ 途中休場。
  5. ^ 公傷。

関連項目

外部リンク