南雲忠一
南雲 忠一 | |
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生誕 |
1887年3月25日 日本 山形県米沢市 |
死没 |
1944年7月6日(57歳没) 日本 サイパン島 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1908年 - 1944年 |
最終階級 | 海軍大将 |
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年(明治20年)3月25日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。最終階級は海軍大将。サイパン島において自決。
生涯
山形県米沢市信夫町出身。旧米沢藩御扶持方[1](中士階級)南雲周蔵、志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。海軍兵学校では三号、二号生徒でそれぞれ学術優等賞を授与された[2]。1908年(明治41年)、海兵36期を191人中5番の成績で卒業[3][注 1]。海軍少尉候補生となり巡洋艦「宗谷」乗組。
1918年(大正7年)12月1日、海軍大学校甲種学生18期生となる。1920年(大正9年)海大甲種第18期を次席で卒業[4][注 2]。1920年(大正9年)12月1日 海軍少佐に昇進。
艦隊派
1930年(昭和5年)頃の南雲は艦隊派(軍縮条約反対派)の論客として知られ、山本五十六や井上成美と対立し、その政治的な活動は外部にも知られていた[7][8]。同年のロンドン軍縮会議後に南雲は山下知彦らと同郷の先輩である左近司政三を含む条約派に辞職を迫り後の大角人事に関係した[9]。
1931年(昭和6年)10月10日、軍令部第一斑第二課長になると条約派の堀悌吉を予備役に追いやり、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加中の山本五十六は堀と親睦が深かったがそれを阻止出来ず南雲を許さなかったとされるが、海軍報道部部員として海軍次官時代の山本に3年間接した松島慶三は、当時の南雲にそのような実力があったか疑問であり、また山本もそこまで狭量の人物ではなかったという[10]。軍令部の権限拡大を図った「軍令部令及び省部互渉規定改正」では、海軍省軍務局第一課長の井上成美と激しく対立し、酒気を帯びて井上に対し「貴様なんか殺すのは何でも無いんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやればそれっきりだ」と発言した[11]。1932年(昭和7年)、この年起こった五・一五事件を受けて南雲が作成した『五・一五事件の解決策』と題する文書には、被告の死刑または無期を避けること、ロンドン条約に統帥権干犯の疑義を生じさせた重要責任者に適当な処置をとることなどを求めている。ただしこの文書がどのように使用されたかは不明である[12]。
1933年(昭和8年)頃、日本のロンドン海軍軍縮条約からの脱退を求めて連合艦隊の各艦長、航空隊司令らの署名を集めた。この署名は加藤寛治の使嗾[13]があったとされ、最終的に海軍大臣・大角岑生に提出された[14]。この署名の写しは伏見宮博恭王に提出され、伏見宮は懸念を示し加藤及び当時の連合艦隊司令長官・末次信正に注意を与えている。
1935年(昭和10年)5月、土佐沖で戦艦戦隊と有地十五郎少将が指揮する第二水雷戦隊との演習があった際、南雲が艦長を務める戦艦「山城」と軽巡洋艦「神通」が衝突しかけた[15]。板倉光馬(戦艦「扶桑」勤務だが、「扶桑」が赤痢患者発生のため不参加となったため「山城」艦橋で観戦)によれば、連合艦隊兼第一艦隊参謀長・近藤信竹が取り舵をするよう連呼、すると南雲は「参謀長には指揮権はない!」と大喝、「山城」は面舵に転舵して両艦は衝突を免れた[16]。
第一航空艦隊司令長官
南方作戦
1941年(昭和16年)4月10日第一航空艦隊司令長官着任。この人事は前海軍大臣・吉田善吾と連合艦隊司令長官・山本五十六によって決められた[注 3]。 候補には小沢治三郎もいたが、慣例により年功序列で南雲に決まった[17]。松島慶三は山本が扱いづらい小沢より航空参謀をつければ制御しやすい南雲を司令官に選んだと指摘する[18]。参謀長は草鹿龍之介少将。南雲長官は航空に関しては素人であり、草鹿参謀長も航空参謀・源田実中佐を評価し献策を入れたため[19]、「源田艦隊」と呼ぶ声まであった[20]。源田によれば第一航空艦隊では南雲が訓練においても自ら操艦の指示を出したことが、雷撃隊の技量向上に貢献したと述べている[21]。南雲は、第一航空艦隊が艦隊として建制化されておらず臨時編成であったことから部隊としての思想統一や訓練に関して苦しんでいた。連合艦隊も軍令部も必要は認めていたが、建制化はミッドウェー海戦の敗北後の第三艦隊まで実現しなかった。[22]
第一航空艦隊は真珠湾攻撃の研究と実行を命じられたが、南雲は懐疑的であり、機動部隊によるハワイ作戦は投機的すぎるとして、南方作戦優先を主張していた。9月中旬の海軍大学校で行われた図上演習で、日本軍は戦果をあげたものの空母3隻が撃沈判定となり、連合艦隊参謀長・宇垣纏の判定で撃沈は取り消された。山本五十六は南雲の肩を抱き、「ああいうことは人によっていろいろ意見があるからね、かならず起るということはないよ」と南雲を励ましている[23]。1941年(昭和16年)11月上旬、連合艦隊司令部や各艦隊司令官が集まった最後の会議で、山本は日米交渉が成立した場合、直ちに反転せよと命じた[24]。南雲は「出動後に引き帰すことは、実際問題として無理です。それは士気にも大きな影響があります」と述べ、航空隊指揮官からも「出かかった小便を途中でとめるようなもので出来ない」との意見が出た[25]。すると山本は「百年兵を養うは、一日の用にあてるためだ。もし、この命令の実施が不可能な者は、ただちに辞表を出せ」と声を荒げた[25]。真珠湾攻撃までの道のりは燃料について問題があったが、それを解決するため軍務局の暗黙の了解を得て南雲は自身の責任において軍紀違反である過剰な燃料の搭載を行い解決した[26]。
真珠湾奇襲と言う重責を担った南雲は機動部隊出撃後に、「エライことを引き受けてしまった、きっぱり断ればよかった、出るには出たがうまく行くかしら」などと草鹿に内心を語っている[27][28]。草鹿が励ますと、南雲は「君は楽天家だね。羨ましいよ」と微笑したという[29][30]。草鹿自身は、南雲が作戦の行く末を非常に心配している事を知り、これが長官と参謀長の違いでもあろうとしている[31]。
真珠湾攻撃時には思いのほか海が荒れ、草鹿と源田は雷撃隊の発艦を危ぶんで爆撃隊のみの発進を決定しかけた[32]。すると雷撃機搭乗員が空母「赤城」艦橋に押し寄せて猛烈に抗議、南雲は「お前たち、このローリングでも魚雷をかかえたまま、みごと発艦できるか」と隊員たちに聞き「やれます!」との返事に対して了承、草鹿参謀長に「参謀長、いいではないか、出してやろう」と言った[33]。
1941年12月8日、太平洋戦争劈頭のハワイ真珠湾攻撃でアメリカの戦艦4隻を撃沈、2隻を大破させアメリカ太平洋艦隊を行動不能にする大戦果をあげた。帰還した攻撃隊隊長・淵田美津雄中佐から南雲と草鹿が報告を受けた。敵の反撃の可能性があることを知った南雲は動揺した[34]。南雲ははじめから反復攻撃は行わないと決心しており[35]、攻撃後は第三戦隊司令官・三川軍一から再攻撃の具申があったが、南雲は草鹿の進言もあり予定通り離脱した[36]。再攻撃に関しては山口多聞も「第二撃準備完了」と催促はしたが山口の幕僚によれば「南雲さんはやらないよ」と意見申請まではしなかった[37]。連合艦隊司令部では山本五十六に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言したが、山本も「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と答え、再度の攻撃命令を発しなかったという。[38]連合艦隊命令は「在布哇敵艦隊ヲ奇襲撃破ス」であり、再度の攻撃や石油タンク等を攻撃しなかったのは命令通りである[39]。軍令部は、南方資源要域攻略作戦を終えて迎撃作戦の準備が整うまで米艦隊主力を抑え、かつ敵減殺を本作戦の主目的としていたため、南雲を一撃のみで損害を避けた見事な作戦指導と評価した[40]。山本五十六は空母の喪失を引き換えにしても戦争を終わらせるダメージを与えたかったが、草鹿によれば南雲にはその真意が知らされていなかったという[41]。
その後は南下してニューギニア、オーストラリア、インド洋を転戦し連合軍の主要根拠地を覆滅しながらの大航海をした。ラバウル・カビエン攻略支援、ポートダーウィン攻撃、ジャワ海掃討戦などで活躍し太平洋の制空権を獲得した。1942年(昭和17年)4月の艦隊編制改訂で、隷下部隊として第十戦隊(軽巡洋艦「長良」と駆逐艦12隻)が新設され、固有編制の護衛艦艇を持つようになった。その後座礁事故を起こした「加賀」を除いた「赤城」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」5隻の空母を中心にインド洋に進出しセイロン沖海戦では群を抜く命中精度の急降下爆撃で空母「ハーミーズ 」撃沈後、余力を以て他多数撃沈し、トリンコマリー港を爆撃する戦果を挙げた。同海戦では兵装転換中に英軍重巡洋艦の出現で魚雷装備→爆弾装備→魚雷装備と変更する混乱があった[42]。また索敵機の回収に必要な電波を発したことで艦隊位置がばれ、航行中に英軍爆撃機の奇襲を受けることになったが、旗艦「赤城」が至近弾を受けるまで艦隊全員が気付かなかった[43]。
インド洋作戦までで確実に計471機は撃墜しており損失は10分の1もなく、艦艇には一隻の被害もなかった[44]。史上類のない連続的勝利を記録し南雲艦隊は世界最強の機動部隊となるが、連戦連勝から疲労と慢心が現れていた[45]。連合艦隊司令部幕僚は、南雲と草鹿に批判的であり山本五十六に南雲の交代を要望したが「それでは南雲が悪者になる」と却下された。[46]
ミッドウェー海戦
第一段階作戦の完了にともなって南雲機動部隊が日本に帰還すると、連合艦隊司令部の立案したハワイ攻略も視野においたミッドウェー作戦を命令される。南雲以下司令部や第二艦隊司令官・近藤信竹は休養と軍艦の補修、艦・航空搭乗員双方の人事異動にともなう訓練期間の必要性や、第五航空戦隊の戦力回復を待つよう要請したが、山本五十六は却下した[47]。また南雲艦隊からは第五航空戦隊(翔鶴・瑞鶴)が引き抜かれて第四艦隊指揮下に入り、南雲指揮下の空母は第一航空戦隊と第二航空戦隊の4隻のみとなる。第五航空戦隊はミッドウェー作戦までに南雲の指揮下に戻るはずであったが、珊瑚海海戦に投入されて「翔鶴」が大破、多数の航空機と搭乗員を失い、戻ることはなかった。
1942年(昭和17年)6月、南雲はミッドウェー海戦に参加した。南雲艦隊には、攻略部隊到着前にミッドウェー基地を空襲し制空権を獲得すること、また攻略後に現れるであろうアメリカ機動部隊を撃滅することが命令された。しかし南雲艦隊の作戦開始前に、アメリカ軍は日本側の暗号を解読し日本軍の来襲を待ち受ける準備を済ませており、味方の連合艦隊司令部は潜水艦や二式飛行艇での索敵に失敗し、機密漏洩もおざなりにしていた。出発前に南雲らは敵艦隊の動向は機を逸せず通報するように懇願し重要な作戦転換は連合艦隊司令部から発せられることとなっていたが、付近に敵空母の疑いを感じながら敵情変化なしのまま何もしなかった。そのため第一航空艦隊では敵にこちらの企図が察知されていないものとして行動していた。[48]
6月5日、南雲機動部隊はミッドウェー島基地攻撃隊の出撃後、「敵情変化なければ二次攻撃隊は第四編成をもって本日実施予定」と指令した。この攻撃隊は米艦隊迎撃に備え待機させるように山本五十六連合艦隊司令から指示されていたものだった。この時点では兵装転換は行われなかった[49]。しかし攻撃を終えた飛行隊長・友永丈市大尉は南雲司令部に対し「第二次攻撃の要あり」と打電した。ミッドウェー攻略部隊のため制圧を間に合わせなければならず、米艦隊はハワイにいるという連合艦隊の敵情判断に従って行動していた南雲[50]は帰還中の偵察機からも報告がないため、連合艦隊司令部から米艦隊迎撃のために待機を指示されていた残り半数の攻撃隊を兵装転換して使うことに決定した。草鹿によれば「山本の望みは南雲も幕僚もよく知っていた。事実状況が許す限りそうした。しかしミッドウェー基地の敵航空兵力がわれわれに攻撃を開始し敵空母も発見されていない状況でいるのかどうかわからない敵に半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官にとして耐えられないことだった。後で問題だったとしてもあの当時の状況では南雲の決定は正当だった」という[51]。米国の研究によれば現地時間7時15分から始まった陸上攻撃兵装への転換を南雲は第一航空戦隊にしか出しておらず、第二航空戦隊は装備無しの状態で待機させていたとの調査結果があり、この調査によればその後、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将からあった「直ちに攻撃隊を出撃させるべき」の意見具申を不可能なものにしてしまったという[52]。その後、7時40分に南雲に7時25分発の利根4号機からの敵艦隊発見の報が届き7時45分に兵装転換一時中止の命を出すが、この時点で「赤城」で6機、「加賀」で9機しか兵装転換はしていなかった[53]。8時30分に南雲が敵艦隊攻撃を決意した結果、第一航空戦隊の計15機の艦攻の再雷装と第二航空戦隊の待機機体の対艦兵装への装備開始。それを格納庫内で進めると同時に飛行甲板にミッドウェイ空襲隊を着艦させるという慌ただしさであった。
しかし偵察機から予期せぬ米軍機動部隊発見の報告があり、山口から「現装備のまま出撃させるべき」との意見具申がされた。しかし艦隊上空にはミッドウェー島攻撃を終えた第一次攻撃隊100機が帰還し着艦収容を待っていた。そのため南雲は帰還部隊の収容を優先させた。航空参謀・吉岡忠一によればこの判断は司令部で何の問題もなく決まったという[54]。山口の意見具申を却下した件について、「アメリカの資料によればこの時点では飛行甲板に攻撃隊の準備はされていなかったため山口の意見具申は実は不可能であった[53]」とする主張が一部であるが、これらは山口の意見具申から「現装備のまま」の箇所を削って「全攻撃隊の兵装転換が終了するのを待つより発信準備を急がせよ」とする進言の意図を曲解している[55]。また日本の戦史資料でもこの時、上空警戒の艦載機の発着艦のため飛行甲板を開けておいたとあるのは常識的な認識であり[56]、アメリカの資料で明らかになったとして山口の意見具申が不可能だったと主張する論者は当時の状況や記録を調査しているか疑わしい。
第一航空艦隊はミッドウェー島基地航空隊の空襲を撃退し、米軍機動部隊から発進したTBD デバステーター雷撃機の攻撃も連続で全て撃退した。南雲は鈍重な旗艦「赤城」の操艦を艦長・青木泰二郎に代わって自ら行い、魚雷6本を回避してみせた[57]。直接の操艦は艦長の職掌であり職掌の分担を犯すものではあるが、その腕には源田実も舌を巻いたという[58]。ただし日米の資料や戦闘記録によるとミッドウェーで赤城が受けた魚雷はTBFアベンジャー雷撃機からの2本(4本投下され内1本は自爆、1本は遠くを通過)と、B-26マローダー双発爆撃機(本来は爆撃機であるが、爆弾の代わりに魚雷を積むことができた)からの1本のみで、南雲が操艦したエピソードに該当する記録はない[59]。直後に米軍機動部隊艦載機による急降下爆撃を受けて、主力空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が炎上した。南雲は炎上する「赤城」に残ろうとしたが、草鹿らの説得で艦橋前面の窓から脱出、軽巡洋艦「長良」(第十戦隊旗艦、木村進少将)に移動した。残った「飛龍」も撃沈され、空母4隻を失い敗北した。その後も南雲は夜戦を実施する気勢であったが、敵空母3,4隻の報告を受けあきらめて退避した[60]。
山本は南雲と草鹿の責任を追及せず、復仇の機会を与えるとして1942年(昭和17年)7月14日、空母機動部隊として再編成された第三艦隊長官と参謀長に、それぞれ南雲と草鹿を就任させるよう取り計らった[61]。しかし南雲、草鹿以外の幕僚は全て降ろされまた士官も転出させられた。[62]
南雲はミッドウェー海戦の報告書に未熟なパイロットが多かったこと、事前に合同訓練が実施できなかったこと、編隊爆撃訓練も実施できなかったことなどを問題点として挙げている[63]。
第三艦隊長官
第三艦隊の南雲司令部は、通信参謀中島親孝によると先任参謀・高田利種が計画や作戦指導の中心だったという[64]。
第三艦隊は空母六隻(「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」「飛鷹」「隼鷹」「龍驤」)と戦艦2隻、巡洋艦4隻、長良を旗艦とする駆逐艦16隻の合計29隻の大艦隊の予定であったが[65]、1942年(昭和17年)8月、米軍がガダルカナル島に上陸してガダルカナル島の戦いが始まり、8月23日に南雲は第三艦隊の現有戦力(「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」、戦艦2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦8隻)を率いて支援に向かった。当時南雲艦隊は第二艦隊司令長官・近藤信竹中将の指揮下にあり、打ち合わせすら行っていなかったので両艦隊の行動は混乱してた[66]。南雲は南下し空母決戦を決意していた。24日敵の爆撃があり第二次ソロモン海戦が開始し25日南雲は索敵し発見した空母へ攻撃隊を出撃させた。[67]南雲艦隊は龍驤から戦闘機15機を攻撃に向けたため戦闘機9機で敵攻撃隊迎撃にあたることになり、龍驤は魚雷を受けて沈没した。南雲艦隊は空母「エンタープライズ」を大破させたがこれは徹夜の修理で航行し戦線離脱した。また南雲艦隊は搭乗員の4割を失った。[68]
10月26日第三艦隊が敵偵察機から爆撃を受け南太平洋海戦が発生した。敵空母部隊を発見できず南下、北上を繰り返していた際、連合艦隊司令部からの南下命令を受けた。この後南雲は反対していた参謀長・草鹿龍之介を説得して南下した[69]。艦爆隊石丸豊大尉が米空母「ホーネット」の甲板に体当たりし行動不能に追い込み、空母「エンタープライズ」を中破、戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻損傷という戦果をあげる。しかし南雲艦隊も米艦載機SBDドーントレス急降下爆撃機の攻撃で空母「翔鶴」(旗艦)、「瑞鳳」、巡洋艦「筑摩」が中破する。「翔鶴」が通信能力を喪失した為、艦隊指揮に支障がでるようになり全艦隊で戦場を一時離脱する。駆逐艦「嵐」(第四駆逐隊司令艦、有賀幸作大佐)に通信を代行させるがその後受信機は回復し送信のみを代行させている[70]。その後、健在な空母「瑞鶴」を敵艦隊に向かわせ駆逐艦「照月」への移乗と旗艦の「瑞鶴」への変更を進めるが[71]、敵艦隊攻撃の指揮が続いたため受信機能の高い「翔鶴」を降りるのが長びき、退艦が航空攻撃終了後の19時半頃となり前線到着が遅れた[72]。その間、前進部隊指揮官・近藤信竹が指揮下の角田覚治少将率いる第二航空戦隊を急遽機動部隊に編入[73]させたので11時40分に2航戦に対して敵艦隊攻撃を命令している。2航戦の空母「隼鷹」の航空攻撃で「ホーネット」は完全に行動不能となり、最終的に近藤直率の第二艦隊が撃沈している。日本海軍は空母3隻・戦艦1隻・巡洋艦2隻・駆逐艦1隻を撃沈したと誤認し、大本営発表を行った[74]。
1943年(昭和18年)10月20日第一艦隊司令長官。第一艦隊は1944年(昭和19年)2月25日に解隊されたため、南雲は最後の第一艦隊司令長官となった。
中部太平洋方面艦隊司令長官
1944年(昭和19年)3月4日中部太平洋方面艦隊司令長官兼第十四航空艦隊司令長官。鎌倉市の自宅で家族と最後の時間を過ごした後、サイパン島に着任した。出征する壮行会の席上、「今度という今度は白木の箱か男爵さまだ」と述べた[75]。なお同席した参謀長・矢野英雄少将は陽気な人柄で知られていたがこの席では沈みきった表情であった[75]。家族にも、鶴岡八幡宮に詣でたあと「こんどは帰らない」と告げている[76]。3月31日、海軍乙事件で連合艦隊司令長官・古賀峯一が殉職し、後任として豊田副武大将が就任を求められたが、「自分はご免こうむる」「他に適任者がいる」と暗に南雲を指名した[77]。
6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸してくると迎撃戦闘の指揮にあたった。南雲は連合艦隊の救援を待ったが、小沢治三郎中将が率いる第一機動艦隊は6月19-20日のマリアナ沖海戦で空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)を喪失して完敗、サイパン島救援は絶望的となった[78]。
7月5日、サイパン守備部隊の勇戦に対する天皇から御嘉賞の言葉があり、それを南雲に伝える電文をもって陸海の両総長はサイパン放棄による決別の言葉とした。これを読んだ南雲は6日最後の命令である『サイパン守備部隊将兵にあたふる命令』[注 4]を中央に打電する。午後10時軍令部、連合艦隊などに「之にて連絡止む」と打電し連絡を絶った[79]。
南雲は、「サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す、余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし」と訓示を行った。
約20日間の抗戦の末サイパン島守備軍は玉砕、南雲も戦死した(サイパンの戦い)。最期を目撃した陸軍参謀によれば、7月6日午後10時ごろ、司令部にて斎藤義次陸軍中将が中央に、南雲が右、井桁敬治陸軍少将が左に正座。日本の方角を向き、割腹と同時にそれぞれの専属副官に後頭部を撃たせた。南雲の最期の言葉は副官の「よろしうございますか」という問いに「どうぞ」だった[注 5]。享年57。死後海軍大将に昇進。
人物
戦前の南雲は「水雷戦術の第一人者」「猛将」として知られ、海軍内では数々の武勇伝が伝えられる人物だった[80]。操艦の見事さを伝える逸話もある。太平洋戦争では空母艦隊長官を歴任するが、本人の経歴や資質から見て第二艦隊などの水上艦部隊の方が適任であり、この人事は海軍人事行政の弊であったという指摘もある[81]。 松島慶三(第三戦隊参謀)によれば、着任当初、松島が信号兵に艦隊運動の命令だけを出して南雲司令官に報告したところ「現場を確かめろ(実際の二番艦の動きを見ろ)」と叱責された[82]。部下への教育は厳しかったが、基地では芸者が5-10人も面会に訪れ、また雲水が押しかけてくることもあり、司令官としては異色だった[83]。
南雲は酒豪で喫煙家だったが、旅行に同行した松島慶三が酒が苦手で喫煙しないと「たまの禁煙はかえって体にいいだろう」と酒も煙草も飲まず、吸わなかったという[84]。松島慶三は、南雲から厳しく鍛えられ、様々な事を学んだと感謝している[85]。源田実(一航艦参謀)によれば、南雲は純粋な武人で責任感が強かった、これが誤解を生んでいるのだろうという[86]。淵田美津雄中佐(第一航空艦隊総飛行隊長)は、南雲中将は、大佐時代から第1水雷戦隊司令官時代までは、いわば満点を与えられるほどの人物であったが、開戦後は溌剌颯爽たりし昔日の闘志が失われ、何としても冴えない長官であった。早くも耄碌したのではなかろうかと感ずる程であった。作戦を指揮する態度も退嬰的であったと評価している[87]。山口多聞中将は南雲長官は一言も云わず参謀長、先任参謀等どちらがどちらか知らぬが臆怯屋ぞろいであると話していた[88]。反面、開戦前の1941年4月から真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、南太平洋海戦を経て1942年11月まで参謀長を務めた草鹿龍之介は、良い上司であり、また「剽悍剽馬」の如しであるとしながらも繊細で人情に厚く、部隊運用についても優れていたと評し、ただし航空戦について不慣れであったため、本来の手腕の発揮を阻害したのだろうとしている[29]。
努力家で、上野駅に到着した老母を海軍中佐の軍服のまま背負って歩くなど家族思いでもあった[89]。時に羽目をはずすこともあり、軍令部第二課長時代、伏見宮博恭王軍令部総長の赤坂園遊会で酒に酔い、外国武官や家族達300名の前で池に放尿し[90]、目撃した中瀬泝(軍令部第七課)は仰天したという[91]。
長男には南雲進海軍少尉がいる。(1944年12月4日、駆逐艦「岸波」にて戦死。死後海軍中尉に昇進)
エピソード
1936年(昭和11年)7月、板倉光馬(重巡洋艦「青葉」航海士)は同期生9名と佐世保の料亭でクラス会を開き、混雑していたため芸者を借りようと、奥座敷で飲んでいた南雲ら高級将校達の元に行く[92]。南雲は板倉を一喝したが、その後は板倉ら若手将校達を宴会の席に招いてはしゃいでいたという[93]。
ケ号作戦に参加して大破した駆逐艦「磯風」が呉工廠に帰還した際、当時呉鎮守府司令長官を務めていた南雲が視察に訪れた。南雲は「これほど損傷した艦を見捨てもせず連れ帰ってくれた」と乗組員を賞賛した[94]。さらに磯風乗組員(士官、下士官兵問わず)と彼らの妻に、山口県湯田温泉へ2泊3日の慰安旅行を贈った[95]。
サイパンにいた陸軍特志看護婦(三浦静子。当時18)は1944年(昭和19年)3月ごろ水交社で南雲と知り合い、テニスを楽しんだという[96]。浴衣姿でビールを飲んでいた老将校が南雲とは知らずに断りをいれて友人とテニスを始めたところ、体操服に着替えた南雲もテニスに加わった[97]。腕前は下手だったが、若手士官や三浦達とテニスを楽しんだという[98]。 だが米軍の上陸直前には、緊張と心労のためすれ違う三浦に気付かなかったという[99]。-->
年表
- 1905年(明治38年)12月2日 - 海軍兵学校入校
- 1908年(明治41年)11月21日 - 海軍兵学校卒業(36期)。海軍少尉候補生。練習艦「宗谷」乗組
- 1909年(明治42年)
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)
- 1913年(大正2年)
- 5月24日 - 駆逐艦「初雲」乗組
- 12月1日 - 海軍大学校乙種学生
- 1914年(大正3年)
- 1915年(大正4年)
- 12月3日 - 駆逐艦「杉」乗組
- 12月22日 - 結婚願届出(翌8月28日認可)
- 1916年(大正5年)12月1日 - 第四戦隊参謀
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)
- 1月21日 - 夜間演習中に帆船「宮島丸」と衝突 謹慎2日
- 12月1日 - 海軍大学校甲種学生
- 1920年(大正9年)12月1日 - 任 海軍少佐 駆逐艦「樅」艦長
- 1921年(大正10年)11月1日 - 第一水雷戦隊参謀(旗艦「龍田」→天龍)
- 1922年(大正11年)
- 12月1日 - 軍令部第一斑第一課勤務
- 12月5日 - 海軍軍政本部技術会議議員
- 1923年(大正12年)
- 9月8日 - 海軍震災救護委員会委員
- 11月10日 - 海軍大学校教官
- 1924年(大正13年)12月1日 - 任 海軍中佐 海戦要務令改正委員会委員
- 1925年(大正14年)6月1日 - 欧米各国へ出張
- 1926年(大正15年)
- 1927年(昭和2年)11月15日 - 海軍大学校教官
- 1929年(昭和4年)11月30日 - 任 海軍大佐 軽巡洋艦「那珂」艦長
- 1930年(昭和5年)12月1日 - 第十一駆逐隊司令
- 1931年(昭和6年)10月10日 - 軍令部第一斑第二課長
- 1932年(昭和7年)
- 2月16日 - 国際連盟支那調査海軍準備委員会委員
- 2月25日 - 支那事変軍事調査委員会委員
- 1933年(昭和8年)
- 1934年(昭和9年)11月15日 - 戦艦「山城」艦長
- 1935年(昭和10年)11月15日 - 任 海軍少将 第一水雷戦隊司令官
- 1936年(昭和11年)12月1日 - 第八戦隊司令官
- 1937年(昭和12年)11月15日 - 海軍水雷学校校長兼海軍軍政本部技術会議議員
- 1938年(昭和13年)11月15日 - 第三戦隊司令官
- 1939年(昭和14年)
- 10月14日 - 主力艦艦橋研究委員会委員
- 11月15日 - 任 海軍中将
- 1940年(昭和15年)11月1日 - 海軍大学校校長
- 1941年(昭和16年)4月10日 - 第一航空艦隊司令長官
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
演じた俳優
- 見明凡太朗 - 「太平洋の鷲」(1953年(昭和28年)、東宝)
- 藤田進 - 「軍神山本元帥と連合艦隊」(1956年(昭和31年)、新東宝)、「連合艦隊司令長官 山本五十六」 (1968年(昭和43年)、東宝)
- 河津清三郎 - 「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」 (1960年(昭和35年)、東宝)
- 東野英治郎 - 「トラ・トラ・トラ!」 (1970年(昭和45年)、20世紀フォックス)
- 安部徹 - 「激動の昭和史 軍閥」(1970年(昭和45年)、東宝)
- ジェームズ繁田 - 「ミッドウェイ」 (1976年(昭和51年)、ユニヴァーサル)
- 金子信雄 - 「連合艦隊」 (1981年(昭和56年)、東宝)、「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」 (1983年(昭和58年)、テレビ東京)
- 側見民雄 - 「太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-」 (2011年(平成23年)、東宝)
- 中原丈雄 - 「聯合艦隊司令長官 山本五十六」 (2011年(平成23年)、東映)
出典
- ^ 広報よねざわ『郷土資料の散歩道 御城下并原々屋鋪割帳』2007年5月1日号
- ^ #海軍兵学校沿革p.269 ,p.297
- ^ #悲劇の南雲中将p.46
- ^ #悲劇の南雲中将p.47
- ^ #悲劇の南雲中将p.39
- ^ #陸海軍将官人事総覧 海軍篇
- ^ #日本海軍の興亡p.188
- ^ #日本陸海軍総合事典p.671
- ^ #海は白髪なれどpp.73-74
- ^ #悲劇の南雲中将p.131
- ^ #井上成美(第10版)pp.142-143
- ^ #波まくらいくたびぞpp.210-213
- ^ #牧野伸顕日記p581
- ^ #海軍の昭和史pp.72-73
- ^ #どん亀艦長青春記p.70
- ^ #どん亀艦長青春記p.71
- ^ 星亮一『南雲忠一 空母機動部隊を率いた悲劇の提督』PHP文庫p11
- ^ #悲劇の南雲中将p.75
- ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂40頁
- ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年312頁
- ^ #真珠湾作戦回顧録pp.122-126
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 p.638-639
- ^ 半藤一利『平凡社ライブラリー739 山本五十六』平凡社167頁
- ^ #悲劇の南雲中将p.100
- ^ a b #悲劇の南雲中将p.101
- ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦 p.176
- ^ 草鹿 1979, p. 50.
- ^ #悲劇の南雲中将p.113
- ^ a b 草鹿 1979, p. 51.
- ^ #悲劇の南雲中将p.115
- ^ 草鹿 1979, p. 50-51.
- ^ #悲劇の南雲中将p.16
- ^ #悲劇の南雲中将p.18、#波まくらいくたびぞpp.81-83
- ^ プランゲ『トラトラトラ』並木書房p340-341
- ^ #真珠湾作戦回顧録pp.3
- ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦p.345
- ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦 p.343-344
- ^ 戦史叢書80 大本営海軍部・聯合艦隊(2)昭和十七年六月まで 78頁
- ^ #日本海軍の戦略発想pp.244-245
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 p.21
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 p.21-22
- ^ #日本海軍の驕り症候群(上)pp.237-261
- ^ プランゲ『ミッドウェーの奇跡上』千早正隆訳 原書房236頁
- ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫103頁、秦郁彦『実録太平洋戦争』光風社34頁
- ^ 大浜徹也,小沢郁郎『帝国陸海軍事典』同成社p237
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 585-586頁
- ^ #悲劇の南雲中将p.144
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 p.251-252、奥宮正武『太平洋戦争と十人の提督下』学研M文庫 p.213
- ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫175-177頁、戦史叢書43ミッドウェー海戦287頁
- ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦251-252頁
- ^ プランゲ『ミッドウェーの奇跡上』千早正隆訳 原書房9-11頁
- ^ 学研「歴史群像太平洋戦史シリーズ55『日米空母決戦ミッドウェー』131.132p
- ^ a b 『日米空母決戦ミッドウェー』([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55)、学習研究社、2006年(平成18年)
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 p.290-291
- ^ #提督山口196頁、#ミッドウェー森109・110頁
- ^ 第1航空艦隊戦闘詳報(2)p.19-20、MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)p.10-13
- ^ #吉田・指揮官と参謀p.119
- ^ #海軍航空隊始末記pp.43-45
- ^ 第1航空艦隊戦闘詳報(2)p.9
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 p.344
- ^ #悲劇の南雲中将p.255
- ^ 牧島貞一『炎の海』光人NF文庫p.285-286
- ^ プランゲ『ミッドウェーの奇跡上』千早正隆訳 原書房69-70頁
- ^ 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』113頁
- ^ 星亮一『南雲忠一 空母機動部隊を率いた悲劇の提督』PHP文庫p313
- ^ #吉田・比叡pp.132-134
- ^ 星亮一『南雲忠一 空母機動部隊を率いた悲劇の提督』PHP文庫p316
- ^ 星亮一『南雲忠一 空母機動部隊を率いた悲劇の提督』PHP文庫p322
- ^ #連合艦隊参謀長の回想p.172
- ^ 学研:歴史群像太平洋戦史シリーズ59「ソロモンの激闘」p.179
- ^ 1507発の機動部隊本隊から全部隊への電文。学研:歴史群像太平洋戦史シリーズ59「ソロモンの激闘」p.194
- ^ 学研:歴史群像太平洋戦史シリーズ59「ソロモンの激闘」p.196
- ^ 学研:歴史群像太平洋戦史シリーズ59「ソロモンの激闘」p.185
- ^ #悲劇の南雲中将p.215
- ^ a b #自伝的日本海軍始末記p.254
- ^ #悲劇の南雲中将p.232
- ^ #最後の帝国海軍pp.124-125
- ^ #悲劇の南雲中将p.244
- ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期87頁
- ^ #悲劇の南雲中将p.61
- ^ #悲劇の南雲中将p.259
- ^ #悲劇の南雲中将p.63
- ^ #悲劇の南雲中将p.64
- ^ #悲劇の南雲中将p.65
- ^ #悲劇の南雲中将p.62
- ^ #真珠湾作戦回顧録4頁
- ^ #悲劇の南雲中将p.254、257
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー海戦 p.583
- ^ #悲劇の南雲中将p.53
- ^ #悲劇の南雲中将pp.54-55
- ^ #悲劇の南雲中将pp.56-57
- ^ #どん亀艦長青春記p.88
- ^ #どん亀艦長青春記p.89
- ^ #駆逐艦磯風と三人の特年兵p.84
- ^ #駆逐艦磯風と三人の特年兵pp.84-86
- ^ #悲劇の南雲中将p.261
- ^ #悲劇の南雲中将p.262
- ^ #悲劇の南雲中将p.264
- ^ #悲劇の南雲中将p.265
- ^ 「任海軍大将 海軍中将 南雲忠一」 アジア歴史資料センター Ref.A03023549100
注釈
参考文献
- 戦史叢書 43 ミッドウェー海戦 (防衛庁防衛研修所戦史室著、1968年(昭和43年))
- Ref.C08030023900『昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)』。
- Ref.C08030040600『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 機動部隊 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)』。
- 板倉光馬『どん亀艦長青春記 伊号不沈潜水艦長の記録』光人社NF文庫、1995年2月。ISBN 4-7698-2075-5。
- 井上成美伝記刊行会『井上成美』井上成美伝記刊行会、1987年。
- 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』
- 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録』原書房、1968年。
- 大岡次郎『正説レイテ沖の栗田艦隊』新風書房 2010年(平成22年)
- 奥宮正武・淵田美津雄『ミッドウェイ』朝日ソノラマ文庫 1982年(昭和57年)、ISBN 4-257-17002-6
- 奥宮正武『真実の太平洋戦争』PHP文庫 1988年(昭和63年)、ISBN 4-569-56383-X
- 奥宮正武『日本はいかに敗れたか』(上)PHP研究所 1993年(平成5年)、 ISBN 4-569-54182-8
- 奥宮正武・淵田美津雄『機動部隊』学研M文庫 2008年(平成20年)、ISBN 978-4-05-901222-1
- 奥宮正武『太平洋戦争と十人の提督』(上、下)学研M文庫 2001年(平成13年)、 :上 ISBN 4-05-901078-2、下 ISBN 4-05-901079-0 (新装版)
- 草鹿, 龍之介 (1979), 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂 - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
- 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1981年(昭和56年)7月。ISBN 4-87538-039-9。
- 源田實『真珠湾作戦回顧録』文春文庫、1998年(平成10年)12月。ISBN 4-16-731005-8。
- 源田實『海軍航空隊始末記』文春文庫、1996年(平成8年)12月。ISBN 4-16-731003-1。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 51人の艦長が語った勝者の条件』光人社 1989年(平成元年)、 ISBN 4-7698-0445-8
- 杉本健『海軍の昭和史』文藝春秋、1982年(昭和57年)8月。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年(昭和56年)9月。ISBN 4-8295-0003-4。
- 高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社、1971年(昭和46年)8月。
- 千早正隆『日本海軍の戦略発想』中公文庫、1995年(平成7年)7月。ISBN 4-12-202372-6。
- 千早正隆『日本海軍の驕り症候群(上)』中公文庫、1997年(平成9年)11月。ISBN 4-12-202992-9。
- 豊田副武『最後の帝国海軍』世界の日本社、1950年(昭和25年)5月。
- 豊田穣『悲劇の提督・南雲忠一中将 波まくらいくたびぞ』講談社、1973年(昭和48年)1月。
- 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』光人社NF文庫、1997年(平成9年)10月。ISBN 4-7698-2175-1。
- 秦郁彦『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
- 半藤一利『指揮官と参謀』文春文庫、1992年(平成4年)12月。ISBN 4-16-748302-5。
- 半藤一利『日本海軍の興亡』PHP文庫、2000年(平成12年)6月。ISBN 4-569-57230-8。
- 牧野伸顕『牧野伸顕日記』中央公論社
- 松島慶三『悲劇の南雲中将 真珠湾からサイパンまで』徳間書店、1967年(昭和42年)3月。 松島は第三戦隊参謀時代、南雲直属の部下。
- 松野良寅『海は白髪なれど奥羽の海軍』博文館新社、1992年(平成4年)11月。ISBN 4-89177-945-4。
- 松野良寅『遠い潮騒 米沢海軍の系譜と追想』米沢海軍武官会、1980年。
- 吉田俊雄『戦艦比叡』朝日ソノラマ、1985年(昭和60年)。ISBN 4-257-17051-4。
- 森史朗『ミッドウェー海戦 第二部 運命の日』新潮社、2012年。ISBN 978-4-10-603707-8。
- 生出寿『勇断提督・山口多聞』徳間書店、1985年7月。ISBN 4-19-223118-2。
- 吉田俊雄『指揮官と参謀』光人社NF文庫、2007年(平成19年)。ISBN 978-4-7698-2023-9。
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
- C・W・ニミッツ & E・B・ポッター 著\実松譲 & 冨永謙吾 訳『ニミッツの太平洋海戦史』(恒文社、1992年(平成4年)新装版) ISBN 4-7704-0757-2 英題『THE GREAT SEA WAR』
- 『写真 太平洋戦争 第二巻』(光人社、1989年(平成元年)) ISBN 4-7698-0414-8
- シーパワー編集部 編『海軍機動部隊』(軍事研究 1992年(平成4年)7月号別冊) ISSN 0533-6716 雑誌 03242-7
- 学研編集部 編『歴史群像 太平洋戦史シリーズ4 ミッドウェイ海戦』(学習研究社、1994年(平成6年)) 雑誌 69610-53 4-17210
- 学研編集部 編『歴史群像 太平洋戦史シリーズ55 日米空母決戦ミッドウェー』(学習研究社、2006年(平成18年)) ISBN 13-978-4056044713
関連項目
外部リンク
軍職 | ||
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先代 (編成) |
第三艦隊(第6代)司令長官 初代:1942年7月4日 - 同11月11日 |
次代 小沢治三郎 |
先代 谷本馬太郎 |
佐世保鎮守府司令長官 第40代:1942年11月11日 - 1943年6月21日 |
次代 小松輝久 |
先代 高橋伊望 |
呉鎮守府司令長官 第30代:1943年6月21日 - 同10月20日 |
次代 野村直邦 |
先代 清水光美 |
第一艦隊司令長官 第30代:1943年10月20日 - 1944年2月25日 |
次代 (解隊) |