友永丈市

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友永丈市中佐

友永 丈市(ともなが じょういち、1911年(明治44年)1月9日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本海軍士官艦上攻撃機操縦士大分県別府市出身。ミッドウェー海戦において、ミッドウェー島攻撃隊長を務め、その後のヨークタウン攻撃時に戦死した。

経歴[編集]

友永隊の攻撃により炎上するミッドウェー基地

大分中学校を経て、1931年(昭和6年)11月海軍兵学校(59期)卒業。重巡「愛宕」乗組みを経て、1934年(昭和9年)7月飛行学生25期卒業。日中戦争には空母「加賀」乗組みで参戦した。太平洋戦争開戦当時は海軍大尉霞ヶ浦空分隊長。1942年(昭和17年)4月空母飛龍」の艦上攻撃機隊飛行隊長となった。

5月27日、「飛龍」はミッドウェー島攻略のため、南雲忠一海軍中将率いる「赤城」、「加賀」、「飛龍」、「蒼龍」を中心とする第一航空艦隊の一員として広島湾柱島から出撃した[1]。6月5日未明、友永はミッドウェー空襲隊隊長として、零式艦上戦闘機36機、九九式艦上爆撃機36機、九七式艦上攻撃機36機、合計108機を率いて発進した[2]。本来ならば淵田美津雄中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は虫垂炎による手術を行ったばかりなので出撃できなかった[3]レーダーにより友永隊の襲来を察知していた米軍は、全ての航空機を離陸させており、飛行場には航空機は居なかった。友永機は機銃被弾して無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせた[4]。爆撃効果が薄いと判断した友永は、機動部隊に対し「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電した[5]。機動部隊はこの報告を受けて第二次攻撃隊の武装を、対艦用の雷装から対地用の爆装に変換し、この混乱が海戦敗北の一因になった。友永らの攻撃隊が帰艦後、日本の空母4隻の内「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の3隻が米軍機の爆撃により炎上し、唯一「飛龍」だけが無傷だった。

攻撃を受けるヨークタウン

友永は、飛龍第二派攻撃隊(零戦6機、艦攻10機)を指揮し、米機動部隊攻撃のため再度出撃した[6]。第二波攻撃隊は米軍機動艦隊を発見したが、それは第一波攻撃隊による被害から復旧作業中の「ヨークタウン」だった[7]。火災もなく航行する米空母を見た友永は「ヨークタウン」を「損傷を受けていない別の空母」と判断した[8]。友永隊は左右から挟撃雷撃をおこなうため運動を開始した[9]。「ヨークタウン」は直掩F4F戦闘機16を向かわせ、零戦2機、艦攻4機を撃墜した[10]。続いて艦攻1機が対空砲火で撃墜されたが、4本の魚雷が両舷からヨークタウンに向かって放たれ、2本が左舷に命中した[11]。ボイラー室と発電機を破壊された「ヨークタウン」は航行不能となり左舷に傾斜、総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出した[12]。戦果をあげた飛龍第二波攻撃隊は、艦戦3機、艦攻5機(友永隊長機含む)を失った[13]。戦闘詳報には「エンタープライズ型空母の左舷に魚雷3本命中大爆発、4500mの高さにまで達する大爆発を認む。空母の後方、サンフランシスコ型重巡洋艦爆発するを認む。同爆発は(魚雷)発射後相当時間の経過あるに鑑み、魚雷命中せしものと認む」と記載されている[14]

友永の九七式艦上攻撃機(偵察員 赤松作 特務少尉、電信員 村井定 一飛曹)は、ミッドウェー島を攻撃した際に被弾し、燃料タンクに穴が開いていた。友永は搭乗機を譲る部下の提案を拒否して出撃した。米艦隊までの距離は近く、友永は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている[15]。ただし片翼のタンクにしか燃料を積まず、しかも重い魚雷を抱えての飛行はバランスを欠いて操縦が難しく、決死の覚悟であった。また橋本敏男(飛龍艦攻第二中隊長)によれば劇的なシーンなどなく、応急修理はしてあったはずだと推測している[16]戦闘詳報は、第二中隊第二小隊機の目撃談をもとに、黄色い尾翼の友永機は[17]対空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録している[18]

友永は戦死後、海軍中佐に2階級特進した。大分県別府市野口中町の生家跡地に墓碑が建つ。

脚注[編集]

  1. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.27
  2. ^ #亀井戦記223頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6
  3. ^ #淵田自叙伝198頁
  4. ^ #飛龍生涯349頁
  5. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.7、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.31、#ヨークタウン174頁、#澤地記録240頁
  6. ^ #澤地記録290頁、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.63、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.35、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2,32-33
  7. ^ #ヨークタウン224頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.15
  8. ^ #亀井戦記409頁
  9. ^ #亀井戦記412頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.3「一中隊は右、二中隊は左より挟撃し」
  10. ^ #ヨークタウン224-227頁
  11. ^ #ヨークタウン229頁
  12. ^ #ヨークタウン233頁
  13. ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.3
  14. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.35、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.3,15-16。
  15. ^ #プランゲ下97頁
  16. ^ #亀井戦記402頁。亀井の取材に。
  17. ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.16「尾部方向舵の指揮官機マークを確認す」
  18. ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.16「

参考文献[編集]

参考書籍[編集]

戦闘詳報[編集]

  • アジア歴史資料センター
    • Ref.C08030023800「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030040600「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」

関連項目[編集]