三浦泰年
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名前 | ||||||
愛称 | ヤス | |||||
カタカナ | ミウラ ヤストシ | |||||
ラテン文字 | MIURA Yasutoshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1965年7月15日(58歳) | |||||
出身地 | 静岡県静岡市葵区 | |||||
身長 | 171cm | |||||
体重 | 69kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF/MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1984-1985 1986-1992 1992-1995 1996-1998 1999-2001 2002-2003 |
サントスFC 読売クラブ 清水エスパルス ヴェルディ川崎 アビスパ福岡 ヴィッセル神戸 |
() 82 (5) 104 (5) 56 (1) 74 (5) 24 (0) | ||||
代表歴 | ||||||
1993 | 日本 | 3 (0) | ||||
監督歴 | ||||||
2011-2012 2013-2014 2015-2015.7 2016 |
ギラヴァンツ北九州 東京ヴェルディ1969 チエンマイFC カターレ富山 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
三浦 泰年(みうら やすとし、1965年〈昭和40年〉7月15日 - )は、静岡県静岡市出身のサッカー指導者、元サッカー選手、元サッカー解説者。通称はヤスで、"カズ"こと実弟の三浦知良と二人合わせて「ヤスカズ兄弟」とも称される。
来歴
選手時代
静岡学園高校時代からテクニシャンとして名を馳せたが、長谷川健太らを擁する清水東高校の全盛時代でもあり全国の舞台とは無縁であった。同期には向島建がいる。1984年に卒業後、ブラジルのサントスFCでのサッカー留学を経て、1986年に読売サッカークラブに入団。
Jリーグ発足に伴い、1992年に前身となるチームを持たず新規に立ち上げられた清水エスパルスに移籍し初代主将を務める。『清水東三羽烏』と呼ばれた堀池巧、長谷川健太、大榎克己らとともに清水の主力選手として活躍。清水ではボランチを務めたが、1993年、都並敏史のケガにより日本代表が左サイドバック不在に陥いると、読売時代にサイドバックの経験がある三浦が日本代表に選出され1994 FIFAワールドカップ・アジア予選に出場した。しかし最終予選のサウジアラビア戦こそ無難にこなせたものの、イラン戦では都並より守備が出来ない程の守備難が祟り、度々左サイドを突破され2-1で敗れる元凶となり、後の3試合を勝矢にポジションを譲った。
1996年に読売を前身とするヴェルディ川崎に復帰したが、1998年にはリーグ戦出場16試合と出場機会が減り、シーズン終了後にV川崎から戦力外通告を受けアビスパ福岡へ完全移籍。精神的支柱として貢献したが、2001年に最終節でJ2へ降格した。
2002年にJ1・ヴィッセル神戸に移籍。神戸では読売/V川崎時代に続き3度目となる「カズとの兄弟チームメイト」となったが、出場機会は少なく2003年シーズンを最後に現役引退。
指導者時代
2004年からは新たに三木谷浩史代表取締役によるクリムゾングループによる運営となった神戸で「チーム統括本部長」に就任し、チーム強化を担当することとなった。しかし監督や選手の入退団が多くなり、2005年途中には成績不振の対策として清水時代から親交があり「尊敬している」とするエメルソン・レオン監督をブラジルから獲得し、自らも統括本部長からコーチに肩書きを変えベンチ入りして指導に当たるなどしたが、事態は好転せずチームはシーズン中最下位を抜け出せなかったためにレオン監督は解任され、三浦も同時に神戸を退団した(神戸はこの年J2へ降格)。
2006年より、父・納谷宣雄がGMを務めている静岡FCのテクニカルアドバイザー(総監督)に就任。2010年に藤枝MYFCとの合併でチームが消滅するまで任を務めた。この活動と並行してテレビや雑誌等、様々なメディアでサッカーの解説や執筆、講演を行なうとともに、自らが設立したクラブチームFCトッカーノで少年達への指導を行い、PUMAフットサルスタジアム世田谷ではスーパーバイザーを勤め、ヤス・サッカースクールを開講するなど後進の育成にも力を注いでいる。
2011年2月、ギラヴァンツ北九州の監督に就任[1]。開幕前には、前シーズンに北九州が挙げた勝ち点15の4倍近い数値となる「勝ち点56」を目標に掲げた。初の監督業、また前年にわずか1勝での最下位に終わった北九州での指揮ということもあり下馬評は低かった[要出典]。しかし木村祐志を始めとした他チームで出場機会の得られなかった若手選手を集め、開幕から徹底してパスを繋ぐ攻撃的サッカーを貫き、上位チームを次々に撃破。一時は5位にまで順位を上げ、昇格争いにも顔を出した。最終的に、開幕前の目標だった勝ち点56を見事に達成し、勝ち点58の8位の成績を収めた。
2012年に去年を上回る「勝ち点82、70得点以上、55失点以内」を掲げた。この目標こそ達成できなかったものの、前年を上回る勝ち点64を上げ、2年連続の1桁順位となる9位に導いた。しかしレギュラーシーズン終了後の同年11月14日、契約を1年残して、北九州の監督を退任した[2]。なお契約期間途中での自己理由による退任ではあるが、当初からペナルティは発生しない契約であった[3]。
2013年より、東京Vの監督に就任[4]。しかし、2月19日に行われた練習試合で、ペ・デウォンがカマタマーレ讃岐の藤田浩平に重傷を負わせる事態となった際の審判に対する言動が問題となり、東京V側の自主的処分として、J2リーグ戦開幕から2試合ベンチ入り停止となった[5]。2013年はクラブ史上ワーストの13位に終わり、2014年も成績はさらに悪化、20位に低迷していた9月15日に解任された[6]。
2015年シーズンより、タイ・ディヴィジョン1リーグ・チエンマイFCの監督に就任[7]。同年7月20日、20チーム中19位と成績が低迷していることから解任された[8]。
所属クラブ
- 1981年-1983年 静岡学園高校
- 1984年-1985年 サントスFC
- 1986年-1992年 読売クラブ
- 1992年-1995年 清水エスパルス
- 1996年-1998年 ヴェルディ川崎
- 1999年-2001年 アビスパ福岡
- 2002年-2003年 ヴィッセル神戸
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1984 | サントス | 全国選手権 | |||||||||
1985 | |||||||||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1986-87 | 読売 | 27 | JSL1部 | 5 | 1 | 1 | 0 | 4 | 0 | 10 | 1 |
1987-88 | 13 | 1 | 1 | 0 | 4 | 0 | 18 | 1 | |||
1988-89 | 17 | 15 | 2 | 3 | 0 | 3 | 0 | 21 | 2 | ||
1989-90 | 11 | 19 | 0 | 4 | 0 | 3 | 0 | 26 | 0 | ||
1990-91 | 7 | 22 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 26 | 1 | ||
1991-92 | 7 | 0 | 5 | 0 | 5 | 0 | 17 | 0 | |||
1992 | 清水 | - | J | - | 11 | 0 | 2 | 1 | 13 | 1 | |
1993 | - | 19 | 1 | 4 | 0 | 4 | 0 | 27 | 1 | ||
1994 | - | 37 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | 39 | 2 | ||
1995 | - | 48 | 2 | - | 1 | 0 | 49 | 1 | |||
1996 | V川崎 | - | 19 | 1 | 15 | 0 | 5 | 2 | 39 | 3 | |
1997 | 15 | 21 | 0 | 5 | 0 | 1 | 0 | 27 | 0 | ||
1998 | 16 | 0 | 2 | 1 | 2 | 0 | 20 | 1 | |||
1999 | 福岡 | 28 | J1 | 23 | 4 | 3 | 0 | 2 | 1 | 28 | 5 |
2000 | 5 | 25 | 1 | 1 | 0 | 2 | 1 | 28 | 2 | ||
2001 | 26 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 31 | 0 | |||
2002 | 神戸 | 21 | 7 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 9 | 0 | |
2003 | 17 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 22 | 0 | |||
通算 | ブラジル | 全国選手権 | |||||||||
日本 | J1 | 258 | 11 | 52 | 1 | 22 | 5 | 332 | 17 | ||
日本 | JSL1部 | 81 | 5 | 16 | 0 | 21 | 0 | 118 | 5 | ||
総通算 |
その他の公式戦
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1993)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1993 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
通算 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
指導者経歴
- 2004年 - 2005年5月 ヴィッセル神戸 チーム統括本部長(ゼネラルマネージャー)
- 2006年 - 2009年 静岡FC テクニカルディレクター(総監督)
- 2011年 - 2012年 ギラヴァンツ北九州 監督
- 2013年 - 2014年9月 東京ヴェルディ 監督
- 2015年 - 2015年7月 チエンマイFC 監督
- 2016年 - カターレ富山 監督
監督成績
年度 | クラブ | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
2011 | 北九州 | J2 | 8位 | 38 | 58 | 16 | 10 | 12 | - | 3回戦敗退 |
2012 | 9位 | 42 | 64 | 19 | 7 | 16 | - | 2回戦敗退 | ||
2013 | 東京V | 13位 | 42 | 56 | 14 | 14 | 14 | - | 3回戦敗退 | |
2014 | 20位 | 31 | 27 | 6 | 9 | 16 | - | 2回戦敗退 | ||
2015 | チエンマイFC | タイD1 | 19位 | 19 | - | 4 | 7 | 8 | - | - |
2016 | 富山 | J3 | ||||||||
通算 | 日本 | - | - | 149 | - | 55 | 40 | 58 | ||
タイ | - | - | 19 | - | 4 | 7 | 8 | |||
総通算 | - | 168 | - | 59 | 47 | 66 |
- 2014年・2015年は解任時点の成績。
脚注
- ^ 北九州新監督に三浦泰年氏「熱いシーズンにしましょう」 スポーツニッポン 2010年11月30日閲覧
- ^ 三浦 泰年監督 退任のお知らせ ギラヴァンツ北九州公式サイト ニュース 2012年11月14日付
- ^ 【北九州:三浦泰年監督退任会見】会見でのコメント(12.11.15) J's Goal ニュース 2012年11月15日付
- ^ 三浦 泰年監督就任のお知らせ 東京ヴェルディ公式サイト ニュース 2012年11月25日付
- ^ 東京ヴェルディ公式のツイート(305984673853603840)
- ^ 三浦泰年監督解任のお知らせ 東京ヴェルディ公式サイト ニュース 2014年9月15日付
- ^ 三浦泰年氏、タイ2部チェンマイFC監督就任へ!(スポーツニッポン、2014年12月9日)
- ^ “三浦泰年氏、タイ2部チェンマイFC監督解任 20チーム中19位低迷”. スポニチ Sponichi Annex (2015年7月20日). 2015年7月28日閲覧。
- ^ “三浦泰年氏 監督就任のお知らせ”. KATALLER TOYAMA OFFICIAL WEB SITE (2015年12月26日). 2015年12月26日閲覧。
関連項目
- 静岡県出身の人物一覧
- 東京ヴェルディ1969の選手一覧
- 清水エスパルスの選手一覧
- アビスパ福岡の選手一覧
- ヴィッセル神戸の選手一覧
- 兄弟スポーツ選手一覧
- Jリーグ監督経験者
- ギラヴァンツ北九州の選手一覧#監督
外部リンク