ポルシェ

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ポルシェ
Porsche AG
種類 株式会社
本社所在地 ドイツの旗 ドイツ
シュトゥットガルトバーデン=ヴュルテンベルク州
設立 1931年
業種 自動車製造
事業内容 自動車の製造・販売
代表者  ミハエル・マハト(CEO)
売上高 72億7300万(2006年)
従業員数 11,910人(2005年)
関係する人物 フェルディナント・ポルシェ
フェリー・ポルシェ
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ポルシェPorsche A.G. )は、ドイツ自動車メーカーである。

本社はドイツ南西部のシュトゥットガルト。高級スポーツカーレーシングカーを専門に開発・製造し、中でも1963年に発売されたスポーツカー「ポルシェ・911」は改良を重ねながら製造・販売されている。

概要

1953年、356アメリカンロードスター
1992年、911(964型)ターボ
2005年、911(997型)カレラS(前期型)

フォルクスワーゲン・タイプ1を設計した技術者フェルディナント・ポルシェにより、デザイン事務所として設立された(設立年については1930年[1]1931年[2]と諸説あり)。1948年9月息子であるフェリー・ポルシェによって356.001が製造・販売され自動車メーカーとなった。その後も設計・エンジニアリングの仕事も続けており、メルセデス・ベンツ 500Eの設計と生産、メルセデスベンツ・C11の最終セッティング[3]ボルボ・960[4]アウディ・RS2アバント[5]のエンジンチューンなどが知られている。

ポルシェ一族は依然として同社の大株主ではあるものの、1971年に経営から手を退き、同社は同族経営から脱却している。このときポルシェの技術者だったポルシェ博士の孫(娘ルイーザの子)フェルディナント・ピエヒ(後にフォルクスワーゲングループ会長)、同じく孫(フェリーの子)でデザイナーだったブッツィ・ポルシェ(後にポルシェデザイン社長)も会社を去っている。

現在CEOはヴェンデリン・ヴィーデキングからミヒャエル・マハトへ交代、CFOはフォルクス・ワーゲンAGの会長であるマルティン・ヴィンターコルン、生産及びロジスティックス両部門取締役はヴォルフガング・ライムグルーバー。持ち株会社のポルシェオートモービルホールディングSEの監査役会会長にヴォルフガング・ポルシェ

2005年、歴史的に関係の深い大手自動車会社フォルクスワーゲンの株式の20%を取得。2008年11月時点で持ち株比率は約43%となり、事実上同社を傘下に収めた。その後も、金融機関から必要に応じて株式を追加取得できる権利も含め、約75%まで買い増す方針であったが、資金繰りに行き詰まり、逆にフォルクスワーゲンがポルシェを買収する形で2011年半ばを目処に経営統合することが一旦決まった。しかし、ポルシェのフォルクスワーゲン株式取得をめぐる訴訟問題が解決していないため、経営統合に遅れが生じている。

2009年に発売予定の4ドアセダンポルシェ・パナメーラはフォルクスワーゲンの組立工場で生産される計画である[6]

ポルシェエクスクルーシブというユニークなサービスを展開中。これは、正規店での新車オーダー時にインテリアやエクステリアの各パーツやカラーをカスタマイズしてくれるというもの。 また、ポルシェテクイップメントでは正規の販売店を通じてさまざまなアクセサリーを提供している。

なお、ポルシェのエンブレム(紋章)は、本社のあるシュトゥットガルト市とバーデン=ヴュルテンベルク州の紋章を組み合わせた物となっていて、中央の跳ね馬はシュトゥットガルト市の紋章から。その外側の左上と右下にあるギザギザした模様はバーデン=ヴュルテンベルク州の紋章に描かれた鹿(の角)を、右上と左下の赤い縞は知を、全体の金色の地色は豊穣を表す麦の色にちなんでいる。

現行車種

ポルシェのエンブレム
外観 車名 排気量 エンジン 駆動方式 座席 解説
911 3,436cc
3,799cc
水冷水平対向6気筒 RR/4WD 2+2 フラッグシップモデル。カブリオレ、4WD、ターボ、GT3など多様なラインナップ
ボクスター 2,706cc MR 2 オープンカー専用
ケイマン 2,892cc(ケイマン)
3,436cc(ケイマンS、R)
ボクスターのハードトップ版
カイエン 3,598cc(カイエン)
4,806cc(カイエンS、ターボ)
2,994cc(カイエンSハイブリッド)
水冷V型6気筒
水冷V型8気筒
4WD 5 ポルシェ初のSUV
パナメーラ 3,604cc(パナメーラ、4)
4,806cc(パナメーラS、ターボS他)
2,994cc(Sハイブリッド)
FR/4WD 4 ポルシェ初の5ドアサルーン

経営状況

年間生産台数

1990年代前半、最大のマーケットでもある米国での販売不振により赤字が拡大し、経営難をささやかれた時期があったが、1996年に低価格のロードスター、「ボクスター」を投入、翌年にはデザインと設計を全面的に一新した996型「911」を投入した効果により販売が好転。2003年にはポルシェ初の5ドアSUVである「カイエン」も投入し、1999~2000年度の生産台数が約4万5千台であったのに対し、2008年には9万7千台に達している[7]

1980年代半ばにはアメリカ合衆国における販売が販売全体の6割を占めていたが、現在ではロシア中国インド中東といった新興市場での販売が順調であり、2007年におけるアメリカ合衆国での販売比率は10.3%にまで低下している。

スポーツカー専業からの脱却

ポルシェは創業以来2人乗りもしくは小さな後部座席を備えるスポーツカーを専門にしていたが、スポーツカーという限られた市場だけに依存した経営から脱却するために人気の高いSUV市場への参入を画策。これに賛同したフォルクスワーゲンと共同開発した5ドアSUV「カイエン」を2002年に発売した。カイエンはポルシェらしいスポーツカーの精神を宿したSUVとして世界的に人気を博してポルシェに大きな利益をもたらした。 カイエンの成功を受けて2009年には4ドア・セダンの「パナメーラ」を発売。価格的にメルセデス・ベンツSクラスBMW7シリーズに相当する車格で、カイエンと同様に競合相手よりもスポーツカー精神を高めた味付けがなされている。 さらにポルシェはカイエンよりも小型のSUV「マカン」の発売を予定している。

生産拠点

グミュント工場

最初の工場は第二次世界大戦の疎開先であったオーストリアのグミュント工場であった。ここでポルシェはメーカーとしてスタートし、ポルシェ・356の試作2台と量産50台を生産した[8]

ツッフェンハウゼン工場

接収されていたシュトゥットガルト本社の返還交渉を進めながら、1949年、本社の隣にあったロイター(現レカロ)の敷地を一部借りることができた。そしてロイターにボディー生産を依頼、組み立てをポルシェで行なうという方法を採り、生産性が格段に向上した。1950年4月にこの工場からドイツ生産された最初のポルシェ・356が出荷された[9]。現在でもこのツッフェンハウゼン(Zuffenhausen )工場がポルシェの主力工場である。工場は大小4つの建物から成り、販売拠点であるポルシェセンターやポルシェ博物館、修理・特注工場が併設されている。

ヴァイザッハ研究所

レース用車輛を製造している。

ライプツィヒ工場

生産能力増強のため、旧東ドイツ地区ライプツィヒ に新しい工場を建設し、2002年8月に稼動開始した。テストコースも備える広大な敷地に近代的な外観と設備を備えるライプツィヒ工場は年間3万台超の生産能力を持ち、現在最も販売好調なカイエンパナメーラの生産を行なっている。2006年迄はカレラGTの生産も行っていた。

アウディ

ポルシェ・924の生産はアウディに委託され、ネッカーズルム工場にて生産された。

フォルクスワーゲン

ポルシェ・カイエンは、姉妹車であるフォルクスワーゲン・トゥアレグアウディ・Q7とともに、スロバキアマルチンのフォルクスワーゲン工場で生産される。部品製造の一部も行なわれる。

ヴァルメト・オートモーティブ

ボクスターが販売好調のためフィンランドヴァルメト・オートモーティブにボクスターの生産を委託。その後ケイマンの生産も委託し、徐々にフィンランド製の割合が引き上げられ、2007年からボクスターとケイマンの生産はすべてフィンランドで行われている。この2車種については2011年までフィンランドで生産されている。

カルマン

2008年6月にボクスターケイマンの生産を2012年からマグナ・シュタイアーへ移すという発表があったが、この契約は2009年12月に破棄され、フォルクスワーゲン傘下のカルマンで生産されることになった[10]。カルマンはポルシェ・356の生産も一部担当したことがある。

主な子会社

ロードカー

軍用車両

※開発に関わったもの

トラクター

日本では、1962年から1966年にかけて井関農機が一部のポルシェトラクターを輸入販売し、その後ポルシェトラクターを参考に日本の気候や風土に合わせたヰセキオリジナルのトラクター「ヰセキトラクターTBシリーズ」を開発し、1964年に販売を開始した。

  • ポルシェ・タイプ110トラクタ
  • ポルシェ・APトラクタ
  • ポルシェ・ジュニアトラクタ
  • ポルシェ・スタンダードトラクタ
  • ポルシェ・スーパートラクタ
  • ポルシェ・マスター
  • ポルシェ・309トラクタ
  • ポルシェ・312トラクタ
  • ポルシェ・329トラクタ
  • ポルシェ・108Fトラクタ
  • ポルシェ・R22トラクタ
  • ポルシェ・AP16トラクタ

試作車・その他

モータースポーツ

ロードレース

耐久レース

ポルシェおよびその子会社は、耐久レース、特にル・マン24時間レースに積極的に参戦してきたことで知られる。

フォーミュラ

ポルシェ
活動拠点 {{{活動拠点}}}
創設者 {{{創設者}}}
スタッフ {{{スタッフ}}}
ドライバー {{{ドライバー}}}
参戦年度 1958 - 1964
出走回数 31
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 1
通算獲得ポイント 47
表彰台(3位以内)回数 5
ポールポジション 1
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 1958年オランダGP
初勝利 1962年フランスGP
最終勝利 1962年フランスGP
最終戦 1964年オランダGP
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1957年、フォーミュラ2が1.5LになるとRSKスパイダーをシングルシーターに改造したポルシェ・718で参戦し、1960年にはコンストラクターズ・チャンピオンを取得した。1961年からフォーミュラ1が1.5Lになるとフォーミュラ1へステップアップ、当初水平対向4気筒エンジンを搭載したポルシェ・7871962年シーズンは水平対向8気筒エンジンを搭載したポルシェ・804で戦い、フランス・グランプリにて1勝を挙げた。

マクラーレンMP4-2BTAGポルシェ (1985年)

1983年から1987年までマクラーレンに1.5L V6ターボエンジンを供給し(バッジネームTAG)、特に1984年から1985年にはニキ・ラウダアラン・プロストによってドライバーズ・タイトル、コンストラクターズ・タイトル、翌1986年もプロストのドライバーズ・タイトルの獲得に貢献した。

1991年にもフットワークに3.5L V12エンジンを供給したが、ポルシェ・917の水平対向12気筒と同じようにV6ターボを2つつなぎ合わせ、クランクシャフトの中央からスパーギヤでバンク中央のシャフトに出力するセンターテイクオフを採用していたため200kgと重いうえに大きく、更にパワーが出ない駄作であった。実はこのエンジンは、もともと1987年のシーズンオフにマクラーレンに提案されていたのだが、当時のデザイナーであったゴードン・マレーから大きすぎると却下をくらったいわくつきの代物で、フットワーク・アロウズは3500万ドルを投じたものの、あまりの信頼性のなさにシーズン半ばでコスワースDFRに換装し、ポルシェは事実上の撤退を余儀なくされた。

エピソード

  • 山口百恵の持ち歌である「プレイバックPart2」(1978年)の歌詞の中の「真っ赤なポルシェ」というくだりに対し、NHKは内部規定により「歌詞に含まれる特定企業名・商品名は宣伝にあたる」と判断、同局の番組では「真っ赤な車」と置き換えられて歌われ、視聴者や他のメディアから表現の自由を奪う行為であるとして多くの批判が集中した。こういった事情からか2007年3月24日放送「家族で選ぶにっぽんの歌」など最近では元の歌詞どおり「真っ赤なポルシェ」と歌われている。
  • ドイツ車は250km/hのスピードリミッターが装着されるようになっているが、ポルシェは例外とされている[11]
  • コンピュータゲームにおいてのポルシェの使用権はエレクトロニック・アーツの『ニード・フォー・スピード』シリーズに独占で付与されている。『グランツーリスモ』シリーズなど他のレーシングゲームではRUFによるカスタムカーを代わりに収録することが多い。

日本での販売

日本では1952年昭和27年)から1997年平成9年)末まで、ミツワ自動車(当初の社名は「三和自動車」)が、輸入総代理店として輸入・販売を行なっていた。

ミツワによる輸入販売体制のもと、1990年平成2年)秋に発売された1991年モデルからは主要モデルにエアバッグがオプション設定されたほか、全シリーズに右ハンドル仕様が用意された[12]。、また、1995年平成7年)には、それまで1,000万円超であったポルシェ・911の新車価格を910万円に引き下げるなど、日本におけるポルシェのユーザー層拡大に努めた。

一方、ドイツ本国のポルシェAGは、「主要輸出市場では、販売・流通を直接管理する」との方針によりアメリカ合衆国イギリスイタリアスペインオーストラリアなどの現地法人を直営化しており[13]、日本でも1995年平成7年)に100%出資の子会社「ポルシェ自動車ジャパン株式会社」を設立した。同社は1997年平成9年)、「ポルシェジャパン株式会社」に改称、翌年1月からはそれまでのミツワ自動車にかわって日本への輸入業務を開始した[14]。この際、輸入権を失ったミツワ自動車は一正規ディーラーとして再出発することとなった[15]

現在[いつ?]、日本市場はポルシェにとって、アメリカに次ぐ第2の市場である。

参考文献

  • 『ワールドカーガイド1ポルシェ』ネコ・パブリッシング ISDN4-87366-090-4
  • 『ポルシェ博物館/松田コレクション』
  • ジャーマン・カーズ』2009年8月号
  • ジャーマン・カーズ』2009年11月号
  • 『輸入車ガイドブック1993』日刊自動車新聞社

脚注

  1. ^ 『ワールドカーガイド1ポルシェ』P27。
  2. ^ 『ポルシェ博物館/松田コレクション』P13。
  3. ^ 『ジャーマン・カーズ』ぶんか社、2009年11月号P17。
  4. ^ 『輸入車ガイドブック1993』P192。
  5. ^ 『ジャーマン・カーズ』ぶんか社、2009年8月号P60。
  6. ^ http://www.nytimes.com/2007/12/23/business/23porsche.html?ref=todayspaper
  7. ^ WORLD MOTOR VEHICLE PRODUCTION 2008 GROUP : PORSCHE, OICA
  8. ^ 『ポルシェ博物館/松田コレクション』P64。
  9. ^ 『ワールドカーガイド1ポルシェ』P49。
  10. ^ Autocar: Porsche cancels Magna contract
  11. ^ 『ジャーマン・カーズ』2009年11月号P20。
  12. ^ ミツワが91年モデル、ポルシェ全車種に右ハンドルを設定 『日経産業新聞』 平成2年9月3日 9面
  13. ^ [1]
  14. ^ [2]
  15. ^ ミツワ自動車、ポルシェ車輸入、独社と和解 -日本法人と販売契約へ 『日経産業新聞』 平成10年1月13日 13面

関連項目

外部リンク