ビリー・マーチン
ヤンキース監督時代 | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州バークレー |
生年月日 | 1928年5月16日 |
没年月日 | 1989年12月25日(61歳没) |
身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 165 lb =約74.8 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手 |
プロ入り | 1946年 |
初出場 | 1950年4月18日 ボストン・レッドソックス戦 |
最終出場 | 1961年10月1日 デトロイト・タイガース戦 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ビリー・マーチン(Alfred Manuel "Billy" Martin, 1928年5月16日 - 1989年12月25日)は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州バークレー出身の元プロ野球選手(二塁手)・監督。右投右打。
経歴
1947年からオークランド・オークスなどマイナーでプレーした後、1950年から二塁手としてニューヨーク・ヤンキースなどでプレー、現役時代はミッキー・マントルやロジャー・マリスの陰に隠れる格好であったが、ここぞというところで打つなどの勝負強さがあり、1953年のワールドシリーズでの打率.500(24打数12安打)は今も破られていない。現役時代からマーチンは野球の戦術面で、オークス時代からの師匠であるケーシー・ステンゲル監督をはじめ、多くのコーチに教えを請うことが多く、チームメイトのミッキー・マントルも「あれほど情熱的に野球を教わっていた人間は見たことがない」と言わしめるほどであった。
1957年に、ニューヨークのナイトクラブ「コパカバーナ」で起こした乱闘騒ぎにより、ヤンキースを追われるような形でトレードに出され、その後カンザスシティ・アスレチックス、シンシナティ・レッズなどを渡り歩いて1961年に現役を引退した。
引退後はファームでのコーチを経て1969年にミネソタ・ツインズの監督に就任、その年に地区優勝を果たしたが、同年、フロントと対立してあっさり退団してしまう。しかし、その間にチームの看板選手だったロッド・カルーを鍛え上げた。その後、デトロイト・タイガース、テキサス・レンジャーズでの監督を経て、1975年からは古巣ヤンキースの監督を務めたが、当時からのオーナーであるジョージ・スタインブレナーや1977年に移籍でやってきたレジー・ジャクソンらとたびたび対立し、タブロイド紙はこの当時の球団を“Bronx Zoo(ブロンクス動物園)”などと揶揄した。1982年にはオークランド・アスレチックスでも指揮をとり、盗塁王リッキー・ヘンダーソンを育てている。
当時、マーチンは監督室に次のようなスローガンを掲示していた。
- Rule #1 The boss is always right.(第1条 ボスは常に正しい)
- Rule #2 When the boss is wrong, refer to rule #1.(第2条 ボスが間違っていると思ったら第1条を見よ!)
もともとはオーナーのスタインブレナーの部屋にあったもので、これを見たマーチンが同じスローガンを自分の部屋に飾ったという。
マーチンから影響を受けた人物のひとりに広岡達朗がいる。広岡は評論家時代にメジャーリーグのキャンプでビリー・マーチンの指導振りを勉強していた。広岡はマーチンから監督の長期契約の効用を学んでいる。弱いチームを強くするために、監督はチームと長期契約を結ぶ。長らくチームの監督を務めると選手が分かれば、監督の意向をおいそれと無視することはできないという理由である。また、この縁からビリー・マーチン評伝の日本版の解説は広岡が記している。
本塁打の破壊力と機動力を生かした攻撃的な野球スタイルは「ビリー・ボール(Billy Ball)」と呼ばれたが、現役時代から見られた武闘派とも言える彼の短気と猪突猛進な性格は多くのトラブルを生んだ。青年時代はボクサーを志していただけあって、そのパンチ力は並外れており、その鉄拳で引き起こしたバーやクラブなどでの乱闘騒ぎは膨大な量になる(そのため、彼のことを「喧嘩屋」「野獣選手」と皮肉ったところもある)。前述の「コパカバーナ」での乱闘のほかにも、ツインズ監督時代には主力投手のデイブ・ボズウェルにかなり激しい鉄拳制裁を加えたり、1979年10月にはマシュマロを売りにきたセールスマンを叩きのめしたり、地元ニューヨークの記者の前歯をへし折るなど。スタインブレナー・オーナーとの愛憎入り混じった関係も有名で1988年までにヤンキース監督に5回就任し、5回解雇されている。「まるでSM関係」と評するマスコミもいた。
また、1983年7月24日の試合でカンザスシティ・ロイヤルズのジョージ・ブレットが9回表に逆転2点本塁打を放った直後にバットに塗られた滑り止めのための松ヤニ(パインタール)が規定を超えているとして抗議、パインタール事件を起こした事でも有名である。
1989年12月25日、ニューヨーク州ビンガムトンで乗っていたトラックがアイスバーンで横転する事故により死去。61歳没。この訃報を聞いたスタインブレナー・オーナーは「そう滅多にいない男だった。家族の一人を亡くしたような気持ちだ」というコメントを残している。墓はスタインブレナーの計らいで、ベーブ・ルースの墓と同じ区画に建てられている[1]。
野球殿堂入りはまだ果たしていないが、死の3年前になる1986年に、古巣ヤンキースは現役・監督を通じてつけていたマーチンの背番号『1』を永久欠番に指定している。
通算成績
監督としての成績
- 通算1253勝1013敗
- ヤンキースでの勝ち星556勝はチーム6位の記録である。
- 1975年ア・リーグ東地区3位(ビル・ヴァードンの後任としてシーズン途中8月に就任)
- 1976年ア・リーグ優勝(ワールド・シリーズはシンシナティ・レッズ相手に4-0で敗退)
- 1977年ワールド・シリーズ優勝(ロサンゼルス・ドジャース、4-2)
- 1978年ワールド・シリーズ優勝(ロサンゼルス・ドジャース、4-2。マーチンはシーズン途中の7月に辞任。この年ヤンキースは3人もの監督が入れ替わる)
- 1979年ア・リーグ東地区4位(ボブ・レモンの後任としてシーズン途中6月に就任)
- 1983年ア・リーグ東地区3位
- 1985年ア・リーグ東地区2位(ヨギ・ベラの後任としてシーズン途中4月に就任)
- 1988年ア・リーグ東地区5位(シーズン途中6月に解雇。後任はルー・ピネラ)
脚注
- ^ ルースの墓とピンストライプの絆 - サンケイスポーツ、2012年4月24日配信
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com