スティーブ・ナッシュ

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スティーブ・ナッシュ
Steve Nash
現役時代 (ロサンゼルス・レイカーズ) のナッシュ
ゴールデンステート・ウォリアーズ
ポジション PG
役職 選手育成コンサルタント
基本情報
愛称 Captain Canada
国籍 カナダの旗 カナダ
イギリスの旗 イギリス
生年月日 (1974-02-07) 1974年2月7日(50歳)
出身地 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国
ハウテン州ヨハネスブルグ
身長(現役時) 191cm (6 ft 3 in)
体重(現役時) 81kg (179 lb)
キャリア情報
ドラフト 1996年 15位
選手経歴
1996-1998
1998-2004
2004-2012
2012-2015
フェニックス・サンズ フェニックス・サンズ
ダラス・マーベリックス ダラス・マーベリックス
フェニックス・サンズ フェニックス・サンズ
ロサンゼルス・レイカーズ
指導者経歴
2015- ゴールデンステート・ウォリアーズ (選手育成)
受賞歴
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
代表歴
キャップ カナダの旗 1994年-2003年
獲得メダル
男子バスケットボール
カナダの旗 カナダ
FIBAアメリカ選手権
1999 サンフアン
2001 ネウケン 大会ベスト5

スティーブ・ナッシュSteve Nash)(スティーブン・ジョン・ナッシュ)(Stephen John Nash, 1974年2月7日 - )は、カナダの元プロバスケットボール選手。NBAフェニックス・サンズなどで活躍した。ポジションはポイントガード。正確なシュート力と広いコートビジョンにパスセンスとポイントガードに必要な多くの能力をハイレベルで兼ね備えていた。

1996年のNBAドラフト、1巡目15位でフェニックス・サンズに指名されプロ入り。NBAオールスターゲームに8度出場。2005年2006年と2年連続でシーズンMVPを受賞した。 191cm、81kg。背番号10。(2012年のレイカーズ移籍までは13番)

生い立ち

ナッシュはイングランド人の父とウェールズ人の母の間で生まれた。プロサッカー選手としての父親の仕事の都合で誕生の地は南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグである。間もなく家族はカナダサスカチュワン州レジャイナに移住し、その後ブリティッシュコロンビア州バンクーバービクトリアへ引っ越し、ビクトリアで育つ。少年時代はサッカーとアイスホッケーバスケットボールに熱中した 聖マイクルズ高校ではサッカーとラグビー、そしてバスケットボールで活躍した。最終学年にはバスケで21.3得点11.2リバウンド9.1アシストと準トリプル・ダブルの成績だった。1991-92シーズンにはチームを地区タイトルに導いており、ナッシュ自身は地区の年間最優秀選手に選ばれている。

サンタクララ大学

高校のコーチは30のアメリカの大学にナッシュの推薦状を送ったが、カナダの片田舎のバスケ少年に興味を示す大学はなく、殆どが無視された。しかしサンタクララ大学のディック・デイヴィが興味を示した。ナッシュのプレイを間近で見て、他の誰もが彼に注目しないことをひたすら願ったという(そのデイヴィの目にすらも、ナッシュのディフェンスは最悪だったらしい)。その後ナッシュは無事サンタクララ大学からの奨学金を貰い、大学進学が決まった。

ナッシュは1年目から活躍し、1992-93シーズンにはチームを5年ぶりのNCAAトーナメントに導き、西地区トーナメント1回戦では第2シードのアリゾナ大学を破るという波乱を巻き起こしている。この試合でナッシュは最後の30秒間で6本のフリースロー全てを決める活躍を見せた。翌シーズンのサンタクララ大は成績が振るわなかったが、1994-95シーズンにはカンファレンスタイトルを獲得してNCAAトーナメントに復帰し、ナッシュはカンファレンスの最優秀選手に選ばれている。夏にはナショナルチームに参加し、NBAの現役スター、ゲイリー・ペイトンジェイソン・キッドと練習する機会に恵まれている。

1995-96シーズンは2年連続でカンファレンスを制し、ナッシュも2年連続の最優秀選手に選ばれた。大学での4年間のプレイで通算510アシスト、フリースロー成功率86.2%、スリーポイントシュート試投数656本、成功数263本はいずれも同校の新記録となった。2006年にはナッシュの背番号『11』が同校初となる永久欠番となった。学業では社会学の学位を取得している。

NBA

フェニックス・サンズ

カレッジバスケでの活躍にも関わらず、全米でのナッシュの知名度は殆ど皆無で、1996年のNBAドラフトでナッシュの名前が15番目に呼ばれた時、指名したフェニックス・サンズのファンは野次を飛ばした。15位指名はカナダ人選手では当時の最高位である。

サンズでの最初のキャリアはケビン・ジョンソンジェイソン・キッドサム・キャセールと名だたる名ポイントガードの影に隠れ、目だった活躍をすることは出来なかったが、ルーキーイヤーから3P成功率とFT成功率で高確率を叩き出すなどその才能の片鱗を見せており、2年目の1996-97シーズンにはローテーション入りを果たして平均9.1得点まで成績を伸ばした。

サンタクララ大時代、ナッシュはドン・ネルソンと親交を深める機会を得ており、そのネルソンはナッシュがサンズで全く活かされていないのを見て、ナッシュ獲得に動いた。そして1998年のNBAドラフト当日のトレードにより、ナッシュのダラス・マーベリックス行きが決まった。

ダラス・マーベリックス

ドン・ネルソンHCの攻撃的な采配のもと、ナッシュはダラス・マーベリックスでその才能を大きく開花させることになる。ナッシュは移籍1年目の1998-99シーズンから先発に抜擢されると、以後マーベリックスの司令塔として活躍。マーベリックスは大黒柱のマイケル・フィンリーにナッシュの移籍と同時にマーベリックスに指名されたダーク・ノヴィツキーと駒が揃いだし、さらに2000-01シーズンには富豪のマーク・キューバンが球団を買収し、豊富な資金が流れてきたことでマーベリックスは将来を嘱望されるチームとなった。

ナッシュ個人は移籍3年目の2000-01シーズンに自身の成績を大きく伸ばして15.6得点7.3アシスト、3P成功率40.6%、FT成功率89.5%を記録。ナッシュの活躍によりマーベリックスは53勝29敗と躍進を遂げ、実に11年ぶりにプレーオフ進出を果たし、マイケル・フィンリーにノヴィツキー、そしてナッシュはマーベリックスのビッグスリーと称されるようになった。初のプレーオフではカンファレンス準決勝でナッシュ生涯の仇敵となるサンアントニオ・スパーズに敗れている。

2001-02シーズンには17.9得点7.7アシスト、3P成功率45.5%を記録し、初のオールスターとオールNBA3rdチームに選ばれ、名実共にリーグトップクラスのポイントガードとなり、翌2002-03シーズンも同水準の成績を維持、FT成功率は90.3%の高確率を記録し、チームも勝ち星を60まで増やしたが、プレーオフでは再びスパーズの前に敗れた。

大型補強を繰り返すマーベリックスは2003-04シーズンアントワン・ジェイミソンアントワン・ウォーカーを獲得し、ナッシュも平均8.8アシスト、FT成功率91.6%と好調を維持するが、チームは52勝30敗と勝率を落とし、プレーオフでは1回戦で敗退した。

シーズン終了後にナッシュはFAとなったが、ここまでお金に糸目を付けずに大胆な補強を重ねてきたキューバンが、ナッシュとの再契約に渋りを見せた。キューバンはすでに30歳となっていたナッシュよりも、若いノヴィツキー中心のチームを作りたかった。ナッシュには多くのチームが興味を示し、古巣のサンズは6年6,300万ドルのオファーをしたが、キューバンが提示したのは年900万ドルの4年契約だった。ナッシュはマーベリックスとの再契約を望んでおり、多少の減額も譲歩したが、結局折り合いがつかず、ナッシュはマーベリックスを去ることになり、フェニックス・サンズへの復帰が決定した。

サンズへの復帰とMVP受賞

以前は強豪だったサンズもジェイソン・キッドの移籍で2003-04シーズンは29勝53敗まで成績が落ち込んでいた。ナッシュはその間のエースを務めたステフォン・マーブリーと入れ替わる形でサンズに帰ってきたが、他には目立った補強はなく、2004-05シーズンも厳しいシーズンになることが予想された。

チームメイトにサインを送るナッシュ

ところがナッシュのサンズ復帰は予想以上の効果をもたらした。前年からサンズの指揮を執り始めたマイク・ダントーニはアップテンポなバスケスタイルを標榜しており、スモールラインアップを敷いて機動力を重視し、アウトサイドシュートを中心としたラン&ガンオフェンスの構築を求めていた。このダントーニの理想に、ナッシュの能力が尽くフィットしたのである。ナッシュはマーベリックス時代もドン・ネルソンが得意とするラン&ガンオフェンスの司令塔を務めていたため、ラン&ガンを展開するのはお手の物であり、さらにナッシュはリーグ屈指のアウトサイドシューターだった。ナッシュは若く身体能力に溢れ、フィニッシュ能力にも優れたチームメイト、アマレ・スタウダマイアーショーン・マリオンジョー・ジョンソンらを巧みに操り、サンズのオフェンス力を劇的に向上させた。ナッシュの居ない前年のサンズの平均得点は94.2点だったが、ナッシュ一人が加わったこのシーズンのサンズは110.4点。僅か1年で16点以上も向上したのである。ナッシュの移籍はリーグ全体にも影響を及ぼした。当時のNBAはディフェンシブなチーム作りが主流となっており、前年のリーグ全体の平均得点は93.4点だったが、このナッシュのサンズ移籍一つでリーグ全体の平均得点は97.2点に跳ね上がった。サンズの平均110.4得点はリーグでも断トツの1位で、2位のサクラメント・キングス(103.7点)とは約7点もの差をつけており、この数字がいかに衝撃的なものだったかを物語っている。

ダントーニ指揮下でのプレイはナッシュの能力の全てを引き出し、ナッシュ個人の成績も15.5得点11.5アシスト、FG成功率50.2%、3P成功率43.1%と大幅に向上した。特に11.5アシストは2位以下を大きく引き離すリーグ1位となり、初のアシスト王に輝き、さらにオールNBAチームでは初の1stチーム入りを果たしている。リーグ1のオフェンス力とリーグ最高峰の司令塔に率いられたサンズは快進撃を続け、リーグ首位となる62勝20敗を記録。前年の29勝から33勝分を積み上げ、一躍エリートチームの仲間入りを果たした。このシーズンはナッシュと同様にシャキール・オニールが移籍先のマイアミ・ヒートの勝率を大きく向上させており、MVP投票ではナッシュとオニールの一騎打ちとなった。個人成績ではオニールが上だったが、より世間にインパクトを与えたナッシュがMVPを獲得した。ナッシュのMVP受賞はカナダ人選手初であり、外国生まれの選手としてはアキーム・オラジュワンについで2人目、さらにポイントガードとしてはボブ・クージーマジック・ジョンソンに続く史上3人目であった。また歴代受賞者の中ではドラフト指名時の順位が低かった。さらにダントーニも最優秀コーチに選ばれており、このシーズンのNBAは正にサンズ一色となった。

プレーオフでは1回戦でパウ・ガソルメンフィス・グリズリーズをスイープで降すと、カンファレンス準決勝で古巣のマーベリックスと対決。勝敗を決した第6戦では試合終盤に16点差を引っ繰り返す活躍を見せ、あわやトリプル・ダブルとなる39点12アシスト9リバウンドをあげてチームを勝利に導いた。ここまで順調に勝ち上がり、ナッシュにとってもサンズにとっても初の優勝が見えてきたが、カンファレンス決勝でスパーズが立ちはだかる。サンズは得点力を上げるかわりにディフェンスを犠牲にしており、平均失点はリーグ最下位の103.3点だったが、試合巧者のスパーズがサンズの脆いディフェンスを突き崩し、サンズはこのシリーズで平均109.2失点を喫し、1勝4敗の完敗を喫した。マーベリックス時代同様、サンズでもこのスパーズがナッシュにとっての厄介の種となる。

2年連続のMVPを獲得したナッシュはリーグ最高のポイントガードとも評されている

充実したシーズンを過ごしたナッシュとサンズだったが、翌2005-06シーズンは一転して試練が訪れる。オフに戦力の流出を止められず、主力のジョー・ジョンソンとクエンティン・リチャードソンがチームを去り、さらにエースセンターのアマレ・スタウダマイアーが膝の故障でシーズンをほぼ全休するという苦難に見舞われた。サンズは明らかな戦力不足で新シーズンの苦戦が予想されたが、ナッシュは18.8得点10.5アシスト、FG成功率51.2%、3P成功率43.9%、FT成功率92.1%の好成績を叩き出し、2年連続のアシスト王に輝くと共にFT成功率ではリーグ1位となった。チームもナッシュの大活躍に、新戦力のラジャ・ベルボリス・ディアウらはナッシュとプレイすることで大きく才能を伸ばし、またリアンドロ・バルボサもバックアップとしてナッシュの負担の軽減に成功。前年より10勝減となったものの、52勝30敗で2年連続でディビジョン優勝を果たした。ナッシュは自身も会心の成績を残し、戦力不足のチームを支え、さらにチームメイトの能力を引き出したことが高く評価され、2年連続のMVPを受賞(ポイントガードとしてはマジック・ジョンソンにつぐ史上2人目)。プレーオフではロサンゼルス・レイカーズロサンゼルス・クリッパーズを破って2年連続のカンファレンス決勝に進出。再び古巣マーベリックスと対決したが、スタウダマイアー抜きではここまでが限界となり、2勝4敗で破れ、夢のNBAファイナル進出はならなかった。

2年連続のMVP獲得とカンファレンスファイナル出場を果たし、残すはチャンピオンリング獲得のみとなった。チームはより充実さを増し、スタウダマイアーも復帰したことで、2006-07シーズンはファイナル制覇最大のチャンスと言われた。サンズは期待通りの快進撃を続け、ナッシュはさらに個人成績を向上させ、18.6得点11.6アシストのアベレージを残し、3P成功率ではリーグ2位となる47.0%を記録。MVPは元チームメイトであり友人でもあるマーベリックスのダーク・ノビツキーに譲ったものの、リーグ1位の勝率だったマーベリックスがプレイオフ1回戦で敗れたことにより、勝率2位だったサンズの優勝の可能性が一気に高まった。しかしカンファレンス準決勝、因縁のスパーズとのシリーズでは多くの災難がナッシュを襲った。第1戦では、スパーズのトニー・パーカーとの接触で鼻から出血、ナッシュは止血が追いつかず、試合終盤の大事な場面にコートに立つことを許されず、結果サンズは大事な初戦を落とした。第2戦ではスタウダマイアーがブルース・ボウエンのプレーに対し、「スパーズはダーティなチーム」と発言したことでシリーズは大荒れの兆候を見せると、第4戦ではナッシュはロバート・オーリーに体当たりに近いファウルを受ける。普段非常に温厚なナッシュもこの時ばかりはオーリーに掴みかかったが、その場面にベンチに居たスタウダマイアーとボリス・ディアウはベンチから離れた。本人達に乱闘に参加する意思があったかは定かではないが、この行為が乱闘を助長する行為として、規定により1試合の出場停止処分を受ける羽目となる。インサイドの主力選手2名を欠いたサンズは第5戦を落とし、そのまま連敗してシリーズ敗退となり、ナッシュのチャンピオンリング獲得の夢は打ち砕かれた。

この頃から「強豪」サンズの歯車が狂いだした。2007-08シーズンにはナッシュの相棒的存在だったショーン・マリオンを放出して大物センター、シャキール・オニールを獲得するが、以前からナッシュとオニールには不仲説が囁かれていたこともあり、好守両面で噛み合わず、期待されたほどの効果はなく、プレーオフでは1回戦でまたもやスパーズに完敗を喫する。そしてオフにはチームの大改革が始まり、マイク・ダントーニはついにヘッドコーチを解任され、新たにテリー・ポーターが就任。オフェンシブなチームからディフェンシブなチームへとチーム方針の180度転換を目指した。シーズン中にもナッシュと苦楽を共にしたラジャ・ベルボリス・ディアウらが放出され、チームの姿は変貌していくが、急激な舵取りはチームに混乱をもたらし、2008-09シーズン46勝36敗に終わったサンズはプレーオフ進出すら逃した。ダントーニ体制下では思う存分能力を発揮したナッシュもコーチの交代と戦術の大幅な変更で若干成績を落とし、このシーズンは15.7得点9.7アシストに終わるが、サンズでの優勝を目指すため、オフには契約の2年延長を決めた。

2009-10シーズンは、シーズン開幕からラン&ガンオフェンスが冴え渡り、チームは好調。プレーオフにも返り咲いた。カンファレンスセミファイナルでは因縁のサンアントニオ・スパーズと対戦。これまでスパーズに苦汁をなめられていたが、持ち前のラン&ガンオフェンスでスパーズを翻弄。第3戦では控えのゴラン・ドラギッチチャニング・フライらが活躍し、第4戦ではナッシュが怪我で途中退場するアクシデントがあったが、スイープでスパーズを下し、2005-06シーズン以来のカンファレンスファイナルに駒を進めた。カンファレンス決勝では、王者ロサンゼルス・レイカーズ相手に善戦するも、2勝4敗で惜敗した。

2010-2011シーズンにはナッシュと苦楽を共にしたスタウダマイアーがFAでサンズを去りニューヨーク・ニックスへ。そしてベンチの補強に12月にはトレードで大物ベテランSGのヴィンス・カーターを獲得。サンズはチームの再建を試みるが、スタウダマイアーの抜けた穴は予想よりもはるかに大きくサンズは勝率を5割を下回り、40勝42敗でシーズンは終了。プレイオフ進出には至らなかった。

2011-2012シーズンもサンズはスタウダマイアー以上の選手を獲得できず、以前のようなピック&ロールが展開できずシーズン開幕からチームは連敗を記録。しかし、ナッシュ自身の成績はとても38歳とは思えない13得点、11アシストで自身8回目のオールスター入りを果たす。38歳以上のオールスター入りは現在、3人しか成し遂げていない。

ロサンゼルス・レイカーズ

2012年7月11日、サイン&トレードでロサンゼルス・レイカーズに移籍することが決まった。背番号は10。サンズは2013年と2015年のドラフト1巡目指名権、2014年と2015年のドラフト2巡目指名権、現金300万ドル(約2億4,000万円)をレイカーズから獲得することとなる。レイカーズはさらに現役最強のセンター、ドワイト・ハワードをもマジックから獲得し、3年ぶりの優勝を狙う。しかし、HCのマイク・ブラウンが取り入れたプリンストン戦略に選手が上手く機能せずプレシーズンを0勝8敗。レイカーズ史上初のプレシーズン全敗を記録した。レギュラーシーズンが始まった第二戦目でナッシュはルーキーのデイミアン・リラードと衝突。その際に右脚を骨折する重症を負い20試合以上を離脱することになった。そして、第4戦目でHCのマイク・ブラウンがチームの成績不振で解雇され、代わりにナッシュがサンズ時代にHCだったマイク・ダントーニが就任する。この就任はナッシュがダントーニの得意とするアップテンポなバスケスタイルを理解しており、以前アマレ・スタウダマイアーと展開したようなピック&ロールがハワードと再現できるとチームが考えていたからとされている。

しかし、ナッシュが怪我で離脱している間、チームの戦略がマイク・ブラウンのデフェンシブな物からダントーニの超オフェンシブな物に変わりチームは混乱に陥った。コービー・ブライアント率いるレイカーズは奮闘したが、急激に変わった戦略に選手がうまく機能せず成績は前年にくらべ悲惨なものとなった。ダントーニの戦略を熟知しているナッシュが怪我から2ヶ月後に復帰し、希望の光が見えたレイカーズだったが、マジック時代にピック&ロールをほとんど経験していないハワードにはサンズ時代にアマレと展開したようなピック&ロールが出来ず、オールスターゲーム前の前半は25勝29敗と勝率5割をきっていた。オールスター後にHCのマイク・ダントーニは「チームがプレイオフに行くには20勝8敗が最低条件」と言及。勝率5割をきっていたレイカーズには高すぎるハードルだった。

だが、オールスターゲーム後半は快進撃を見せつけ、ダントーニが最低条件と言っていた20勝8敗を見事に実現。レイカーズはプレイオフに7位で進出した。しかし、ナッシュ自身は3月25日のゴールデンステート・ウォリアーズ戦で痛めた膝腱状態が悪化。最後の9試合はすべて欠場した。さらに、レイカーズの大黒柱のコービー・ブライアントがレギュラーシーズン終了5日前にアキレス腱を同じくゴールデンステート・ウォリアーズ戦で断裂。プレイオフは絶望的になった。

プレイオフは第一回戦でサンアントニオ・スパーズと対戦。ナッシュは怪我の回復を待たずに1試合目に出場したが、得意なはずのショットを連続で失敗するなど、本来の力を発揮できなかった。第3戦からはさらに怪我が悪化し欠場。そのままチームは屈辱のスイープでシーズンが終了した。ナッシュにもレイカーズにとっても最悪のシーズンとなった。

2013-14シーズンも怪我に苦しみ不本意なシーズンを送り、復活を期す2014-15シーズンを迎えるはずだったが、プレシーズン中に移動中に鞄を持ち上げた際に以前からの持病だった背中の傷みを悪化させてしまい、契約最終年の同シーズンを全休。そして2015年3月21日、引退を表明した[1]

引退後

2015年9月25日、ゴールデンステート・ウォリアーズの選手育成部門コンサルタントに就任した[2]

プレイスタイル

ナッシュは卓越したプレーメイキングとボールハンドリング、シュート技術を備えた最高峰のオフェンシブポイントガードである。「背中にも目がある」と評されるほどの広いコートビジョンと優れたパスセンスで、ディフェンダーの僅かな隙間にもいとも簡単に絶妙なパスを通してしまい、ダントーニ体制下での4シーズンはその才能を余すことなく発揮し、優秀なフィニッシャーたちを巧みに操ってオフェンスを展開し、サンズ時代のほとんどのシーズンで平均二桁アシストを達成している。

非常に温厚で気さくな人物として知られる

抜群の決定力を誇りシュートセレクションも素晴らしく、3P成功率は1998-99シーズンを除く全てのシーズンで4割以上を記録、さらにサンズに戻った9シーズン目以降は、FG成功率でもガードの選手としてはとても優秀な5割以上を記録した。特にクラッチタイムでの決定力はリーグ屈指。決して身体能力が高いわけではなく、スピードもあるわけではないが、サッカー仕込みの独特のドリブルでディフェンダーとの空間を作る術に長けているため、簡単にシュートチャンスを作ることができる。司令塔としての統率力も高く、サンズはナッシュの存在がなければチームとして機能せず、事実ナッシュが欠場した時のサンズの勝率は極端に悪い。またチームメイトの才能を引き出す術にも長け、多くの選手が彼とプレイすることで潜在能力を開花させた。

一方、バスケットボール選手としては小柄であることもあってディフェンスは非常に苦手であることで知られている。それがナッシュを主軸とするチームのスタイルにも反映されているのか、サンズの平均失点は毎シーズンリーグ最下層に沈んでいる。

またナッシュ最大の長所としてチームメイトが頻繁に挙げるのが、彼のアンセルフィッシュで温厚な人柄であり、ナッシュがマーベリックスからサンズに移籍した時はノヴィツキーがいたく落胆し、またラジャ・ベルやボリス・ディアウがサンズを去った時も、ナッシュとの別れを酷く惜しんだ。

晩年にはクイックネスや身体能力こそ衰えていたが、シュートやパスの技術などはレイカーズ移籍後も健在で、要所要所で全盛期を思わせるプレイを度々披露していた。

エピソード

私生活・家族

オフコートでのナッシュ

ナッシュの家族は父ジョン・ナッシュはイングランド出身のプロサッカー選手、弟のマーティン・ナッシュサッカーカナダ代表、妹のジョアンも学生時代にサッカーで活躍したというサッカー一家である。ナッシュはオフの大半をニューヨークで過ごしており、2005年には2001年にマンハッタンで出会った年上の恋人と結婚し、2006年には双子の女の子が生まれたが、2012年に離婚。現在は娘の親権などを巡って係争中である。

ナッシュは背中に痛みを伴う脊椎分離すべり症という持病を抱えており、そのため試合中であってもプレイしていない時はベンチに座らず、コートサイドに横になっている。

熱心なチャリティー活動家としても知られ、2001年には公共奉仕を目的とした非営利団体、スティーブ・ナッシュ財団を設立するなど様々な活動を行い、チャールズ・バークレーなどからもその活動を賞賛されている。活動はカナダ・アメリカ国外にも及び、2007年夏には姚明と共に中国でチャリティーゲームを開催し、250万ドルの寄付金を集めた。2006年にはTime誌による「最も影響力のある100人」の一人に選ばれている。

サッカー

サッカー一家に育ち、自身も少年時代はサッカーに熱中していたことから、NBAでも屈指のサッカーフリークとして知られる。お気に入りのチームはプレミアリーグトッテナム・ホットスパーFC。これはナッシュの父の出身がロンドンのトッテナムであり、熱狂的なサポーターであったことからである。マーベリックス時代のチームメイト、ダーク・ノヴィツキーとは、サッカーを通して親交を深めている。また世界的なサッカー選手であるアレッサンドロ・デル・ピエロティエリ・アンリオーウェン・ハーグリーヴスマッシモ・アンブロジーニスティーブ・マクマナマンらとも個人的な親交を持っており、毎年オフに開催されるナッシュのチャリティーサッカーゲームには多数の現役サッカー選手が参加している。

2008年にはカナダのプロサッカークラブ、バンクーバー・ホワイトキャップスのオーナーの一人となり、女子サッカーリーグへの投資もしている。2002年の日韓ワールドカップの観戦では来日しているが、ナッシュだとは気付かれず、大きな騒ぎにはならなかった。またメジャーリーグサッカーのレッドブル・ニューヨークの練習に参加したことがあり、ピックアップゲームに出場したこともある。ナイキのCMではバスケットボールを軽妙なリフティングの末にバスケットゴールの中にキックで入れるという離れ業を披露している。

その他

  • 登録上の身長は191cmだが、かつてのチームメートのダーク・ノビツキー(213cm)やコービー・ブライアント(198cm)と並んだ写真などから、実際は186cmくらいと言われている。
  • 長髪がトレードマークとなっているが、2007年にはバッサリと切ったベリーショートとなり、話題となった。
  • シューズメーカーはナイキ社と契約。ローカットのモデルを好み、まだNBA選手がローカットを履くのが珍しい頃から着用している。
  • 近年は映像製作にも興味を示している。2007年にはナイキのCMの一環で「Training Day」と題した81秒の映像を、2008年には「The Sixty Million Dollar Man」と題した91秒の映像をYouTubeで公開し、いずれも人気を博した。将来は映画を製作するつもりだという。しかし、彼のアイデアをシャキール・オニールが真似したという疑惑が広まり、オニールがフェニックス・サンズに加入した当初は、ナッシュが「僕のアイデアを盗んだだろ!?」と食って掛かるなど、両者は緊張状態にあったという。
  • 2010年に開催されたバンクーバーオリンピックでは、ウェイン・グレツキーらと共に、2015年に開催されたパンアメリカン大会の開会式での最終聖火ランナーを担当した。

個人成績

略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック   TO  平均ターンオーバー  PPG  平均得点
 太字  キャリアハイ  *  リーグリーダー  †  優勝シーズン
リーグトップ

NBAレギュラーシーズン

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
1996–97 PHX 65 2 10.5 .423 .418 .824 1.0 2.1 .3 .0 0.97 3.3
1997–98 PHX 76 9 21.9 .459 .415 .860 2.1 3.4 .8 .1 1.29 9.1
1998–99 DAL 40 40 31.7 .363 .374 .826 2.9 5.5 .9 .1 2.08 7.9
1999–00 DAL 56 27 27.4 .477 .403 .882 2.2 4.9 .7 .1 1.82 8.6
2000–01 DAL 70 70 34.1 .487 .406 .895 3.2 7.3 1.0 .1 2.93 15.6
2001–02 DAL 82 82 34.6 .483 .455 .887 3.1 7.7 .6 .1 2.79 17.9
2002–03 DAL 82 82 33.1 .465 .413 .909 2.9 7.3 1.0 .1 2.34 17.7
2003–04 DAL 78 78 33.5 .470 .405 .916 3.0 8.8 .9 .1 2.68 14.5
2004–05 PHX 75 75 34.3 .502 .431 .887 3.3 11.5 1.0 .1 3.27 15.5
2005–06 PHX 79 79 35.4 .512 .439 .921 4.2 10.5 .8 .2 3.49 18.8
2006–07 PHX 76 76 35.3 .532 .455 .899 3.5 11.6 .8 .1 3.78 18.6
2007–08 PHX 81 81 34.3 .504 .470 .906 3.5 11.1 .6 .1 3.64 16.9
2008–09 PHX 74 74 33.6 .503 .439 .933 3.0 9.7 .7 .1 3.5 15.7
2009–10 PHX 81 81 32.8 .507 .426 .938 3.3 11.0 .5 .1 3.6 16.5
2010–11 PHX 75 75 33.3 .492 .395 .912 3.5 11.4 .6 .1 3.5 14.7
2011–12 PHX 62 62 31.6 .532 .390 .894 3.0 10.7 .6 .1 3.7 12.5
2012–13 LAL 50 50 32.5 .497 .438 .922 2.8 6.7 .6 .1 2.5 12.7
2013–14 LAL 15 10 20.9 .383 .333 .917 1.9 5.7 .5 .1 2.1 6.8
キャリア 1217 1052 31.3 .490 .428 .904 3.0 8.5 .7 .1 2.9 14.3
オールスター 5 1 20.8 .417 .250 .000 2.6 6.0 .6 .2 2.00 4.4

NBAプレーオフ

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
1996–97 PHX 4 0 3.8 .222 .250 .000 .3 .3 .2 .2 0.50 1.3
1997–98 PHX 4 1 12.8 .444 .200 .625 2.5 1.8 .5 .0 0.75 5.5
2000–01 DAL 10 10 37.0 .417 .410 .882 3.2 6.4 .6 .1 2.50 13.6
2001–02 DAL 8 8 40.4 .432 .444 .971 4.0 8.8 .5 .0 3.75 19.5
2002–03 DAL 20 20 36.5 .447 .487 .873 3.5 7.3 .9 .1 2.55 16.1
2003–04 DAL 5 5 39.4 .386 .375 .889 5.2 9.0 .8 .0 2.40 13.6
2004–05 PHX 15 15 40.7 .520 .389 .919 4.8 11.3 .9 .2 4.67 23.9
2005–06 PHX 20 20 39.9 .502 .368 .912 3.7 10.2 .4 .2 3.35 20.4
2006–07 PHX 11 11 37.5 .463 .487 .891 3.2 13.3 .4 .1 4.36 18.9
2007–08 PHX 5 5 36.6 .457 .300 .917 2.8 7.8 .4 .2 2.40 16.2
2009–10 PHX 16 16 33.7 .518 .380 .893 3.3 10.1 .3 .1 3.8 17.8
2012–13 LAL 2 2 30.5 .435 .000 1.000 2.5 4.5 .0 .0 1.5 12.5
キャリア 120 113 35.7 .473 .406 .900 3.5 8.8 .6 .1 3.2 17.3

個人記録

個人成績最多記録

受賞歴

  • シーズンMVP:2005, 2006
  • オールスター出場:2002, 2003, 2005, 2006, 2007, 2008, 2010, 2012
  • オールNBA1stチーム:2005, 2006, 2007
  • オールNBA2ndチーム:2008
  • オールNBA3rdチーム:2002, 2003
  • アシスト王:2005(11.5アシスト), 2006(10.5アシスト), 2007(11.6アシスト),2010 (11.0アシスト), 2011 (11.4アシスト)
  • フリースロー成功率1位:2006(92.1%)

ナショナルチーム

脚注

外部リンク