サンフアン (軽巡洋艦)

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艦歴
発注
起工 1940年5月15日
進水 1941年9月6日
就役 1942年2月28日
退役 1946年11月9日
その後 1961年にスクラップとして廃棄
除籍 1959年5月1日
性能諸元
排水量 6,000 トン
全長 541 ft 6 in
全幅 53 ft 2 in
吃水 20 ft 10 in
機関
最大速 31.8ノット
乗員 士官、兵員820名
兵装 5インチ砲16門
1.1インチ砲16門
20mm機銃8基
21インチ魚雷発射管8門
SGレーダー

サンフアン (USS San Juan, CL-54) は、アメリカ海軍軽巡洋艦アトランタ級軽巡洋艦の4番艦。艦名はプエルトリコサンフアン洗礼者ヨハネを意味するサンフアン)に因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴

サンフアンはマサチューセッツ州クインシーベスレヘム・スチールフォアリバー造船所で1940年(昭和15年)5月15日に起工する。1941年(昭和16年)9月6日にマルガリータ・コル・デ・サントーリ夫人によって命名、進水し、1942年(昭和17年)2月28日に艦長ジェームズ・E・マーヘル大佐の指揮下就役した。

1942

大西洋での整調後、サンフアンはワスプ (USS Wasp, CV-7) を中心に形成された空母任務群の一部として1942年(昭和17年)6月5日に北アメリカ大陸東海岸のバージニア州ハンプトン・ローズを出航し、太平洋に向かった。任務群は、ソロモン諸島に向かう兵員輸送船団の護衛として6月30日にカリフォルニア州サンディエゴを発つ。同部隊は第二次世界大戦において海軍が行う初めての大規模揚陸作戦に参加する予定であった。

フィジー諸島での予行演習の後、サンフアンはウォッチタワー作戦に従事し、1942年(昭和17年)8月7日フロリダ諸島ツラギ島への上陸部隊に対して砲撃支援を行った[1]フロリダ諸島の戦い)。これに対しラバウルを発進した日本海軍の一式陸上攻撃機九九式艦上爆撃機が、揚陸作業中の連合軍輸送船団に空襲をおこなう[注釈 1]。輸送船団と護衛艦艇は自分達の対空砲火と、フレッチャー提督の空母機動部隊から飛来したF4F ワイルドキャットで応戦した[5]。駆逐艦マグフォード (USS Mugford, DD-389) が小破した[6]ビクター・クラッチレー提督(旗艦オーストラリア)隷下のノーマン・スコット少将はサンフアンに将旗を掲げ、東方部隊(軽巡サンフアン、軽巡ホバート、駆逐艦モンセン、駆逐艦ブキャナン)として[7]、フロリダ諸島とガダルカナル島間のシーラーク水道東側を警戒した[8]。なお連合軍輸送船団および護衛艦艇の中で、唯一SGレーダーを装備していたのがサンフアンであった[8]。日本軍の水上部隊は出現せず、何事もなく夜が明けた[9]

8月8日、連合軍上陸部隊は再びラバウル航空隊の空襲を受けた[10]。連合軍各艦は猛烈な対空砲火を浴びせ、陸攻を主力とする日本軍攻撃隊は大損害をうけた[注釈 2]。だが連合軍側も無傷ではいられなかった。駆逐艦ジャービス (USS Jarvis, DD-393) が大破し、輸送船ジョージ・F・エリオットUSS George F. Elliott, AP-13)が被弾炎上して放棄された[13]。連日の対空戦でフレッチャー提督の機動部隊もF4F 20機とSBD 1機を失い、連合軍機動部隊は掩護を打ち切って撤退を開始した[14]。 日没後から9日にかけて、東方部隊4隻(サンフアン、ホバート、モンセン、ブキャナン)は輸送エリア東入口を哨戒中であった[15]。この夜、第八艦隊司令長官三川軍一中将が率いる外南洋部隊がサボ島南を通過して鉄底海峡に突入し[注釈 3]夜戦で連合軍の南方部隊と北方部隊に大打撃を与える[17][注釈 4]。東方部隊は自分達の鼻先を三川艦隊が通過していったのに、何の行動も起こさなかった[15]。上級部隊から命令はこなかったし、サンフアンのスコット少将も状況を尋ねなかった[15]。この夜、ガ島沖にいた連合軍巡洋艦や駆逐艦の中で最新のSGレーダーを装備していたのはサンフアンだけだったが[8]、東方部隊の4隻は夜戦に全く関与しなかった[15]

日中になると、ラバウル航空隊は駆逐艦ジャービスに集中攻撃を加えて撃沈したので[19]、連合軍輸送船団は無傷で済んだ[20]ターナー提督が率いる連合軍輸送船団は物資の大半を揚陸しないまま撤退を開始し、サンフアンは最後発部隊を護衛する[21]。ガ島とツラギ島に上陸したアメリカ海兵隊は敵中に取り残され、弾薬と食糧の不足に苦しむ羽目になった[21]。8月13日、連合軍輸送船団はニューカレドニアヌメアに到着した[22]

サンフアンは再びワスプと行動を共にして、ニューヘブリディーズ諸島とソロモンの間を哨戒した。8月24日以降の第二次ソロモン海戦では[23]、フレッチャー提督の命令によりワスプを含めた第18任務部隊は燃料補給のため後退していたため、南雲中将の第一航空戦隊とフレッチャー中将の連合軍空母2隻間で繰り広げられた航空戦に参加できなかった。この海戦で翔鶴艦爆隊により空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) が損傷した[24]。サンフアンもガダルカナル島沖で砲架を破損する事故が発生したため、サンフアンはエンタープライズと共に後方に下がることとなった。9月10日、サンフアンとエンタープライズは真珠湾に帰投した。

10月5日、サンフアンは海兵隊向けの貨物と20ミリ機銃を積み、南太平洋の戦場に向かった。フナフティ島に到着後、物件を揚陸させたサンフアンは、ギルバート諸島方面に向けて単艦出撃し、2隻の特設監視艇を撃沈した。エスピリトゥサント島で日本人の捕虜を上陸させた後、サンフアンは10月23日にエンタープライズと合流した。3日後の26日、日米双方の機動部隊が激突する南太平洋海戦が起こった[25]。 この海戦で、キンケイド提督が率いる第16任務部隊(空母エンタープライズ、戦艦サウスダコタ、重巡ポートランド、軽巡サンフアン、駆逐艦8隻)として行動した。日米双方が攻撃隊を送り込んだ結果、南雲機動部隊は3隻(翔鶴瑞鳳筑摩)が日本本土での修理を必要とする被害を受け、さらに飛行機とパイロットにおびただしい損害を出した[26]。サウスダコタとサンフアンの猛烈な対空砲火も、大損害の一因であった[27]。 だがアメリカ側も無傷ではいられず、空母ホーネット (USS Hornet, CV-8) と駆逐艦ポーター (USS Porter, DD-356) を喪失し、エンタープライズが中破、サウスダコタ (USS South Dakota, BB-57 ) 、駆逐艦スミス (USS Smith, DD-378) 、駆逐艦マハン(衝突事故)が損傷した[28]。サンフアンも被害を受けた。第二航空戦隊の空母隼鷹から飛来した攻撃隊[29]九九艦爆 18機、零戦 12機。攻撃隊長志賀淑雄大尉)が第16任務部隊を襲った際に[30]、サンフアンの艦尾に250キロ爆弾が命中して貫通した。浸水も起こったが、舵は辛うじて生きていた。海戦終了後、サンフアンは10月30日に任務部隊と共にヌメアに帰投し、次いでシドニーに回航され本修理が行われた。修理を終えたサンフアンは、フィジーナンディで空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) に合流した。

1943

サンフアンは1942年12月から1943年6月までは、ヌメアを拠点にソロモン諸島の戦いに参加し、珊瑚海を単独で哨戒した。1943年6月末からのニュージョージア島の戦いでは、サンフアンの任務部隊は日本側の反撃を警戒するため、珊瑚海で26日間に及ぶ哨戒を行った。7月遅く、任務部隊はエファテ島、次いでエスピリトゥサント島に下がった。

11月1日、アメリカ軍はブーゲンビル島タロキナ岬に上陸し、ブーゲンビル島の戦いが始まった。サンフアンはサラトガと行動を共にして、ブーゲンビル島とラバウル間の日本側の交通路を遮断した(ラバウル空襲)。次いで、サンフアンはクェゼリン環礁を攻撃する空母エセックス (USS Essex, CV-9) の任務群に加わった。エセックスの任務群は12月4日と5日のマーシャル諸島沖航空戦雷撃機の襲撃にあったが、全て撃退した。サンフアンは12月6日に任務群から外れ、整備のためメア・アイランド海軍造船所に向かった。

1944

1944年(昭和19年)1月19日、サンフアンは真珠湾でサラトガと再び合流し、サラトガの任務群は2月のエニウェトクの戦いを支援した。次いで、サンフアンはエセックス級の空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) およびレキシントン (USS Lexington, CV-16) を護衛し、3月30日から4月1日にかけて、パラオヤップ島およびウルシー環礁への攻撃(パラオ大空襲)を支援した。4月7日、サンフアンは空母ホーネット (USS Hornet, CV-12) と合同し、ホーランジアの戦いの支援と、4月29日と30日に行われたトラック諸島への再度の空襲に従事した。ホーネットの任務群はマーシャル諸島の前進基地に引揚げて整備の後、6月前半からはマリアナ諸島の戦いの前哨戦として、小笠原諸島父島硫黄島への攻撃を行った。アメリカ軍はサイパン島に上陸し、これを阻止しようとした日本艦隊をマリアナ沖海戦で打ち破った。サンフアンは、海戦で対空防衛に専念した。

エニウェトク環礁での整備の後、サンフアンはエセックス級空母ワスプ (USS Wasp, CV-18) とフランクリン (USS Franklin, CV-13) の護衛を行い、任務群はグアムの戦いの支援で再度父島と硫黄島を空襲した。パラオとウルシーに対する再度の攻撃の後、サンフアンはオーバーホールのためサンフランシスコに回航されることとなり、サンフアンは8月4日、ヨークタウンを護衛してエニウェトクを出港した。

オーバーホール後の訓練をサンディエゴと真珠湾で行ったサンフアンは、11月21日にウルシーに到着してレキシントンの任務群に加わった。12月に入り、第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)は、来るミンドロ島の戦いに備えてルソン島台湾を攻撃することとし、その間、日本の航空機を偽の場所におびき出すこととし、サンフアンが偽情報を発信する役目で12月7日から単艦行動に出た[31]。しかし、この作戦に日本機は引っかからなかった。12月18日から19日にかけて、任務部隊はコブラ台風に翻弄され、12月24日にウルシーに帰投した。

1945

6日後、第38任務部隊はルソン島の戦いの前哨戦のため出撃した。1945年(昭和20年)1月3日から9日にかけて、任務部隊の艦載機は台湾、沖縄島およびルソン島を攻撃。さらに南シナ海に入り、1月10日から20日にかけてインドシナ半島カムラン湾サイゴン香港などの港湾や艦船を攻撃した(グラティテュード作戦ヒ87船団)。サンフアンはウルシーでの整備の後、2月には硫黄島の戦いの援護で、東京への艦載機攻撃を行うホーネットを護衛し、3月1日にウルシーに帰投した後は、沖縄への進撃の準備を行った。

サンフアンは3月22日にホーネットと顔を合わせ、4月30日まで南西諸島近海で行動した。ホーネットの艦載機は4月21日に南大東島を空襲したほか、4月7日の坊の岬沖海戦では戦艦大和の撃沈に一役買った。その9日後に一旦ウルシーに戻った後、再度南西諸島近海に戻って沖縄戦の支援に従事した。サンフアンは6月13日に修理のためレイテ湾に帰投し、7月1日からの日本本土への攻撃では第38.1任務群(トーマス・L・スプレイグ少将[32])に属し、空母ベニントン (USS Bennington, CV-20) の護衛に就いた。8月15日の日本の降伏後、サンフアンは8月27日に相模湾第3艦隊の他の艦艇と共に入港した。

サンフアンは、ロジャー・W・シンプソン英語版准将の指揮で実施された捕虜解放作戦に協力した。8月29日、特別部隊は大森大船および品川の収容所から捕虜を解放した。解放された捕虜は病院船ベネヴォレンス (USS Benevolence, AH-13) とレスキュー (USS Rescue, AH-18) に収容された。サンフアンはさらに、名古屋浜松間と仙台釜石間にある捕虜収容所の解放作戦にも従事し、作戦終了後の9月23日、サンフアンは戦艦長門に横付けした。サンフアンは10月28日まで横須賀に滞在した後、11月14日に本国に向けて出港。真珠湾でシンプソン准将を降ろした後、11月29日に本国に凱旋した。3日後、サンフアンはマジック・カーペット作戦に従事して、ヌメアおよびトゥトゥイラ島からの復員将兵をサンペドロまで輸送し、1946年(昭和21年)1月9日に到着した。

戦後

サンフアンは1月24日にブレマートンに回航されて係留され、11月9日に退役して太平洋予備役艦隊に編入された。1949年(昭和24年)2月28日、サンフアンはCLAA-54 (防空軽巡洋艦)に艦種変更される。サンフアンはそのまま現役に戻ることなく、10年後の1959年(昭和34年)3月1日に除籍され、1961年(昭和36年)10月31日にロサンゼルスターミナル島英語版にあるナショナル鉄鋼所英語版にスクラップとして売却された。

サンフアンは第二次世界大戦の戦功で13個の従軍星章を受章した。

出典

  1. ^ ラバウル航空隊の第一波攻撃隊:第四航空隊の一式陸攻27、台南海軍航空隊の零戦18(資料によっては17機)[2]/陸攻7、零戦2喪失[3]。第二波攻撃隊:第二航空隊の九九艦爆 9/撃墜2、行方不明4、不時着3[4]。連合軍は戦闘機11、艦爆1を喪失[4]
  2. ^ 四空と三沢海軍航空隊の一式陸攻合計28、零戦15[11]。陸攻18未帰還、被弾5、零戦1自爆[12]。攻撃隊は撃沈(大型巡洋艦1隻、駆逐艦1隻、輸送船9隻)、大破(軽巡3、輸送船2)、撃墜(戦闘機1、艦爆3)を報告した[12]
  3. ^ 三川艦隊[16]:重巡鳥海(第八艦隊旗艦)、重巡青葉(第六戦隊、司令官五藤存知少将)、重巡衣笠、重巡古鷹、重巡加古、軽巡天龍(第十八戦隊、司令官松山光治少将)、軽巡夕張、駆逐艦夕凪
  4. ^ 連合軍側の夜戦被害一覧[18]:沈没(重巡クインシーヴィンセンスアストリアキャンベラ)、損傷(重巡シカゴ、駆逐艦ラルフタルボット、駆逐艦パターソン)。

脚注

  1. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 93.
  2. ^ 一式陸攻戦史 2019, p. 221.
  3. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 93–94.
  4. ^ a b ラバウル海軍航空隊 2001, p. 94.
  5. ^ 一式陸攻戦史 2019, p. 222.
  6. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 95.
  7. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 314付録〈東方部隊〉
  8. ^ a b c サボ島沖海戦 1988, p. 99.
  9. ^ サボ島沖海戦 1988, pp. 100–101.
  10. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 101.
  11. ^ 一式陸攻戦史 2019, p. 234.
  12. ^ a b ラバウル海軍航空隊 2001, p. 96.
  13. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 102.
  14. ^ サボ島沖海戦 1988, pp. 108–112.
  15. ^ a b c d サボ島沖海戦 1988, pp. 285–286.
  16. ^ サボ島沖海戦 1988, pp. 311–312付録〈サボ島沖海戦における日本軍勢力〉
  17. ^ 一式陸攻戦史 2019, p. 228.
  18. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 306付録〈サボ島沖海戦(1942年8月9日)における日米両軍死傷者数〉
  19. ^ 一式陸攻戦史 2019, p. 232.
  20. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 250.
  21. ^ a b サボ島沖海戦 1988, pp. 251–253.
  22. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 255.
  23. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 5–6船団によるガ島輸送の挫折
  24. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 11–12連合軍の状況
  25. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 160–161.
  26. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 307–309戦闘概報及び戦闘詳報
  27. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 290–292一航空戦第二次攻撃
  28. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 310–312戦果の判定
  29. ^ #隼鷹飛行機隊(2) pp.20-22(南太平洋海戦、第一次)
  30. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 292–294二航戦第一次攻撃
  31. ^ カルフォーン, 43ページ
  32. ^ クリフトン・スプレイグ少将とは別人

参考文献

  • 石井勉(編著)『アメリカ海軍機動部隊 英和対訳対日戦闘報告/1945』成山堂書店、1988年、ISBN 4-425-30121-8
  • 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年3月(原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6 
  • C・レイモンド・カルフォーン/妹尾作太男・大西道永(訳)『神風、米艦隊撃滅』朝日ソノラマ、1985年、ISBN 4-257-17055-7
  • 佐藤和正「ガ島奪回作戦<前期>」『写真・太平洋戦争(4)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0414-8
  • 佐藤和正「南太平洋海戦/第三次ソロモン海戦」『写真・太平洋戦争(第5巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2079-8
  • 佐藤暢彦「第九章 ソロモン航空戦(一) ― カクタス空軍との戦いの始まり」『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』光人社〈光人社NF文庫〉、2019年1月(原著2015年)。ISBN 978-4-7698-3103-7 
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
  • R・F・ニューカム著、田中至訳『サボ島沖海戦 米軍史上最大の敗北』光人社〈光人社NF文庫〉、1998年4月(原著1963年)。ISBN 4-7698-2192-1 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。 
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4

関連項目

外部リンク