白瀬矗

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白瀬矗

白瀬 矗(しらせ のぶ、 1861年7月20日 - 1946年9月4日)は、日本陸軍軍人南極探検家。最終階級陸軍輜重兵中尉

目次

[編集] 生涯

[編集] 出生と陸軍入隊

1861年万延元年)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男として生まれた。11歳の頃に寺子屋の教師、佐々木節斎より北極の話を聞き、探検家を志す。この時佐々木は、白瀬に対し5つの戒めを教えた(煙草を絶ち、そして寒くても火にあたらない)。白瀬は18歳頃から守るようになり、生涯この戒めを守り続けたとされる。1879年7月に僧侶となるため上京するが、2ヵ月後に軍人を目指し日比谷陸軍教導団騎兵科に入校。同時に幼名の知教という名を矗に改名した。

[編集] 千島探検

1881年(明治14年)に教導団を卒業、輜重兵に転科し陸軍輜重兵伍長として仙台に赴任する。1887年(明治20年)には同地の海産問屋の娘、やすと結婚。陸軍輜重兵曹長下副官と昇進し1893年(明治26年)に予備役編入、幸田露伴の兄である郡司成忠大尉が率いる千島探検隊(千島報效義会)に加わる。探検隊は千島に到着するまでの間に暴風雨による遭難で19名の死者を出しながらも千島列島に到着。捨子古丹島に9名、幌筵島に1名の隊員を越冬隊として残し(これら10人は壊血病の蔓延から翌年までに全員死亡・行方不明となった)、白瀬・郡司らは同年8月31日に最終目的地である占守島に到着、そのまま同島で越冬した。

しかし翌年、郡司は軍からの強い要請によって帰還することになる。この時、郡司は当初全員を帰還させるつもりであったが、郡司の父である幸田成延が、千島開発を途切れさせないために自分が占守島に残る事を強硬に主張。郡司はこれを翻意させるため、白瀬に成延の代わりとして占守島へ残留することを要望することになる。白瀬も最終的にこれを承諾したが、この2年目の越冬は過酷なものとなった。白瀬を含む4人が壊血病に罹り、白瀬以外の3人は死亡。壊血病に罹らなかった2人のうち1人はノイローゼとなり、白瀬も病気による体力の低下から食料の調達が不可能となり、やむなく愛犬を射殺してその肉を食べることで飢えを凌いだほどであった。白瀬らは1895年(明治28年)になって救助されたが、この過酷な状況に追い込まれたことと、越冬のため日清戦争に従軍できなかったことへの悔やみから、白瀬は郡司親子を恨むようになり、以後郡司と白瀬の仲は極端に悪化する。

1897年(明治30年)、後備陸軍輜重兵少尉任官。1900年(明治33年)、国家事業として千島の経営を帝国議会に請願、10万円の予算が通過したが、交付されないので密漁船でアラスカに渡り、6ヶ月間を北緯70度で過ごした。1904年(明治34年)には日露戦争勃発のため、同年6月に召集され第8師団衛生予備廠長となり、10月に出征し1905年(明治38年)1月に負傷。。凱旋後の同年11月に陸軍輜重兵中尉任官。

1909年(明治42年)、アメリカの探検家・ロバート・ピアリー北極点踏破のニュースを聞き、北極探検を断念して目標を南極点へ変更するが、アーネスト・シャクルトンが南緯88度23分に到達したと知ると白瀬は意気消沈し、さらにイギリス政府がロバート・スコットが南極探検に来年も挑むと発表すると、白瀬は即座に競争を決意した。スコットは1910年(明治43年)にイギリスの王立地理学協会から支援を受け、科学調査とともに南極点到達を目標にしていた。当時は南極点を目指す探検隊が他にいないと思われ、スコットが最初に到達するものと考えられていた。

[編集] 南極探検隊の結成と出発

1910年、白瀬は南極探検の費用補助を帝国議会に建議(「南極探検ニ要スル経費下付請願」)した。衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の援助を決定するも補助金を支出せず、渡航費用14万円は国民の義援金に依った。政府の対応は冷淡であったが、国民は熱狂的に応援した。船の調達も難航し予算も2万5千円程度だったため、残金も十分ではなかった。最終的には千島探検で険悪の仲となっていた郡司に頭を下げ、積載量が僅かに204トンという木造帆漁船を買い取り、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施され、東郷平八郎によって「開南丸」と命名された。極地での輸送力は29頭の犬だった。

同年7月5日、神田で南極探検発表演説会を開催、当日中に南極探検後援会が組織され、幹事に三宅雪嶺押川方義・桜井熊太郎・村上濁浪・田中舎身・佐々木照山、会長には大隈重信が就任した。

同年11月29日、開南丸は芝浦埠頭を出港したが、航海中に殆どの犬が原因不明(のちに寄生虫症と判明)の死を遂げた。さらに、白瀬と書記長の多田恵一、船長の野村直吉と他隊員との間に不和が起こる。1911年2月8日に、ニュージーランドウェリントン港に入港。物資を積み込んで2月11日に南極に向けて出港したが、すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて船が立往生する危険が増したため、5月1日シドニーへ入港した。ここで、資金調達のために多田と野村が帰国したが、後援会内部では村上濁浪が会費を使い込んだという疑惑が起きて内紛が発生。一方、シドニーで滞在していた本隊(野宿で過ごし住民の不安を招いたが、のちに解消)でも内紛が発生しており、隊員による白瀬の毒殺未遂事件が起きたとさえいわれている[1]

大和雪原

その後、探検用の樺太犬を連れてシドニーへ戻った多田を加えた隊は、表面上は和解して再び南極を目指して11月19日に出港。1912年1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名、ちょうどこの翌日にスコットが南極点に到達した。同地は上陸、探検に不向きであったためロス棚氷クジラ湾より再上陸し、1月20日に極地に向け出発した。この時には南極点到達を断念し、南極の学術調査とともに領土を確保することを目的とした。しかし、探検隊の前進は困難を極め、28日に帰路の食料を考え、南緯80度5分・西経165度37分の地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、隊員全員で万歳三唱、同地には「南極探検同情者芳名簿」を埋め、日章旗を掲げて「日本の領土として占領する」と宣言した(現在の南極はどの国も領土権が認められていない)。この行為は、当時は国旗を掲げて領土権を主張できる時代だったため、シャクルトンにならって行われた。

白瀬の突進隊数名は上陸地点付近での気象観測、海南丸はロス湾周辺の調査を行い、付近の湾を「大隈湾」「開南湾」と命名した。なお、この地は氷上であり大陸ではない。探検の記録映像『日本南極探検』は東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵しており、展示室のビデオモニターでその一部がで鑑賞できる。

[編集] 帰還

付近一帯を大和雪原と命名した白瀬隊は、2月4日に南極を離れ、ウェリントン経由で日本に戻ることとなった。いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなった(そのうち6頭は生還)。このため、参加していた樺太出身のアイヌ人隊員は犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に民族裁判にかけられて有罪を宣告されたと伝えられる。

ウェリントンに戻ると、白瀬隊の内紛は修復出来ないほど悪化しており、白瀬と彼に同調するもの数人は、開南丸ではなく汽船で日本に帰ってきた。他の者は6月20日、開南丸で帰国した。帰国後、後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、白瀬は数万円の借金を背負い、隊員の給料すら支払えなかった。家財を売却して転居につぐ転居を重ね、実写フィルムを抱えて娘と共に、日本はもちろん台湾満州朝鮮半島を講演して回り、20年をかけて渡航の借金の弁済に努めた。

[編集] 晩年

大和雪原開拓者之墓(2005年9月)

南極へ出発する当初、日本国中で「小さな漁船で南極へ向かうのは無謀」などと散々な罵声や嘲笑があったものの、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸いた。白瀬も皇太子との謁見や各地での歓迎式典が開かれたほか、学術的資料としても南極の気象や動植物の記録、ペンギンの胃から出てきた140個あまりの石の分類も行われた。1936年には東京科学博物館(現・国立科学博物館)にて「南極の科学」展が開かれ、白瀬はその講演で出席したほか、1938年には国から「大隈湾」「開南湾」命名による感謝状が手渡されたが、南極探検に負った4万円の借金の返済に追われた。

1946年、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。死因は腸閉塞[2][3]。享年85。白瀬の死後は、遺族の窮状を見かねて浄覚寺の住職が引き取った。

奇しくも、のちに第1次南極観測隊隊長となる永田武は、白瀬の遺族と同じ浄覚寺に疎開していた。

[編集] その他

  • ロス海棚氷の東岸は、白瀬の業績を称えて「白瀬海岸(しらせかいがん)」と命名された。
  • 白瀬隊の南極探検50周年の記念切手が1960年11月29日に発行された。この日は白瀬が南極へ向けて出発してからちょうど50年である。
  • 秋田県にかほ市に「白瀬南極探検隊記念館」が、愛知県西尾市吉良町に「大和雪原開拓者之墓」の墓碑がある。
  • 1970年に日本女性として初の小型ヨットによる世界一周を果たした白瀬京子は、白瀬の弟の孫。京子は「白瀬南極探検隊記念館」の初代館長に就任したが、開館直前に死去。
  • 秋田ふるさと村」(横手市)のマスコットキャラクターである、秋田犬の「ノブ君」の名前は白瀬に由来する。
  • 南極観測船「しらせ」の艦名が『白瀬矗』に因んでいるう認識が多いが、公式には「白瀬氷河」に因んでいる(自衛艦命名規則に基づく)。

[編集] 脚注

  1. ^ 白瀬武子「マ元帥と白瀬中尉」、『週刊朝日』昭和26年9月2日号より。これは山辺安之助らアイヌ隊員によって事前に阻止された。
  2. ^ 2007年6月11日朝日新聞夕刊より。
  3. ^ 白瀬南極探検隊記念館公式ホームページ

[編集] 参考文献

  • 綱淵謙錠『極 白瀬中尉南極探検記』新潮社 ISBN 4-10-148803-7
  • 南極探検後援会『南極記』成功雑誌社 1913年
  • 白瀬『南極探検の今昔』 自然科学と博物館79号 1936年
  • 白瀬『私の南極探検記』 皇国青年教育協会 1942年
  • 横田順彌『明治の夢工房』、潮出版社、1998年、100-106頁
  • 朝日新聞社「日本南極観測50周年記念 ふしぎ大陸 南極展2006」 2006年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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