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プロ入り当時のロッテの監督、[[山内一弘]]はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッテイング・フォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったと言う。その為、ベテラン[[捕手]]・[[土肥健二]]の非常に柔らかいリスト(手首)を使って、ボールをはじき返すフォームに注目しそれを真似し、我流のフォーム改造を狙った(このことが落合が'''オレ流'''と呼ばれる所以である)。また打撃コーチの[[高畠導宏|高畠康真]]は落合のこのリストワークが気に入り、[[1980年]]ロッテに移籍して来た[[張本勲]]のもとへ落合を連れていった。張本はレベル&アッパーの打撃理論を主張する打者だが、意外なことに「素晴らしい。このままのスイングで打てる」と言った。この高畠から落合は[[球種 (野球)|球種]]を読むテクニックを教わった。しかし決して落合と山内の関係が悪かったわけではなく、落合は山内から伝授された打撃練習法(カーブマシンを自分の真正面に置き、自分に向かって飛んでくる球を左に打ち返すというもので、左脇を締めて壁を作る練習など)を現役晩年まで実践していた<ref>[[フジテレビCS事業部|フジテレビ739]]「さらば愛しきプロ野球・[[佐々木信也]]」より</ref>。 |
プロ入り当時のロッテの監督、[[山内一弘]]はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッテイング・フォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったと言う。その為、ベテラン[[捕手]]・[[土肥健二]]の非常に柔らかいリスト(手首)を使って、ボールをはじき返すフォームに注目しそれを真似し、我流のフォーム改造を狙った(このことが落合が'''オレ流'''と呼ばれる所以である)。また打撃コーチの[[高畠導宏|高畠康真]]は落合のこのリストワークが気に入り、[[1980年]]ロッテに移籍して来た[[張本勲]]のもとへ落合を連れていった。張本はレベル&アッパーの打撃理論を主張する打者だが、意外なことに「素晴らしい。このままのスイングで打てる」と言った。この高畠から落合は[[球種 (野球)|球種]]を読むテクニックを教わった。しかし決して落合と山内の関係が悪かったわけではなく、落合は山内から伝授された打撃練習法(カーブマシンを自分の真正面に置き、自分に向かって飛んでくる球を左に打ち返すというもので、左脇を締めて壁を作る練習など)を現役晩年まで実践していた<ref>[[フジテレビCS事業部|フジテレビ739]]「さらば愛しきプロ野球・[[佐々木信也]]」より</ref>。 |
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また、その後、出来上がった[[神主打法]]を改めて見てみたところ、山内監督から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かり<ref>[[週刊ベースボール]]内「落合博満の超野球学」より</ref>、また山内も落合の三冠王祝賀パーティで祝辞を述べ「落合は入団したときからいい打者になれそうな雰囲気を持っていたから付きっきりで指導した」と話すなど、山内・落合双方は決して互いに悪い印象を持っていない。 |
また、その後、出来上がった[[神主打法]]を改めて見てみたところ、山内監督から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かり<ref>[[週刊ベースボール]]内「落合博満の超野球学」より</ref>、また山内も落合の三冠王祝賀パーティで祝辞を述べ「落合は入団したときからいい打者になれそうな雰囲気を持っていたから付きっきりで指導した」と話すなど、山内・落合双方は決して互いに悪い印象を持っていない。 |
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[[1987年]][[8月20日]]に長男の福嗣が生まれている。 |
[[1987年]][[8月20日]]に長男の福嗣が生まれている。 |
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[[1988年]]、32本塁打を放ち優勝に貢献するも、[[規定打席]]到達以来初めて打率3割を割ってしまう。[[1989年]]、シーズン終盤に破竹の勢いで打点を稼ぎ、逆転で打点王を獲得。[[1990年]]、[[池山隆寛]]との争いを制し、34本で本塁打王を獲得。[[1991年]]、シーズン終盤まで三冠を狙える位置にいたが、三冠を獲得しようと本塁打狙いにいった結果、[[古田敦也]]との首位打者争いに敗れ、本塁打王のみに終わる。 |
[[1988年]]、32本塁打を放ち優勝に貢献するも、[[規定打席]]到達以来初めて打率3割を割ってしまう。[[1989年]]、シーズン終盤に破竹の勢いで打点を稼ぎ、逆転で打点王を獲得。[[1990年]]、[[池山隆寛]]との争いを制し、34本で本塁打王を獲得。[[1991年]]、シーズン終盤まで三冠を狙える位置にいたが、三冠を獲得しようと本塁打狙いにいった結果、[[古田敦也]]との首位打者争いに敗れ、本塁打王のみに終わる。 |
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==== 巨人 |
==== 巨人時代 ==== |
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[[1993年]]オフ、[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]] (FA) 宣言し、[[読売ジャイアンツ]]に移籍。[[長嶋茂雄]]監督の2度の[[胴上げ]]([[1994年]]、[[1996年]]のリーグ優勝)に4番打者として貢献。そして[[1995年]]には2000本安打を達成するが名球会入りを拒否。 |
[[1993年]]オフ、[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]] (FA) 宣言し、[[読売ジャイアンツ]]に移籍。[[長嶋茂雄]]監督の2度の[[胴上げ]]([[1994年]]、[[1996年]]のリーグ優勝)に4番打者として貢献。そして[[1995年]]には2000本安打を達成するが名球会入りを拒否。 |
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[[1996年]]オフ、[[清原和博]]の移籍入団に伴いプレーの場を求めて[[自由契約]]を申し出る。[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の[[野村克也]]監督の誘いを断り、[[上田利治]]監督率いる[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に移籍し、[[1998年]]に[[引退]]した。 |
[[1996年]]オフ、[[清原和博]]の移籍入団に伴いプレーの場を求めて[[自由契約]]を申し出る。[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の[[野村克也]]監督の誘いを断り、[[上田利治]]監督率いる[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に移籍し、[[1998年]]に[[引退]]した。 |
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*2007年11月13日、プロ野球界最高の賞である[[正力松太郎賞]]を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、選考委員長であった[[川上哲治]]は、「[[正力松太郎|正力さん]]はいつも『勝負に私情をはさんではいかん』と言っておられた。日本シリーズでも勝敗に徹して、そういう強い信念が感じられた」とコメントし、賞の選考において同年の日本シリーズにおける先述の采配を肯定的に評価したことを明言している。 |
*2007年11月13日、プロ野球界最高の賞である[[正力松太郎賞]]を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、選考委員長であった[[川上哲治]]は、「[[正力松太郎|正力さん]]はいつも『勝負に私情をはさんではいかん』と言っておられた。日本シリーズでも勝敗に徹して、そういう強い信念が感じられた」とコメントし、賞の選考において同年の日本シリーズにおける先述の采配を肯定的に評価したことを明言している。 |
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* [[2008年]]8月4日、[[山本昌]]が[[完投]]で通算200勝を達成した際には先述の日本シリーズの件を引き合いに「代えられません! 日本シリーズとは違います。日本シリーズはチームの記録。きょうのは本人の記録です。」と発言して記者たちの笑いを誘った。 |
* [[2008年]]8月4日、[[山本昌]]が[[完投]]で通算200勝を達成した際には先述の日本シリーズの件を引き合いに「代えられません! 日本シリーズとは違います。日本シリーズはチームの記録。きょうのは本人の記録です。」と発言して記者たちの笑いを誘った。 |
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* 2009年WBC日本代表に選ばれていた中日の全選手を辞退させた。 |
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== タイトル・表彰・記録 == |
== タイトル・表彰・記録 == |
2009年4月14日 (火) 13:32時点における版
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
中日ドラゴンズ 監督 #66 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 秋田県南秋田郡若美町(現・男鹿市) |
生年月日 | 1953年12月9日(70歳) |
身長 体重 |
178 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手、一塁手、二塁手 |
プロ入り | 1978年 ドラフト3巡目 |
初出場 | 1979年5月29日南海戦(川崎) |
最終出場 | 1998年10月7日ロッテ戦(千葉) |
年俸 | 1億5,000万円(2007年) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督歴 | |
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この表について
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落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は、秋田県出身のプロ野球選手(内野手)・監督。2004年から中日ドラゴンズ監督。
来歴
プロ入り前
中学・高校時代は、年間100本もの映画を観賞するほどの映画少年だった。特に『マイ・フェア・レディ』は7回見に行き、劇中歌の歌詞(英語)を覚えたほどだった。
秋田県立秋田工業高等学校では野球部に在籍していたが、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。「練習が嫌い」という理由で野球部を退部したが、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した[1]。 落合はほとんど練習をせずに、四番打者として試合に出場した。
高校卒業後、東洋大学に進学するが、先輩がタバコを手にしたら素早く火をつける、等といった体育会系の慣習に納得できず、わずか半年で野球部を退部し大学も中退。秋田に帰ってしまった。
その後、ボウリングのプロを志すがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まって罰金を支払ったことで受験料が払えなくなり受験できず、これも挫折してしまう。しかし、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気の府中工場所属の季節工として入社。同工場の社会人野球チーム「東芝府中」に加わった。ここで頭角を現して1978年アマチュア野球全日本代表に選出(森繁和も選ばれている)、同年のドラフト会議でロッテオリオンズに3位指名されて入団。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた[2])。なお、巨人は落合をドラフト2位で指名する予定であったが、江川事件によりドラフト会議自体をボイコットしたため、指名は実現しなかった。
現役時代
ロッテ時代
プロ入り当時のロッテの監督、山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッテイング・フォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったと言う。その為、ベテラン捕手・土肥健二の非常に柔らかいリスト(手首)を使って、ボールをはじき返すフォームに注目しそれを真似し、我流のフォーム改造を狙った(このことが落合がオレ流と呼ばれる所以である)。また打撃コーチの高畠康真は落合のこのリストワークが気に入り、1980年ロッテに移籍して来た張本勲のもとへ落合を連れていった。張本はレベル&アッパーの打撃理論を主張する打者だが、意外なことに「素晴らしい。このままのスイングで打てる」と言った。この高畠から落合は球種を読むテクニックを教わった。しかし決して落合と山内の関係が悪かったわけではなく、落合は山内から伝授された打撃練習法(カーブマシンを自分の真正面に置き、自分に向かって飛んでくる球を左に打ち返すというもので、左脇を締めて壁を作る練習など)を現役晩年まで実践していた[3]。 また、その後、出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内監督から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かり[4]、また山内も落合の三冠王祝賀パーティで祝辞を述べ「落合は入団したときからいい打者になれそうな雰囲気を持っていたから付きっきりで指導した」と話すなど、山内・落合双方は決して互いに悪い印象を持っていない。
入団当初、その凝り固まったフォームをキャンプに来ていた評論家も皆酷評し、特に前監督・金田正一は面と向かって落合の打撃を酷評した。この時の思いを、後年落合は「オレは社会人もやってプロ入りしたから何とも無かったが、もし高校出の若い選手が、あんな偉い人からプロに入っていきなり言われたら潰れるだろ」など、度々口に出した。落合の名球会加入拒否は金田が名球会の中心人物だからであると言われている。読売ジャイアンツに入団した際も、ジャイアンツのかつての名選手を訊かれ、「王さん、長嶋さん、金田」と金田のみを呼び捨てにしたため物議を醸した。また、落合はロッテ時代「オレは1999本ヒットを打てばいつでも引退する」(名球会入会資格である2000本安打の1本手前)と発言した事もあり、この事から落合が名球会を、そして金田を遠回しで非難している事が窺える。
1980年、二軍調整中の江川卓のボールを、センターバックスクリーンに打ち込んだ。このシーンは現在も放送されるが、打たれた江川はセンターフライと思いマウンドを降りかけていたところ、打球は、途中から伸びスタンドに突き刺さる。柔らかく、そして強いリストを効かせ、鞭で叩くような落合の打法の特徴がよく現れている。5試合連続本塁打のイースタン・リーグ記録を作り、後期に一軍へ戻ると57試合だけで15本塁打を放ち、レギュラーを掴み、翌年1981年には早くも首位打者のタイトルを獲得した。
1982年には史上最年少で三冠王に輝く。しかし、数字的には突出したものではなく(打率:.325、本塁打:32本、打点:99)、野球評論家の豊田泰光が落合に対して苦言を放つなど、三冠王のレベルではないと批判された。これに反発した落合は1985年に圧倒的な成績で2度目の三冠を獲得した(打率:.367、本塁打:52本、打点:146)。
1986年も2年連続で3度目の三冠王を獲得(打率:.360、本塁打:50本、打点:116)。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治(1973年 - 1974年)、ランディ・バース(1985年 - 1986年)、落合の3名のみで、通算3度獲得というのは落合のみの記録である。この年はブーマー・ウェルズや秋山幸二らとシーズン中盤まで熾烈なタイトルを争い繰り広げたが、シーズン終盤早々に消化試合になってしまう当時のロッテのチーム状況を味方に付けてタイトルを獲得。その一方、ロッテ時代は優勝に恵まれなかった(前後期制時代の半期優勝は経験)。また最後の三冠王となったこの年、落合の高騰し続ける年俸と球場の観客動員数の少なさがネックとなり、同年シーズンオフに牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂各選手との1対4のトレードで中日ドラゴンズに移籍し、年俸で日本人初の1億円プレーヤーとなる。
中日時代
1988年、32本塁打を放ち優勝に貢献するも、規定打席到達以来初めて打率3割を割ってしまう。1989年、シーズン終盤に破竹の勢いで打点を稼ぎ、逆転で打点王を獲得。1990年、池山隆寛との争いを制し、34本で本塁打王を獲得。1991年、シーズン終盤まで三冠を狙える位置にいたが、三冠を獲得しようと本塁打狙いにいった結果、古田敦也との首位打者争いに敗れ、本塁打王のみに終わる。
巨人時代
1993年オフ、フリーエージェント (FA) 宣言し、読売ジャイアンツに移籍。長嶋茂雄監督の2度の胴上げ(1994年、1996年のリーグ優勝)に4番打者として貢献。そして1995年には2000本安打を達成するが名球会入りを拒否。
日本ハム時代
1996年オフ、清原和博の移籍入団に伴いプレーの場を求めて自由契約を申し出る。ヤクルトの野村克也監督の誘いを断り、上田利治監督率いる日本ハムファイターズに移籍し、1998年に引退した。
引退後
引退後は解説者・監督として活躍。2001年までテレビ朝日解説者を務める(キャッチコピーはオレ流解説)。その後はフリーとなっていたが、テレビ朝日時代から通っていた九州朝日放送には度々登場していた(キャッチコピーはミスター三冠王(トリプルクラウン))。
2004年、中日監督に就任。これ以前にプロ野球のコーチの経験はなかった(ただし、森祇晶監督時代の横浜ベイスターズで臨時コーチの経験がある)が、見事1年目にしてリーグ優勝を達成。日本シリーズでは、先に王手をかけながらも、逆転で敗れ、3勝4敗で涙を呑んだ。
2006年、中日を2年ぶりのリーグ優勝に導く。しかし日本シリーズではまたしても1勝4敗で涙を呑んだ。
2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神タイガース、読売ジャイアンツを破り、日本シリーズ出場。4勝1敗で北海道日本ハムファイターズを破り中日を53年ぶり2度目の日本シリーズ(落合曰く『プレーオフシリーズ』)制覇に導き、前年の雪辱を果たした。また、その後行われたアジアシリーズでも中日をアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞した。
- また感情を露にする事も少なく派手なパフォーマンスも見られなかったが、2006年の中日ドラゴンズ優勝決定の際にはベンチ前で大きくガッツポーズをし、タイロン・ウッズと抱擁。優勝監督インタビューでも大粒の涙を流し、「監督の私が一番泣いた」と発言するなど現役時代とは様変わりした姿を見せた。
その他
- 背番号に対してのこだわりが強く、落合博満記念館は背番号「6」にちなんで六角形のデザインとなっている。
- 巨人移籍時に「6」は篠塚が着用していたため「6」に「0」をつけた「60」を着用した(篠塚が引退した翌95年からは「6」に変更)。1994年は巨人の球団創設60周年であり、尚且つ落合が同年開幕時に4番に立った場合巨人の「第60代四番打者」になるために選んだとも言われている。
- 中日監督就任後も背番号のこだわりを随所に見せており、谷繁元信が当時「7」を着用していたのを「捕手の番号らしくない」と森昌彦・大矢明彦・伊東勤・古田敦也など歴代の名捕手が着用していた「27」に変更させている。
- また、当時「16」をつけていた森野将彦の番号を「31」に変更(同一の番号は掛布雅之が名高い)。
- また中日において同球団を代表する投手が代々着用し伝統として語られていた“エースナンバーは「20」”という考え方にも否定的で、2004年川崎憲次郎引退後に入団した中田賢一に「20」を与えた際には「たまたま空いていたから与えた」と発言しファンの物議を醸した(その後、中田は先発陣の一角を占める存在になった事により「たまたまと言っていたが、初めから中田の事を期待しているからこそ20番を与えたのだろう」という好意的解釈もファンの中から出てきた)。
- 2009年1月13日、2009年度野球殿堂表彰者選考に於いて、有効投票数の75%である228票にわずか1票及ばず殿堂入りを逃した(選出されれば競技者部門のプレーヤー表彰だった)。
- アニメ好きであり、多数の作品も視聴している。中でもガンダムは30年来のファンで、テレビ放送分全話とOVA全巻を視聴している。ガンプラも大変好み、現役を引退した直後には余暇を持て余して飲まず食わずでゲルググを8体製作するなどしており、落合博満野球記念館に展示されているガンプラの大半は落合博満本人が作ったとも言われている。その為、2008年1月15日にバンダイから静岡市の同社の施設「バンダイホビーセンター」に招待され、この場において前年の日本一を記念して特別仕様の1/60ガンダムエクシアのプラモデルが贈られた。ちなみに1番好きな機体はウイングガンダムゼロであると語っており、マスコミに落合の一番好きなガンダムは、「ウイングガンダム」と報道された際に、正確にはOVAの続編に出てくる「ウイングガンダムゼロカスタム」であると、息子の福嗣が真面目に反論した。[5][6]
- 信仰上の理由から、中日監督就任以降の球団主催の必勝祈願(犬山成田山や熱田神宮)には一切参加していない。
監督としての落合
- 2003年10月に中日ドラゴンズの監督に就任した。「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げた。また秋季キャンプからシーズンにかけても、さまざまな手を打ち、内外の関心を集めた。
- 結果として選手が大活躍するような「オレ流野球」が炸裂し、同年10月1日にリーグ優勝。
- しかし、その後同年10月16日から行われた日本シリーズでは、第2戦終了後の自身の勝利監督インタビューでの失言とも受け取れる発言(「もうナゴヤには戻って来ないかもしれません」吉村功参照)や、第3戦での継投ミスなどもあり、球団の50年振りの日本一に王手をかけながら、本拠地ナゴヤドームで逃した(日本一は西武ライオンズ)。
- 監督就任時は前述の公約通り、補強は控えていたが、2005年シーズンに向けては凍結を解除し、阪神タイガースなどと競合して横浜ベイスターズのタイロン・ウッズを獲得する一方、関川浩一、酒井忠晴、小山伸一郎、紀藤真琴の4人を東北楽天ゴールデンイーグルスに無償放出した。
- その2005年シーズンは開幕ダッシュに成功したものの、交流戦に大きく負け越す。夏場にかけて首位阪神を猛追したが2位に終わった。
- 監督としては滅多に選手個人を責めることがなく、少なくともマスコミにはそのようなコメントはほとんどしない。これは選手時代の気持ちを忘れないようにしている彼らしい配慮である。しかしそれゆえ、負けが込んでくると貝になってしまうこともある。
- 就任当初は感情をあらわにする事もあったが、2006年頃から寡黙になり、ベンチ内やグラウンドで喜怒哀楽を見せることは非常に珍しくなったが、「ガンダム好きなど今まで以上に自分のことについて多くを語るようになった最近(ガンダム好きだとカミングアウトした2007年のオフシーズンから2008年にかけて)の落合はマスコミに対して少しリップサービスのし過ぎでは」と「落合博満 変人の研究」の著者・ねじめ正一は語っている。2008年はままならぬチーム事情ゆえ、「何もないよ。何があるんだよ、こんな試合(7月12日)」「(監督に就任して)5年目で最悪の試合だ。見てりゃ分かるだろ。(清水昭信がプロ初黒星を喫したことに関し)お前ら(マスコミ)がチヤホヤするからだ(9月12日)」と、苛立ちを隠せないことが多くなっている。
- 現役時代の天才的バットコントロールを生かしたノックの腕前もまた天才的である。
- 采配に関しては、自身が選手として現役時代を過ごした時の監督である、前述の高木守道の采配を参考としている。
- 2005年の日本シリーズでこの年リーグ2位だった千葉ロッテマリーンズが日本シリーズを制した際、「(ロッテは)日本一じゃなくてプレーオフチャンピオンだろ」「2位で日本一なんかになったって俺はちっとも嬉しくないし、俺が当事者だったら釈然としない」とコメントした。2年後に自身がその当事者になってしまったが、「リーグ優勝できなかったことに不満はある」と語っている。
- 2006年9月20日の横浜スタジアムでの試合後、監督室に置いてあった財布・お守りなどが入っていたセカンドバッグが盗まれた。その際お守りは家族3人お揃いのものだったため、「お守りだけでもいいから返してほしい」と悲痛な叫びを訴えた。
- 2度目のリーグ優勝を成し遂げた2006年10月10日の東京ドームにおける勝利監督インタビューにおいて、こらえきれずに泣き出してしまった。実は延長12回の優勝を決定付けるウッズの満塁本塁打の直後からすでに泣いていた。普段は本塁打を打った選手を出迎えることなどは一切無いが、満面の笑顔でウッズを出迎え、抱き合い、その直後から何度もタオルで涙をぬぐう姿が見られた。「今日は絶対に泣くまいと思っていましたが、最初に泣いたのは私でした」、「1位で走ってる球団の方が、追いかける球団よりも楽に決まっている」とインタビューで度々答えていたものの、優勝決定直後には「(一時は圧倒的なゲーム差を付けるも、終盤に驚異的な追い上げを見せた阪神に対して)あそこまで追い込まれるとは思わなかった」と本音を漏らした。
- 週刊新潮の2006年11月9日号によるとスズキ自動車の鈴木修はドラゴンズの応援をやめたとされる。日米経済界から手腕を認められるこの大物は広報を通して「私はビジネスマンは良き社会人でなければならないと考えますが、落合さんは違うようです」とコメントしている。浜松の河合楽器製作所の硬式野球部(2001年に休部)出身者の山井大介を応援するなど郷土への強い愛着で知られる鈴木会長は、同時に現実主義者でもあり落合が財界や有力者への挨拶を嫌い周囲の反発を招いた事を批判したものとされる。地方球団としてのあり方について落合にも一言あるのかも知れないが、「ジジ転がし」の達人とされた星野以降は減収が続く球団では営業部の落合批判は公然とされていると記事はまとめている。
- 2007年よりセントラル・リーグにもプレーオフ制が導入されたが、落合は常々プレーオフ制度には反対の意向を示しており、「あくまでペナントレースの優勝に価値がある」と自論を展開している。そんな落合いわく、「日本シリーズは今年(2006年)で最後」と発言している。
- 2007年にオリックス・バファローズとの契約交渉がこじれて自由契約になった中村紀洋を、育成選手(後に支配下登録)として獲得した(中村紀洋と近鉄時代から交流があり、また落合とも親友の梨田昌孝が間をとったとも言われている)。
- だが同年、投手として入団した2年目の金本明博を野手へ転向させる事を決断。それにより今年中の一軍昇格は無理だと判断した事と、もしもの時に備えて70人ギリギリの選手枠に空きを作りたいという事を理由に、ウェーバーにかけた後に他球団から獲得の意思が無ければ育成選手として再契約する事を決めた。だが選手会はこの件に関して、「育成選手の意味を都合良く解釈するな」と猛抗議。落合もこれにひるむ事無く真っ向から反論。「本人と十分に話し合って同意を得た上で、決められたルールに従ってやった事だ。本来なら金本は、8月には整理リストに入っていても(解雇の候補に挙がっても)おかしくない選手。育成選手枠の存在があるからこそ、金本は今も中日のユニフォームを着ていられるんだ」と発言している。
- 2007年5月1日、セ・リーグの豊蔵一会長は、金本のウェーバー公示の取り消しを中日球団に通告。「総合的に判断して決めた。ウェーバー公示の一方的な取り消しは規約違反だと分かってはいるが、承知の上」と弁明。だが落合は「正規のルールに従ってやっている事なのに、何故そういう事になるのか」と激怒。球団に全て任せるとしているが、中日球団は法廷闘争も辞さない構えを見せていたが、結局はこの取り消しを承諾。金本は投手から内野手に再登録して支配下登録のまま中日に身を置いていたが、同年10月29日球団から戦力外通告を受けた。
- 2007年10月4日、公式戦最後の地元ナゴヤドームでの試合に先立ち、長男、福嗣との約束であり、中日ドラゴンズファンへの公約でもあった「2年連続セントラルリーグ優勝」を果たせなかったとして、ドラゴンズファンへのお詫びの気持ちとクライマックスシリーズを勝ち抜く決意を込めて頭を丸刈りにした。
- 2007年11月1日、北海道日本ハムファイターズとの日本選手権シリーズ第5戦で平田良介が打った犠牲フライによる1点を守りきり、球団として53年間達成できなかった日本一を成し遂げた。その一方で8回表まで完全試合投球を続けていた先発の山井大介を9回表に岩瀬仁紀へ交代させた采配には、他球団ファンや在京マスコミを中心として賛否両論が巻き起こった(翌日のほとんどの全国ネットのテレビ番組で取り上げられたが、一方で東海地方の放送局は在京放送局に比べると大げさに取り上げることもなく、それより53年ぶりの日本一達成を取り上げることが多かった)。詳しくは2007年の日本シリーズを参照のこと。
- 2007年11月13日、プロ野球界最高の賞である正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、選考委員長であった川上哲治は、「正力さんはいつも『勝負に私情をはさんではいかん』と言っておられた。日本シリーズでも勝敗に徹して、そういう強い信念が感じられた」とコメントし、賞の選考において同年の日本シリーズにおける先述の采配を肯定的に評価したことを明言している。
- 2008年8月4日、山本昌が完投で通算200勝を達成した際には先述の日本シリーズの件を引き合いに「代えられません! 日本シリーズとは違います。日本シリーズはチームの記録。きょうのは本人の記録です。」と発言して記者たちの笑いを誘った。
タイトル・表彰・記録
タイトル
- MVP:2回(1982年、1985年)※優勝チーム以外から2度以上の選出は王貞治(1964年、1974年)に続いて2人目。
- 三冠王:3回(1982年、1985年、1986年)※史上最多。
- 首位打者:5回(1981年 - 1983年、1985年、1986年)
- 本塁打王:5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初。
- 打点王:5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上初、現在も唯一。
- 最多勝利打点:3回(1982年、1985年、1988年)
- 最高出塁率:7回(1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)
- ベストナイン:10回(1981年、1982年=二塁手 1983年、1988年、1990年、1991年=一塁手 1984年 - 1986年、1989年=三塁手)
表彰
- 月間MVP:6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月、1989年8月、1990年5月、1991年8月)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1991年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(1990年)
- オールスターMVP:2回(1983年第3戦、1995年第1戦)
記録
- シーズン打率:.367(1985年)※右打者歴代3位。
- シーズン本塁打:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録。
- シーズン打点:146(1985年)※パ・リーグ記録。
- シーズン長打率:.763(1985年)※パ・リーグ記録。
- シーズン得点:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録。
- シーズン塁打:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録。
- シーズン得点圏打率:.492(1985年)※日本記録。
- シーズン出塁率:.487(1986年)※パ・リーグ記録。
- シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ。
- シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一。
- シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ。
- シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ。
- 17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ。
- 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年)※史上初。
- 両リーグ1000本安打以上(パ1239本、セ1132本)※史上2人目。
- 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)※史上唯一。
- 1試合6四球(1991年10月13日)※日本記録。
- 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 10月14日)
- 通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率。
- 通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者歴代1位。
- 通算350本塁打到達スピード:1257試合(1990年5月8日)※史上最速記録。
- 通算1000打点到達スピード:1284試合(1990年6月12日)※史上最速記録。
- オールスター出場:15回(1981年 - 1991年、1993年、1995年 - 1997年)
- オールスター通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ。
- オールスター通算本塁打:11本 ※歴代4位。
- オールスター通算打点:27 ※歴代3位タイ。
- 初出場 1979年5月29日南海戦(川崎)※代打
- 初安打 1979年5月30日南海戦(川崎) 森口益光から
- 初本塁打・初打点 1979年5月31日南海戦(川崎) 山内新一から
- 1000本安打 1987年6月2日大洋戦(ナゴヤ) 高橋一彦から本塁打
- 1500本安打 1990年9月5日巨人戦(東京ドーム) 桑田真澄から本塁打
- 2000本安打 1995年4月15日阪神戦(甲子園) 久保康生から本塁打
年度別打撃成績
年度 | 球 団 |
背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
失 策 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979 | ロッテ | 6 | 36 | 69 | 64 | 7 | 15 | 3 | 1 | 2 | 26 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 12 | 2 | 1 | .234 | .290 | .406 | .696 |
1980 | 57 | 188 | 166 | 28 | 47 | 7 | 0 | 15 | 99 | 32 | 1 | 0 | 2 | 2 | 17 | 1 | 23 | 5 | 5 | .283 | .349 | .596 | .946 | ||
1981 | 127 | 502 | 423 | 69 | 138 | 19 | 3 | 33 | 262 | 90 | 6 | 3 | 1 | 4 | 68 | 6 | 55 | 17 | 9 | .326 | .423 | .619 | 1.043 | ||
1982 | 128 | 552 | 462 | 86 | 150 | 32 | 1 | 32 | 280 | 99 | 8 | 2 | 0 | 4 | 81 | 5 | 58 | 11 | 7 | .325 | .428 | .606 | 1.034 | ||
1983 | 119 | 497 | 428 | 79 | 142 | 22 | 1 | 25 | 241 | 75 | 6 | 5 | 0 | 3 | 64 | 2 | 52 | 14 | 7 | .332 | .419 | .563 | .982 | ||
1984 | 129 | 562 | 456 | 89 | 143 | 17 | 3 | 33 | 265 | 94 | 8 | 1 | 0 | 4 | 98 | 4 | 33 | 14 | 16 | .314 | .436 | .581 | 1.017 | ||
1985 | 130 | 568 | 460 | 118 | 169 | 21 | 1 | 52 | 351 | 146 | 5 | 1 | 0 | 4 | 101 | 3 | 40 | 16 | 19 | .367 | .481 | .763 | 1.244 | ||
1986 | 123 | 522 | 417 | 98 | 150 | 11 | 0 | 50 | 311 | 116 | 5 | 1 | 0 | 1 | 101 | 3 | 59 | 15 | 10 | .360 | .487 | .746 | 1.232 | ||
1987 | 中日 | 125 | 519 | 432 | 83 | 143 | 33 | 0 | 28 | 260 | 85 | 1 | 4 | 0 | 4 | 81 | 2 | 51 | 10 | 9 | .331 | .435 | .602 | 1.037 | |
1988 | 130 | 557 | 450 | 82 | 132 | 31 | 1 | 32 | 261 | 95 | 3 | 4 | 0 | 6 | 98 | 3 | 70 | 11 | 10 | .293 | .418 | .580 | .998 | ||
1989 | 130 | 559 | 476 | 78 | 153 | 23 | 1 | 40 | 298 | 116 | 4 | 3 | 1 | 6 | 75 | 1 | 69 | 11 | 6 | .321 | .410 | .626 | 1.036 | ||
1990 | 131 | 570 | 458 | 93 | 133 | 19 | 1 | 34 | 256 | 102 | 3 | 3 | 0 | 8 | 100 | 4 | 87 | 7 | 7 | .290 | .416 | .559 | .975 | ||
1991 | 112 | 478 | 374 | 80 | 127 | 17 | 0 | 37 | 255 | 91 | 4 | 2 | 0 | 5 | 95 | 4 | 55 | 9 | 5 | .340 | .473 | .682 | 1.155 | ||
1992 | 116 | 481 | 384 | 58 | 112 | 22 | 1 | 22 | 202 | 71 | 2 | 3 | 0 | 6 | 88 | 3 | 74 | 12 | 3 | .292 | .425 | .526 | .948 | ||
1993 | 119 | 504 | 396 | 64 | 113 | 19 | 0 | 17 | 183 | 65 | 1 | 2 | 0 | 8 | 96 | 4 | 69 | 13 | 4 | .285 | .423 | .462 | .885 | ||
1994 | 巨人 | 60 | 129 | 540 | 447 | 53 | 125 | 19 | 0 | 15 | 189 | 68 | 0 | 0 | 0 | 6 | 81 | 6 | 56 | 13 | 8 | .280 | .393 | .423 | .815 |
1995 | 6 | 117 | 483 | 399 | 64 | 124 | 15 | 1 | 17 | 192 | 65 | 1 | 0 | 0 | 8 | 73 | 3 | 87 | 17 | 5 | .311 | .414 | .481 | .895 | |
1996 | 106 | 448 | 376 | 60 | 113 | 18 | 0 | 21 | 194 | 86 | 3 | 0 | 0 | 2 | 67 | 3 | 53 | 11 | 6 | .301 | .408 | .516 | .924 | ||
1997 | 日本ハム | 3 | 113 | 466 | 397 | 35 | 104 | 14 | 0 | 3 | 127 | 43 | 3 | 0 | 0 | 5 | 61 | 3 | 60 | 16 | 3 | .262 | .361 | .320 | .680 |
1998 | 59 | 192 | 162 | 11 | 38 | 6 | 0 | 2 | 50 | 18 | 0 | 1 | 0 | 2 | 26 | 2 | 22 | 12 | 0 | .235 | .344 | .309 | .652 | ||
通算成績 | 2236 | 9257 | 7627 | 1335 | 2371 | 371 | 15 | 510 | 4302 | 1564 | 65 | 35 | 4 | 88 | 1475 | 63 | 1135 | 236 | 140 | .311 | .422 | .564 | .987 | ||
16位 | 11位 | 20位 | 7位 | 10位 | 17位 | - | 6位 | 8位 | 5位 | - | - | - | 7位 | 2位 | - | 23位 | - | - | 8位 | - | 4位 | - |
- 太字はリーグトップ。
監督としてのチーム成績
リーグ公式戦
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 得点 |
チーム 失点 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004年 | 平成16年 | 中日 | 1位 | 138 | 79 | 56 | 3 | .585 | (7.5) | 111 | .274 | 623 | 558 | 3.86 | 50歳 |
2005年 | 平成17年 | 2位 | 146 | 79 | 66 | 1 | .545 | 10 | 139 | .269 | 680 | 628 | 4.13 | 51歳 | |
2006年 | 平成18年 | 1位 | 146 | 87 | 54 | 5 | .617 | (3.5) | 139 | .270 | 669 | 496 | 3.10 | 52歳 | |
2007年 | 平成19年 | 2位 | 144 | 78 | 64 | 2 | .549 | 1.5 | 121 | .261 | 623 | 556 | 3.59 | 53歳 | |
2008年 | 平成20年 | 3位 | 144 | 71 | 68 | 5 | .511 | 10 | 140 | .253 | 535 | 556 | 3.53 | 54歳 |
- ※1 2001年から2004年までは140試合制(2004年は選手会ストライキのため2試合が行われなかった)
- ※2 2005年から2006年までは146試合制
- ※3 2007年から144試合制
- ※4 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
- ※5 順位の太字は日本シリーズ優勝
ポストシーズン
年度 | チーム | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
2004年 | 中日 | 日本シリーズ | 西武ライオンズ | 3勝4敗 |
2006年 | 日本シリーズ | 北海道日本ハムファイターズ | 1勝4敗 | |
2007年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
阪神タイガース(セ・リーグ3位) | 2勝0敗 | |
セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ |
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) | 3勝0敗 | ||
日本シリーズ | 北海道日本ハムファイターズ | 4勝1敗 | ||
2008年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
阪神タイガース(セ・リーグ2位) | 2勝1敗 | |
セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ |
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) | 1勝1分2敗 |
- ※ 2008年のクライマックスシリーズ2ndステージでは、セ・リーグ優勝の読売ジャイアンツに1勝のアドバンテージが与えられたが、ここではアドバンテージ分は除いた勝数を示した
背番号
著書
- なんと言われようとオレ流さ(講談社 1986年4月 ISBN 4062026295)
- 勝負の方程式(小学館 1994年6月 ISBN 4093871213)
- 激闘と挑戦 巨人軍・落合博満が闘った奇蹟の136試合(鈴木洋史との共著、小学館 1995年6月 ISBN 4093871574)
- 不敗人生 43歳からの挑戦(鈴木洋史との共著、小学館 1997年2月 ISBN 4093872120)
- 野球人(ベースボール・マガジン社 1998年12月 ISBN 4583035691)
- プロフェッショナル(ベースボール・マガジン社 1999年12月 ISBN 4583036213)
- 落合にきけ!( 朝日新聞社 2000年3月 ISBN 402257478X)
- コーチング―言葉と信念の魔術 (ダイヤモンド社 2001年9月 ISBN 4478720215)
- 落合博満の超野球学(1)バッティングの理屈(ベースボール・マガジン社 2003年5月 ISBN 458303749X)
- 落合博満の超野球学(2)続・バッティングの理屈(ベースボール・マガジン社 2004年3月 ISBN 4583037910)
- 落合戦記―日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」(ダイヤモンド社 2004年11月 ISBN 4478960917)
CM
ディスコグラフィー
- サムライ街道/そんなふたりのラブソング(1986年)「そんなふたりの…」は信子夫人とデュエット。5万5000枚を売り上げた[7]
- 男のララバイ(1987年)
- めぐり逢い(1989年12月22日)
- 恋の広小路(1990年12月12日)中村美律子とデュエット
- 落涙(1991年12月24日)
- 縁歌酒(1992年9月21日)多岐川舞子とデュエット
- 息子へ(1993年1月8日)
- 夜明川(1994年1月15日)
- 涙 渇くまで(1996年2月21日)林るり子とデュエット
- 抱かれて乾杯(1997年3月20日)若山かずさとデュエット
- 霧の別れ(1998年3月21日)若山かずさとデュエット
- サムライ街道/男のララバイ(2004年2月11日)
- 旅路のひと
脚注
- ^ 落合は高校時代、野球部退部→復帰を通算7回繰り返している。
- ^ 『プロ野球 これがドラフトだ!』(岡邦行著・1989年11月30日・三一書房 ISBN 4380892492)
- ^ フジテレビ739「さらば愛しきプロ野球・佐々木信也」より
- ^ 週刊ベースボール内「落合博満の超野球学」より
- ^ 「竜の日本一お宝だ 世界でただ一つの落合専用ガンダム」『中日スポーツ』2008年1月16日
- ^ 落合博満ガンダム宣言
- ^ 日めくりプロ野球11月、スポーツニッポン、2007年11月。
関連項目
関連人物
- 牧田知丈(バラエティ番組・とんねるずのみなさんのおかげでした内の細かすぎて伝わらないモノマネ選手権で落合のモノマネを行い、有名になった製薬会社勤務の男性。第9回の優勝がきっかけで2006年末のドラゴンズ納会にゲストで招待され、選手・スタッフに大好評だった。また地元のピザチェーン・アオキーズ・ピザのTVCMにも落合選手役で出演したこともある。ちなみに落合は、とんねるずのみなさんのおかげでしたの食わず嫌いに出演した際、罰ゲームとして現役時代のバッティングフォームをやった)
外部リンク
業績 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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