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柳川事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柳川事件(やながわじけん)は、1961年(昭和36年)に発生したプロ野球と社会人野球との間のトラブルである。

概要

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日本のプロ野球を統括する日本野球機構は、社会人野球協会(現在の日本野球連盟)との間で契約問題について毎年協定を締結していた。社会人野球協会は以前からプロ野球側に対して、毎年3月1日から日本産業対抗野球大会(現:社会人野球日本選手権大会)が終了する10月31日までの間は社会人野球に所属する選手を勧誘しないよう要請しており、プロ野球側もこれを遵守していた。ところが1960年(昭和35年)の協定では新たに

  1. プロ野球の球団を退団した選手は、資格審査に合格した翌年秋の産業対抗大会終了後(=退団1年後)でなければ社会人野球チームに登録することが出来ない
  2. 加えて登録が可能な人数は1チームにつき3人までに限定する

という内容でプロ野球側に通告した。この通告は、元プロ野球選手の入団が安易な補強となって社会人野球の秩序が崩壊する懸念や、社会人野球一筋でプレーしてきた選手が元プロ野球選手にレギュラーを奪われるケースが多発したためとされており[1]、これは一軍公式戦の出場が無い二軍の選手までが対象となった。プロ野球側は退団選手の身分を保障するために、退団者が翌年夏の都市対抗野球大会終了後から登録が可能となるように社会人野球協会側へ要求したが拒否されたことから退団選手の死活問題になると考え、さらに西鉄ライオンズの球団社長だった西亦次郎が「目には目を」の論理を述べたこともあり、プロ野球側は協定の破棄を通告した。こうした無協定状態のまま1961年(昭和36年)を迎え、中日ドラゴンズは同年4月20日に外野手の柳川福三日本生命硬式野球部)と契約を結び、入団を発表した。

社会人野球協会は同年5月13日に緊急理事会を開催し、プロ野球界との関係断絶およびプロ野球退団者の社会人野球チームへの入団拒否を表明した[2][3]。これに対してセントラル・リーグ会長の鈴木龍二は「社会人野球選手は会社に野球をする契約では入社していない。職業選択の自由を奪う社会人野球協会の決定はおかしい」と反論した。柳川の入団を発表した中日も第43回全国高等学校野球選手権大会の1回戦で敗退した直後だった門岡信行大分県立高田高等学校)に対して退部届を提出していない段階にも関わらず接触する「門岡事件」を起こしたことから日本高等学校野球連盟全日本大学野球連盟を傘下に置く日本学生野球協会も社会人野球協会の決定に同調することとなり、学生野球憲章でもプロ野球関係者による指導を禁止した。こうして、日本の野球界で長きにわたるプロ野球とアマチュア野球の間の確執が始まった[4]

1973年(昭和48年)のドラフト会議読売ジャイアンツから1巡目で指名された小林秀一は将来的にアマチュア野球の指導者に就任することを希望しており、当時の規定ではプロ野球経験者が軟式および中学生以下の少年野球を除くアマチュア野球の指導者になれなかったことが大きな障害となって巨人への入団を拒否した。同年の巨人のドラフトでは、選手個人に対して直接的な影響が無かった選手もいたものの湯口事件によって入団を拒否した選手が多かったが、小林は後年のインタビューでプロ・アマの規定が緩和された現在なら「1巡目で指名されていたら入団したと思う」と答えている[5]。こうして、将来的なアマチュア野球指導者を目指すためにプロ野球球団への入団を諦めて大学・社会人野球でプレーすることを選択する選手が増えたほか、学校や企業側も将来的な指導者として目を付けた人材をプロ野球球団へ入団させないために、本人に有利な条件で入学・入社させる手法で囲い込むこともあった。

当時中日の現役選手だった森徹は、監督だった濃人渉との確執が球団首脳陣による強引な補強を引き起こしてプロ・アマの断絶につながったとの自責の念を持ち、元プロ野球選手の再生の場を作りたいとしてグローバルリーグへの参加に賛同し、「ハポン・デ・トキオ」を設立した[6]1970年代に入ると、日本代表チームがIBAFワールドカップに参加するようになった際にプロ野球経験者が不在だったことが、アマチュア規定の厳しかった当時の世界野球に対してスムーズに参加できたことに繋がった[7]

その後は30年余りにわたってプロ・アマの断絶状態が続いた。その間に大毎オリオンズに在籍後にアマチュア野球へ復帰していた松井猛が元プロ野球選手として唯一、1965年(昭和40年)のドラフト会議中日ドラゴンズから指名されるも、大毎時代に結果を残せなかったことと生活拠点を夫人の故郷である北海道に移していたことを理由に入団へは消極的で、最終的には中日も交渉権を破棄している。一方で1962年(昭和37年)に西鉄ライオンズを退団後にデュプロへ入社した難波昭二郎は、元プロ野球選手の社会人野球への関与制限がある中で非公式でありながらデュプロ硬式野球部の発足および強化を支援している。これ以外にも軟式野球の一部の団体や中学生以下の少年野球については元プロ野球選手の受け入れを続け、特に軟式野球ではヤクルトスワローズおよび近鉄バファローズでプレーしていた鈴木康二朗第50回国民体育大会茨城県代表として出場している。なお、東京六大学理工系野球連盟に加盟している大学や全国高等学校定時制通信制軟式野球連盟に加盟している高校の野球部における元プロ野球選手・指導者の扱いについては、両連盟が日本学生野球協会の傘下でないことから日本学生野球憲章の適用を受けない組織であるため、明確にされていない。

1990年代後半に入って雪解けが進み、1999年(平成11年)から「日本野球連盟へ届けること」「選手登録は1チーム2名まで」を条件として元プロ野球選手の社会人野球チーム入りが認められるようになり、同年は林純次(元阪神タイガース)が昭和コンクリート硬式野球部へ入団した。経営陣においても横浜ベイスターズがTBSグループによる経営だった頃にTBS内部には野球に精通している人材が乏しかったことから、村上忠則山中正竹などの大学・社会人野球の有力者を招聘する取り組みを行い、好成績を残すことは出来なかったが大学・社会人野球との関係の円滑化には大きく貢献した。

なお、プロ野球から社会人野球へ復帰した選手は所属する企業の社員雇用契約を結ぶこと(正社員または契約社員嘱託社員でクラブチームや広域複合企業チームの場合も何らかの社員・従業員)が義務付けられている。

脚注

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  1. 不条理なプロ・アマ断絶から52年。プロ野球OBの学生指導全面解禁で日本野球はどう変わるか - ダイヤモンド・オンライン (2013年6月25日)
  2. “「プロ退団者」は拒否 社会人野球協会で決定”. 読売新聞. 1961年5月14日.
  3. “プロ退団者締め出し 社会人野球協会全国理事会で決定 アマチュアリズム確立目ざす”. 朝日新聞. 1961年5月14日.
  4. 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年5月12日号『球界事件簿3』
  5. 『ドラフト1位 九人の光と影』
  6. 53年前、世界プロ野球リーグで戦った「謎の日本人チーム」の正体”. 集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva (2022年6月15日). 2023年9月19日閲覧。
  7. 軍司貞則の『翔べ、バルセロナへ』には、1972年(昭和47年)の世界選手権に日本代表が参加した際に選手の名前をイニシャルで表記してあったため、中村裕二住友金属野球団)がプロ野球経験者と疑われたというエピソードが紹介されている。

関連項目

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外部リンク

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