愛知電気鉄道デハ3300形電車

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愛知電気鉄道デハ3300形電車
名鉄モ3300形電車 (初代)
愛知電気鉄道デハ3300形デハ3303 ローラーベアリングを車軸軸受とする日本車輛製造D形台車[1]を装着する。
愛知電気鉄道デハ3300形デハ3303
ローラーベアリングを車軸軸受とする日本車輛製造D形台車[1]を装着する。
基本情報
製造所 日本車輌製造本店[2]
主要諸元
編成 1両 - 4両
軌間 1,067[2] mm
電気方式

直流1,500 V

(架空電車線方式)
最高運転速度 95 km/h
車両定員 座席56・立席94(デハ3300形)[3]
自重 37.2 t[3]
全長 18,352[2] mm
車体長 17,500[2] mm
全幅 2,714[2] mm
車体幅 2,630[2] mm
全高 4,249[3] mm
車体高 3,806[2] mm
車体 半鋼製[4]
台車 日本車輛製造 D16[4]
ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス 84-30-AA[4]
主電動機 ウェスティングハウス・エレクトリック WH-556-J6 直流直巻整流子電動機[4]
主電動機出力 74.6kW[3]
駆動方式 吊り掛け駆動方式
歯車比 67:22[4]
制御装置 ウェスティングハウス・エレクトリック HL単位スイッチ式非自動間接制御器(抵抗制御直並列制御[4]
制動装置 自動直通ブレーキ[4]
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愛知電気鉄道デハ3300形電車(あいちでんきてつどうでは3300がたでんしゃ)とは、現在の名古屋鉄道(名鉄)の前身の一つとなる愛知電気鉄道(愛電)が1928年に製造し、その後名古屋鉄道に引き継がれた電車である。半鋼鉄製電車であり、その車体の重厚さから「大ドス」の異名で呼ばれた。名鉄で「3300系」を名乗る最初の車両である。

本項では、同型電動車デハ3600形、同型制御車サハ2040形についても記述する。

製造経緯[編集]

愛知電気鉄道(愛電)は1927年に豊橋線(現・名古屋本線神宮前駅豊橋駅間)を全線開通させた。そして1926年に製造した16m級半鋼製セミクロスシート車である電7形電車を投入して神宮前駅-吉田駅(現・豊橋駅)間所要63分の特急と、所要72分の急行運転を行い、競合路線である鉄道省(省線)東海道本線(愛電と競合する区間である熱田駅-豊橋駅間に特急列車で78分、普通列車で112分~155分を要していた)に対して優位に立った。

これに続き、愛電では優等列車向けによりいっそうハイレベルな車両を投入することを計画した。これによって製造されることになったのがデハ3300形である。同型車を含めて計15両が製造された本グループは、愛電における最後の新製車となった。

概要[編集]

1928年に日本車輌製造で両運転台電動車デハ3300形6両、片運転台電動車デハ3600形4両が製造され、翌1929年に片運転台制御車のサハ2040形5両が増備された。

片側2扉のレイアウトは在来型の電7形から引き継いだものの、それまで16m級が最大だった愛電で、本系列は初の18m級大型車となった。フラットな前面は正面貫通式で、薄い丸屋根こそ愛電車両における典型であったが、天地方向のある程度大きな窓と比較的大柄なサイズによって均整の取れた外観に仕上がっている。ただし、後年地方私鉄へ譲渡されてからは、塗装変更等によって幕板の広さが目立ち、古臭さは否めなかった。

窓は2段昇降式で、窓・扉配置はデハ3300形がF3-E2D1 8 1D2E、デハ3600形とサハ2040形がF3-E2D1 8 1D3であった。なお片運転台車は、デハ3600形が下りの神宮前方向、サハ2040形が上りの豊橋方向にそれぞれ運転台を設置していた。貫通扉は、デハ3300形とデハ3600形が内側開き戸、サハ2040形が引き戸を採用した。このため名鉄になってからは、サハ2040形の貫通扉に行先表示板を取り付けることができず、貫通扉の左側に取り付けていた。車体幅が2,630mm(最大幅2,700mm)でやや狭く前頭形状が平面であり、客用扉ステップ部の裾下がりが目立つ点を除けば、後年登場する名岐鉄道デボ800形とは車長、扉・窓配置、広い幕板などが類似した車体である。車体塗色は当初愛電標準のマルーン1色であった。

車内設備は、固定クロスシートロングシートを組み合わせたセミクロスシートであったが、座席はゆとりがあり、当時の省線二等客車(現在のグリーン車)並みといわれた。

電動車の主電動機は在来車と同様に端子電圧750V時の1時間定格出力が100PS(のウェスティングハウス・エレクトリック製直流直巻整流子電動機であるWH-556-J6が4基搭載され、制御器についても同じくウェスティングハウス・エレクトリック製HL276-G6[4]間接非自動単位スイッチ式制御器(弱め界磁なし)を採用した。大型車体に比して決してハイスペックとは言えなかったが(3700系(2代)・3730系・3770系・3780系の項参照)、在来車との互換性を重視したものと見られる。また当時の愛電は電動車比率が高く、良好な線形と相まって、運転最高速度95km/h程度には必要十分なスペックであった。

台車はいずれも当時一般的な帯鋼リベット組立のイコライザー式である。デハ3306を除くデハ3300形とサハ2040形が日本車輌製造のD16で、デハ3600形全車とデハ3306はボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(BLW)製のBW 84-30-AAを装着した。

後者は日本に多数が輸入されたBLW製電車用台車の中でも最後に来着した機種で、D16を含む日本車輌製造製D形台車シリーズのコピー元となったボールドウィンA形台車の改良強化機種に当たるAA形として、確認されている範囲で日本に輸入された唯一の機種でもある。

これらは同様の構造・機能を備えていたが、デハ3300形のD16装着車とBW 84-30-AA装着車で比較すると、後者の方が公称自重が0.32t軽かったことが記録されている。

なお、デハ3300形については、車体大型化に伴って自重が増大したにもかかわらず主電動機出力が電7形と同じに据え置かれた[注釈 1]ことから、車軸軸受が原因の加速度抵抗の低減による加速性能の改善を狙ってか、当時最新のローラーベアリングを備えたD形台車を装着した車両が少なくとも1両(デハ3303[注釈 2])あったことが、新造時にメーカーである日本車輛製造が撮影したカタログ写真[1]で判明している。

派生型として、本形式を16.5m級に短縮した形の知多鉄道(現在の河和線の前身)デハ910形がある。

運用歴[編集]

超特急「あさひ」号

当初の目的どおり、愛電の特急・急行運用に投入される。省線のダイヤ改正が1930年10月1日に実施される直前の9月20日には、単線と急曲線区間があり速度向上の妨げになっていた堀田駅-笠寺駅(現・本笠寺駅)間の線形改良と複線化が完成し、省線への対抗意識もあって神宮前駅-豊橋駅間の所要時間を特急60分・急行70分に短縮する。さらに特急のうちの1往復は、途中停車駅を特急と同じ堀田・新知立(後の東知立駅。1968年廃止)・東岡崎伊奈としながらも所要時間を3分短縮した57分とし、種別を「超特急」にして「あさひ」と名づけられた。その先頭には、朝日と波をかたどった長方形のヘッドマークも取り付けられた。

1930年10月1日の改正で鉄道省は名古屋駅~豊橋駅間に同区間を70分で走破する準急列車を新設し、さらに「超特急」と称される特急「」号を東京駅神戸駅間で運転開始している。実際に愛電と競合したのは3往復設定された準急列車であるが、愛電は30~60分間隔で特急または急行を運行したため列車本数に関しては優位であった。なお1934年12月の改正で、この準急列車は消滅している。

1935年、愛電は押切町駅(現廃止、当時の名古屋ターミナル駅)を拠点に名古屋の北西部へ路線を延ばしていた名岐鉄道と合併し、現在に至る名古屋鉄道(名鉄)が発足する。この際、「あさひ」号は所要時間60分の特急へ統合された。合併に伴って車両形式番号・称号の整理が行われ、デハ3300形はモ3300形(初代)、デハ3600形はモ3600形(初代)、サハ2040形はク2040形となった。同時に塗装もダークグリーンへ塗り替えられている。

1941年に太平洋戦争が勃発すると、戦時体制下で輸送需要が増加したことから殆どの車両がロングシート化され、さらに空襲の被災によって1両(モ3301)が焼失し[5]、終戦後には乗客の道徳荒廃もあって窓ガラスが殆ど失われた無残な姿になった。1947年にはク2040形が電装化され、モ3600形に統合されている。

その後、1948年には600Vであった旧名岐鉄道線の電圧が旧愛電線と同じ1500Vに昇圧され、1944年に線路がつながっていた旧名岐鉄道名岐線と旧愛電豊橋線の新岐阜駅(現・名鉄岐阜駅)-新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)-神宮前駅-豊橋駅間が名古屋本線となり、両路線間の直通運転が開始された。モ3300形・モ3600形は、同年に登場した3800系などの強力車に本線の特急運用を譲るが、比較的大型であったことから、名鉄のほぼ各線で特急・急行・普通列車用として広範に運用された。

1948年8月に発生した太田川車庫の火災によりモ3301・3304(いずれも初代)が車体を焼失し、その主要機器を流用してモ3750形が製造された。1950年にはク2040形を改造したモ3600形をモ3610形と改番し、さらに1952年にはモ3600形・モ3610形共にモ3350形と再改番された。その間、1951年10月にはモ3305・3306をモ3301・3304(いずれも2代)と改番し空番を埋めている。

しかし車体が老朽化・陳腐化したこともあり、1965年にはモ3350形5両が電装解除されて、制御車のク2340形となっている。捻出された電装品・台車等は冷房付の車体新造車3780系に転用された。そして1966年には3730系・3770系・3780系などに置き換えられ、全車が名鉄での運用を終えた。

他私鉄譲渡[編集]

モ3300形・モ3350形・ク2340形はその後、名鉄系列の中小私鉄であった豊橋鉄道・大井川鉄道(現・大井川鐵道)・北陸鉄道へ譲渡され、それら私鉄に残存していた小形旧車両を置き換えて運用された。概要を記す。

豊橋鉄道[編集]

豊橋鉄道では渥美線用として1967年からモ3350形・ク2340形が2両ずつの計4両投入され、足回りは国鉄飯田線旧型車クモハ14形の廃車部品に取り替えられた。モ3350形はモ1800形(初代)モ1801・1802(初代)、ク2340形は再電装化されモ1850形(初代)モ1851・1852と改番された。4個モーターでは自重が40tを超え、当時の線路の軸重制限に掛かるため、各車2個モーターとした(2年後名鉄3800系を譲受したモ1720形・モ1770形も同じ方式)。扉ステップが撤去され塗色変更と合わせて幾分軽快な外観となった。モ1800形-モ1850形の2両編成で組成され、パンタグラフは2両とも固定連結側に搭載された。1981年・1982年には3扉化改造と前面非貫通化が施されて、1997年の渥美線架線電圧1500V昇圧まで使用された。

大井川鉄道[編集]

大井川鉄道ではモ3300形とモ3350形が1両ずつ投入され、足回りの国鉄型への交換が行われたうえで、モ3350形は電装が外されてそれぞれモ302形ク508形とされた。その際、前面の貫通扉が埋められている。大井川本線で運用され、同社の有料急行「すまた」号にも使用されたが、1980年に後継車両投入で廃車となった。

北陸鉄道[編集]

1966年(昭和41年)から翌1967年(昭和42年)にモ3300形3両とモ3350形1両、ク2340形3両の計7両が譲渡された。主要機器については北陸鉄道で廃車となった旧型車両のものを転用している。形式・番号はモハ3770形3771 - 3773、クハ1720形1721 - 1724と改められた。大型であるため同社の朝ラッシュ時における急行・準急運用で威力を発揮したが、新型車両の導入に伴い1990年(平成2年)に廃車となった。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 一部の資料では最後の2両については125PS級電動機4基搭載となっていたとされるが、その搭載主電動機形式は明らかになっていない。また本形式の機器供出先となった3730系・3770系・3780系では、搭載主電動機としてこの125PS級電動機に該当する電動機は含まれておらず、全て100PS級のWH-556-J6かその国産スケッチ品であった。
  2. ^ 戦後1957年撮影の写真では、同車は通常の平軸受台車装着となっていたことが確認されている。

出典[編集]

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 日本車輛製造 『日本車輛製品案内 昭和5年(NSK型トラック)』 日本車輛製造、1930年
  • 日本車両鉄道同好部・鉄道史資料保存会 『日車の車輌史 図面集-戦前私鉄編 上』 鉄道史資料保存会、1996年ISBN 978-4885400964
  • 清水武 『RM LIBRARY 187 名鉄木造車鋼体化の系譜 ―3700系誕生まで―』 ネコ・パブリッシング、2015年ISBN 978-4777053773

雑誌記事[編集]

  • 鉄道ファン交友社
    • 清水武 「戦争突入を直前にした1941年初頭の名鉄電車」 2011年1月号(通巻597号) p148-153

外部リンク[編集]

関連項目[編集]