オークランド・レイダーズ

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オークランド・レイダーズ
Oakland Raiders
1960年創設
永久欠番
なし
所属地区
  • NFL(1970-現在)
  • AFC(1970-現在)
西地区(1970-現在)
  • AFL(1960-1969)
西地区(1960-1969)
ホームタウン
オークランド・レイダーズの位置(アメリカ合衆国内)
2020頃-
2020頃-
1960-19811995-2020頃
1960-1981
1995-2020頃
1982-1994
1982-1994

ネバダ州パラダイス(2020頃-)
カリフォルニア州オークランド(1995-2020頃)
カリフォルニア州ロサンゼルス(1982-1994)
カリフォルニア州オークランド(1960-1981)

Oakland Coliseum field from Mt. Davis.JPG
オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム(1966-1981, 1995-)
ロサンゼルス・コロシアム(1982-1994)
カリフォルニア・メモリアル・スタジアム(1ゲームのみ。1972)
フランク・ヨウエル・フィールド(1962-1965)
キャンドルスティック・パーク (1961)
キーザー・スタジアム(1960)

チームデザイン
チームカラー
    
    
チームロゴ
銀と黒の盾に、交差させた剣と盗賊
獲得タイトル
リーグ・チャンピオン (4回)
1967 (AFL)、1976、1980、1983
カンファレンス・チャンピオン (4回)
AFC: 1976、1980、1983、2002
地区優勝 (15回)
AFL西地区: 1967、1968、1969
AFC西地区: 1970、1972、1973、1974、1975、1976、1983、1985、1990、2000、2001、2002
ワイルドカード(6回)
1977、1980、1984、1991、1993、2016
球団組織
オーナー: マーク・デイビス
GM: レジー・マッケンジー
ヘッドコーチ: デニス・アレン

オークランド・レイダーズ (Oakland Raiders) はカリフォルニア州オークランドに本拠を置くNFLチームである。 1970年、AFL(アメリカン・フットボール・リーグ)とNFLの合併時に、NFLに加盟した。1982年から1994年まで、本拠地をロサンゼルスに移し、1995年より、再びオークランドに戻った。スタジアムの老朽化から移転が課題となっていたが、2017年3月のオーナー投票で、ネバダ州ラスベガスへの移転が可決された。移転時期は、新スタジアムの完成後となるため、2019年か2020年になる見込みである[1][2]。これまでに第11回第15回第18回と3回スーパーボウルで優勝している。

歴史[編集]

AFL[編集]

1960年1月、オークランドのフランチャイズ獲得後に創立された、AFL設立時のチームの一つである。レイダーズは、エクスパンション・フランチャイズを獲得してAFLのフランチャイズを放棄したミネソタ(NFLのミネソタ・バイキングズとなった)に替わって、新リーグ8番目のフランチャイズとなった[3]

チーム創立当時のオークランドは、プロフットボールの本拠に適した地とは言えなかった。地元にチームを求める声はなく、オーナーシップ・グループも形成されておらず、プロフットボールの試合を開催できるスタジアムも存在しなかった上に(近隣では、バークレーサンフランシスコにスタジアムが所在)、サンフランシスコ湾エリアではすでにサンフランシスコ・フォーティナイナーズが人気を集めていた。しかし、ロサンゼルス・チャージャーズ(現サンディエゴ・チャージャーズ)のオーナーであるバロン・ヒルトンが、西海岸にもう一つチームが設立されなければチャージャーズのフランチャイズを放棄すると宣言したため、AFLのオーナー陣は、西海岸第2のチームの本拠地としてオークランドを選択した。このときヒルトンは、アトランタ市からの誘致を拒否している。

フランチャイズを獲得したオークランドの市民代表メンバーは、この新しいチームへの投資意欲を持つ実業家を募る。このチームの経営体として、リミテッド・パートナーシップが設立された。地元の不動産開発業者であるマネジメント・ジェネラル・パートナー、チェット・ソーダを筆頭に、ジェネラル・パートナーとしてハーベイ・ビンズ、ドン・ブレッシング、チャールズ・ハーネイ、エド・マクガー、ロバート・オズボーン、ウェイン・バリーが名を連ね、この他に多数のリミテッド・パートナー(有限責任構成員)が出資した。地方紙によりチーム名募集のコンテストが開催され、オークランド・セニョールズ が選出されたが、これは地元のジョークの種になり、数週間後、オーナー陣はチーム名をコンテスト第3位の "レイダーズ" に変更した。当初のチームカラーは、黒、金、白の3色であった。お馴染みの、ヘルメットを被った海賊(または "簒奪者")のエンブレムは、俳優ランドルフ・スコットの演出によるものと伝えられる。

バークリーのカリフォルニア・メモリアル・スタジアムをホーム・ゲーム時に使用することをカリフォルニア大学に拒否されたため、サンフランシスコのカザー・スタジアムをホームとすることになった。レイダーズの最初のレギュラー・シーズンのホーム・ゲームは、1960年9月11日に開催され、レイダーズはヒューストン・オイラーズ(現テネシー・タイタンズ)に 22対37 で敗れた。最初のシーズンの成績は6勝8敗で、チームは50万ドルの損失を計上した。1961年1月17日にソーダがフランチャイズのパートナーを辞め、エド・マクガー、ウェイン・バリー、ロバート・オズボーンの3名が他のパートナーからレイダーズのオーナーシップを買い上げた。この年、レイダーズはキャンドルスティック・パークに移り、2勝12敗でシーズンを終了。シーズン全体での観客動員数は、約5万人だった。バリーは、オークランド市内にスタジアムを建設しない限り、レイダーズの本拠地を変えると宣言する。1962年、レイダーズは初めて、オークランド市内のスタジアム、座席数1万8千(のちに2万2千席に拡張)のフランク・ヨウエル・フィールドに移る。ただしこれは、建設中のオークランド・アラメダ・コロシアムが完成するまでの一時的なホームであった。1962年のシーズンは 1勝13敗に終わった。緒戦から13連敗し、最後の1試合で初勝利を挙げた。観客動員数は低迷を続ける。

1962年のシーズン後、バリーは、サンディエゴ・チャージャーズの前アシスタント・コーチであるアル・デービスを、ヘッドコーチ兼ゼネラルマネージャーとして招聘する。当時デービスは33歳、プロ・フットボール史上最年少でこの役職に就いた[4]。デービスは、チームカラーを銀と黒に変更した。これは主として、当時のほとんどの視聴者が見ていた白黒テレビの画面で、良く映える色だったことによる。デービスの指揮の元、チーム成績は10勝4敗に上昇、デービスはAFLの年間最優秀コーチに選出された[4]。1966年、デービスはレイダーズを去り、AFLのコミッショナーに就任する[4]。4年後の1970年、チームはAFLチャンピオンシップに出場。ジョン・ラウチヘッドコーチの元、レイダーズはヒューストンオイラーズを40-7と下してAFLチャンピオンシップを獲得する。この勝利により、第2回スーパーボウルに出場するが、ヴィンス・ロンバルディ率いるグリーンベイ・パッカーズに14-33で敗れた。

1968年11月17日、ハイジ・ゲームと呼ばれることになる有名なゲームに勝利した。当時のアメリカンフットボールの試合は3時間以内にほぼおさまっておりニューヨーク・ジェッツとのこの試合はNBCによって放送されていたが東部標準時中部標準時では試合開始から3時間が経過した残り時間65秒でジェッツがFGを決めて32-29とリードしたところで放送が終了し当初の予定どおりアルプスの少女ハイジHeidi)に切り替わった。NBCは2時間映画のハイジのスポンサー、タイメックスとの契約がありフットボールの試合終了とは関係なく予定通り放送を切り替えたのだが、その後レイダーズのオフェンスがTDをあげ、さらにキックオフでもジェッツのファンブルしたボールをリカバーしだめ押しのTDをあげて43-32でレイダーズが勝利した。放送を中断したことに対して抗議の電話が殺到し翌日、NBCのジュリアン・グッドマン社長は謝罪することとなった。またこの試合以降テレビ局はアメリカンフットボール中継が長引いた際には以後の番組を繰り下げるように変更している[5][6]。2010年発行のTVガイドでもこの失態は第5位にランクされている[7]

NFL[編集]

オークランド[編集]

1970年、AFLとNFLの合併により、レイダーズはNFLAFC西地区所属となる。この合併は、デービスに苦い思いを残した。彼は、メジャーリーグと同様に、単一のドラフト制度の元で、独立した2リーグでシーズンを戦い、最後にリーグ優勝を決定する、というプロ・フットボールのビジョンを持っていた。彼は、AFLのオーナー達が、NFLのフランチャイズを獲得したいがためにAFL消滅に手を貸したのだ、彼らに裏切られた、と感じていた。デービスは、彼自身のような「フットボール・マン」が、門外漢の気まぐれに左右されることに不満を抱いた。これにより、デービスの目標は、彼自身がオーナーとなることに据えられた。

合併により、AFLコミッショナーという職がなくなったため、デービスは、レイダーズへの復帰をバリーと交渉する。デービスは、チームのオーナーとして、また、フットボール運営の責任を負うパートナーとして、レイダーズにカムバックする。

1969年、ジョン・マッデンが6代目ヘッドコーチに就任した。チームは1970年代に6度の地区優勝を果たしNFL屈指のフランチャイズに成長した。

1972年、バリーがミュンヘンオリンピック観戦に渡航していた数週の間に、デービスの弁護士は、デービスにレイダーズ運営の全権を委ねる内容の、パートナーシップ契約の改正案を作成する。マクガーは、この契約にサインした。ジェネラル・パートナーの投票結果が2対1となったため、パートナーシップ法にもとづいて、この新しい契約は承認された。バリーはこれに気付いて激怒し、すぐに新しい契約内容の取り消しを求めて訴訟を起こした。勝訴したのは、デービスとマクガーであった。結果、バリーはレイダーズの所有権を売却し、チームの所有権のごく一部しか持たないデービスがチームを掌握することになった。この後レイダーズはデービスの意向がそのままチームに反映されて運営されるようになった[4]。チームはデービスの信念である「より遠くより深く」を受け、ギャンブル要素の高いディープ・ロングパスが多用された。

1972年12月23日のプレーオフ、ピッツバーグ・スティーラーズ戦では残り時間1分17秒にダリル・ラモニカをリリーフしたケン・ステイブラーの30ヤードのTDランで7-6とリードしたがその後、テリー・ブラッドショーからジョン・フッカへのパスに対するジャック・テイタムのヒットにより大きく弾かれたボールがフランコ・ハリスにすっぽりおさまりTDを許し敗れた。

1973年から1975年までチームはAFCチャンピオンシップゲームに連続出場したがいずれも敗退、その内2回はピッツバーグ・スティーラーズが相手であった。

1974年、NFLベストの12勝2敗でAFC西地区優勝を果たしたチームはスーパーボウル3連覇を目指すマイアミ・ドルフィンズと対戦した。試合終了直前、サックされそうになったケン・ステイブラーは、3人のディフェンスに囲まれたクラレンス・デービスへのTDパスを成功させ、チームは勝利したが[8]、翌週ピッツバーグ・スティーラーズに敗れた。

1975年、9月22日のマイアミ・ドルフィンズとの開幕戦、マンデーナイトフットボールで、ハロルド・ハートが102ヤードのキックオフリターンTDをあげた[9]。この年のAFCチャンピオンシップゲームでは、ジョージ・アトキンソンリン・スワンにハードヒットし、脳震盪を起こさせた[10]

1976年の開幕戦はスーパーボウル3連覇を目指すスティーラーズとの戦いでは、ディフェンスに多くの怪我人を抱えたレイダーズは苦戦したがオーバータイムの末、フレッド・スタインフォルトの決勝FGで勝利した。この試合でもアトキンソンはスワンにハードヒットを行い、スワンは一時意識を失った。これに対してスティーラーズとチャック・ノルヘッドコーチは、アトキンソンを裁判に訴え、最終的にアトキンソンは敗訴した[10]。レギュラーシーズンも13勝1敗で終えた。プレーオフでもチャンピオンシップゲームでスティーラーズを24-7で破り、翌1977年1月に行われた第11回スーパーボウルに出場、ミネソタ・バイキングスを32-14で破りスーパーボウル初制覇を果たした。MVPにはTDパスこそないものの、得点にからむ重要なパスをキャッチしたフレッド・ビレトニコフが選ばれた[11]

1977年12月24日のプレーオフ、ボルチモア・コルツ戦でデイブ・キャスパーが背中越しでケン・ステイブラーから受けたパスはゴースト・トゥー・ザ・ポストとして知られるプレーとなった[12][13][14]

1978年9月10日のサンディエゴ・チャージャーズ戦での試合終了直前、ケン・ステイブラーがファンブルしてエンドゾーン方向に転がったボールをデイブ・キャスパーがリカバーし決勝TDをあげた試合は物議を醸しその後ルール変更が行われるきっかけとなった。

スーパーボウル優勝1回、10シーズン連続勝ち越しの成績を残しマッデンは1979年にレイダーズを去りフットボール解説者となった。マッデンの後任はレイダーズの元クォーターバックだったトム・フローレスが就任した。彼はヒスパニック初のNFLヘッドコーチであった。

1980年、チームはロサンゼルスへの移転を計画したが、裁判所から禁止命令が出た。デービスはNFLに対して反トラスト訴訟を起こした[4]。この年、第5週、先発QBのダン・パストリーニが足を骨折した時点でチームは2勝3敗であった[15]。しかしその後、かつてNFLドラフト全体1位指名を受けた、控えQBのジム・プランケットらの活躍により11勝5敗でワイルドカードでプレーオフに進出、ヒューストン・オイラーズを27-7、クリーブランド・ブラウンズを14-12、サンディエゴ・チャージャーズ34-27で破りチームは第15回スーパーボウル出場を果たした。フィラデルフィア・イーグルスとのスーパーボウルでは27-10で破り2度目の優勝を果たした。MVPにはスーパーボウル記録となるケニー・キングへの80ヤードのTDパスを含む3本のTDパスを決めたプランケットが選ばれた。またこの試合でLBロッド・マーティンがこれまたスーパーボウル記録となる3インターセプトをロン・ジャウォースキーから奪った。ワイルドカードからスーパーボウルに優勝したのはレイダーズが初であった[16][17]

ロサンゼルス[編集]

1982年6月、連邦地方裁判所でデービスは勝訴[4]、レイダーズは本拠地をカリフォルニア州ロサンゼルスへの移転承認をNFLのオーナー会議に求めた。承認には全体の3/4が必要であったが、賛成22票、反対0票(5人が投票を棄権)で移転は承認されチームはロサンゼルス・メモリアル・コロシアムでホーム・ゲームを戦うことになった。ストライキで短縮された1982年のシーズンを8勝1敗で終えてプレーオフに出場したが2回戦でニューヨーク・ジェッツに敗れた。翌1983年を12勝4敗で終えてスティーラーズ、シアトル・シーホークスをプレーオフで破り第18回スーパーボウルに出場、ワシントン・レッドスキンズを38-9で破り3度目の優勝を果たした。この試合ではスーパーボウル記録となるラン獲得191ヤード、74ヤードのTDランをあげたマーカス・アレンがMVPとなった。また38得点は当時のスーパーボウル記録となった[18]

その後2シーズンはプレーオフに出場したが、1986年から1989年は8勝8敗以上の成績をあげることができず、1987年-1988年には1961年-1962年以来となる2年連続負け越しを味わった。1987年を5勝10敗で終えるとフローレスはフロント入りし、デンバー・ブロンコスのオフェンスアシスタントコーチだったマイク・シャナハンが後任ヘッドコーチとなった。この年、レイダーズは野球とフットボールを掛け持つアスリートでハイズマン賞受賞者のボー・ジャクソンドラフトで獲得するが、ジャクソンは前年、タンパベイ・バッカニアーズに1巡目で指名されたときに、フットボールはプレーしないと表明していた[19]。デービスはジャクソンに傾倒し、スターRB、マーカス・アレンとデービスの関係に大きな亀裂が生じた[20]。後にアレンはカンザスシティ・チーフスに移籍することになる。

1989年のシーズン開幕後1勝3敗となったところで、デービスはシャナハンヘッドコーチを解任し、レイダーズのタックルだったアート・シェルを後任に据える。シェルは、近代NFL初のアフリカ系アメリカ人のヘッドコーチとなった[21]。シェルは1990年のシーズンでレイダーズをAFCチャンピオンシップに導いたが、バッファロー・ビルズに51対3と大敗した。

この敗戦後、チームは下降線を辿る。1990年代のプレイオフ出場は2回、AFC西地区5チーム中3位以上の成績を収めたのは3回のみであった。1990年ボー・ジャクソンが引退の原因となる負傷、問題児のQB、トッド・マリノビッチの不祥事、1993年マーカス・アレンの退団、後にプロフットボール殿堂入りを果たすディフェンシブラインマンハウィー・ロングが1993年のシーズン後に引退と、レイダーズの一時代は終わりを告げる。

1987年にアル・デービスはロサンゼルス・コロシアムの周辺が治安が悪いため新しいスタジアムの候補地を探していた[22]1988年にヒューストン・オイラーズとのプレシーズンゲームがオークランドで開催されるとレイダーズはオークランドに戻るのではないかといった噂が流れた[23]。1989年1月からデービスとオークランド市の間で交渉が始められ1991年3月11日にオークランドに移転することが発表された[24]この途中の1990年9月11日にはオークランドのファンが交渉が進まないことに怒り、レイダーズのTシャツやジャージーを燃やす事件も起きた[25]

1988年、チームはワシントン・レッドスキンズジム・ラシェイをトレードしジェイ・シュローダーを獲得した。第4週、敵地マイル・ハイ・スタジアムで行われたデンバー・ブロンコスとのマンデーナイトフットボールで先発QBのシュローダーはパス8本中2本しか成功できず、オフェンスの獲得ヤードは39-254と圧倒され、チームは0-24とリードされてハーフタイムを迎えた。多くのテレビ視聴者はソウルオリンピックにチャンネルを切り替えたが後半に入りスティーブ・スミスへの2本のTDパス、キックオフでのレジー・マッケンジーのファンブルフォースでチャンスを獲得するとマーカス・アレンのTDで同点に追いついた。リッチ・カーリスのFGで再び3点リードされたもののこの年それまで30ヤード以上のFG4本全てを失敗していたクリス・バーが残り8秒に44ヤードのFGを成功しオーバータイムに持ち込んだ。新人のティム・ブラウンが74ヤードのパントリターンTDを決めたかに見えたが反則で無効となったものの最後はバーのFGでチームは24点差からの逆転劇を演じた[26]

1990年、チームはAFCチャンピオンシップゲームまで進出したがバッファロー・ビルズに3-51で敗れた。

1991年、ドラフト1巡目でQBトッド・マリノビッチを獲得した[27]。マリノビッチはエースQBシュローダーが負傷欠場したシーズン最終週のカンザスシティ・チーフス戦に先発出場し試合には敗れたものの3TDパスを決めるという活躍を見せた。しかし翌週のプレーオフ、チーフスとの再戦ではTDパスなし、4インターセプトと散々の内容で敗れた。

マリノビッチは1993年シーズン開幕前に3度目のマリファナ陽性反応が出てチームから解雇された[27]

オークランド[編集]

1995年6月23日、アル・デービスは、レイダーズの本拠地をオークランドに戻す旨の同意書にサインする[4]。この移転は盛大な歓迎を受け、1995シーズン、新ヘッドコーチのマイク・ホワイトの下、チームは8勝2敗と好調なスタートを切ったがエースQBのジェフ・ホステトラーの負傷により、チームはシーズン終了まで6連敗を喫し、プレーオフ進出はならなかった。

ホワイト、ジョー・ビューゲルの下、3シーズン好成績を収められなかった後、1998年にアル・デービスは、過去のチームプレイヤーからヘッドコーチを選任するという彼の慣習を曲げ(これはフランチャイズ史上2度目の例外だった)、フィラデルフィア・イーグルスのオフェンスコーディネーターだったジョン・グルーデンをヘッドコーチに迎える。グルーデンは、サンフランシスコ・49ersのヘッドコーチビル・ウォルシュの元でアシスタントコーチとしてキャリアを開始した人物だった。グルーデンの指揮の下、レイダーズは、それまでのシーズンには欠けていた規律を持ってプレーし始める。

2000年、グルーデン指揮の3度目のシーズン、チームはこの10年間で最高の成績を上げた。ベテランのクォーターバック、リッチ・ギャノンが率いるチームはシーズンで12勝4敗の成績を収め、AFCチャンピオンシップに進出したが、ギャノンは相手のヒットにより負傷退場[28]、この年のスーパーボウルを制覇したボルチモア・レイブンズに3-16と敗れた。なおその試合の3週間後に行われたプロボウルでギャノンはMVPに選ばれた[28]

レイダーズは、2001年シーズンの開幕前に、歴代レシーブ最高記録を保持するジェリー・ライスを獲得した。シーズン成績は10勝6敗だったが、ディビジョナル・プレーオフで、その年のスーパーボウル覇者ニューイングランド・ペイトリオッツに敗れた。この試合は物議を醸した。激しい雪の中、ペイトリオッツのクォーターバックトム・ブレイディファンブルをレイダーズのチャールズ・ウッドソンがリカバーしたのだが、レビューの結果、ファンブルではなくパス不成功と判定された[29]

2001年シーズン終了直後、レイダーズは、タンパベイ・バッカニアーズとの間で、ジョン・グルーデンを現金800万ドル及びドラフト1巡目指名権2つ、2巡目指名権2つと交換するという異例のトレードを行った[30]。後任には、グルーデンの下でレイダーズのオフェンスコーディネーター兼オフェンシブラインコーチを務めていた、ビル・キャラハンが指名された。この突然の異動劇の数ヶ月前から、マスコミでは、アル・デービスとグルーデンが個人的にもビジネスの面でも袂を分かった、という憶測が流れていた。

2002年シーズンはAFCトップの11勝5敗の成績を収めプレーオフのホームフィールドアドバンテージを確保する。チーム5度目のスーパーボウル出場を成し遂げ、ギャノンはNFLのシーズンMVPに選出された。レイダーズはこの第37回スーパーボウルデクスター・ジョンソンドワイト・スミスにそれぞれ2インターセプトを喫するなど、21-48と敗れるが、その対戦相手は、件のグルーデン率いるタンパベイ・バッカニアーズであった[30][31]

2003年から2007年の5シーズンでチームはリーグ最低の19勝しかあげられなかった(同期間に次に成績が悪いのはデトロイト・ライオンズの26勝。)。

2003年、キャラハン2年目のシーズンはエースQBのギャノンが第7週に肩の故障で離脱、4勝12敗に終わった(NFL最低記録タイ)。これは、前シーズンにスーパーボウルに出場したチームとしては、史上最悪の記録であった。シーズン中、キャラハンは、2003年11月30日の試合終了後の記者会見で、チームの低迷についてレイダーズの選手達とマスコミとを激しく非難した。同年のレギュラーシーズン後、キャラハンは解雇され、ノーブ・ターナーがヘッドコーチに就任した。

2004年、チームはオフシーズンにウォーレン・サップを獲得した。この年リッチ・ギャノンが先発した3試合は2勝1敗であったが第3週のタンパベイ・バッカニアーズ戦で彼がデリック・ブルックスとヘルメット・ヘルメットで接触し負傷した(ギャノンはこの怪我によりシーズン終了後引退した。)後3勝10敗でチームは5勝11敗と2シーズン連続で負け越した。

2005年のトレード解禁と同時に、レイダーズは、ミネソタ・バイキングズからプロボウル出場ワイドレシーバーのランディ・モスを獲得した[32]

2006年、過去にもヘッドコーチを務めたアート・シェルがターナーに代わってヘッドコーチに就任したが1年で解雇され、2007年からレーン・キフィンがヘッドコーチに就任したが、2008年シーズンが開幕後1勝3敗の成績となったところで、9月30日に解雇されて[33]トム・ケーブルオフェンスラインコーチが暫定ヘッドコーチに就任した。ケーブルがヘッドコーチになった後、チームは4勝8敗に終わったものの最後の2試合に連勝し、2009年2月ケーブルは正式にヘッドコーチに就任した[34]

2009年開幕前、エースQB争いが2007年のNFLドラフト全体1位で獲得したジャマーカス・ラッセルとオフに加入したジェフ・ガルシアの間で行われたが故障がちのガルシアは敗れラッセルが開幕先発QBに指名された[35]。しかし2勝7敗となった後、第11週よりジャマーカス・ラッセルをあきらめ、ブルース・グラドコウスキーを先発に抜擢[36]、グラドコウスキーが第14週の試合で負傷してからはチャーリー・フライが先発QBを務めた[37]。ケーブルヘッドコーチは留任した[38]

2010年、シーズンオフに2007年のドラフト全体1位で獲得したものの芽が出ないQBジャマーカス・ラッセルを解雇しワシントン・レッドスキンズよりジェイソン・キャンベルを獲得した[39]。このシーズン、チームはダレン・マクファデンジャコビー・フォードらの活躍もありAFC西地区の同一地区内対戦は6戦全勝し8勝8敗と8シーズンぶりに負け越しを逃れたがシーズン終了後、チームオーナーのアル・デイビスは、契約満了を理由にヘッドコーチトム・ケーブルとの契約を更新しなかった[40]

2011年1月18日にオフェンスコーディネーターであったヒュー・ジャクソンがヘッドコーチに昇格した[41][42]。同年10月8日、アル・デービスオーナーが82歳で亡くなった[43]。オーナーが亡くなった翌日のヒューストン・テキサンズとの試合でチームは25-20で接戦を勝利した[44]。最後のプレーで相手QBマット・ショーブのパスをインターセプトしたマイケル・ハフ[45]はオーナーがボールを取らせてくれた。と涙ながらに語った。第6週のクリーブランド・ブラウンズ戦で、エースQBのジェイソン・キャンベルが鎖骨を骨折した[46]。チームはトレード期限ぎりぎりでシンシナティ・ベンガルズカーソン・パーマーを2012年のドラフト1巡指名権、2013年のドラフト2巡指名権と引き替えで獲得した[47][48]。シーズン終了後にレジー・マッケンジーがGMに就任、ヒュー・ジャクソンヘッドコーチを解任、デンバー・ブロンコスのディフェンスコーディネーターであったデニス・アレンがヘッドコーチに就任した[49]

2013年2014年はともに大きく負け越し、2014年シーズンをもってアレンHCは解任、後任には元ジャクソンビル・ジャガーズHCで、前シーズンまでデンバー・ブロンコスのディフェンスコーディネーターを務めていたジャック・デル・リオが就任[50]。二代続けて地区ライバルのブロンコスのディフェンスコーディネーターからHCを招聘することになった。

2015年シーズンは7勝9敗に終わったが、正QB2年目のデレック・カーが成績を向上させ、DE/LBのカリル・マックが史上初めて両ポジションでオールプロに選出されるなど[51]、低迷が続くチームに明るい話題が増えたシーズンとなった。一方、長年チームの守備を支えたSチャールズ・ウッドソンがこのシーズン限りで現役引退[52]

2016年シーズンはワイルドカードで14年ぶりにプレーオフ進出を果たしたが、QBカーを負傷で欠き初戦で敗退した。

スタジアム問題[編集]

オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムが1966年完成と老朽化しているため、新スタジアムを求める声が次第に高まった。オークランドにおけるスタジアム建て替え案、サンタクララリーバイス・スタジアムサンフランシスコ・フォーティーナイナーズと共用する案、ラスベガスに移転する案、ロサンゼルスに再移転する案などが浮上した。チームはチャージャーズと共同でロサンゼルス再移転の申請をしたが、2016年のオーナー会議で否決され、ラムズのロサンゼルスへの移転が承認された。ラムズの移転承認決議では、ラムズとのスタジアム同居でのロサンゼルス移転を受け入れるか否かの選択権がチャージャーズに与えられ、チャージャーズが移転を選択しなかった場合は、選択権がレイダーズに移る条件が付された[53]。この決議を受けて、デービス・オーナーはオークランドでの新スタジアム建設交渉を進めているが、建設が承認されなければ、ラスベガスやロサンゼルス(チャージャーズがサンディエゴ残留を選択した場合)を移転先として検討していることが報じられた[54][55]。2017年1月12日、チャージャーズの移転が決定し、レイダースのロサンゼルス移転はなくなった。レイダーズは、2日後の2017年1月14日、ネバダ州ラスベガスへの移転を申請した[56]。前述の通り2017年3月のNFLオーナー会議で投票にかけられ、賛成多数でラスベガスへの移転が承認された。ただし、2017年からの2年間はオークランドに残留し、2019年もしくは2020年にラスベガスへ移転する見込みである。

主な選手[編集]

殿堂入り[編集]

永久欠番[編集]

なし(レイダーズは過去の選手の背番号を永久欠番にすることはない)

歴代ヘッドコーチ[編集]

  • エディー・アーデラッツ (1960-61)
  • マーティー・フェルドマン (1961-62)
  • レッド・コンクライト (1962)
  • アル・デイビス (1963-65)
  • ジョン・ラウチ (1966-68)
  • ジョン・マッデン (1969-78)
  • トム・フローレス (1979-87)
  • マイク・シャナハン (1988-89)
  • アート・シェル (1989-94)
  • マイク・ホワイト (1995-96)
  • ジョー・ビューゲル (1997)
  • ジョン・グルーデン (1998-2001)
  • ビル・キャラハン (2002-2003)
  • ノーブ・ターナー (2004-2005)
  • アート・シェル (2006)
  • レーン・キフィン(2007-2008)
  • トム・ケーブル (2008-2010)
  • ヒュー・ジャクソン (2011)
  • デニス・アレン (2012-2015)
  • ジャック・デル・リオ (2015- )

過去の成績[編集]

4地区制[編集]

地区優勝 2位 3位 4位
チーム チーム チーム チーム
2016 KC(2d) 12 4 0 OAK(5w) 12 4 0 DEN 9 7 0 SD 5 11 0
2015 DEN(1v) 12 4 0 KC(5d) 11 5 0 OAK 7 9 0 SD 4 12 0
2014 DEN(2d) 12 4 0 KC 9 7 0 SD 9 7 0 OAK 3 13 0
2013 DEN(1s) 13 3 0 KC(5w) 11 5 0 SD(6d) 9 7 0 OAK 4 12 0
2012 DEN(1d) 13 3 0 SD 7 9 0 OAK 4 12 0 KC 2 14 0
2011 DEN(4d) 8 8 0 SD 8 8 0 OAK 8 8 0 KC 7 9 0
2010 KC(4w) 10 6 0 SD 9 7 0 OAK 8 8 0 DEN 4 12 0
2009 SD(2d) 13 3 0 DEN 8 8 0 OAK 5 11 0 KC 4 12 0
2008 SD(4d) 8 8 0 DEN 8 8 0 OAK 5 11 0 KC 2 14 0
2007 SD(3c) 11 5 0 DEN 7 9 0 KC 4 12 0 OAK 4 12 0
2006 SD(1d) 14 2 0 KC(6w) 9 7 0 DEN 9 7 0 OAK 2 14 0
2005 DEN(2c) 13 3 0 KC 10 6 0 SD 9 7 0 OAK 4 12 0
2004 SD(4w) 12 4 0 DEN(6w) 10 6 0 KC 7 9 0 OAK 5 11 0
2003 KC(2d) 13 3 0 DEN(6w) 10 6 0 OAK 4 12 0 SD 4 12 0
2002 OAK(1s) 11 5 0 DEN 9 7 0 SD 8 8 0 KC 8 8 0

3地区制[編集]

  • DEN:デンバー・ブロンコス、KC:カンザスシティ・チーフス、RAI→OAK:ロサンゼルス・レイダーズ→オークランド・レイダーズ、SD:サンディエゴ・チャージャーズ、SEA:シアトル・シーホークス、TB:タンパベイ・バッカニアーズ
  • 1982年シーズンはストライキの影響により、地区別成績ではなくカンファレンス上位8チームがプレイオフ進出するルールであったが、ここでは地区別に変換して表記する。
  • 括弧内の数字はプレイオフ出場時のシード順(シード制導入前は表記なし)、文字はv:スーパーボウル優勝、s:スーパーボウル敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退、d:ディビジョナルプレーオフ敗退、w:ワイルドカードプレイオフ敗退。1982年についてはd:2回戦敗退、w:1回戦敗退。
地区優勝 2位 3位 4位 5位
チーム チーム チーム チーム チーム
2001 OAK(3d) 10 6 0 SEA 9 7 0 DEN 8 8 0 KC 6 10 0 SD 5 11 0
2000 OAK(2c) 12 4 0 DEN(5w) 11 5 0 KC 7 9 0 SEA 6 10 0 SD 1 15 0
1999 SEA(3w) 9 7 0 KC 9 7 0 SD 8 8 0 DEN 8 8 0 OAK 6 10 0
1998 DEN(1v) 14 2 0 OAK 8 8 0 SEA 8 8 0 KC 7 9 0 SD 5 11 0
1997 KC(1d) 13 3 0 DEN(4v) 12 4 0 SEA 8 8 0 OAK 4 12 0 SD 4 12 0
1996 DEN(1d) 13 3 0 KC 9 7 0 SD 8 8 0 OAK 7 9 0 SEA 7 9 0
1995 KC(1d) 13 3 0 SD(4w) 9 7 0 SEA 8 8 0 DEN 8 8 0 OAK 8 8 0
1994 SD(2s) 11 5 0 KC(6w) 9 7 0 RAI 9 7 0 DEN 7 9 0 SEA 6 10 0
1993 KC(3c) 11 5 0 RAI(4d) 10 6 0 DEN(5w) 9 7 0 SD 8 8 0 SEA 6 10 0
1992 SD(3d) 11 5 0 KC(6w) 10 6 0 DEN 8 8 0 RAI 7 9 0 SEA 2 14 0
1991 DEN(2c) 12 4 0 KC(4d) 10 6 0 RAI(5w) 9 7 0 SEA 7 9 0 SD 4 12 0
1990 RAI(2c) 12 4 0 KC(5w) 11 5 0 SEA 9 7 0 SD 6 10 0 DEN 5 11 0
1989 DEN(1s) 11 5 0 KC 8 7 1 RAI 8 8 0 SEA 7 9 0 SD 6 10 0
1988 SEA(3d) 9 7 0 DEN 8 8 0 RAI 7 9 0 SD 6 10 0 KC 4 11 1
1987 DEN(1s) 10 4 1 SEA(5w) 9 6 0 SD 8 7 0 RAI 5 10 0 KC 4 11 0
1986 DEN(2s) 11 5 0 KC(5w) 10 6 0 SEA 10 6 0 RAI 8 8 0 SD 4 12 0
1985 RAI(1d) 12 4 0 DEN 11 5 0 SEA 8 8 0 SD 8 8 0 KC 6 10 0
1984 DEN(2d) 13 3 0 SEA(4d) 12 4 0 RAI(5w) 11 5 0 KC 8 8 0 SD 7 9 0
1983 RAI(1v) 12 4 0 SEA(4c) 9 7 0 DEN(5w) 9 7 0 SD 6 10 0 KC 6 10 0
1982 RAI(1d) 8 1 0 SD(5d) 6 3 0 SEA 4 5 0 KC 3 6 0 DEN 2 7 0
1981 SD(3c) 10 6 0 DEN 10 6 0 KC 9 7 0 OAK 7 9 0 SEA 6 10 0
1980 SD(1c) 11 5 0 OAK(4v) 11 5 0 KC 8 8 0 DEN 8 8 0 SEA 4 12 0
1979 SD(1d) 12 4 0 DEN(5w) 10 6 0 SEA 9 7 0 OAK 9 7 0 KC 7 9 0
1978 DEN(3d) 10 6 0 OAK 9 7 0 SEA 9 7 0 SD 9 7 0 KC 4 12 0
1977 DEN(1s) 12 2 0 OAK(4c) 11 3 0 SD 7 7 0 SEA 5 9 0 KC 2 12 0
1976 OAK(1v) 13 1 0 DEN 9 5 0 SD 6 8 0 KC 5 9 0 TB 0 14 0
1975 OAK(2c) 11 3 0 DEN 6 8 0 KC 5 9 0 SD 2 12 0
1974 OAK(c) 12 2 0 DEN 7 6 1 KC 5 9 0 SD 5 9 0
1973 OAK(c) 9 4 1 KC 7 5 2 DEN 7 5 2 SD 2 11 1
1972 OAK(d) 10 3 0 KC 8 6 0 DEN 5 9 0 SD 4 9 1
1971 KC(d) 10 3 1 OAK 8 4 2 SD 6 8 0 DEN 4 9 1
1970 OAK(c) 8 4 2 KC 7 5 2 SD 5 6 3 DEN 5 8 1

AFL西地区[編集]

地区優勝 2位 3位 4位 5位
チーム チーム チーム チーム チーム
1969 OAK(a) 12 1 1 KC(V) 11 3 0 SD 8 6 0 DEN 5 8 1 CIN 4 9 1
1968 OAK(a) 12 2 0 KC 12 2 0 SD 9 5 0 DEN 5 9 0 CIN 3 11 0
1967 OAK(s) 13 3 0 KC 9 5 0 SD 8 5 1 DEN 3 11 0
1966 KC(s) 11 2 0 OAK 8 5 1 SD 7 6 1 DEN 4 10 0
スーパーボウル開始
1965 SD(a) 9 2 3 OAK 8 5 1 KC 7 5 2 DEN 4 10 0
1964 SD(a) 8 5 1 KC 7 7 0 OAK 5 7 2 DEN 2 11 1
1963 SD(v) 11 3 0 OAK 10 4 0 KC 5 7 2 DEN 2 11 1
1962 DAL(v) 11 3 0 DEN 7 7 0 SD 4 10 0 OAK 1 13 0
1961 SD(a) 12 2 0 DAL 6 8 0 DEN 3 11 0 OAK 2 12 0
1960 LA(a) 10 4 0 DAL 8 6 0 OAK 6 8 0 DEN 4 9 1

ギャラリー[編集]

応援スタイル[編集]

相手チームに対する激しい敵意を持っており、かつてサンフランシスコ・フォーティナイナーズヘッドコーチだったスティーブ・マリウッチは選手たちにオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムでの試合には自家用車ではなくチームバスに乗るよう忠告したほど。ホームのエンドゾーン付近を陣取るファンはブラックホールと呼ばれている[57]

脚注[編集]

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  1. ^ レイダースがラスベガスへの移転申請書を提出NFL公式サイト日本語版、2017年1月21日閲覧
  2. ^ 各チームのオーナーがレイダースのラスベガス移転を承認NFL公式サイト日本語版、2017年3月28日閲覧
  3. ^ Team History profootballhof.com
  4. ^ a b c d e f g アル・デービス・オーナーの経歴と功績”. NFL JAPAN (2011年10月9日). 2012年1月1日閲覧。
  5. ^ No. 10: The Heidi Game”. nfl.com (1999年11月24日). 2011年2月9日閲覧。
  6. ^ Brian Ditullio (2010年12月2日). “The Heidi Bowl”. bleacherreport.com. 2013年8月4日閲覧。
  7. ^ Battaglio, Stephen. "The Blunder Years", TV Guide, November 1, 2010, Pages 20-21
  8. ^ Brian Ditullio (2010年12月2日). “Dolphins Vs. Raiders (Sea Of Hands)”. bleacherreport.com. 2013年8月4日閲覧。
  9. ^ MNF History: 1977”. ABC (2002年8月29日). 2013年6月1日閲覧。
  10. ^ a b An Old Raider’s Old-School Values”. ニューヨーク・タイムズ (2009年12月7日). 2013年6月1日閲覧。
  11. ^ 第11回スーパーボウル”. NFL JAPAN. 2012年1月1日閲覧。
  12. ^ The Ghost To The Post”. スポーツ・イラストレイテッド (1978年1月2日). 2011年2月9日閲覧。
  13. ^ Hall of Fame Dinner Segments: Dave Casper”. nfl.com (2007年8月3日). 2011年2月9日閲覧。
  14. ^ Ghost to the Post”. raiders.com (2010年12月24日). 2011年2月9日閲覧。
  15. ^ NFL史上に残るシンデレラチーム”. NFL JAPAN (2011年3月29日). 2012年1月1日閲覧。
  16. ^ 第15回スーパーボウル”. NFL JAPAN. 2012年1月1日閲覧。
  17. ^ Phillips, B.J. (1981年2月9日). “The Wild Cards Run Wild”. タイム. http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,922427,00.html 2008年12月21日閲覧。 
  18. ^ 第18回スーパーボウル”. NFL JAPAN. 2012年1月1日閲覧。
  19. ^ Flatter, Ron. “Bo knows stardom and disappointment”. ESPN. http://espn.go.com/sportscentury/features/00016045.html 2008年12月21日閲覧。 
  20. ^ “Allen no stranger to big plays”. AP通信. (2003年7月31日). http://espn.go.com/classic/s/2003/0730/1587419.html 2008年12月21日閲覧。 
  21. ^ Bell, Jarrett (2007年1月17日). “Coaches chasing Super Bowl — and history”. USAトゥデイ. http://www.usatoday.com/sports/football/nfl/2007-01-16-dungy-lovie_x.htm 2008年12月21日閲覧。 
  22. ^ NFLがマンデーナイトフットボールのスケジュールを組む際、レイダーズはアウェイにされていた。
  23. ^ Dickey, Just Win, Baby. p. 234.
  24. ^ Dickey, Just Win, Baby. pp. 234–239.
  25. ^ Anderson, Dave (1990年9月16日). “Just Give Me $10 Million, Baby”. ニューヨーク・タイムズ. http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F3061EF73F5B0C758DDDA00894D8494D81 2008年12月21日閲覧。 
  26. ^ Classic MNF: 1988 Raiders vs. Broncos”. ESPN (2002年11月6日). 2011年2月9日閲覧。
  27. ^ a b Todd Marinovich: The Man Who Never Was 4/7”. esquire.com (2010年4月23日). 2011年2月9日閲覧。
  28. ^ a b ブレイディの左肩負傷、元名QBは問題なしとの見解”. NFL JAPAN (2011年12月31日). 2012年1月1日閲覧。
  29. ^ ビル・マークレビッツ. “HOT OFF THE GRIDIRON #66「天はニューイングランドに味方した!」”. NFL JAPAN. 2011年2月9日閲覧。
  30. ^ a b HOT OFF THE GRIDIRON #88 "ジョン・グルーデン・ボウル"”. NFL JAPAN. 2011年2月9日閲覧。
  31. ^ 第37回スーパーボウル”. NFL JAPAN. 2012年1月1日閲覧。
  32. ^ Bob Carter. “Moves, emotions have Moss causin' a commotion”. ESPN. 2010年11月12日閲覧。
  33. ^ レイダース、最年少HCキフィンを解任”. NFL JAPAN (2008年10月1日). 2011年2月9日閲覧。
  34. ^ レイダース、新指揮官に暫定HCのケーブル氏”. NFL JAPAN (2009年2月4日). 2011年2月9日閲覧。
  35. ^ レイダース先発QB争いに決着、指揮官がラッセルを指名”. NFL JAPAN (2009年8月24日). 2011年2月9日閲覧。
  36. ^ 低迷レイダース、ついに先発QB交代を決断”. NFL JAPAN (2009年11月19日). 2011年2月9日閲覧。
  37. ^ レイダースが先発QBに3番手フライ抜てき、ラッセル復権ならず”. NFL JAPAN (2009年12月17日). 2011年2月9日閲覧。
  38. ^ 近藤祐司 (2010年9月10日). “2010シーズン、大化けするのはレイダース!?【後編】”. NFL JAPAN. 2011年2月9日閲覧。
  39. ^ 近藤祐司 (2010年9月10日). “2010シーズン、大化けするのはレイダース!?【前編】”. NFL JAPAN. 2011年2月9日閲覧。
  40. ^ レイダース、負け越し回避のケーブルHCと契約延長せず”. NFL JAPAN (2011年1月5日). 2011年2月9日閲覧。
  41. ^ レイダース、ジャクソンOCが指揮官に昇格”. NFL JAPAN (2011年1月18日). 2011年2月9日閲覧。
  42. ^ レイダースのジャクソン新HC、「我々は強者となる」”. NFL JAPAN (2011年1月19日). 2011年2月9日閲覧。
  43. ^ デービス・オーナー死去、NFLから悲しみの声”. NFL JAPAN (2011年10月9日). 2012年1月1日閲覧。
  44. ^ レイダース、故デービス・オーナーに捧げる逆転勝利”. NFL JAPAN (2011年10月10日). 2012年1月1日閲覧。
  45. ^ 劇的勝利のレイダース、涙とともに新たなスタート”. NFL JAPAN (2011年10月10日). 2012年1月1日閲覧。
  46. ^ レイダース緊急事態、QBキャンベルが今季絶望も”. NFL JAPAN (2011年10月17日). 2012年1月1日閲覧。
  47. ^ レイダース、QBパーマーをトレードで獲得”. NFL JAPAN (2011年10月19日). 2012年1月1日閲覧。
  48. ^ 渡辺史敏 (2011年10月21日). “トレード期限間際で交渉成立、最終的に笑うのは?”. NFL JAPAN. 2012年1月1日閲覧。
  49. ^ レイダース、新HCにマッデン氏以来の守備畑出身コーチが就任へ”. NFL JAPAN (2012年1月25日). 2012年1月26日閲覧。
  50. ^ レイダースはデルリオ新HC誕生、4年契約で招へい”. NFL JAPAN (2015年1月15日). 2016年1月18日閲覧。
  51. ^ DEマックが史上初の快挙、オールプロチーム発表!”. NFL JAPAN (2016年1月9日). 2016年1月18日閲覧。
  52. ^ オールプロ3回の名Sウッドソン、今季限りでの現役引退を表明”. NFL JAPAN (2015年12月22日). 2016年1月18日閲覧。
  53. ^ NFLラムズが来季ロスへ移転 オーナー投票で承認”. 朝日新聞社 (2016年1月13日). 2016年1月18日閲覧。
  54. ^ レイダース、2016年は現スタジアムが本拠地と発表”. NFL JAPAN (2016年2月12日). 2016年5月21日閲覧。
  55. ^ ペイトリオッツ・オーナー、レイダースのラスベガス移転案を支持”. NFL JAPAN (2016年5月21日). 2016年5月21日閲覧。
  56. ^ レイダーズがラスベガス移転を申請へ NFL日刊スポーツ、2017年1月16日閲覧
  57. ^ 近藤祐司 (2008年10月10日). ““ブラックホール”に要注意! レイダースを愛する荒くれ集団”. NFL JAPAN. 2011年2月9日閲覧。

外部リンク[編集]