コンテンツにスキップ

第一次世界大戦の犠牲者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イギリスの写真家、エルンスト・ブルックス (写真家)英語版によってフランス、ソンム近郊のベルナフェ・ウッドで負傷したイギリス軍兵士とドイツ軍兵士を捉えた戦場写真。(1916年7月19日)
ドゥオモン納骨堂フランス語版から見た軍人墓地の様子。1916年のヴェルダンの戦いで亡くなったフランス軍およびドイツ軍兵士の遺骨が納められている。

第一次世界大戦の犠牲者(だいいちじせかいたいせんのぎせいしゃ)は、戦闘員および民間人の犠牲者の総計として約3700万人が記録されている。第一次世界大戦の二大陣営である連合国(協商国)および中央同盟国(同盟国)を合わせた犠牲者数は、戦死者1600万人、戦傷者2,000万人以上を記録しており、これは人類の歴史上、最も犠牲者数が多い戦争の1つと位置付けられている。

上記の数値には約1,000万人の軍属と約700万人の民間人犠牲者が含まれている。第一次世界大戦の対立陣営の1つである連合国では約600万人の軍人が犠牲となり、同盟国では約400万人の軍人が犠牲となった。また、少なくとも戦争を起因とする疾病によって亡くなった者(戦病死者)は200万人、行方不明者は600万人とされている。

第一次世界大戦の戦死者の約3分の2は戦闘中に亡くなっており、19世紀に行われた戦争における大部分の戦死者の死因が病死(戦病死)であったことからその死因が大きく異なっている。医療技術の発達があったものの、犠牲者の全体の3分の1はスペインかぜなどの疾病が死因であった。

犠牲者数の統計について

[編集]

第一次世界大戦における犠牲者の推計値は研究者によって異なっており、900万人から1500万人以上という幅がある[1]。なお、本項に記載されている犠牲者の統計値は、検証可能な公式資料などの二次資料に基づくものである。また、数値に関する出典は下記の注釈に適宜まとめている。

記載されている犠牲者数は、少なくとも戦闘による戦死者約680万人[2]、および、事故、病気、捕虜の待遇にあるうちに死亡した者約300万人とされている。マイケル・クロッドフェルターは「一般的に受け入れられている第一次世界大戦における民間人戦没者の数は650万人」と述べており、第一次世界大戦における民間人戦没者の数を推計することは「冒険的」であるとされている[3]。下記に記載されている民間人戦没者の数値は先の数字よりも約600万人ほど多いものとなっている。その差は、戦争を原因とする栄養失調や病気による死亡者数に相当する。戦争の結果、敵対国に対する通商破壊が行われ、栄養失調や病気の原因となる食糧不足の問題がもたらされた。また、戦争のため動員が下令されると、農業生産を担う人口が数百万単位で払底し、農業生産の縮小という結果を生じさせた。なお、下記の民間人戦没者の数にはアルメニア人虐殺も含まれている。人為的理由によらないスペインかぜによる民間人死亡者数は可能な限り、この統計結果から除外している。また、この統計にはトルコ革命およびロシア内戦による死亡者数は含まれていない。

犠牲者の統計(1914年当時の国境別)

[編集]
連合国 人口 (100万) 戦死者 民間人戦没者(死因:軍事行動) 民間人戦没者(死因:飢餓、病気、事故) 戦没者合計 人口比戦没者 戦傷者
オーストラリアの旗 オーストラリア b 4.5 61,966 61,966 1.38% 152,171
カナダの旗 カナダ d 7.2 64,976 2,000 66,976 0.92% 149,732
イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国 g 315.1 74,187 74,187 0.02% 69,214
ニュージーランドの旗 ニュージーランド l 1.1 18,052 18,052 1.64% 41,317
ニューファンドランド m 0.2 1,570 1,570 0.65% 2,314
南アフリカ連邦の旗 南アフリカ連邦 r 6.0 9,477 9,477 0.16% 12,029
イギリス s 45.4 886,939 2,000 107,000 995,939 2.19% 1,663,435
イギリス帝国(小計) - 1,115,597 2,000 109,000 1,226,597 - 2,090,212
東アフリカ戦線英語版 東アフリカ a 脚注を参照
ベルギーの旗 ベルギー c 7.4 58,637 7,000 55,000 120,637 1.63% 44,686
フランス e 39.6 1,397,800 40,000 260,000 1,697,800 4.29% 4,266,000
ギリシャ王国f 4.8 26,000 150,000 176,000 3.67% 21,000
イタリア王国 h 35.6 651,000 4,000 585,000 1,240,000 3.48% 953,886
大日本帝国 i 53.6 415 415 0% 907
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク j 0.3 脚注を参照
モンテネグロ王国 k 0.5 3,000 3,000 0.6% 10,000
ポルトガルの旗 ポルトガル n 6.0 7,222 82,000 89,222 1.49% 13,751
ルーマニア王国 o 7.5 250,000 120,000 330,000 700,000 9.33% 120,000
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 p 175.1 1,811,000 - 2,254,369 500,000(1914) 1,000,000(1914) 3,311,000 - 3,754,369 1.89% - 2.14% 3,749,000 - 4,950,000
セルビア王国 q 4.5 275,000 150,000 300,000 725,000 16.11% 133,148
アメリカ合衆国の旗 アメリカ t 92.0 116,708 757 117,465 0.13% 205,690
合計 (協商国) 800.4 5,712,379 823,757 2,871,000 9,407,136 1.19% 12,809,280
中央同盟国 人口 (100万) 戦死者 民間人戦没者 (死因:軍事行動) 民間人戦没者 (死因:飢餓、病気、事故) 戦没者合計 人口比戦没者 戦傷者
オーストリア=ハンガリー帝国 u 51.4 1,100,000 120,000 347,000 1,567,000 3.05% 3,620,000
ブルガリア王国 v 5.5 87,500 100,000 187,500 3.41% 152,390
ドイツ帝国の旗 ドイツ帝国 w 64.9 2,050,897 1,000 425,000 2,476,897 3.82% 4,247,143
オスマン帝国の旗 オスマン帝国 x 21.3 771,844 2,150,000 2,921,844 13.72% 400,000
合計 (中央同盟国) 143.1 4,010,241 121,000 3,022,000 7,153,241 5% 8,419,533
中立国
デンマークの旗 デンマーク y 2.7 722 722 0.03% _
ノルウェーの旗 ノルウェー z 2.4 1,892 1,892 0.08% _
スウェーデンの旗 スウェーデン z 5.6 877 877 0.02% _
総計 954.2 9,722,620 948,248 5,893,000 16,563,868 1.75% 21,228,813

犠牲者の統計 (現代の国境別)

[編集]
第一次大戦後におけるヨーロッパの国境線の変化

第一次世界大戦では、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリー、トルコといった国家の内部に多民族を包摂する帝国がこの戦争に参戦し、多民族から構成される帝国内の様々な民族集団は戦争のために召集された。現在の国境線に基づく戦争犠牲者の統計は、1914年当時に存在した国家別の上記の統計と重複している点もある。

オーストリアの旗 オーストリア

[編集]

現在の国境線に基づくオーストリア国内の死亡者数の推計は、2004年に出版された"Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow."の記述に依る[4]

戦没者合計:17万5000人(オーストリア=ハンガリー帝国軍における戦死者:12万人、捕虜の待遇にあるうちに亡くなった戦死者:3万人、飢餓、病気を死因とする民間人戦没者:2万5000人)

ベルギーの旗 ベルギー領コンゴ

[編集]

大戦中、ベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)はベルギー王国の版図の一部であった。

 コンゴ民主共和国 : 戦闘員の戦死者5000人、民間人戦没者15万人[5]

チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア

[編集]

大戦中、チェコスロバキアはオーストリア=ハンガリー帝国の版図の一部であった。下記に記載されたチェコスロバキアにおける戦没者の推計は1991年当時の国境線に基づくものである。

戦没者合計:18万5000人(オーストリア=ハンガリー二重帝国軍における戦闘員の戦死者11万人、捕虜の待遇にあるうちに亡くなった戦没者:4万5000人、飢餓、病気を死因とする民間人戦没者3万人)[6]

エストニア

[編集]

大戦中、エストニアはロシア帝国の版図の一部であり、約10万人のエストニア人がロシア帝国軍の兵役に従事した。このうち約1万人が戦死したとされている[7]

フランスの旗 フランス植民地

[編集]

大戦中におけるフランス植民地領の戦闘員の戦死者の推計を現在の国境別に改めたものを下記に掲げる。フランス軍における戦死者の総計は8万1000人である[8]

アルジェリアの旗 アルジェリア (旧フランス領アルジェリア): 2万6000人
 ベトナム (旧フランス領インドシナ): 1万2000人
マリ共和国の旗 マリ (旧フランス領西アフリカ): 1万人
モロッコの旗 モロッコ (旧フランス保護領モロッコ): 8000人
セネガルの旗 セネガル (旧フランス領西アフリカ): 6000人
ギニアの旗 ギニア (旧フランス領西アフリカ): 2500人
マダガスカルの旗 マダガスカル: 2500人
ベナンの旗 ベナン (旧フランス領西アフリカ): 2000人
ブルキナファソの旗 ブルキナファソ (旧フランス領西アフリカ): 2000人
コンゴ共和国の旗 コンゴ共和国 (旧フランス領赤道アフリカ):2000人
コートジボワールの旗 コートジボワール (旧フランス領西アフリカ): 2000人
チュニジアの旗 チュニジア (旧フランス保護領チュニジア): 2000人
チャドの旗 チャド (旧フランス領赤道アフリカ): 1500人
中央アフリカ共和国の旗 中央アフリカ (旧フランス領ウバンギ=シャリ英語版): 1000人
ニジェールの旗 ニジェール (旧フランス領西アフリカ): 1000人
ガボンの旗 ガボン (旧フランス領赤道アフリカ): 500人

ドイツ帝国の旗 ドイツ植民地

[編集]

大戦中、ドイツ植民地領の戦闘員の戦死者の推計を現在の国境別に改めたものを下記に掲げる。戦闘員の戦死者の総計は約1万7000人である[9]

タンザニアの旗 タンザニア (旧ドイツ領東アフリカ): 2万人
ナミビアの旗 ナミビア (旧ドイツ領南西アフリカ): 1万人
カメルーンの旗 カメルーン (旧ドイツ保護領カメルーン): 5000人
トーゴの旗 トーゴ (旧トーゴランド): 2000人

ハンガリーの旗 ハンガリー

[編集]

大戦中におけるハンガリー国内における戦没者の推計は下記の通りである。

戦没者合計:38万5000人(オーストリア=ハンガリー帝国軍における戦死者27万人、捕虜の待遇にあるうちに亡くなった者7万人、飢餓、病気を死因とする民間人戦没者4万5000人)[10]

アイルランドの旗 アイルランド

[編集]

大戦中、アイルランドはイギリスの一部であった。1922年、アイルランド島の6分の5の州がイギリスから離脱し、現在のアイルランド共和国の前身であるアイルランド自由国を形成した。

第一次世界大戦において、合わせて20万6000人のアイルランド人がイギリス軍の兵役に従事した[11]。イギリス軍に所属するアイルランド人兵士の戦死者数は、記録に残っている数字の総計で、2万7405人である[12]。上記の数字の大部分は、1920年のアイルランド統治法によって分断された北アイルランドの出身者である。アイルランド師団(第10師団、第16師団、および、第36師団)に所属した兵士のうち、約4万9400人が亡くなっており[13]、アイルランド師団における犠牲者数の71%がアイルランド出身であった[12]

ポーランドの旗 ポーランド

[編集]

ポーランドの領土は、1795年から1914年にかけて、ドイツ、オーストリア、ロシアの3か国に分割され、1915年後半までに、ドイツ帝国が今日のポーランド全土に支配を確立した。2005年のポーランド人研究者による調査では、第一次大戦中、占領当事国の軍隊として兵役に従事したポーランド人の推計は約340万人と見積もられている。ポーランド第二共和国時代の国境線に基づく、1914年から1918年までにおける軍民を合わせたポーランド人戦没者数は約113万人と推計されている[14]。また、1945年以後のポーランド国境に基づく、第一次大戦におけるポーランド人戦没者の推計として、戦没者の合計は約64万人(下記に掲げる占領当事国軍隊におけるポーランド人兵士の戦死者:25万人、捕虜の待遇にあるうちに亡くなった者:2万人、軍事行動によって亡くなった民間人戦没者:12万人、飢餓、病気を死因とする民間人戦没者:25万人)[15]

オーストリア=ハンガリー帝国第一次世界大戦におけるポーランド軍団英語版): 6万7000人
ドイツ帝国の旗 ドイツ帝国: 8万7000人
ロシア帝国の旗 ロシア帝国: 9万6000人

ルーマニアの旗 ルーマニア

[編集]

大戦中、トランシルヴァニア地域はオーストリア=ハンガリー帝国の版図の一部であった。現代の国境に基づく大戦におけるルーマニア人戦没者の推計は下記の通りである。

戦没者合計:74万8000人(ルーマニア軍における戦死者:22万人、オーストリア=ハンガリー帝国軍におけるルーマニア人兵士の戦死者15万人、捕虜の待遇にあるうちに亡くなった者4万8000人、飢餓、病気を死因とする民間人戦没者20万人、軍事行動によって亡くなった民間人戦没者12万人、オーストリア政府管轄の刑務所内で亡くなった者1万人)[16]

ルーマニアの旗 ルーマニア王国軍: 戦闘員22万人および民間人33万人
オーストリア=ハンガリー帝国軍: 15万人

イギリスの旗 イギリス植民地

[編集]

第一次大戦中、イギリス帝国を構成するイギリス植民地の出身者における戦死者の推計は、戦没者の合計として3万5700人[17]である。また、イギリスは、インド人、中国人、南アフリカ先住民、エジプト人や他の海外から、戦闘地域における兵站支援業務を担う労働者を雇用していた[18]。東アフリカにおけるイギリス軍の犠牲者には4万4911人の労働者が含まれている[19]。コモンウェルス戦争墓地委員会は、中国人輸送部隊に所属した約2000人の中国人労働者がフランスにおいてイギリス人戦没者と共に埋葬されていることを報告した[20]

ガーナの旗 ガーナ (旧イギリス領ゴールドコースト): 1200人
 ケニア (旧イギリス領東アフリカ): 2000人
マラウイの旗 マラウイ (旧ニヤサランド): 3000人
ナイジェリアの旗 ナイジェリア (旧イギリス領西アフリカ): 5000人
シエラレオネの旗 シエラレオネ (旧イギリス領西アフリカ): 1000人
ウガンダの旗 ウガンダ (旧ウガンダ保護領): 1500人
ザンビアの旗 ザンビア (旧北ローデシア): 3000人

ユーゴスラビア王国

[編集]

ユーゴスラビアにおける犠牲者の推計は、1991年当時の国境に基づくものである。

第一次大戦中、スロベニアクロアチアボスニアはオーストリア=ハンガリー帝国の版図の一部であり、セルビア(現在のマケドニア共和国を含む)やモンテネグロは独立国であった。ユーゴスラビアの歴史家であるウラジミール・デディエル英語版は、第一次世界大戦におけるセルビア人の戦没者数を、戦闘員の戦死者36万9815人、民間人戦没者60万人と推計している[21]。1991年当時のユーゴスラビア国境に基づく第一次世界大戦の犠牲者の推計は次の通り)[22]。戦没者合計約99万6000人(セルビア軍における戦死者:26万人、オーストリア=ハンガリー軍における戦死者:8万人、モンテネグロ軍における戦死者:1万3000人、捕虜の待遇にあるうちに亡くなった者:9万3000人、飢餓、病気を死因とする民間人戦没者:40万人、軍事行動によって亡くなった民間人戦没者:12万人、オーストリア=ハンガリー政府管轄の刑務所内で死亡、または、処刑された者:3万人

ネパールの旗 ネパール

[編集]

第一次世界大戦中(1914年-1918年)のネパールは連合国として参戦した。ネパール軍は拡張され、新たに志願兵で構成された6個連隊(総勢として2万人以上)がインド方面へ派遣され、その多くはイギリス領インド帝国の北西辺境州 (1901-1955)英語版(現在のパキスタン、カイバル・パクトゥンクワ州)に展開していたイギリス軍およびインド軍を救出するための任務に当たった。 同時にネパール政府は現存するイギリス軍グルカ部隊を維持し、追加の部隊を組織できる水準まで部隊の補充を行うことに同意した。ネパール軍の大隊の規模は33個大隊まで増強され、新たに5万5000人が徴募された。そして、グルカ部隊は全戦線において軍務のためにイギリス軍最高司令部の配下に置かれた。多くの義勇兵は陸軍運搬部隊 (the Army Bearer Corps) や徴用部隊などの非戦闘部隊に配置されたが、フランス、トルコ、パレスチナ、メソポタニアなどの他の戦域では部隊も戦闘に参加している。ラナ首相はネパール人男性に戦争で闘うよう強く求めた。イギリス軍に従事した20万人以上のネパール人のうち英印軍に配属された約2万人のグルカ人が犠牲となった[23]

出典に関する注釈

[編集]
イープル突出部英語版で亡くなったフランス軍兵士の墓地。ベルギーイープルにあるイープル国立共同墓地にて
デリーにあるインド門は第一次世界大戦で亡くなったインド人兵士を追悼するために建立された。
同盟別の戦闘員および民間人の犠牲者数の統計
連合国における犠牲者
中央同盟国における犠牲者

戦闘員および民間人の戦死没者の出典として用いた情報源は下記の通り。(ただし次項の「脚注」において記載されているものを除く)

  • コモンウェルス戦争墓地委員会 (CWGC) の2009年度および2010年度の年次報告書は、イギリス帝国における戦闘員の戦死者数に関する情報源である。同報告書に記載された戦死者数合計の数値は、イギリス連邦における戦死者の識別および追悼のために行われた戦争墓地委員会による調査結果に基づくものである。コモンウェルス戦争墓地委員会によって集計された統計には、追悼の対象となるイギリス連邦構成国の軍隊における民間人功労者やイギリスの旧属国であった国家において軍役に従事した者も含まれている。いくつかの協力機関や民間機関では、ある一定の条件の下に死亡の結果が生じた場合に戦争墓地に埋葬される地位を認めている。コモンウェルス戦争墓地委員会では、第一次世界大戦における戦没者の認定の条件として、1914年8月4日から1921年8月31日までの期間に亡くなった者をイギリス連邦における戦死者として認定している。第一次世界大戦における戦没者の合計は111万5597人(イギリスおよびイギリス領植民地:88万6939人、イギリス領インド帝国:7万4187人、カナダ:6万4976人、ニュージーランド:1万8052人、南アフリカ:9477人)である[24]。上記の数字には商船隊の被害も含む。
  • Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920, The War Office March 1922.[25]この公式資料によると、1914年8月4日から1920年12月31日までの期間において、90万8371人の戦闘員が作戦行動中に戦死、戦傷死、捕虜の待遇において死亡、または、作戦行動中に行方不明となったとされる。(ブリテン諸島:70万2410人、インド:6万4449人、カナダ:5万6639人、オーストラリア:5万9330人、ニュージーランド:1万6711人、南アフリカ:7121人、ニューファンドランド:1204人、その他の植民地:507人)また、この数値にはイギリス海軍における戦死および行方不明者3万2287人が含まれている。なお、この数値には、別に記録されているイギリス商船隊における1万4661人の戦死者は含まれていない。イギリス陸軍航空隊イギリス空軍、および、イギリス海軍航空隊における戦死者の数値は、戦死者合計に含まれており、戦争局の報告書には個別に記録されてはいない。なお、ブルガリアおよびポルトガルにおける戦没者は、イギリス陸軍省の報告書に記載されている。
  • テリトリアルを含めたイギリス陸軍(イギリス帝国の各植民地軍は含まれない)における公式な「最終的かつ訂正済みの」犠牲者の数値は1921年3月10日に発表された。それによると、1914年8月4日から1919年9月30日までの期間において、67万3375人の戦死および行方不明者(作戦行動中に死亡、戦傷により死亡、その他の死因による戦死者:57万3507人、行方不明者:25万4176人、その内、解放された捕虜:15万4308人)が記録されている。また、報告書には164万3469人の戦傷者が記録されている[26]
  • Casualties and Medical Statistics published in 1931.[27]Official Medical History of the War の最終巻であり、イギリス帝国軍における死因別の戦没者数に関する出典である。1914年から1918年までの戦闘区域における戦没者の合計は、87万6084人(内、戦死者:41万8361人、戦傷を死因とする戦没者:16万7172人、戦病死・負傷者:11万3173人、行方不明者・推定死亡者:16万1046人、捕虜における戦死者:1万6332人)である。上記の数値は報告が不正確であり、ガリポリの戦いにおける自治領軍隊における犠牲者は含まれていない[19]。また、イギリス海軍における犠牲者数は含まれていない。
  • Huber, Michel La Population de la France pendant la guerre, Paris 1931.[28]カーネギー国際平和財団 (Carnegie Endowment for International Peace) によって公表された調査報告書は、フランス本国および植民地における戦争を原因とする死亡者および行方不明者に関するフランス政府の公式数値が掲載されている。
  • Mortara, Giorgo La Salute pubblica in Italia durante e dopo la Guerra, New Haven: Yale University Press 1925.[29]イタリアにおける戦争犠牲者に関する統計として、イタリア政府による公式資料を用いた。統計データの概要はオンライン上で入手することができる。[30]
  • Urlanis, Boris Wars and Population, Moscow, 1971. Lists the military dead of Russia, Greece, Serbia and Montenegro[31]各国における戦争によって犠牲となった者(戦死者、行方不明者等)に関する出典である。
  • Heeres-Sanitatsinspektion im Reichskriegsministeriums, Sanitatsbericht uber das deutsche Heer, (Deutsches Feld- und Besatzungsheer), im Weltkriege 1914-1918, Volume 3, Sec. 1, Berlin 1934. は戦時下におけるドイツ軍の医療に関わる報告書であり、ドイツ軍における戦死者等の情報に関する出典である。
  • Grebler, Leo and Winkler, Wilhelm The Cost of the World War to Germany and Austria-Hungary この研究報告書はカーネギー国際平和財団によって作成されたものであり、第一次世界大戦におけるドイツおよびオーストリア=ハンガリーの犠牲者に関する詳細が記載されている[32]
  • Erickson, Edward J. Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War[33]
  • Hersch, Liebmann, La mortalite causee par la guerre mondiale, Metron- The International Review of Statistics, 1927, Vol 7. No 1. この調査は学術誌で発表され、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、ポルトガル、セルビア、ルーマニア、ギリシャにおける戦争が人口層に与えた影響について詳述している。全体の戦死没者数はスペインかぜによる死亡者98万4000人を除外した、戦争による民間人戦没者217万1000人分増加すると見ている。間接の戦争犠牲者の死因は第一には貿易の途絶がもたらした食糧不足である。貿易の途絶が唯一の原因ではなく、戦争による動員によって農業労働力から数百万もの男性を根こそぎ奪っていたことも要因となっている[34]
  • Dumas, Samuel (1923). Losses of Life Caused by War. Oxford- この調査は学術誌出版社にて発表され、戦争が民間人人口に与えた影響について詳述している。同調査では各国の民間人過剰死亡数が掲載されている。フランス(26万4000から28万4000人)、イギリス(18万1000人)、イタリア(32万4000人)、ドイツ(69万2000人)[35]
  • Tucker, Spencer C. ed. The European Powers in the First World War: An Encyclopedia これは他で言及されていない戦傷者数に関する出典である。オスマン帝国における民間人死亡者数に関する出典も含まれている[36]

上記の資料のほかに、各国の人口に関する出典として下記の資料を用いた。

  • Haythornthwaite, Philip J., The World War One Source Book Arms and Armour, 1993, 412 pages, ISBN 978-1-85409-102-4.

国および地域別の犠牲者

[編集]

^a東アフリカにおける戦闘(東アフリカ戦線 (第一次世界大戦)英語版)によって、多くの民間人犠牲者を生んだ。"Oxford History of World War One" では「東アフリカおよび中央アフリカにおける戦争の残酷性は、所によって飢餓を伴った深刻な食糧不足、人口の衰退、数十万の人命や家畜を奪った流行病という結果として表れた」[37]という記述がある。第一次世界大戦下のアフリカにおける民間人犠牲者の推計は以下の通り[8]

ケニア:3万人 タンザニア:10万人 モザンビーク:5万人 ルワンダ:1万5000人 ブルンジ:2万人 ベルギー領コンゴ:15万人

イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、ポルトガルにおける戦闘員の戦死者の報告には、各国の軍務に従事したアフリカ人兵士の犠牲者も含まれている。詳細については各国の脚注を参照。

ドイツ軍兵士によって埋葬されるイギリス軍兵士およびオーストラリア軍兵士 (1916年または1917年)

^bオーストラリアにおける犠牲者は、作戦行動中における死亡者および行方不明者合わせて約5万4000人である[31]。オーストラリア人犠牲者に関する情報源であるコモンウェルス戦争墓地委員会による2009年度から2010年度の年次報告書は、犠牲者数は6万1966人であると報告している[24]。ウェストミンスター寺院に保管されている「民間人犠牲者人簿 (Debt of Honour Register)」には、2つの世界大戦において、イギリス連邦各国の軍隊における戦没者約170万人の人前が記されている[38]。1922年度における陸軍省 (イギリス)による報告書には、5万9330人の戦死者が記録されている[39]

^cベルギーにおける犠牲者は、作戦行動中に死亡または行方不明、戦傷による死亡者を合わせて、少なくとも3万5000人である[31]。ベルギー政府公式資料に掲載されているヨーロッパにおける戦闘員の犠牲者の数値は、ヨーロッパ方面における犠牲者合計:4万0367人(戦死、事故死、戦傷による死亡者:2万6338人、病死、行方不明者:1万4029人)、アフリカ戦線における犠牲者合計:1万8270人(アフリカ方面における戦死者:2620人、荷役労働者における死亡者:1万5560人)であり、ヨーロッパおよびアフリカにおける戦没者合計:5万8637人とされている[40]。1922年度におけるイギリス陸軍省が公表した別の資料による推計では、1918年11月までの数値として、戦死者1万3716人および行方不明者2万4456人という数値がある。なお、イギリス陸軍省発表の数値は概算によるものであり、記録は不完全であるとされている[41]アメリカ合衆国旧陸軍省 (United States Department of War) は、1924年に、ベルギーにおける犠牲者数として1万3716人の戦没者を推計している[42]。ベルギーにおける民間人戦没者は、第一次世界大戦前の人口統計値と比較した場合、約9万2000人(栄養失調を原因とする犠牲者:約6万2000人、スペインかぜによる犠牲者:約3万人)が亡くなったとされている[43]。ジョン・ホーン博士による推計では、ベルギーおよびフランスの民間人合わせて約6500人がドイツ軍による報復行為によって亡くなったとされている[44]

^dカナダにおける犠牲者は、作戦行動中に死亡または行方不明、戦傷による死亡者として、少なくとも約5万3000人[31]と考えられている。コモンウェルス戦争墓地委員会の2009年度から2010年度の年次報告書に記載された数値では、戦死者数として6万4976人が記録されている[24]。この数値には、ロイヤル・ニューファンドランド連隊英語版における1297人の戦死者が含まれている。"Canadian Virtual War Memorial"[45]のサイトでは、カナダ軍兵士およびニューファンドランド軍兵士の戦死者が埋葬された墓地や記念施設に関する情報を一覧することができる。ニューファンドランドにおける戦没者は本項目における表では独立して記載されているが、これは大戦当時においてニューファンドランドがカナダに編入されていなかったためである。しかし、上述のサイトではカナダにおける戦没者として含まれている。1922年に公表されたイギリス陸軍省の資料では、5万6639人の戦死者が記録されている[39]。記録されている民間人戦没者はハリファックス大爆発によるものである。

^eフランスにおける犠牲者は少なくとも118万6000人(作戦行動中に戦死、行方不明または戦傷による死亡者)[31]とされる。1931年にカーネギー国際平和財団によって出版された研究資料によると、戦闘員における犠牲者数は139万7800人と試算されている[46]。犠牲者数の合計値には7万1100人のフランス植民地軍兵士、4600人の外国人、2万8600人の戦争を原因とする戦没者(1918年11月11日から1919年6月1日)が含まれている[47]。1922年に出版されたイギリス陸軍省公式資料による試算では、フランスにおける犠牲者数は、戦死者および行方不明者合計:138万5300人(内、植民地軍兵士5万8000人)[48]。年に公表されたアメリカ合衆国旧陸軍省による試算では、フランスにおける犠牲者数は135万7800人とされている[49]。第一次世界大戦中フランスのために戦い、亡くなった兵士の人前のリストが、フランス政府によってオンライン上に掲載されている[50]。フランス語百科事典のQuid (百科事典)フランス語版は、世界40か国から約3万から4万人の義勇兵がフランス軍に従軍したという記述をしている。終戦時には、1万2000人がチェコ軍団および青軍 (ポーランド)に所属していたとされている。

また、外国人によるフランスの軍役への参加しているその他の例として、次に掲げられている。大戦中、5000人のイタリア人がフランス外人部隊に参加しており、また、スペイン人1000人、スイス人1500人が軍役に従事していた。上記のほかに、1914年から1916年にかけての2年間に、200人のアメリカ人義勇兵がフランス軍(ラファイエット飛行中隊英語版など)に従軍したという記録が存在している[51]。大戦中、ルクセンブルク全土はドイツの占領下にあった。3700人のルクセンブルク国籍を有する市民がフランス軍に従軍し、その内75%に当たる2800人が大戦において亡くなった[52]。犠牲となったルクセンブルク人義勇兵は、ルクセンブルクにある黄金の女性英語版像の下に追悼されている。アルメニア人志願兵から構成されるフレンチアルメニア人軍団英語版は、大戦中、フランス陸軍の一部隊として戦闘に参加している。

フランスにおける民間人戦没者数は約50万人と推計されており、その内、30万人が軍事作戦や食糧不足が死亡の原因とされ、残りの20万人はスペインかぜによるものとされている[53]。第一次世界大戦中におけるフランスの民間人戦没者の推移を推計した別の資料によると、全民間人戦没者数は26万4000人から28万4000人と推計されている(スペインかぜによる死亡者は10万人から12万人と推計されており、前記の数値には含まれていない)[54]。民間人戦没者数には1,509人の商船員戦没者[55]、空襲および長距離砲撃による3,357人の戦没者が含まれている[56]。フランス政府は第一次世界大戦の戦闘地域における民間人戦没者の推計値について公表しておらず、三次資料による民間人戦没者数の推計として、約4万人という推計値がある[57][58]

^fギリシャにおける戦没者は、少なくとも約1万1000人(作戦行動中に死亡または行方不明、戦傷による死亡者)である[31]。ソビエト連邦の人口統計学者であるボリス・ウルラニス (Boris Urlanis) は、ギリシャにおける戦死者は2万6000人(内、戦病死者1万5000人)と推計している[59]。第一次世界大戦下のギリシャ軍の作戦史家である Jean Bujac は、戦闘による戦死者:8365人、行方不明者:3255人と推計している[60]。ギリシャにおける戦没者に関する他の推計に関しては以下の通り。

戦死没者:5000人、戦時捕虜および行方不明者:1000人(1922年度におけるイギリス陸軍省公表資料より)[61]
戦死没者:5000人(1924年度におけるアメリカ合衆国旧陸軍省公表資料より)[49]

ギリシャの民間人戦没者(食糧不足およびスペインかぜを死因とする)は約15万人とされる[62]

^gイギリス領インド帝国(現在のインドパキスタンバングラデシュを含む)における犠牲者(作戦行動中における死亡または行方不明、戦傷による死亡者)は、少なくとも約2万7000人である[31]。コモンウェルス戦争墓地委員会の報告書では、戦死者の合計として7万4187人が記録されている[24]。イギリス陸軍省が公表した報告書によると、英印軍の戦死者6万2056人、英印軍におけるイギリス人兵士の戦死者2393人が記録されている[39]

^hイタリアにおける犠牲者は、少なくとも43万3000人(作戦行動中に戦死、行方不明または戦傷による死亡者)とされている[31]。イタリア政府公式資料を基に、1925年にイェール大学出版局が公刊したイタリアの人口動態に関する研究資料によると、戦闘員65万1000人が戦死したとされている。また、同資料は、作戦行動中における死亡者または戦傷による死亡者:37万8000人、疾病死者:18万6000人、戦病死者:8万7000人(1918年11月12日から1920年4月30日までの期間において戦争に起因する疾病)と推計している[63]

イタリアにおける戦闘員の戦死者に関する他の推計資料は次の通り。

戦死者:46万人(1922年度におけるイギリス陸軍省公表資料より)[48]
戦死者:65万人(1924年度におけるアメリカ合衆国旧陸軍省公表資料より)[49]

イタリアの民間人戦没者は約102万1000人とされ、内、58万9000人が食糧不足を死因とする者、残りの43万2000人はスペインかぜによるものとされる[64]。第一次世界大戦中におけるイタリアの民間人戦没者に関する他の推計値として、32万4000人(スペインかぜによる死亡者30万人はこれに含まれず)という数値がある[65]。軍事作戦を死因とする民間人戦没者は3,400人(航行中の船舶に対する攻撃によって亡くなった者:2,293人、空襲によって亡くなった者:958人、海上爆撃による死亡者:142人)である[66]

^i 日本における第一次世界大戦の戦死者数は415人とされている[67]。1924年に公表されたアメリカ合衆国旧陸軍省の資料では、日本の戦死者数は300人と報告している[49]。しかし、マイケル・クロッドフェルターは公式の戦死者は300人であると報告し、「全ての死因を考慮に入れた日本軍の全戦死者に関してより信頼できる数は1344人である。」と言及している[68]

^j 第一次世界大戦下のルクセンブルクは、ドイツ帝国の占領下にあった。ドイツの支配下にあったルクセンブルク人の中には、ドイツ軍の軍役のために徴集された人々がいるほか、連合国軍のために義勇兵として戦闘に参加した人々もいた31。フランス軍に義勇兵として参加したルクセンブルク人は約3700人が記録されており、そのうちの2000人が戦死したとされている。彼らはルクセンブルクにある黄金の女性像の下に追悼されている[52]

^k モンテネグロの犠牲者数に関する試算として、約1万人(戦闘による戦死者:3000人、行方不明者および戦時捕虜:7000人)という推計がある[69]。一方、ユーゴスラビア政府によって1924年に発表された試算値では、モンテネグロ王国の戦死者数として1万3325人とされている[70]。1924年に公表されたアメリカ合衆国旧陸軍省の推計値は、戦死者は約3000人である[49]

^l ニュージーランドにおける戦死者数は少なくとも1万4000人である。(作戦行動中における戦死、行方不明、戦病死者を含む)[31]コモンウェルス戦争墓地委員会の年次報告書(2009年-2010年)では戦死者数1万8052人である[24]。民間人戦没者名簿には二つの大戦の間に亡くなったコモンウェルス各国軍隊の構成員170万人の名前が記載されている[38]。1922年度のイギリス陸軍省報告書にはニュージーランド軍の戦死者として1万6711人が記載されている[39]

^m ニューファンドランドは大戦当時、独立したドミニオンでありカナダの一地方ではなかった。1922年度におけるイギリス陸軍省の報告では、戦死者1204人が記録されている[24]。現在ではコモンウェルス戦争墓地委員会はニューファンドランドにおける犠牲者をカナダやイギリスのそれに含めている。ニューファンドランドで出版されたある学術誌によって同国における戦死者に関する詳細が判明している。それによると、全戦死者数は1570人であり、内、ロイヤル・ニューファンドランド連隊英語版における戦死者1297人、イギリス海軍における戦死者171人、商船隊における戦死者101人である[71]

^n ポルトガルにおける犠牲者は少なくとも6000人(作戦行動中に戦死、行方不明、戦傷死した者を含む)である[31]。イギリス陸軍省資料による全体の犠牲者は7022人であり、1920年1月1日までに戦死その他の死因で亡くなった者が含まれている。地域別の内訳はフランス:1689人、アフリカ:5333人である。この数値には行方不明者および捕虜合わせて1万2318人は含まれていない。なお、アフリカ人犠牲者の数値は含まれている[39]。 アメリカ旧陸軍省が1924年に公表した、ポルトガルの犠牲者に関する推計では戦死没者7222人とされている[49]。大戦以前と比較した民間人戦没者数は22万人であり、内、食糧不足によって亡くなった者は8万2000人、スペインかぜによる死者は13万8000人である[72]

^o ルーマニアにおける犠牲者は少なくとも17万7000人(作戦行動中に戦死、行方不明、戦病死者を含む)である[31]。上記の統計にある戦死者25万人の数値は、「国際労働機関 (ILO) が配布した質問紙への回答を基にルーマニア政府によって公表された数値」である[73]。ルーマニア人犠牲者に関する他の推計については以下の通りである。

死者および行方不明者33万5706人(1922年のイギリス陸軍省資料)[74]
死者および行方不明者33万5706人(1924年のアメリカ旧陸軍省資料)[49]
大戦以前と比べた民間人戦没者数は43万人(軍事行動、食料不足、伝染病、スペインかぜによる死者を含む)である[75]

2004年にロシア人ジャーナリストによって出版された20世紀における戦争犠牲者についてまとめた便覧によると、軍事行動によってルーマニア民間人12万人が死亡したほか、オーストリア=ハンガリーによって1万人が捕虜の待遇に置かれ、飢饉や疾病によって20万人が亡くなったとされる[76]

^p ロシア帝国における犠牲者数の出典は、ソ連の人口統計学者ボリス・ウラニスによると「確認することが困難」であるとされている。犠牲者数は1925年にソヴィエト中央統計局によって作成された大戦期における公式資料に基づいており、それによるとロシア人犠牲者数は703万6087人(戦死者62万6440人、戦傷死者1万7174人、行方不明者および捕虜収容者363万8271人、戦傷者275万4202人)とされる[77]。ウラニスは犠牲者に関する公式発表値は「記録の大部分が(軍の)退却の際に失われた」ために「かなり少なく見積もられている」と考察している。ウラニスは実際の戦死者の総数は181万1000人(作戦行動中に戦死または行方不明となった者:120万人、戦傷死者:24万人、ガス攻撃による戦死者:1万1000人、戦病死者:15万5000人、捕虜収容者における死者:19万人、事故その他の死因によって亡くなった者:1万5000人)と推計している[31]。ロシア軍事史家のG.F.クリヴォシエフ (Кривошеев Г.Ф.) が2001年に発表した研究によるとロシア軍における戦死者は225万4369人(作戦行動中の戦死者:120万人、行方不明者および推定死亡者:43万9369人、戦傷死者:24万人、ガス攻撃による戦死者:1万1000人、戦病死者:15万5000人、捕虜収容者における死者:19万人、事故その他の死因によって亡くなった者:1万9000人)、戦傷者:374万9000人、捕虜収容者:238万4000人と推計している[78]
ロシア人犠牲者に関する他の推計については以下の通りである。:戦死者170万人(1922年度イギリス陸軍省資料)[74]戦死没者170万人(1924年度アメリカ旧陸軍省資料)[8][49]
大戦以前と比べた1914年度の国境に基づく民間人戦没者は150万人(飢餓、疾病、軍事作戦を死因とする)[79]であり、ポーランドを含まない第一次世界大戦後の国境に基づく民間人戦没者は107万人(飢餓および疾病によって亡くなった者:73万人、軍事作戦によって亡くなった者:34万人)[8]とされる。

^q セルビア王国における犠牲者は少なくとも16万5000人(作戦行動中に戦死または行方不明、戦傷死した者を含む)とされる[31]。ソ連の人口統計学者ボリス・ウラニスによって推計されたセルビア人とモンテネグロ人の戦死者を合算した数値は27万8000人である[80]。セルビア人犠牲者に関する他の推計については以下の通りである。

戦死者36万5164人(1924年度のユーゴスラビア政府による試算)[80]
死者および行方不明者4万5000人(1922年度イギリス陸軍省資料)[61]
戦死没者4万5000人(1924年度アメリカ旧陸軍省資料)[49]

大戦前と比べた民間人戦没者数は45万人(軍事作戦、食糧不足、伝染病、スペインかぜによって亡くなった者)とされる[81]。2004年にロシア人ジャーナリストによって出版された20世紀における戦争犠牲者についてまとめた便覧によると、軍事行動によって亡くなったセルビア人民間人は12万人とされ、3万人がオーストリア=ハンガリーによって捕虜の待遇に置かれたとされる[82]

^r 南アフリカにおける戦死者は少なくとも5000人(作戦行動中に戦死または行方不明、戦傷死した者)である[31]コモンウェルス戦争墓地委員会の年次報告書(2009年-2010年)は南アフリカ軍における全戦死者を9477人とする出典である。[24]
1922年のイギリス陸軍省の資料では戦死者は7121人となっている[39]

戦死したイギリス軍の操縦士 (1917年)

^s イギリスと植民地における戦死者は少なくとも62万4000人(作戦行動中に戦死または行方不明、戦病死した者)である[31]コモンウェルス戦争墓地委員会の年次報告書(2009年-2010年)はイギリス軍(ニューファンドランドを含む)における戦死者を88万6939人とする出典である[24]。民間人戦没者名簿には二つの大戦においてコモンウェルス各国軍において亡くなった男女170万人の名前が記載されている[38]。なお、ニューファンドランドにおける犠牲者は本項における表に独立して掲載されている。

テリトリアルを含むイギリス軍における「最終的かつ訂正済みの」公式戦死者数は1921年3月10日に公表された。それによると1914年8月4日から1919年9月30日までの期間において、57万3507人が作戦行動中に戦死または戦傷によって亡くなり、25万4176人が行方不明となった。また、解放された捕虜は少なくとも15万4308人とされ、死者および行方不明者を合わせると67万3375人に上った[26]

1922年度に公表されたイギリス陸軍省の資料は正規軍およびテリトリアル、イギリス海軍において「命を失った兵士」や「作戦行動中に戦死、捕虜の待遇にあるうちに死亡、戦傷によって死亡および行方不明」となった犠牲者について詳述している。それによると、イギリス軍において70万2410人が犠牲となり、「その他の植民地」において507人が犠牲となり、英印軍では2393人が犠牲となったと記述されている[39]。また、上記の数値にはイギリス海軍における戦死者3万2287人が含まれている[83]。なお、商船隊の戦死者1万4661人は当該資料とは別に記載されている[83]イギリス空軍における全戦死者数は陸軍省資料に含まれている[84]

大戦前と比べた民間人戦没者数は29万2000人(内、食糧不足によって亡くなった者:10万9000人、スペインかぜによる死者:18万3577人)である[85]

第一次大戦期のイギリスにおける民間人の人口統計学的損失に関する他の推計では、18万1000人(スペインかぜによる死者10万人を除く)としている[86]。1922年度イギリス陸軍省資料ではイギリス人の民間人1260人が死亡し、空襲および海上爆撃によってイギリス軍関係者310人が戦死したとある[87]。Uボートによる攻撃によってイギリスの民間人908人が死亡したほか、漁業関係者63人が死亡した[88]

^tアメリカ合衆国における戦死者に関する公式な数値はアメリカ旧陸軍省によって作成された。1918年12月31日までの期間に11万6516人(戦闘による死者:5万3402人、戦闘以外の死因による死者:6万3114人)が記録されている[89]。また、アメリカ沿岸警備隊では192人が犠牲となっている[90]
アメリカ合衆国政府はルシタニア号における死者128人とアメリカ合衆国商船隊英語版の船員629人合わせて757人を民間人犠牲者として推計している[91]

フランスで戦死したドイツ軍兵士 (1917年)

^u オーストリア=ハンガリーにおける犠牲者は少なくとも90万人(作戦行動中に戦死または行方不明、戦傷によって死亡した者)である[31]。オーストリア=ハンガリー軍における推定戦死者を110万人とする数値はオーストリア=ハンガリー帝国陸軍省の分析に基づき、1940年にカーネギー国際平和財団から公刊された研究資料に由来する[32]。Other estimates of Austro-Hungarian casualties are as follows: By Austrian Ministry of Defense in 1938: Military dead 1,016,200オーストリア=ハンガリーにおける犠牲者に関する他の推計については以下の通り。

戦死者101万6200人(1938年のオーストリア国防省による)[92]
死者120万人(1922年度イギリス陸軍省資料)[93]
戦死没者120万人(1924年度アメリカ合衆国旧陸軍省資料)[49]

1940年のカーネギー国際平和財団から発表された研究では「戦争を原因とする」民間人戦没者(主な死因は飢餓とする)を46万7000人と推計している[94]。また、2004年にロシア人ジャーナリストによって出版された20世紀における戦争犠牲者についてまとめた便覧によると、オーストリア=ハンガリー帝国のガリツィアにおける軍事行動によって亡くなった民間人は12万人と推計している[82]

^v ブルガリアにおける犠牲者は少なくとも6万2000人(作戦行動中に戦死または行方不明、戦傷によって死亡した者)である[31]。ブルガリア陸軍省は全戦死者数は8万7500人(戦死:4万8917人、戦傷死:1万3198人、事故死:888人、戦病死:2万4497人)と推計しており、「退却中における疾病または物資の不足によって亡くなった人数はブルガリア政府が出した統計値よりもはるかに多かった」とされている[39]。 アメリカ合衆国旧陸軍省が1924年に出した資料ではブルガリアの戦死没者を8万7500人と記載している[49]
大戦前と比べた民間人戦没者数は10万人(食糧不足に起因する)とされる[95]

機関銃座の残骸に散乱しているドイツ軍兵士の遺体 (1916年、ギーユモン近郊)

^wドイツ帝国の戦争犠牲者数は少なくとも179万6000人(作戦行動中における戦死、行方不明、または、戦傷による死亡者)である[31]。ドイツ帝国の公式資料では戦没者数として203万6897人が記録されており、その中には全死因を集計した確認済戦死者数も含まれている。

陸軍における戦死者:190万876人、海軍における戦死者:3万4836人、植民地軍における戦死者:1185人、行方不明者および推定死亡者の推計値:10万人[96]

なお、上記の数値にはアフリカ人徴集兵の戦死者:1万4000人が含まれていないため、その数値を考慮に入れる必要がある(戦没者合計:205万890人)[97]。ドイツにおける犠牲者数に関するその他の推計値は以下の通り。

戦死者:180万8545人(アフリカ人徴集兵における戦死者:1万4000人はこれに含まれず)、民間人戦没者:720人[98](空襲を死因とする者)(1922年度におけるイギリス陸軍省公式資料より)[39]
戦死没者:177万3700人(1924年度におけるアメリカ合衆国旧陸軍省公式資料より)[49]

ドイツ政府が公刊した民間人戦没者の統計資料によると、ドイツ封鎖によって76万3000人が栄養不良や疾病によって亡くなったと報告している[99][100]

この数値は後の研究によって疑問視されており、それによると封鎖による全体の死亡者は42万4000人とされている[101]
1918年12月にドイツ政府は封鎖を原因とする民間人の死者は72万2796人(1918年に流行したスペインかぜによる死者は含まれていない)であると試算している。1918年の最後の6か月における死者数が試算されている[102]。モーリス・パーメリー (Maurice Parmelle) は「戦前の死亡者数を上回る超過死亡者のすべてを封鎖が原因であるとすることは決して正確であるとはいえない」と主張しており、ドイツが公表した数値は「いくらか誇張されている」という見解をとっている[103]。ドイツの主張は休戦条約の締結後の1918年11月から1919年6月までの間に連合国によるドイツ封鎖を解くためにドイツがプロパガンダを行っていた時期になされたものであった。 また、1919年においてもドイツは自国の無制限潜水艦作戦に対抗するために行われた、封鎖という連合国の攻撃に反論するためその問題を取り上げていた[104][105]
1928年、カーネギー国際平和財団の後援の下に行われたドイツの学術的調査によって大戦期のドイツ国内における民間人戦没者の徹底的な分析が行われた。その調査によるとドイツ国内(アルザス=ロレーヌは含まれない)における1歳以上の戦争関連死者は42万4000人と推計された。著者は戦前の死亡率を上回る児童の死亡数は1917年から1918年にかけての食糧および燃料不足が主な要因であるとみなしている。またこの調査では1918年にスペインかぜで別に亡くなった者は20万9000人と推計している[106]。1940年にカーネギー国際平和財団の後援の下、行われた研究ではドイツにおける民間人の全死亡者数は60万人以上であると推計した。上記の1928年に行われたドイツ国内の研究では、著者は「徹底的な調査により、戦争に起因する『民間人』死亡者数は42万4000人であり、なお、この数値にインフルエンザ流行による死者約20万人を付け加えなければならないという結果に至った。」と主張した[101]
休戦条約締結後の1918年11月から1919年6月までの間に行われたドイツ封鎖の期間に別に亡くなった民間人76万3000人は数値には含まれていない。1919年4月に発表された記事においてマックス・ルブナー博士は休戦条約の締結後も行われたドイツ封鎖によって10万人のドイツ市民が死亡したと主張した[107]。イギリスでは自由党に所属する反戦活動家ロバート・スミリー英語版は、1919年6月、10万人のドイツ市民が亡くなったと原因と主張した継続しているドイツ封鎖を非難する声明を出した[108][109]

アルメニア人虐殺による犠牲者の遺体 (アナトリア半島東部の都市、エルズィンジャン[110]

^x オスマン帝国における戦死者数はオスマン帝国の公文書の記述に基づくものであり、戦没者合計:77万1844人(内、作戦行動中における戦死者:24万3598人、行方不明者:6万1487人、病死者:46万6759人)、戦傷者76万3753人、および、戦時捕虜14万5104人[111][112]とされる。その他のオスマン帝国における戦没者の推計資料としては下記が挙げられる。戦死者:5万人、戦傷による死亡者:3万5000人、戦病死者:24万人(イギリス戦争局公表資料 1922年度)[113] 戦死没者合計:32万5000人(アメリカ旧陸軍省公表資料 1924年度)[49]
オスマン帝国における民間人の犠牲者数の推計は、200万人[114]から215万人[36][58][115]まで幅広い数値をとっている。民間人犠牲者の数値には、アルメニア人虐殺の犠牲者が含まれているが、この数値を戦没者統計に含めるべきかについては議論がある。アルメニア人の死亡者は一般的に、100万人から150万人であると考えられている[116][117][118][119][120]。また、同時期において、アッシリア人虐殺英語版ギリシャ人虐殺英語版のように、オスマン帝国内の民族集団に対する殺害行為が行われた。一部の学者は、これらの事件を、先のアルメニア人虐殺などのオスマン帝国による民族根絶政策の一例として考察している[121][122][123]。1914年から1922年までの8年間におけるオスマン帝国の犠牲者は、約500万人[124]と考えられており、その中には、スペインかぜによって亡くなった者が含まれている。なお、トルコ革命 (1919年-1922年) およびギリシャとトルコの住民交換を原因とする人口の減少値は犠牲者の統計には含めていない。

^yデンマークは第一次世界大戦において中立国であったが、現在のデンマーク、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の地域は、大戦中、ドイツ帝国の版図の一部であった。この地域からは約3万人がドイツ軍の軍役に従事し、そのうち約3900人が戦死した。この戦死者数はドイツの犠牲者数に合算されている。デンマークの犠牲者は商船員、漁業従事者における722人の戦没者であり、その多くはドイツ軍の潜水艦によって発射された魚雷による被害である[125]

^zノルウェースウェーデンは第一次世界大戦中、中立国であり、交戦地域において船舶および商船の船員が犠牲となった。ノルウェーは戦争によって保有する商船の約50%を失っており、これは第一次大戦の国家の中で高い損失率を記録している[126]。人的損失として、ノルウェー商船の船員の戦没者は1892人であり、大部分はドイツ海軍の潜水艦によって発射された魚雷による被害である。また、スウェーデン商船の船員の戦没者は877人であり、魚雷または船舶が機雷に触雷した被害が原因とされる[127]

出典

[編集]
  1. ^ Matthew White, Source List and Detailed Death Tolls for the Primary Megadeaths of the Twentieth Century
  2. ^ Urlanis, Boris (1971). Wars and Population. Moscow. p. 85.
  3. ^ Clodfelter, Michael (2002). Warfare and Armed Conflicts- A Statistical Reference to Casualty and Other Figures, 1500-2000 2nd Ed.. ISBN 978-0-7864-1204-4. Page 479
  4. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Page 36 ISBN 978-5-93165-107-1.
  5. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Page 88 ISBN 978-5-93165-107-1.
  6. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Page 54 ISBN 978-5-93165-107-1.
  7. ^ Estonian War Museum - General Laidoner Museum
  8. ^ a b c d Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Pages 59 and 83-99 ISBN 978-5-93165-107-1.
  9. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Pages 83-99 ISBN 978-5-93165-107-1.
  10. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Pages 41 ISBN 978-5-93165-107-1.
  11. ^ Fergus Campbell, Land and Revolution, Nationalist Politics in the West of Ireland 1891-1921, p196
  12. ^ a b David Fitzpatrick, Militarism in Ireland, 1900-1922, in Tom Bartlet, Keith Jeffreys ed's, p392
  13. ^ Duchas The Heritage Service, Visitors Guide to the Gardens
  14. ^ Andrzej Gawryszewski (2005). Ludnosc Polski w XX wieku. Warsaw.
  15. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Pages 49 ISBN 978-5-93165-107-1.
  16. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Page 51 ISBN 978-5-93165-107-1.
  17. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Pages and 83-99 ISBN 978-5-93165-107-1.
  18. ^ Chris Baker www.1914-1918.net The Labour Corps of 1917-1918
  19. ^ a b Mitchell, T.J. (1931). Casualties and Medical Statistics of the Great War. London: Reprinted by Battery Press (1997).Page 12 ISBN 978-0-89839-263-0
  20. ^ Commonwealth War Graves Commission, THE CHINESE LABOUR CORPS AT THE WESTERN FRONT
  21. ^ Vladimir Dedijer, History of Yugoslavia McGraw-Hill Inc.,US, 1975 ISBN 0-07-016235-2 Page 501
  22. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Page 55 ISBN 978-5-93165-107-1.
  23. ^ US Library of Congress A Country Study: Nepal
  24. ^ a b c d e f g h The Commonwealth War Graves Commission (CWGC) Annual Report 2009-2010
  25. ^ The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. p. 237. ISBN 978-1-84734-681-0.
  26. ^ a b The Army Council. General Annual Report of the British Army 1912-1919. Parliamentary Paper 1921, XX, Cmd.1193.,PartIV p. 62-72
  27. ^ Mitchell, T.J. (1931). Casualties and Medical Statistics of the Great War. London: Reprinted by Battery Press (1997) ISBN 978-0-89839-263-0
  28. ^ Huber, Michel (1931). La Population de la France pendant la guerre. Paris.
  29. ^ Mortara, G (1925). La Salute pubblica in Italia durante e dopo la Guerra. New Haven: Yale University Press.
  30. ^ go to Vol 13, No. 15
  31. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Urlanis, Boris (1971). Wars and Population. Moscow Page 85
  32. ^ a b Grebler, Leo (1940). The Cost of the World War to Germany and Austria-Hungary. Yale University Press.
  33. ^ Erickson, Edward J., Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War, Greenwood 2001. ISBN 978-0-313-31516-9
  34. ^ The article is available from Metron, the publisher
  35. ^ Dumas, Samuel (1923). Losses of Life Caused by War. Oxford.
  36. ^ a b Tucker, Spencer C (1999). The European Powers in the First World War: An Encyclopedia. New York: Garland Publishing. ISBN 978-0-8153-3351-7.
  37. ^ Strachan, Hew (1999). World War I: A History. Oxford University Press. ISBN 978-0-19-820614-9 Page 100
  38. ^ a b c Research world war casualties
  39. ^ a b c d e f g h i The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. p. 237. ISBN 978-1-84734-681-0
  40. ^ l'Annuaire statistique de la Belgique et du Congo Belge 1915-1919. Bruxelles. 1922
  41. ^ The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. p. 352. ISBN 978-1-84734-681-0
  42. ^ US War Dept 1924 data listed in the Encyclopadia Britannica
  43. ^ Hersch, L., La mortalite causee par la guerre mondiale, Metron- The International Review of Statistics, 1927, Vol 7.P59-62
  44. ^ Horne, John and Kramer, Alan, German Atrocities, 1914 ISBN 978-0-300-08975-2
  45. ^ Canadian Virtual War Memorial
  46. ^ Huber, Michel (1931). La Population de la France pendant la guerre. Paris
  47. ^ Huber, Michel (1931). La Population de la France pendant la guerre. Paris Page 414
  48. ^ a b The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. p.352. ISBN 978-1-84734-681-0
  49. ^ a b c d e f g h i j k l m US War Dept 1924 data listed in the Encyclopadia Britannica
  50. ^ Memoire des hommes
  51. ^ Quid.
  52. ^ a b National Museum of Military History in Diekirch, Luxembourg
  53. ^ Hersch, L., La mortalite causee par la guerre mondiale, Metron- The International Review of Statistics, 1927, Vol 7. Pages 30-47
  54. ^ Dumas, Samuel (1923). Losses of Life Caused by War. Oxford. Page 157
  55. ^ Huber, Michel (1931). La Population de la France pendant la guerre. Paris.Page 314
  56. ^ Huber, Michel (1931). La Population de la France pendant la guerre. Paris Pages 312-313
  57. ^ Ellis, John (1993). World War I Databook. Aurum Press. ISBN 978-1-85410-766-4, Page 269
  58. ^ a b Randal Grey. Chronicle of World War I, Vol2 Facts on File 1991 ISBN 0-8160-2139-2 Page 292
  59. ^ Urlanis, Boris (1971). Wars and Population. Moscow page 160
  60. ^ Bujac, Jean, Les campagnes de l'armee Hellenique, 1918-1922, Paris, 1930
  61. ^ a b The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. ISBN 978-1-84734-681-0 Page 353
  62. ^ Hersch, L., La mortalite causee par la guerre mondiale, Metron- The International Review of Statistics, 1927, Vol 7.Pages 80-81
  63. ^ Mortara, G (1925). La Salute pubblica in Italia durante e dopo la Guerra. New Haven: Yale University Press.P 28-29
  64. ^ Hersch, L., La mortalite causee par la guerre mondiale, Metron- The International Review of Statistics, 1927, Vol 7.Pages 52-59
  65. ^ Dumas, Samuel (1923). Losses of Life Caused by War. Oxford. Page 165
  66. ^ Mortara, G (1925). La Salute pubblica in Italia durante e dopo la Guerra. New Haven: Yale University Press Pages 57-66
  67. ^ Harries, Merion (1991). Soldiers of the Sun-The Rise and Fall of the Imperial Japanese Army. Random House. ISBN 978-0-679-75303-2 Page 111
  68. ^ Warfare and Armed Conflicts- A Statistical Reference to Casualty and Other Figures, 1500-2000 2nd Ed Clodfelter, Michael 2002 ISBN 978-0-7864-1204-4 page483
  69. ^ Warfare and Armed Conflicts- A Statistical Reference to Casualty and Other Figures, 1500-2000 2nd Ed Clodfelter, Michael 2002 ISBN 978-0-7864-1204-4 page 483
  70. ^ Urlanis, Boris (1971). Wars and Population. Moscow Page 62-63
  71. ^ Sharpe, Christopher A. “The ‘Race of Honour’: An Analysis of Enlistments and Casualties in the Armed Forces of Newfoundland: 1914-18,” Newfoundland Studies 4.1 (Spring 1988): 27-55. Newfoundland Studies is available online
  72. ^ Hersch, L., La mortalite causee par la guerre mondiale, Metron- The International Review of Statistics, 1927, Vol 7.Pages 61-64
  73. ^ Urlanis, Boris (1971). Wars and Population. Moscow Page 64
  74. ^ a b The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. p.353. ISBN 978-1-84734-681-0
  75. ^ Hersch, L., La mortalite causee par la guerre mondiale, Metron- The International Review of Statistics, 1927, Vol 7.Pages 76-80
  76. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. ISBN 978-5-93165-107-1. Page 51
  77. ^ Головин Н.Н. ≪Военные усилия России в мировой войне≫ в 2-х томах. Париж, 1939
  78. ^ Кривошеев Г.Ф. Россия и СССР в войнах XX века. М., 2001 - Потери русской армии, табл. 52, Krivosheeva, G.F. (2001).Rossiia i SSSR v voinakh XX veka : poteri vooruzhennykh sil : statisticheskoe issledovanie / pod obshchei redaktsiei. Moscow: OLMA-Press
  79. ^ Urlanis, Boris (1971). Wars and Population. Moscow Pages 268
  80. ^ a b Urlanis, Boris (1971). Wars and Population. Moscow Pages 62-64
  81. ^ Hersch, L., La mortalite causee par la guerre mondiale, Metron- The International Review of Statistics, 1927, Vol 7.Pages 65-76
  82. ^ a b Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. ISBN 978-5-93165-107-1. Page 55
  83. ^ a b The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. p. 339. ISBN 978-1-84734-681-0
  84. ^ The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. p. 495-509. ISBN 978-1-84734-681-0
  85. ^ Hersch, L., La mortalite causee par la guerre mondiale, Metron- The International Review of Statistics, 1927, Vol 7.Pages 47-61
  86. ^ Dumas, Samuel (1923). Losses of Life Caused by War. Oxford. Page 151
  87. ^ The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. ISBN 978-1-84734-681-0.Pages 674-676
  88. ^ Gilbert, Martin (1994). Atlas of World War I. Oxford UP. ISBN 978-0-19-521077-4
  89. ^ Congressional Research Service, American War and Military Operations Casualties:Lists and Statistics
  90. ^ Warfare and Armed Conflicts- A Statistical Reference to Casualty and Other Figures, 1500-2000 2nd Ed. Clodfelter, Michael 2002 ISBN 978-0-7864-1204-4 page 481
  91. ^ American Merchant Marine at War, www.usmm.org
  92. ^ Osterreichischen Bundesministerium fur Herrswesen (1938). Osterreich-Ungarns letzer Kreig, 1914-1918 Vol. 7. Vienna.VII, Beilage 37
  93. ^ The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. p.357 ISBN 978-1-84734-681-0
  94. ^ Grebler, Leo (1940). The Cost of the World War to Germany and Austria-Hungary. Yale University Press. Page 147
  95. ^ Urlanis, Boris (1971). Wars and Population. Moscow Page 268
  96. ^ Heeres-Sanitaetsinspektion im Reichskriegsministeriums (1934) (in German). Sanitaetsbericht uber das deutsche Heer, (deutsches Feld- und Besatzungsheer), im Weltkriege 1914-1918. Volume 3, Sec 1. Berlin. Pages 12-14
  97. ^ The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. p.355 ISBN 978-1-84734-681-0
  98. ^ The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. p. 687. ISBN 978-1-84734-681-0.
  99. ^ "The National Archives: The Blockade of Germany
  100. ^ C. Paul Vincent, The politics of hunger : the allied blockade of Germany, 1915-1919 Athens, Ohio : Ohio University Press, c1985ISBN 978-0-8214-0831-5 Page 141
  101. ^ a b Grebler, Leo (1940). The Cost of the World War to Germany and Austria-Hungary. Yale University Press. Page78
  102. ^ Germany. Gesundheits-Amt.Schaedigung der deutschen Volkskraft durch die feindliche Blockade. Denkschrift des Reichsgesundheitsamtes, Dezember 1918. (Parallel English translation) Injuries inflicted to the German national strength through the enemy blockade. Memorial of the German Board of Public Health, 27 December 1918 [Berlin, Reichsdruckerei,]
  103. ^ Blockade and sea power; the blockade, 1914-1919, and its significance for a world state, by Maurice Parmelle New York, Thomas Y. Crowell Co. [1924] Page 221-226
  104. ^ The Times London January 18, 1919
  105. ^ The Blockade of Germany after the Armistice 1918-1919 Bane, S.L. 1942 Stanford University Press page 699-700
  106. ^ Bumm, Franz, ed., Deutschlands Gesundheitsverhaltnisse unter dem Einfluss des Weltkrieges, Stuttgart, Berlin [etc.] Deutsche Verlags-Anstalt; New Haven, Yale University Press, 1928 Pages 22 to 61
  107. ^ Dr. Max Rubner, Von der Blockde und Aehlichen, Deutsche Medizinische Wochenschrift Berlin, 10 April 1919 Vol. 45 Nr.15
  108. ^ Common Sense(London)July 5, 1919.
  109. ^ The Blockade of Germany after the Armistice 1918-1919 Bane, S.L. 1942 Stanford University Press page 791
  110. ^ “Twenty-Seven”, Ambassador Morgenthau's Story, BYU, (1918), http://net.lib.byu.edu/~rdh7/wwi/comment/morgenthau/Morgen27.htm .
  111. ^ Erickson, Edward J., Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War, Greenwood 2001. ISBN 978-0-313-31516-9 Page 211
  112. ^ Emin, Ahmed (1930). Turkey in the World War. Yale.
  113. ^ The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. ISBN 978-1-84734-681-0
  114. ^ Ellis, John (1993). World War I-Databook. Aurum Press. ISBN 978-1-85410-766-4. Page 270
  115. ^ Warfare and Armed Conflicts- A Statistical Reference to Casualty and Other Figures, 1500-2000 2nd Ed. Clodfelter, Michael 2002 ISBN 978-0-7864-1204-4 page 483
  116. ^ Totten, Samuel, Paul Robert Bartrop, Steven L. Jacobs (eds.) Dictionary of Genocide. Greenwood Publishing Group, 2008, p. 19. ISBN 978-0-313-34642-2.
  117. ^ Noel, Lise. Intolerance: A General Survey. Arnold Bennett, 1994, ISBN 978-0-7735-1187-3, p. 101.
  118. ^ Schaefer, T (ed.). Encyclopedia of Race, Ethnicity, and Society. Los Angeles: SAGE Publications, 2008, p. 90.
  119. ^ The criminal law of genocide: international, comparative and contextual aspects Ralph J Henham and Paul Behrens 2007 page 17.
  120. ^ Levon Marashlian Politics and Demography: Armenians, Turks, and Kurds in the Ottoman Empire. Cambridge, Massachusetts, USA Zoryan Institute 1991.
  121. ^ International Association of Genocide Scholars Resolution_on_genocides_committed_by_the_Ottoman_Empire
  122. ^ Gaunt, David. Massacres, Resistance, Protectors: Muslim-Christian Relations in Eastern Anatolia during World War I. Piscataway, New Jersey: Gorgias Press, 2006.
  123. ^ Schaller, Dominik J; Zimmerer, Jurgen (2008). “Late Ottoman genocides: the dissolution of the Ottoman Empire and Young Turkish population and extermination policies - introduction”. Journal of Genocide Research 10 (1): 7-14. doi:10.1080/14623520801950820. 
  124. ^ The Israel-Palestine Conflict: One Hundred Years of War Gelvin, James L.Cambridge University Press ISBN 978-0-521-85289-0 Page 77
  125. ^ and Southern Jutland during the First World War
  126. ^ Norway info -The history of Norway”. Cyberclip.com. 2010年9月12日閲覧。
  127. ^ World War I Swedish Ship Losses”. Mareud.com (2009年5月18日). 2010年9月12日閲覧。

参考文献

[編集]
  • Urlanis, Boris (1971). Wars and Population. Moscow 
  • Heeres-Sanitaetsinspektion im Reichskriegsministeriums (1934) (German). Sanitaetsbericht uber das deutsche Heer, (deutsches Feld- und Besatzungsheer), im Weltkriege 1914-1918. Volume 3, Sec 1. Berlin 
  • Dumas, Samuel (1923). Losses of Life Caused by War. Oxford 
  • Clodfelter, Michael (2002). Warfare and Armed Conflicts- A Statistical Reference to Casualty and Other Figures, 1500-2000 2nd Ed.. ISBN 978-0-7864-1204-4 
  • The War Office (1922). Statistics of the Military Effort of the British Empire During the Great War 1914-1920. Reprinted by Naval & Military Press. ISBN 978-1-84734-681-0 
  • Huber, Michel (1931). La Population de la France pendant la guerre. Paris 
  • Bujac, Jean, Les campagnes de l'armee Hellenique, 1918-1922, Paris, 1930
  • Erickson, Edward J., Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War, Greenwood 2001. ISBN 978-0-313-31516-9
  • The Commonwealth War Graves Commission Debt of Honour Register
  • Grey, Randal (1991). Chronicle of the First World War, Vol II: 1917-1921. Facts On File. ISBN 978-0-8160-2595-4 
  • Grebler, Leo (1940). The Cost of the World War to Germany and Austria-Hungary. Yale University Press 
  • Gilbert, Martin (1994). Atlas of World War I. Oxford UP. ISBN 978-0-19-521077-4 
  • Harries, Merion (1991). Soldiers of the Sun-The Rise and Fall of the Imperial Japanese Army. Random House. ISBN 978-0-679-75303-2 
  • Mortara, G (1925). La Salute pubblica in Italia durante e dopo la Guerra. New Haven: Yale University Press 
  • Mitchell, T.J. (1931). Casualties and Medical Statistics of the Great War. London: Reprinted by Battery Press (1997). ISBN 978-0-89839-263-0 
  • Gelvin, James L.. The Israel-Palestine Conflict: One Hundred Years of War. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-85289-0 
  • Hersch, L., La mortalite causee par la guerre mondiale, Metron- The International Review of Statistics, 1927, Vol 7.
  • Ellis, John (1993). World War I-Databook. Aurum Press. ISBN 978-1-85410-766-4 
  • US War Dept 1924 data listed in the Encyclopadia Britannica
  • Osterreichischen Bundesministerium fur Herrswesen (1938). Osterreich-Ungarns letzer Kreig, 1914-1918 Vol. 7. Vienna 
  • The Army Council. General Annual Report of the British Army 1912-1919. Parliamentary Paper 1921, XX, Cmd.1193 
  • l'Annuaire statistique de la Belgique et du Congo Belge 1915-1919. Bruxelles. (1922) 
  • Horne, John and Kramer, Alan, German Atrocities, 1914 ISBN 978-0-300-08975-2
  • Haythornthwaite, Philip J. (1992). The World War One Sourcebook. Arms and Armour. ISBN 978-1-85409-102-4 
  • Strachan, Hew (1999). World War I: A History. Oxford University Press. ISBN 978-0-19-820614-9 
  • Krivosheeva, G.F. (2001). Rossiia i SSSR v voinakh XX veka : poteri vooruzhennykh sil : statisticheskoe issledovanie / pod obshchei redaktsiei. Moscow: OLMA-Press. http://lib.ru/MEMUARY/1939-1945/KRIWOSHEEW/poteri.txt#w02.htm-186 
  • Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. ISBN 978-5-93165-107-1 
  • Tucker, Spencer C (1999). The European Powers in the First World War: An Encyclopedia. New York: Garland Publishing. ISBN 978-0-8153-3351-7 
  • Emin, Ahmed (1930). Turkey in the World War. Yale 
  • Bane, S.L.; Lutz R. H., (1942). The Blockade of Germany after the Armistice 1918-1919. Stanford: Stanford Iniv. Press 
  • Andrzej Gawryszewski (2005). Ludnosc Polski w XX wieku. Warsaw 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]