井上泰幸

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いのうえ やすゆき
井上 泰幸
生年月日 (1922-11-26) 1922年11月26日
没年月日 (2012-02-19) 2012年2月19日(89歳没)
出生地 日本の旗 日本 福岡県
職業 美術監督
 
受賞
日本アカデミー賞
第11回 特別賞特殊技術賞
竹取物語』、『首都消失
その他の賞
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井上 泰幸(いのうえ やすゆき、1922年11月26日 - 2012年2月19日)は、日本特撮映画美術監督。「α企画(アルファ企画)」主宰。福岡県出身。通り名は「たいこう」。

東宝映画の特技監督円谷英二の手がけた黄金期時代の全てのミニチュアセットに関わり、リアルに再現するために関わる作品の調査や研究、計算を細部にし、徹底的な資料集めをして創り込んだ。その拘りは全ての作品で手を抜くことはしなかった。その上でイメージボード、絵コンテ、セット図面を井上自身が書いた。

また、特撮の組織作りをして、時には怪獣やメカニックデザインも井上が手がけ、予算管理も井上が担った。作品は怪獣映画だけに留まらず、ミニチュアセットに関わるSF映画、ファンタジー映画、歴史映画、戦争映画など幅広く、1970年の円谷の死去後もその姿勢は全く変わることなく、井上が手掛けたり関わった作品は160作品。井上の元で働くスタッフから「井上学校」と言われ、多くの弟子を育てた。

ミニチュアセット製作でリアルに創り込むパイオニア的存在で、ミニチュアセットに空気の層まで取り込むことや、常に本物を再現することを追求した。世界に誇れる日本のお家芸とも言われる特撮美術のミニチュアセットをリアルに創り込む先駆け的な役割の一人者。1987年(昭和62年)の『竹取物語』・『首都消失』で日本アカデミー賞特殊技術スタッフ賞を受賞。

来歴

1922年(大正11年)11月26日、医師 井上市治・千代夫妻の8人兄弟の五男として、福岡県糟屋郡小野村(現・古賀市)薦野で誕生[1]

1925年、4歳の時に父の市治が死去。

1941年、19歳の時に地元古賀の高千穂製紙株式会社に入社してパルプ統計事務の仕事に就く[2]

1943年、長崎の三菱兵器製作所に徴用され、銃身計算や図面を引く仕事をした[2]

1944年4月1日、佐世保海兵団に入隊[2]

同年12月25日、上海に向かう途中の揚子江でアメリカ軍のP51 マスタングの機銃掃射を受け被弾し、一命は取り留めたが左足を失う[2]

1945年、佐世保海軍病院に収容される。沖縄戦に伴う空襲の激化で武雄の海軍病院に移る[2]

1945年8月18日、軍の解散に伴い、傷が完治しないまま帰郷[3]

1946年1月29日、別府海軍病院で義足での歩行訓練を受けて退院[3]

1946年、小倉の傷痍職業訓練所で、傷痍学校でブルーノ・タウトの下で学んだ西松音松に家具製作を学ぶ[4]

1948年10月、上京して大蔵木工所に就職[4]

1948年11月、大学受験に必要な高校卒業の資格入手のために松蔭高校に途中入学。働きながら通学[5]

1950年、日本大学芸術学部美術科に入学。バウハウスで学んだ山脇巌の下で学ぶ[5]

1952年、新東宝の撮影所で戦争映画のスタッフを探していた美術課長に見初められ、美術スタッフとして契約[6]

1954年(昭和29年) 新東宝で『春色お伝の方 江戸城炎上』、『潜水艦ろ号 未だ浮上せず 』の美術を担当[7]

同年7月、東宝に『ゴジラ』制作のため呼ばれ、特撮の演出を担当した円谷英二の下、渡辺明を手伝う。新東宝で次の仕事の予定もあったが、説得され東宝撮影所に入社[8]

1957年(昭和32年)、東宝撮影所特殊技術課の美術助手となる。

1959年(昭和34年)、特美課の美術チーフとなる。

1966年(昭和41年)、渡辺明の退社に伴い、特殊技術課の2代目美術監督となる[9]

1971年(昭和46年)、『ゴジラ対ヘドラ』を担当後、東宝撮影所を退社。α企画(アルファ企画)を設立。『宇宙猿人ゴリ』などテレビ作品に活躍の場を移す[10]

1973年(昭和48年)、『日本沈没』で東宝の美術現場に復帰[11]。以後、主として東宝製作の特撮映画の美術面での中核として活躍。

2012年(平成24年)2月19日、心不全で死去[12]。89歳没。

人物・エピソード

戦時中は大日本帝国海軍に所属。新東宝のスタッフとなったのも、軍艦の知識があったため、図面を引けたことがきっかけだったという[6]。『ゴジラ』をきっかけに東宝の現場に参加して驚いたのは、人員の多さ、熱気の差だったという。各部署の技術者が多すぎるため、個別に対応するわけにいかず、軍艦ならリベット一個一個の位置に到るまで正確に書き込んだ、全部署に共通の精密な一枚の図面を引くことでこれに応じ、その技術力が高く評価され、説得されての東宝入社となった。

『ゴジラ』をはじめとする怪獣映画では、実在のビルディングや街のミニチュアが多数登場するが、図面の提供を断られることも多く、井上らはロケハン先で、歩幅で建物の尺を割り出し、設計図を引いた。ミニチュアの図面は井上と入江義夫、のちに豊島睦とで行なった。

東宝では戦艦やミニチュアの図面のほか、さまざまな超兵器や怪獣のデザインを担当。ミニチュアの軽量化のために、バルサ材を採り入れたが、上層部にこの使用を認めさせるのには一苦労だったという。円谷英二とはイメージ面での擦り合わせで苦労も多く、反発することもあったが、のちに円谷が社外で井上を非常に自慢にしていることを知って驚いたという[13]

怪獣総進撃』では、ムーンライトSY-3の月火口にある基地へ垂直離着陸を行うシーンがあるため、井上は独断でステージ下の地面を6(約1.8メートル)掘り下げ、ミニチュアを組んだ。これが守衛に見つかって責任者問題となり、会社から詰問された井上は「誰の許可をもらったんだ?」と問われ、「俺が許可したんだ!」と返した。結局、井上の判断で撮影は進めることができたが、円谷監督は狼狽しきりだったという。キラアク星人の基地のミニチュア設営でも同様に地面の掘り下げを行ったが、このときは守衛に見つからないよう、うまくトタンで隠してばれずに済んだという[14]

美術監督として、ミニチュアであってもとにかく「本物を作ること」を常に念頭に置いたといい、「CGがいくら発展しても、様々な表現方法を組み合わせなければ感動は呼べない」と語っている。

担当作品

美術助手作品

美術監督作品

テレビ作品

ほか多数

施設担当

脚註

  1. ^ 井上泰幸 2012, p. 56.
  2. ^ a b c d e 井上泰幸 2012, p. 59.
  3. ^ a b 井上泰幸 2012, p. 60.
  4. ^ a b 井上泰幸 2012, p. 62.
  5. ^ a b 井上泰幸 2012, p. 63.
  6. ^ a b 井上泰幸 2012, p. 64.
  7. ^ 井上泰幸 2012, pp. 64–65.
  8. ^ 井上泰幸 2012, pp. 66–70, 東宝への出向で参加した『ゴジラ』.
  9. ^ 井上泰幸 2012, p. 251, 井上泰幸個人史・作品史.
  10. ^ 井上泰幸 2012, p. 150.
  11. ^ 井上泰幸 2012, p. 151.
  12. ^ 「ゴジラ」「日本沈没」特撮映画美術監督の井上泰幸さん死去[リンク切れ] 産経新聞 2012年2月24日付
  13. ^ 井上泰幸 2012, p. 143.
  14. ^ 井上泰幸 2012, pp. 135–138, ステージの下に大穴を掘った『怪獣総進撃』.

参考文献

  • 「東宝特撮映画全史」(東宝出版)
  • 監修:川北紘一『THE ART OF GODZILLA VS MOTHRA』ワニブックス、1992年。ISBN 4847023056 
  • 井上英之『検証・ゴジラ誕生―昭和29年・東宝撮影所』朝日ソノラマ、1994年。ISBN 4257033940 
  • 「東宝特撮メカニック大全」(新紀元社)
  • 「別冊映画秘宝 戦艦大和映画大全」(洋泉社)
  • キネマ旬報社 編 編『特撮映画美術監督 井上泰幸』キネマ旬報社、2012年。ISBN 978-4-87376-368-2 

外部リンク