ウラジオストク

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ウラジオストク
Владивосток
ウラジオストクの市旗 ウラジオストクの市章
市旗 市章
位置
ウラジオストクの位置。ルースキー島(中央の赤い部分)の対岸、ピンクの部分がウラジオストク。の位置図
ウラジオストクの位置。ルースキー島(中央の赤い部分)の対岸、ピンクの部分がウラジオストク。
座標 : 北緯43度7分 東経131度55分 / 北緯43.117度 東経131.917度 / 43.117; 131.917
歴史
建設 1860年
旧名 海参崴
行政
ロシアの旗 ロシア
 連邦管区 極東連邦管区
 行政区画 沿海地方の旗 沿海地方
 市 ウラジオストク
市長 イーゴリ・プシカリョフロシア語版(2008年 - )[1]
地理
面積  
  市域 561.54 km2
標高 40 m
人口
人口 (2010年現在)
  市域 592,069人
その他
等時帯 ウラジオストク時間 (UTC+10)
郵便番号 690XXX
市外局番 +7 4232
ナンバープレート 25, 125
自治体コード (OKATO) : 05 401
公式ウェブサイト : www.vl.ru

ウラジオストクロシア語Владивосто́кヴラディヴァストークIPA:[vlədʲɪvɐˈstok]ru-Vladivostok.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]ラテン文字表記の例: Vladivostok漢語: 海参崴)は、ロシア極東部に位置する都市で、沿海地方(プリモールスキイ地方、Приморский край)の州都である。

概要

名称

ロシア語名はウラジヴォストーク(ヴラジヴォストーク、ヴラヂヴォストークなど)で、「ヴォストーク」は「東」を意味し、「ヴラジ-」は「領有・支配する、物件を自由に使う、制御する」を意味する動詞「владеть (ヴラヂェーチ)」から来ている。この名称は「東方を支配する町」を意味するが、その通りウラジオストクはロシアの極東政策の拠点となる軍事・商業都市であった[2]。これは、ロシアの古い都市ウラジーミル(公・大公の名に由来)に範を取った名称であるためであり、ほかにも同時期に作られたウラジカフカスカフカースを支配する町)などがある[3]

日本語では文献により様々な表記が見られるが、代表的なものとしてはウラジヴォストーク、ウラジオストック、ヴラヂヴォストーク(ソビエト科学アカデミーによる公式な日本語表記)などが挙げられる。

上述の通り、本来のロシア語での造語としてはウラジ・ヴォストークが正しいのであるが、日本ではウラジオ・ストクと解され、明治時代には浦塩斯徳(又は浦潮斯徳)と当て字された。略称は「浦塩(浦潮)/ウラジオ」とされ、気象通報でも以前は「ウラジオ」と呼称されていたが、現在は「ウラジオストク」と呼称されている。

中華民国台湾)と中華人民共和国では「ナマコの入り江」を意味する中国(清帝国)領時代の名称、海参崴満州語ᡥᠠᡳᡧᡝᠨᠸᡝᡳ、転写:Haišenwei、繁体字中国語: 海參崴简体字:海参崴、ハイシェンウェイ)と呼ぶのが一般的である。ロシア語の音写である符拉迪沃斯托克と表記するのがまた存在する。

地理

ウラジオストク市は沿海地方南部のピョートル大帝湾の南にある。日本海に突き出したムラヴィヨフ・アムールスキー半島(長さ30km、幅12km、ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーに由来する)南端部の北緯43度7分、東経131度51分に位置し、ロシア海軍の太平洋艦隊の基地が置かれる軍港都市。人口は594,701人(2002年国勢調査)。

ウラジオストクの衛星画像

丘陵上の市街に囲まれるようにして金角湾が半島に切れ込んでおり、天然の良港になっている。街の中心部は金角湾の奥にある。南には東ボスポラス海峡をはさんで軍用地や保養所などのあるルースキー島が浮かぶ。

気候

亜寒帯冬季少雨気候(冷帯夏雨気候)である。

  • 年平均気温: +4.6℃
  • 1月の平均気温: -12.6℃
  • 8月の平均気温: +19.6℃
  • 年間降水量は823.9mm(以上の4項目は1971 - 2000年平均)。
  • 真夏の気温: +18 - +28℃
  • 真冬の気温: -14 - -24℃

降雪は、山間部では10月末から、沿岸部では11月末から始り、市内では降雪は少ない。冬は北風が強く、日本海低気圧が通ると風、ときには雪も強まり、天気が荒れる。緯度では札幌と同緯度に位置するが、沿岸都市でもあるにもかかわらず1月の平均気温は-12.6℃と冬季の気温は非常に低くなっており、これは日本で最も寒い陸別町の1月の平均気温-11.4度よりも低い(平均最低気温は陸別町が-20.2度と5度ほど低い)。その一方で、夏季は好天で暑くなることがあるがハバロフスクなどの内陸の都市に比べると涼しい。夏や秋には台風が上陸することもある。

ウラジオストクの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 5.0
(41)
9.9
(49.8)
15.2
(59.4)
22.7
(72.9)
29.5
(85.1)
31.8
(89.2)
33.6
(92.5)
33.0
(91.4)
30.0
(86)
23.4
(74.1)
17.5
(63.5)
9.4
(48.9)
33.6
(92.5)
平均最高気温 °C°F −8.0
(17.6)
−4.1
(24.6)
2.2
(36)
9.9
(49.8)
14.8
(58.6)
17.8
(64)
21.2
(70.2)
23.3
(73.9)
19.8
(67.6)
13.0
(55.4)
3.1
(37.6)
−5.2
(22.6)
9.0
(48.2)
日平均気温 °C°F −12.3
(9.9)
−8.5
(16.7)
−1.8
(28.8)
5.1
(41.2)
9.8
(49.6)
13.6
(56.5)
17.6
(63.7)
19.8
(67.6)
16.0
(60.8)
8.9
(48)
−0.9
(30.4)
−9.0
(15.8)
4.9
(40.8)
平均最低気温 °C°F −15.3
(4.5)
−11.6
(11.1)
−4.8
(23.4)
2.0
(35.6)
6.7
(44.1)
11.2
(52.2)
15.8
(60.4)
17.7
(63.9)
13.2
(55.8)
6.0
(42.8)
−3.8
(25.2)
−11.9
(10.6)
2.1
(35.8)
最低気温記録 °C°F −31.4
(−24.5)
−28.9
(−20)
−22
(−8)
−8.1
(17.4)
−0.8
(30.6)
3.7
(38.7)
8.8
(47.8)
10.1
(50.2)
2.2
(36)
−9.7
(14.5)
−23
(−9)
−28.1
(−18.6)
−31.4
(−24.5)
降水量 mm (inch) 14
(0.55)
15
(0.59)
27
(1.06)
48
(1.89)
81
(3.19)
110
(4.33)
153
(6.02)
151
(5.94)
116
(4.57)
57
(2.24)
28
(1.1)
18
(0.71)
818
(32.2)
降雪量 cm (inch) 11.5
(4.53)
12.1
(4.76)
9.8
(3.86)
5.7
(2.24)
0.0
(0)
0.0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
4.5
(1.77)
15.8
(6.22)
59.4
(23.38)
平均降水日数 2.7 3.0 3.9 6.8 7.9 10.8 11.3 10.2 7.3 5.5 4.2 2.6 76.2
湿度 58 58 60 67 75 89 91 87 77 65 60 60 70.6
平均月間日照時間 176.7 184.8 217.0 192.0 198.4 129.0 120.9 148.8 198.0 204.6 168.0 155.0 2,093.2
出典1:pogota
出典2:HKO

民族構成

ロシア人とウクライナ人が大多数を占めるものの、ベラルーシ人やアルメニア人などもいる。その他、近年の建設ラッシュに合わせ、北朝鮮や中央アジア各地からの労働者が建設業などに携わっている。かつては日本人が6,000人ほど在住していたが、2011年現在、外務省へ届け出ている在留邦人は104人[4]に過ぎない。

標準時

この地域は、ウラジオストク時間標準時を使用している。時差はUTC+10で、夏時間はない。2011年3月までは冬時間がUTC+10で夏時間がUTC+11であったが、同年3月からは夏時間を標準時とする形で夏時間制が廃止された。しかし2014年10月から通年UTC+10となった。

歴史

1918年、ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍
シベリア出兵を伝える日本の画報(救露討独遠征軍画報)

石器時代

2万年前に日本から運ばれた隠岐産の黒曜石などが発掘されている[5]

ロシア帝国時代

19世紀までは清国の支配地域で満州の一部であったが、1860年北京条約によって沿海州一帯を清から獲得したロシア帝国沿海州の南部に建設した。

イザベラ・バードの朝鮮紀行によれば、1860年に測量を開始、1863年にオークやマツの大木を切り払い仮設小屋を建て始めた際には野生トラの被害が出た。1878年ニコラエフスクから海軍施設を移設すると人口は増加し、1897年にはロシア人のほか朝鮮人中国人などの民間人を含め25,000人規模の都市となった[6]1880年以降、黒海沿岸オデッサとの間に義勇艦隊が定期航路を開設し、農業移民を運んだ[7]

19世紀末、日本海を通じての太平洋への玄関口として、また北に位置するロシアが悲願とする不凍港[8]として極東における重要な港町に位置づけられ、ロシア帝国海軍バルト艦隊太平洋艦隊の分遣隊がおかれた。これは、のちに強化されてウラジオストク巡洋艦隊となった。ウラジオストクには造船所ドックが建造されたが、これができるまでロシア極東にはまともな艦船の整備施設がなく、日本の施設に依存していた。

日露戦争時には、ウラジオストク巡洋艦隊は通商破壊に活躍し、黄海海戦ののち旅順艦隊の残存艦はウラジオストク巡洋艦隊に合流した。日露戦争後はその構成艦船の主要なものがほとんどバルト海へ帰還し、太平洋艦隊はシベリア小艦隊に縮小された。1905年までに中国満州ハルビンを経由してモスクワとウラジオストクを繋ぐシベリア鉄道(一部、東清鉄道)が建設された。1912年日本とウラジオストク航路に接続する国際列車新橋駅(1914年からは東京駅) - 金ヶ崎(後に敦賀港に改称)で運行される(ボート・トレイン)。

ソ連時代

ロシア革命後、ウラジオストクには、日本イギリスアメリカの干渉軍が進駐した(シベリア出兵)。1920年 - 1922年の間、極東共和国の支配下にあり、各地から白系ロシア人が押し寄せたため、市の人口は、9万7千人から41万人までに増加した。1922年10月25日、最後の干渉軍部隊が撤収し、ウラジオストクは赤軍の支配下に入った。市の人口は、10万8千人にまで減少した。

1935年、それまであった小規模な艦隊を拡張する形で、ウラジオストクを本部とするソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設された。ソビエト連邦時代の1938年には沿海州を改組した沿海地方の州都となるとともに軍港として重視され、1958年からソ連の崩壊する1991年までごく一部を除いて外国人の居住と、ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止される閉鎖都市だった。その間、東のナホトカが外国貿易港の機能を代行していた。

ロシア連邦時代

ソ連崩壊後は、閉鎖都市指定が解除された。民間旅客航空会社のウラジオストク航空が誕生し、日本の新潟空港富山空港関西国際空港北九州空港成田国際空港との間に定期便が就航していたが、2015年現在、すべて運休している。

2012年9月にはルースキー島ロシアAPECが開催され、首脳会議の会場となった。ロシア政府はAPEC開催に備える形で、ルースキー島連絡橋の建設やウラジオストク国際空港の改修を行うなど、ウラジオストクに対して総額約6000億ルーブル(1兆6500億円)の莫大な投資を実施した[9]。特にルースキー島はリゾート化するために大規模な開発が行われており、APEC終了後には極東連邦大学が移転してきている。

産業

主な産業は造船業漁業軍港関連産業である。ソ連崩壊後は日本などからの中古車輸入が盛んとなり、極東における一大市場となっている。経済的にはインフラ整備の遅れが問題になっていたが、2012年のAPEC開催が決まったことで大規模な公共事業が実施され、急速に整備が進んだ。

現在は自動車産業を積極的に誘致している。2009年12月にソラーズロシア極東地区初の自動車工場として操業を開始したほか、マツダトヨタ自動車など外資系メーカーの進出も進んでいる。また、ガスプロムと日系企業によるLNG生産プラントの建設が計画されている。

交通

道路

ゴーゴリ通り
金角湾横断橋

市外への主要道路には、北方面にM60幹線道路(ウラジオストク - ハバロフスク、別名: ウスリー幹線道路)の起点になっていて、この道路はシベリア横断道路ノヴォシビルスクなどを経てモスクワサンクトペテルブルクへ)の最東端になっている。また東方面にナホトカへの道路、南方面へハサンへの道路(さらに北朝鮮の国境を経て清津へ)もある。

鉄道

美しい駅舎を構えるウラジオストク駅シベリア鉄道の東方の始発駅である。長距離列車の行き先はハバロフスク、はるばる首都モスクワ、そしてウクライナハルキウ[要出典]などである。

東清鉄道が、ウスリースク駅グロデコヴォ駅綏芬河を経由して、ウラジオストクと中華人民共和国の黒竜江省ハルビンを結ぶ。

航空

市中心部から北に50kmほどのところ(アルチョム市 Артём)に位置するウラジオストク国際空港で、ロシア国内主要都市と日本、韓国(ソウル、釜山)、中華人民共和国(北京)、ベトナム(ホーチミン)、タイ(バンコク)と接続している。

空港までは、市街中心部の北のはずれにあるロシア通り (ул.Русская) にあるフタラヤ・レーチカ(Вторая Речка) の市外バスターミナル (Автовокзал) から約50分[10](#101または#105、55ルーブル、06:30 - 18:20、約一時間に一本運行)。2012年7月下旬にはアエロエクスプレスが運行を開始しており、空港とウラジオストク駅を鉄道で結んでいる。当初はウラジオストク国際空港との間を55分で結んでいたが、2012年9月から48分に短縮された[11]

船舶

軍港で有名なウラジオストク港は商港としても重要であり、各地への航路が開かれている。 日本への定期旅客船としては、DBSクルーズフェリー韓国東海市経由で鳥取県境港の間にフェリーを月に2回 - 5回運航している。以前は富山県高岡市伏木港との間にルーシ号が就航していたが、2009年12月で運行を休止した。

市内公共交通

路面電車

バスが多数運行されているほか、金角湾を望む丘には観光施設ではなく、市民の足としてのケーブルカーが敷設されている。以前は路面電車トロリーバスも広い路線を有していたが、2009年7月に市長が路面電車の全廃を表明。2013年2月現在は1路線が観光用として残すのみとなっている。[12]。またトロリーバスもフタラヤ・レーチカ駅及びバスターミナルのそばにある停留所発着の2系統のみとなっている。 シベリア鉄道もウラジオストク市内は区間ローカル列車が運転され(エレクトリーチカ)、市内交通の一翼を担っているが、本数は多くない。

教育

大学

ウラジオストクにある大学[13]は、

など

文化

ロシアを代表するロックバンドムミー・トローリがデビューした街としても知られる。市内にはバンドの博物館も存在する。

黒澤明監督の映画デルス・ウザーラ」(1975年公開)や、チョナン・カン(草彅剛)主演の映画「ホテルビーナス」(2004年公開)、チャン・ドンゴン主演の映画「タイフーン」(2006年公開)の撮影が行われた地である。日本人カメラマン安達貴が活動の拠点にしている。[1]

舞台となった作品

日本との関係

かつては非常に規模の大きな日本人街があり、1920年頃(大正9 - 10年頃)には6,000人近くの日本人が暮らし、日本ロシアの交流は非常に活発に行われていた。町には浦潮本願寺などがあり、日本人による商店や企業が多数進出していた。現在のウラジオストク市内では、日本から輸入した右ハンドル中古車が数多く走っており、その比率はおよそ9割以上である。また一時期には、およそ10万人が車輸入販売、修理、洗車などの中古車関連ビジネスに従事した[14]。2009年1月よりロシア政府が自国自動車産業の保護を目的とし輸入車の関税を大幅に引き上げたため、地元では大きな影響が出ている。このように、日本との地理的な近さ(東京からはソウルよりも近い)などから日本語教育が非常に盛んであり、市内の各大学や高校などでは日本語教育が行われている。また、同時にロシア語を学ぶ日本人留学生も少なくない。

しかしながら、中古車市場の縮小やここ数年の日露関係の外交上の悪化を契機に、近年では交流が停滞気味であり、富山県伏木港とウラジオストク港を結んでいた定期船のルーシ号も2009年に廃止された。航空路では2008年頃には日本との直行便は最大で4都市(新潟・富山・大阪/関西・北九州)・週10便前後も運航していたものが、2011年には1都市(東京/成田)・週2便へまでに減少してしまい、日本からの直行便廃止の危機にある。長い間極東ロシアへの玄関口であった新潟県との交流も、乗客の伸び悩みにより運休に追い込まれる[15]など急速にしぼみ始めた。

しかし、その後は2012年のAPEC開催を契機に、成田空港との間にシベリア航空(S7航空)の直行便が就航。また、自動車産業を中心に日系企業の進出発表も相次いでおり、三菱東京UFJ銀行も日系企業の進出に合わせ拠点の開設を表明[16]。今後、再び日本との交流が促進される可能性も秘めている。

進出している主な日系企業・団体

姉妹都市

脚注

  1. ^ ウラジオストク市 概要・観光情報”. 日ロ沿岸市長会. 2011年4月8日閲覧。
  2. ^ 木村汎は著書『新版 日露国境交渉史』p.75で「ムラヴィヨフは、1860年の北京条約によって清国から割譲された海参威をウラジヴォストークと名づけた。「東方(ヴォストーク)」を「支配せよ(ウラジ)」の意味である。」と説明している。ただし、 владеть命令形владей (ヴラヂェーイ)であり、「ウラジ」ではない。
  3. ^ マックス・ファスマー『語源辞典』
  4. ^ 海外在留邦人数調査統計 平成23年10月1日現在 外務省
  5. ^ http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/esque/2005/No56/tokushu3.html
  6. ^ イザベラ・バード『朝鮮紀行』講談社学術文庫p282
  7. ^ 原暉之著『ウラジオストク物語』三省堂1998年、111ページ。川上俊彦著『浦潮斯徳』大倉保五郎、1892年6月、43~44頁、「第十七 義勇艦隊」。
  8. ^ 少なくとも1892年現在、不凍港ではなかった。肝付兼行述『[西比利亜鉄道ニ対スル日本ノ開港場ヲ論ス:港湾調査委員報告]』(金谷昭、1892年)において、海軍水路部長の肝付は、毎年12月21日より4月15日までは冬期氷結して艦船の出入りが出来ない(表示された右ページ1~2行目)と記している。また、東邦協会会員・松浦充美著『東露要港浦塩斯徳』(東京堂、1897年秋田県立図書館および大阪府立中央図書館所蔵)39ページ、第五「冬時浦港氷塊破砕の模様」によると、1893年バルト海より「軍艦シラチー号を回航し来り同年冬季時結氷の初めより破砕に従事したるを始とし」たが、厳冬期には能力が不足し、軍艦・商船のための航路確保が困難であった。1897年から1898年の冬に状況が変わった(東京朝日新聞1898年1月18日3面「浦塩斯徳の繁忙」)。V.l.アガーポフ「研究ノート:露日戦争におけるウラジオ巡洋艦戦隊の作戦」堤明夫訳、軍事史学会編『日露戦争(二)---戦いの諸相と遺産』軍事史学41-1・2合併号、2005年6月、ISBN 4-7646-0319-5、99ページに、艦隊用の基地としてのウラジオストクの「最も不便な点は冬季における90~120日間の港の凍結であったが、この問題は砕氷艦「ナデージヌイ(Nadezhny)」が配備されたことによって解決され、年間を通しての航行が可能となった」(出典は、Russkoe sudohodstvo, 1904. No.3(263), pp.227-28)と記されている。
  9. ^ ウラジオストクAPECサミットの施設建設業者が作業が終了 ノーボスチ通信2012年5月17日
  10. ^ 交通渋滞により2時間以上かかることもある(二村キャスター ウラジオストク見て歩きNHK海外ネットワーク2012年9月8日放送)。
  11. ^ Travel on the Vladivostok Aeroexpress for RUB 20アエロエクスプレスHP ニュース2012年7月9日(英語)
  12. ^ 消えゆく路面電車 進む線路解体 市民の中に反対の声中日新聞2009年12月15日
  13. ^ ウラジオストクの大学(英語)
  14. ^ 信濃毎日新聞2010年5月7日より。
  15. ^ ロシア線再開険しく 朝日新聞 2011年09月27日
  16. ^ 三菱UFJ、ウラジオストクに進出 APECにらみ邦銀初の拠点 サンケイビズ

参考文献

  • 木村汎 (2005). 新版 日露国境交渉史 北方領土返還への道 (角川選書). 角川学芸出版. ISBN 4-04-703386-3 

外部リンク