早川徳次 (シャープ)
早川 徳次(はやかわ とくじ、1893年11月3日 - 1980年6月24日)は日本の実業家・発明家。実業家としては早川電機工業(現・シャープ)を設立したことが、発明家としてはシャープペンシルを発明したことが大きな業績としてあげられる。東京都出身。大正三美人として知られる江木欣々は異父姉。
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[編集] 経歴
東京市日本橋区久松町(現東京都中央区日本橋)で早川政吉、花の末子として生まれるが、まもなく早川家の都合により出野家に養子に出されてしまう。しかし出野家では、継母との折り合いが悪かった。本人は養子であることを知らなかったらしい。8歳の時当時懐いていた盲目の女性の紹介により、錺屋(かざりや)の店に丁稚奉公に出され、金物職人としての修行についた。奉公中に稼いだ金は継母にせびり取られていたようである。
1911年18歳の時、ベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明したのを機に独立。自分が出野家に養子に入ったこと、実の両親が死んでしまったことを知る。しかし実の兄の早川政治と対面。兄弟で「早川兄弟社」を設立し、徳次が製品開発、政治が販売を主に担当した。独立資金50円の内40円を借金してのスタートであった。寝る間も惜しんで働き、徳尾錠のヒットもあって事業は拡大していく。
[編集] シャープペンシルの発明
徳次以前よりシャープペンシルの原型は存在したが、非常に壊れやすい代物だった。徳次は創意工夫し、内部に真鍮の一枚板の部品を使用することで実用性の高いものにした。1915年、「早川式繰出鉛筆」として特許を出願。 最初はプロペリングペンシル(軸をひねって芯を出す機構だったため)の名で売り出し、後にエバー・レディ・シャープ・ペンシルと改名。しかし「和服には向かない」「金属製は冷たく感じる」など評判は芳しくなく、全く売れなかった。それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けるうち欧米で、次いで日本でも売れ始めた。商品の大量生産のために工場に流れ作業を導入。当時は先駆的な試みだった。会社の規模は大きくなっていき、1923年には従業員の数が200名を越えるまでになった。この初代シャープペンシルは現在もシャープ株式会社で保管されており、2010年2月現在、プラチナ萬年筆が復刻して限定販売を行っている。
1922年に過労のため倒れ、当時では珍しい血清注射による治療で命拾いをする。だが翌1923年に関東大震災が発生。ここでも九死に一生を得るが、妻と2人の子供は死亡、工場も焼け落ちてしまう。残った債務の返済のため、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却。再び一文無しとなる。
[編集] ラジオ事業
心機一転、大阪へと移り、1924年に早川金属工業研究所を設立。これが現在のシャープの源流となる。当初は日本文房具の下請けの仕事をしていた。そしてたまたま大阪の心斎橋で、アメリカから輸入された鉱石ラジオを見かけ、日本でもラジオ放送が始まることを知り、ラジオの製品化に取り組み始めた。
1925年には国産第1号機の鉱石ラジオの開発に成功する。この年の6月1日に始まった大阪のラジオ放送では、明瞭な音声が聞こえ、全員で抱き合って喜んだという。このラジオは爆発的に売れ、ラジオにまもなく“シャープ”というブランド名を付ける。1929年には真空管ラジオを発売。その後、ラジオの普及と共に業績は拡大、1942年に早川電機工業に改名。
太平洋戦争後は、物不足とドッジ・ラインから経営は困難が続いた。資金確保のため1949年に株式を公開するも、1950年には大きな赤字を出し、倒産の危機に追い込まれた。
朝鮮特需で経営は持ち直したので、多角的な商品が必要と判断し、ラジオだけでなくテレビや電卓など、総合家電メーカーへの道へと進む。事業は拡大し、1960年に藍綬褒章を受章。1965年に勲三等瑞宝章を受章。
1970年に会長に退く。この年、早川電機工業をシャープに改名した。1971年に大阪文化賞を受賞している。
[編集] 人間性
自身でさまざまな発明をしており、日本のエジソンといわれることもあった。常に「人にまねをされるものを作れ」と言い、独自技術の製品にこだわりを持った。
また、たくさんの苦労をしたせいか、事業の第一目的は社会への奉仕と言い切っている。戦後まもなく、失明者が働くための会社を設立。また働く女性のために保育園経営も行った。
早川徳次の寄付金をもとに、昭和37年9月、大阪市東住吉区に早川福祉会館が設立された。
[編集] 参考文献
- 早川徳次 『私と事業』 衣食住社、1958年。
- 早川徳次 『続 私と事業』 新しい衣食住、1961年。
- 日本経済新聞社編 『私の履歴書 - 昭和の経営者群像(7)』 日本経済新聞社、1992年。