タイタニック (客船)
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| 船歴 | |
|---|---|
| 船籍 | イギリス |
| 所有 | ホワイト・スター・ライン |
| 母港 | リヴァプール |
| 発注 | |
| 起工 | 1909年3月31日 |
| 進水 | 1911年5月31日 |
| 命名 | |
| 処女航海 | 1912年4月10日 |
| その後 | 1912年4月15日に沈没 |
| 性能諸元 | |
| 総トン数 | 46,328トン |
| 排水量 | |
| 全長 | 269.1 m |
| 全幅 | 28.2 m |
| 全高 | 10.5 m |
| 吃水 | |
| 機関 | スコッチ式ボイラー24基補助5基、 レシプロ4気筒エンジン2基、 蒸気タービン1基、50,000hp(37 MW) |
| 推進器 | 混成3軸、3枚羽スクリュー推進、 |
| 速力 | 23ノット(42.6km/h) |
| 定員 | 船客数:1等329人、2等285人、3等710人 乗組員数:899人 |
タイタニック(RMS Titanic)は、20世紀初頭に建造された豪華客船。
1912年4月14日の深夜に氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没。乗員乗客1,513人(※1,490人、1,517人、1,522~23人など様々な説がある)が犠牲となり、当時世界最悪の海難事故となった。その後、映画化されるなどして世界的にその名を知られている。
目次 |
[編集] 概要
タイタニックはイギリスのホワイト・スター・ラインが北大西洋航路用に計画した3隻の旅客船のうちの2番船であった。姉妹船にオリンピック、のちに病院船として運航されたブリタニックがある。トーマス・アンドリューズによって設計され、北アイルランドのベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフで建造された、当時世界最大の客船である。タイタニックの正式名称は『R.M.S.(Royal Mail ShipまたはSteamer)Titanic』。
[編集] 建造
[編集] 造船計画
|
大階段(但し画像はオリンピック号である) |
タイタニック号の造船計画は、20世紀初頭に造船業としての勢力を保っていたハーランド・アンド・ウルフの会長・ウィリアム・ピリーが、1907年、ロンドンのメイフェアの夕食会でホワイト・スター・ラインのジェームス・ブルース・イズメイ社長に大型客船3隻の造船計画を発案したことに始まる。
[編集] 「不沈船」
ホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、ゆったりと快適な船旅を売り物としていた会社であった。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。また、安全対策にも力が入れられており、防水区画が設けられていた。
船体は喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっており、隔壁は船橋(ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。そのためタイタニックは「不沈船」として喧伝されていた。実際、船の構造は現在から見てもかなり安全なものである、との指摘もある。しかし、完全密閉された区画でなく、上部メインデッキにおける全区画が吹き抜けでつながっていたことにより、無傷であった区画にまで次々と多量の浸水がおこり、沈没を決定づけてしまったことも事実である。
[編集] 「オリンピッククラス」
先述通り、タイタニックには1年先立って竣工した姉船・オリンピックと、妹船・ブリタニックが存在した。これはドル箱航路であり、他社との競争も激しい北大西洋を航海する際に1隻では賄いきれない為、最低2隻を常に交代させる必要があった為である。客船3隻の先駆けとしてオリンピックの造船が開始され、ほぼ同時期に2番船タイタニックが、少し遅れて3番船ブリタニックの造船が開始された。
ブリタニックはタイタニック沈没により大幅に造船が遅れ、安全面も大きく見直され再設計されるものの、第一次世界大戦勃発により病院船として徴用、商船として一度も使われないまま沈没した。一方オリンピックは輸送船として徴用されたが、無事戦火を潜り抜け客船として復帰、1935年まで現役を勤め引退する(詳細はオリンピック号とブリタニック号を参照)。
タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に造船が開始された事もあって、大階段やダイニングルームの装飾、食事のメニューや客室のサービスなど、その外観のみならず全てにおいて瓜二つであった。映画「タイタニック」では、まるでタイタニックのみが最も巨大な船であるかのように演出されていたが、当時はオリンピックがその代表であり、タイタニック、ブリタニックという2隻の姉妹船を含め「オリンピッククラス」と呼ばれていた。その為、タイタニックの写真としてオリンピックが使われる事が度々行われていた。つまりタイタニックは二番煎じであり、当時はオリンピックの陰に隠れた存在であった。
[編集] オリンピックとの差違点
しかし、先立って運航されていた一番船オリンピックの問題面や改善点を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックとは多少異なってきた。その代表としてAデッキの一等専用プロムナードデッキ(遊歩道)の窓がオリンピックでは全体が海に対しベランダ状に吹さらしとなっていたのに対し、タイタニックは、中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取り付け半室内状にした。これは北大西洋の強風から乗客を守る為であり、結果タイタニック号はオリンピック号よりもすっきりとしたスマートな印象になり、外観上で2つの姉妹船を判断する決定的な要素となった。
他にも、オリンピックはBデッキの窓際全体にもプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックからはBデッキのプロムナードデッキが廃止され、代わりに窓際全体に1等船室を新たに設けるように変更された。その結果、1等船室の数がオリンピックに比べ大幅に増加し、専用のプロムナードデッキが設けられたスイートルーム(映画「タイタニック」のヒロインの婚約者の部屋)が2部屋設計される事になった。
[編集] 「世界最大の客船」
当初両姉妹船の重量は同じになる筈であったが、1等客室の数が増えた為に最終的にタイタニックの重量はオリンピックの45,324tよりも1,004t重い46,328tになった。厳密な意味で言えばタイタニックはオリンピックを越し、またオリンピックには存在しないスイートルームの増設など、当時確かに世界最大であり豪華な客船であったと言えるだろう。しかし、陰に隠れていたタイタニックの知名度が上がるのは皮肉な事に沈没事故の後であった。
[編集] 遭難
[編集] 航行
1912年4月10日に、イギリスのサウサンプトン港からタイタニックは処女航海に出航した。その際、タイタニックのスクリューから発生した水流によって、客船ニューヨークと衝突しそうになった。E・J・スミス船長の指揮下のもと乗員乗客合わせて2,200人以上を乗せていた。なお一等特別室は、6日の航海の費用4,350ドルと伝えられている。フランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウン(現コーヴ) に寄港し、アメリカのニューヨーク港に向かった。
ただし出航の際、双眼鏡の収納ロッカーの鍵の引き継ぎがなされないまま鍵を持った船員が下船してしまったため、ロッカー内にある双眼鏡を取り出せなくなった。そのため、双眼鏡を使わずに肉眼で見るしかなくなった。これがのちに致命的な影響をもたらす一因となる。
14日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。少なくともタイタニックは同日に6通の警告通信を受け取っている。しかし、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、タイタニックの通信士たちは旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。
4月14日23時40分、北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見した。ただし前述の通り、双眼鏡はなかったので、発見したときには手遅れだった(タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで52.2m。氷山はその10%程度しか水上に姿を現さないので、水面下に衝突する危険が高い)。
[編集] 回避行動
見張り員のフレデリック・フリートはただちに鐘を3回鳴らし、ブリッジへの電話をつかんだ。応答したのはジェームズ・ポール・ムーディ6等航海士だった。
(フリート)Is anyone there! (だれかいるのか!)
(ムーディ)Yes、What you see? (ああ、どうした?)
(フリート)Iceberg rightahead! (真正面に氷山!)
(ムーディ)Thank you. (ありがとう)
ムーディはただちに一等航海士のウィリアム・マクマスター・マードックに報告した。マードックは即座に「Hard Starboard!(取り舵一杯!)」と操舵員のロバート・ヒッチェンスに叫び、それからテレグラフ(機関伝令器)に走ると、Full Astern(全速後進)の指令を送ったが、すでに遅かった。22.5ノットから停止するまでに、実に1200mもの距離が必要だったからである。 このとき、左へ舵を切ると同時にエンジンを逆回転に入れ衝突数秒前船舶の操船特性である「キック」を使うため右へ一杯舵を切ったが、ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。「速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」という説もあるが、あくまで結果論である。そもそも衝突時にはかなりの速力が出ていたことが予想されるため、舵効きに影響はなかったようである。船首部分は回避したが、船全体の接触は逃れられなかった。氷山は右舷にかすめ、同船は停船した。
衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず船体の傷はせいぜい数インチ程度で、損傷幅を合計しても1m²程度の傷であったことが後の海底探索によって判明している。
だが、右舷船首のおよそ90mにわたって細長く生じた損傷は船首の5区画に浸水をもたらした。これは防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と海水が防水区画から溢れ、船首から船尾に向かって浸水が拡大、同船は船首よりゆっくりと沈没をはじめた。
沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。また、当時の低い製鋼技術のため不純物として硫化マンガンを多量に含んでおり、船体の鋼鉄が当夜のような低温で特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で分かっている。
タイタニック船長・スミスは海水の排水を試みようとしたがほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、ほぼ効果なく徒労に終わった。日付が変わった4月15日0時15分、遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか10~17海里(約18~30km)ほどの距離にリーランド社の貨物船・カリフォルニアンが停泊していたが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。また、カナディアン・パシフィック社のマウント・テンプルも受信し救助に向かったが、タイタニックから20km未満まで来てから、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れて停船し、明かりを消して死んだフリをした(査問委員会に提出された航海日誌では48海里(約88km)と記録されている)。複数の乗客が、タイタニックの折れる音を聞いたと証言している。
その他にも、バーマ(距離70海里)、フランクフルト(距離150海里)、バルチック(距離240海里)など様々な船が遭難信号を傍受しているが、どれもタイタニックから遠くを航行しており、救助にいけない状態であった。姉妹船オリンピックに至ってはタイタニックから430海里(約800km)も離れていた。
結局、およそ50海里(約90km)離れた地点にいた客船・カルパチアが応答し全速で救助に向かったが、14ノットと船足の遅いカルパチアが現場に到着したのは沈没から2時間40分後(タイタニック氷山衝突から沈没までと同時間)の午前4時であった。ちなみにタイタニックは当時制定されたばかりの新しい救難信号『SOS』を途中からCQDに代えて使用したが、SOSを世界で初めて発信したとする説は誤りである(1909年6月、アゾレス諸島沖で難破した「スラボニア」が初)。
[編集] 脱出・救命
沈没が差し迫ったタイタニックでは左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行い、一方のマードックは比較的男性にも寛大な対応をした。
しかし、当時の英商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要が無く(規定では978人分)、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった(これは、タイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船リパブリック号沈没事故が影響したといわれる。リパブリック号沈没事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になり、救命ボートの規定数が少なく設定されていたという)。 また定員数を乗せないまま船を離れた救命ボートも多く(定員65人乗りのボートに、70人乗せてテストしたという説があり、その結果浮いてはいられたが推進もバランスも不安定というデマが乗員の間に流れていた)、中には定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。
結局、多くの乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音と共にタイタニックの船体は2つに大きく割れ(海中で3つに分裂)、ついに海底に沈没した。沈没後、すぐに救助に向かえば遭難者の皆が舷側にしがみつき救命ボートまでもが沈没するかもしれないと他の乗組員が恐れたため、数ある救命ボートのうちたった1艘しか溺者救助に向かわなかった(左舷14号ボート)。そのボートは救助に向かうため、再編成をしたロウ5等航海士が艇長のボートであった。しかし、ロウ5等航海士が準備を整えて救助に向かった時は既に遅かった。
結果、海に投げ出された人々は気温、海水温が低かったため、低体温症などでほとんどが短時間で死亡(凍死)したと考えられる。低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したとする意見もある。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。
[編集] 影響
最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、文明の進歩に楽観的な希望をもっていた当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数は様々の説があるが、イギリス商務省の調査によると、この事故での犠牲者数は1,513人にも達し、当時世界最悪の海難事故といわれた。
この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13カ国が参加、「1914年の海上における人命の安全のための国際条約」(The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)として採択された。また、アメリカでは船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。
[編集] その他
- 唯一の日本人乗客
- タイタニックには唯一の日本人乗客として、ロシア研修から帰国途上の鉄道院副参事であった細野正文が乗船していた。鉄道院副参事はおおむね現在の国土交通省大臣官房技術参事官に当たる役職。細野は音楽家・細野晴臣の祖父である。
- オルゴール
- タイタニックにはオーケストリオンと呼ばれるオルゴール(複数の楽器の音を出し、オーケストラの様な演奏を行うオルゴール)を積み込み、使用する予定だったが、製作が出航に間に合わなかった(代わりに楽器奏者が乗ることになった)。タイタニックで使用されるはずだったオーケストリオンは現在、オルゴールの森美術館(山梨県富士河口湖町)に展示されている。
[編集] 沈没後のタイタニック
1985年9月1日、海洋考古学者ボブ・バラード率いるアメリカ海軍の調査団は海底3,650mに沈没したタイタニックを発見した。このとき同軍は沈没した原子力潜水艦スレッシャー (USS Thresher, SSN-593) とスコーピオン (USS Scorpion, SSN-589) の調査が主目的であった。2004年6月、バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年6月18日、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としている。
海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでいる。第三煙突の真下当たりで引き千切れており、海上で船体が2つに折れたという説が初めて確実に立証された。深海はバクテリアの活動が弱い為船体の保存状況は良く、多くの木彫り内装が残っていると思われていたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為バクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。
しかし当初船体は叩きつけられるように海底に落下し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラス全てが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っていた。また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いていた。
客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップは沈没時の衝撃や90年以上の腐食に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれている。この事から船首部分は海底に叩きつけられたのでは無く、船首の先端から滑る様に海底に接地したと思われる。一方船尾部分は海底に叩きつけられ、大きく吹き飛び見る影も無い。なお、現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化され、2100年頃までに崩壊消滅する見込みである。
[編集] 陰謀説など
[編集] 陰謀説
「船を所有していたホワイト・スター・ライン社が財政難になっており、タイタニックの保険金を得るために故意に沈めた」とする「陰謀説」がある。
説の「根拠」として、タイタニック号を管理していたのはホワイト・スター・ライン社であったが、その事実上の所有者はホワイト・スター・ライン社に出資していた国際海運商事の社長であるJ・P・モーガンであった。そのモーガンはタイタニック号のスイートルームに乗船予定だったが、直前に病気を理由にキャンセルし、代わりに別の大富豪の夫妻が乗船することになったが、この夫妻もキャンセルし、結局ホワイト・スター・ライン社の社長であるブルース・イズメイがこの部屋に収まった。しかし、病気のはずのモーガンは、同時期に北アフリカからフランスにかけて旅行をしていたことが後になって判明しており、イタリアでは愛人にも会っている。しかも、キャンセルした客の中にモーガンと非常に深いつながりがある人々が数名いることも判明しているため、「モーガンはこの処女航海中に何か起こることを知っていたのではないか」とするものである。
また、モーガンはタイタニック号で運ぶはずだった私的な貨物も、直前に運ぶことをキャンセルしている(「タイタニック号は沈められた」より)。しかし本人が乗船をキャンセルしたこともあり、それに伴い私的な貨物を同時にキャンセルするのは当然であるという意見もある。また、乗船キャンセルの原因となった「旅行」の目的自体が何であったかは明らかになっていない上、この事故は不注意な運航による予知しようのないものであったことから、この「説」は「陰謀説」の域を出ないものである。なお、タイタニック号への乗船を直前にキャンセルしたのは50人を越すとされているが、これを証明するものはない。
[編集] 船すり替え説
タイタニックには、姉妹船として「オリンピック」がタイタニックより1年程早く、北米航路に投入されていた。オリンピックは、タイタニックが就航する前に、2回事故を起こしている。
- 1911年9月30日、サウサンプトン沖合いで英国海軍巡洋艦「ホーク」と接触、船尾大破。この事故は英国海軍査問会にて審理され、オリンピック側のミスと認定され、海難保険は一切降りなかった。
- 1912年2月24日、大西洋を航海中に海中の障害物に乗り上げてしまい、スクリューブレード一枚を欠損する事故を起こす。この欠損以外にも、船体のキールに歪みが出る程の被害を負ってしまい、長期修理を余儀なくされる。
この2つの事故を鑑みて、オリンピックが近い将来に破棄される船だったのではないかと言うのが、船すり替え説の論拠となっている。つまり、廃棄寸前だったオリンピックを、内装や若干の仕様を変更させて「タイタニック」に仕立て上げて、故意に氷山にぶつかったというのである。
これら一連の陰謀説が唱えられる状況証拠として、
- 同船船長が航海直前になってエドワード・スミスに変更になった(彼はオリンピックでの事故時に同船の船長を拝命していた)
- 石炭庫の火災が氷山との接触事故前日まで鎮火しなかった(わざと延焼させて船体を弱体化させていた)
- 大西洋を航海中の船から7回「氷山警報」が送られており、その中には航路上に存在する可能性もある氷山もあったが、ことごとく無視された(カルフォルニアンに至っては「氷に囲まれて身動きが取れない」と意味深いメッセージが送られている)[1]
- サウサンプトン出港後に、見張り用双眼鏡が一切使用不可になっていた(引継ぎ不備にしてもロッカーをこじ開ける等の方法はあった)
- 航海中の巡航速度は、常に22ノット以上であった(見張りが不備な状況では非常識な速度である)[2]
- 氷山激突当日、近海に貨物船カルフォルニアンがいた(同船は、普段は別海域を航海していた)
- 沈没時に、氷山と激突した箇所とは別に船体が自重で折れてしまった(船体が自重で折れるという事は、設計上普通に有得ない)
- タイタニックが沈没した際、100万ポンドの保険金が降りた(当時としては異例の金額であり、建造費用50万ポンドを大きく上回る)
などが挙げられている。
しかし、同型船とは言えオリンピックとタイタニックには構造上の相違点がいくつかあり、その最も大きなものはボート甲板直下のAデッキ(プロムナードデッキ)の差で、またBデッキの1等船室の配置と数も異なり、オリンピックに比べてタイタニックでは1等定員が大幅に増加している。 オリンピックとタイタニックをすり替える為には、オリンピックが座礁した2月24日から4月10日のタイタニックの処女航海までにこれらの工事を終える必要があり、両船の船員全員を配置転換しなければならないこと、改修に関与する造船所の工員の数などを考えると、すり替えが成立する根拠は非常に薄い。
また、上記の状況証拠の中に「船体が自重で折れることは有得ない」とあるが、通常の航行状態であればその通りと言える。しかし、タイタニックの船体が第三煙突付近で折れたのは、船体前部の浸水で後部が大きく水上に持ち上げられた沈没直前のことであり、通常このような異常な状態において船体を保証する設計は行われていない。
[編集] ミイラの呪い説
他にも「運んでいたミイラによる呪い説」も書籍も出版されており、この中でミイラの呪いかという点に言及されている[3]。内容は下記のようなものである。
1910年、エジプトで盗掘者たちがピラミッド内部からアモン・ラー神殿の王女のミイラを盗んだ。ミイラの盗掘中に盗掘者のひとりは急死。そのミイラを盗掘者はイギリスの学者に売った。するとミイラを売った盗掘者はその日の夜に急死。ミイラを買ったイギリスの学者は3日後、狩りに出かけた時に銃が暴発し大怪我。さらに、ミイラを持ってイギリスに帰る途中、同行した2名が急死。そして、ミイラを扱ったエジプト人2名も謎の死を遂げた。学者は恐怖を感じ、棺を富豪の夫人に譲渡した。すると、夫人の母が突然死。夫人は恐怖を感じ、ミイラを大英博物館に寄付した。展示されたミイラの写真を撮ろうとしたカメラマンは急死。展覧会を企画した学者も、その日の夜にベッドで急死。
その頃、ニューヨークの博物館がミイラが欲しいと要求してきた。そして、イギリスサザンプトン港からニューヨークへ輸送するため、タイタニック号に載せることになった。しかしミイラは不沈のはずのタイタニックとともに大西洋に沈んでしまった。その後、ミイラは海から引き上げられ、大英博物館に保管された。
なお、ミイラは2001年頃までは大英博物館に保管されていたとされているが、現在も大英博物館に保管されているかは確認されていない。また、生存した船員が『船長はいつもと違い氷山の警告を無視した。性格も変貌し、船のスピードアップに躍起だった』と、スミス船長に異常があったことを証言しているが、これについては「ミイラの呪い」との関連性を証明するものは何もない。また、スミス船長の態度がいつもとは違ったのは、「処女航海で大西洋横断のスピード記録(ブルーリボン賞)を出すためであった」という説がある(後述)。
[編集] ブルーリボン賞説
タイタニックが氷山に衝突したのは、大西洋最速横断記録(ブルーリボン賞)を獲得しようとしたことが遠因になったという説があり、世間一般に広まって根強く支持されている。しかし、1912年当時のブルーリボン賞を保持していたのは西回り/東回り共にモーリタニアであり、その平均速度は26ノット近いものであった。両船の要目を比較すると、
- モーリタニア:総トン数31,938トン,機関 蒸気タービン4基/4軸,機関出力68,000馬力,最高速力26ノット(最高記録28ノット)
- タイタニック:総トン数46,328トン,機関 蒸気レシプロ2基,蒸気タービン1基/3軸,機関出力46,000馬力,最高速力23ノット
であり、機関の性能から見て、タイタニックはブルーリボン賞を獲得できるような能力を持っていない。
当時、ブルーリボン賞の獲得を目指したモーリタニアのような高速船は、その莫大な運航費用(燃料費)を輸送する人員や貨物だけでは賄えず、政府からの補助金によって運航が維持されていた。しかし、タイタニックを含めたオリンピッククラス客船は、豪華さを売りにし、また総トン数を上げ輸送力増大や機関出力を抑えての燃料費の低減など、補助金無しで採算が取れる運航ができるように設計された船であった。このことから、ブルーリボン賞を獲得しようとしたという説の根拠は薄い。
[編集] 事故の「予言」
タイタニック沈没事故の14年前の1898年に発表されていた、アメリカ人の元船員モーガン・ロバートソン(Morgan Robertson、1861年–1915年 )の短編小説"The wreck of the Titan"の内容が、タイタニック沈没事故に酷似していたため、事故後「事故を予言した小説」として話題になった。小説中の「タイタン号」とタイタニック号は、船名、大きさ、構造、航路、沈没原因などが類似・一致しており、同書は事件後に欧米で大きな売り上げを記録したという。
[編集] 乗組員
- タイタニックの主な乗組員
- 船長:エドワード・ジョン・スミス - この事故により没(自らの意思により船と運命を共にする)。
- 航海士長(副船長):ヘンリー・ティングル・ワイルド - この事故により没。
- 1等航海士:ウィリアム・マクマスター・マードック - この事故により没(実際は乗客を撃っておらず、自殺もしていない)。
- 2等航海士:チャールズ・ハーバート・ライトラー - 転覆したB号ボート→12号ボートにより生還。
- 3等航海士:ハーバート・ジョン・ピットマン - 5号ボートにより生還。
- 4等航海士:ジョセフ・グローヴス・ボックスホール - 2号ボートにより生還。
- 5等航海士:ハロルド・ゴッドフリー・ロウ - 14号ボートにより生還。
- 6等航海士:ジェームズ・ポール・ムーディー - この事故により没。
- 機関士長:ジョセフ・ベル - この事故により没。
- 無線通信士:ジャック・フィリップス - 他船舶からの氷山の警告を、通信で忙しいことを理由に無視。その後、遭難信号を沈没の瞬間まで送信し続けた。この事故により没。
- バンドマスター:ウォレス・ハートリー - この事故により没。実際は乗組員という身分でなく、2等船客として乗り込んだ。
[編集] 乗客
- ジェームス・ブルース・イズメイ(生存者の一人、ホワイト・スター・ライン社長)
- トーマス・アンドリューズ(犠牲者の一人、タイタニックの設計者)
- ウィリアム・トーマス・ステッド(犠牲者の一人、イギリスのジャーナリスト)
- 細野正文(生存者の一人、日本人唯一の乗船者)
- イジドー・ストラウス(犠牲者の一人、アメリカの実業家)
- ジャック・フットレル(犠牲者の一人、アメリカの小説家)
- ベンジャミン・グッゲンハイム(犠牲者の一人、アメリカの実業家)
- ハリー・エルキンズ・ワイドナー(犠牲者の一人、アメリカの図書収集家)
- フレデリック・キンバー・スワード(生存者の一人、アメリカの弁護士)
- ミルヴィナ・ディーン(生存者の一人、最後の生存者。2009年没。最年少の乗船者。遭難当時生後9週間)
- バーバラ・ウェスト・ダニントン(2007年没。最後から2番目の生存者。遭難当時11ヶ月)
- リリアン・アスプランド(生存者の一人、事故の記憶のある最後の生存者で、最後のアメリカ人生存者。2006年没。遭難当時5歳)
- エヴァ・ハート(1905年~1996年 生存者の一人。遭難当時7歳)
- ルース・ベッカー・ブランチャード (1899年~1990年 生存者のうちの一人。遭難当時13歳)
- モリー・ブラウン(1867年7月18日~1932年10月26日)生存者の一人。コロラド州 実業家の妻 キャメロン映画ではキャシー・ベイツが演じた。第37回アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたデビー・レイノルズが 「不沈のモリー・ブラウン」で同婦人を演じた。
[編集] 脚注
- ^ タイニックの通信士はレース岬と通信を取るのに必死で他からの通信を邪魔だと思っていた。また、カルフォルニアンからの通信は当時の通信規則を破っていたため軽視されたという事情がある。(衝撃の瞬間より)
- ^ 最高速で走らせていたというわけではなく、当時は流氷域は高速ですり抜けるのが安全な方法だと考えられていた(衝撃の瞬間より)
- ^ "世界史・呪われた怪奇ミステリー 内容詳細". 紀伊國屋書店BookWeb. 2008年11月27日 閲覧。
[編集] 参考文献
- 『タイタニック号の最期』 ウォルター・ロード著 佐藤亮一訳 タイタニックに関する決定的なノンフィクションであるとされる。
- 『不沈 タイタニック—悲劇までの全記録』ダニエル・アレン バトラー著 悲劇の詳細を膨大な資料をもとに再現したノンフィクション
- 『タイタニックは沈められた』(ロビン・ガーディナー、ダン・ヴァンダー・ヴァット) タイタニックが遭難したのは保険金詐欺を狙いにした陰謀だという説[1]。
- 「なぜタイタニックは沈められたのか」(ロビン・ガーディナー)
- 「海の奇談」(庄司浅水) この中の巨船「タイタニック」号の遭難の項で、細野氏のことにも言及しさらに船の乗組員が助かったことに関し、ロビン・ガーディナーと似通ったするどい指摘と考察を述べている
[編集] 関連項目
- タイタニック (映画) - タイタニック号をモチーフにした複数の映画
- ゴーストバスターズ2 - 幽霊船として1シーンだけ登場。港で乗客の幽霊が下船してくる。
- タイタニック (ミュージカル)
- カルパチア (客船)
- オリンピック (客船)
- ブリタニック (客船・2代)
- 海難事故
- ナショナル・ジオグラフィック - 衝撃の瞬間シリーズ4において検証している。
- 銀河鉄道の夜 - 宮沢賢治の童話。作品中にこの海難事故をモチーフにしたと思われる客船の事故が出てくる。
- タイムトンネル - アメリカのSFテレビドラマシリーズ。第1話で主人公が過去に移動したところ沈没寸前のタイタニック号の甲板であった。
- マジック・ツリーハウス - アメリカの児童向け小説。日本語版第9巻で、上記同様過去に移動し沈没に遭遇。
- ルノー - 積み荷として1台だけ乗っていた自動車。
- サイレントメビウス - タイタニック号を舞台にした、パソコン用アドベンチャーゲームが製作された。
[編集] 外部リンク



