マーガレット・ブラウン

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不沈のモリー・ブラウン
マーガレット・ブラウン
生誕 旧姓 Margaret Tobin
1867年7月18日
ミズーリ州ハンニバル
死没 1932年10月26日(65歳)
死因 脳腫瘍
宗教 カトリック
配偶者 James Joseph Brown
子供 Lawrence Palmer Brown (1887-1949)
Catherine Ellen Brown (1889-1939)
John Tobin (1820-1899)
Johanna Collins (1825-1905)

マーガレット・ブラウン (Margaret Brown 、旧姓 Tobin1867年7月18日 - 1932年10月26日)は、アメリカソーシャライトフィランソロピスト活動家。通称のモリー・ブラウン不沈のモリー・ブラウンでよく知られている。1912年のタイタニック号沈没事故の際、生存者捜索のため救命ボート6号を戻し、女性生存者の代表者格として有名になった[1]。 死後、不沈のモリー・ブラウンとして知られるようになったが、生前にモリーと呼ばれることはなかった。友人からはマギーと呼ばれた。

前半生[編集]

ミズーリ州ハンニバルで、アイルランド移民の父ジョン・トビン(1820–1899)と母ジョアンナ・コリンズ(1825–1905)の間に生まれた。兄弟はダニエル(1863年生まれ)、ウィリアム(1869年生まれ)、ヘレン(1871年生まれ)の4人。さらに異母姉妹2人がおり、キャサリン・ビリジット・トビンは父の連れ子で、マリー・アン・コリンズは母の連れ子。

18歳のときコロラド州リードヴィルに姉妹とともに移り住み、デパートメントに職を得た。金持ちと結婚したがっていたが、ここでジェイムズ・ジョゼフ・ブラウン(1854–1922)と出会い、1886年9月1日、リードヴィルの受胎告知教会で結婚式を挙げた。ジェイムズはJ.J.と呼ばれ、進取に富んだ気性で、独力で勉強していた。

「お金持ちと結婚したかったけれど、私はジム・ブラウンを愛しました。
私は父を楽にさせてやりたかったし、疲れて年老いた父にしてやりたかったことをかなえてくれる男性が現れるまでは、ずっと独身でいようと決心していました。
ジムは私たちと同じくらい貧乏だったし、チャンスに恵まれた人生を送っていたわけではありません。
私はその頃、激しく葛藤していました。
私はジムを愛していたけれど、彼は貧しかったのです。
最終的に私は、富で自分を惹きつける男性とではなく、貧しくても愛する男性と過ごすほうが幸せだという考えに至りました。
だから私はジム・ブラウンと結婚したのです。」

と語っている。

彼らには2人の子が生まれた。

  • ローレンス・パルマー・ブラウン ( Lawrence Palmer Brown、通称ラリー)は1887年8月30日、ミズーリ州ハンニバル生まれ。アイリーン・エリザベス・ホートン (1890–1985) と1911年1月1日、ミズーリ州カンザスシティで結婚、2人の子供が生まれた。ローレンス・パルマー・"パット"・ブラウン・Jr (1911–1976) と、アイリーン・エリザベス・"ベティ"・ブラウン (1913–1974) である。だが破綻し、ラリーはミルドレッド・グレゴリー (1895–1956) と、1926年11月17日にビバリーヒルズで結婚したが、この時は子供は生まれなかった。1949年4月2日死去。
  • キャサリン・エレン・ブラウン ( Catherine Ellen Brown、通称ヘレン) は1889年7月1日、コロラド州リードヴィル生まれ。ジョージ・ヨセフ・ペーター・アーデルハイド・ベンジガー (1877–?) と、1913年4月7日にシカゴで結婚した。子供はジェイムズ・ジョージ・ベンジガー (1914–1995) と、ジョージ・ペーター・ヨセフ・アデルリッヒ・ベンジガー(1917–1985)である。1939年死去。
モリー・ブラウンの家博物館

一家が莫大な富を得たきっかけは、J.J.の鉱山工学の技術が、堅固な原鉱に割れ目を入れるのに役立つとわかったことである。J.J.の雇用主 Ibex Mining Company は、Little Jonny 鉱山でその技術を役立てるべく、資本金から12,500株をJ.J.に譲渡し、理事の席を提供した。

リードヴィルでは当初、女性の権利獲得に情熱を燃やし、国立アメリカ女性参政権協会のコロラド支部の設立を助け、鉱夫の家族を援助するスープ・キッチンで働いた。

1894年コロラド州デンバーに引っ越したため、さらに社会福祉の好機を得る。デンバー女性クラブの創立メンバーとなり、成人教育と慈善を通して、女性の生活の改善に努めた。

1901年に、ニューヨーク州カーネギー研究所に登録した第1期生の1人となった。

社交界の女性の美々しい衣装にも順応し、ブラウンは芸術に没頭し、フランス語、ドイツ語、ロシア語にも堪能になった 1909年にはアメリカ合衆国上院にも立候補している。

だが結婚生活23年で非公式な別居合意に達し、1909年署名して別々の道を歩むことになった。二人が和解することはなかったが離婚はせず、生涯を通じて互いを気遣った。この合意によりマーガレットは示談金を手にし、デンバーのペンシルベニア通りにある家も所有し続けた。また旅行や慈善活動を続けるための費用を、月に700ドル受け取ることになった。

資金調達を援助したデンバーの無原罪聖母大聖堂1911年に完成。リンジー判事とともに、貧しい子供たちを助け、アメリカ合衆国初めての少年裁判所の設立に努め、近代的な少年裁判所のシステムの基礎確立を支えた。

1914年に再び上院に立候補したが、妹のヘレンがドイツの男爵と結婚したのを機に手を引く。せっかくうまくいった運動が、組合のために失敗したと考えたのだった。

タイタニック号乗船[編集]

マーガレット・ブラウン(右)。タイタニック号の生存者を救出した船長アーサー・ロストロンに賞を授与している。

マーガレットはフランスシェルブールから、旅客船タイタニックの一等船客となったが、1912年4月15日氷山に衝突して沈没する。

他の乗客が救命艇に乗り込むのを助けていたが、最終的に救命艇6号に乗って船を離れることを承諾する[1]。沈没後、他の女性乗客数名とともに救命艇6号を指示し、乗組員長に有無を言わさず「暖をとるため」ボートを漕ぎ、水中の生存者を探し出すために戻った。[1]。しかし生存者発見に成功したのは救命艇12号だけだった[1]カルパチア号に救助、収監された際も、女性乗客の間でリーダーシップを発揮した。生存者を捜すために救命艇6号を戻らせようと努力したところから、ヒロインと見なされるようになった[1]

タイタニック号生存者としての名声は、労働者と女性の権利、子どもの教育や読み書き能力、歴史の保存といった、深く心にかけた問題を推進するのに役立った。

後半生[編集]

1922年9月5日にJ.J.が死去した際は、新聞に「J.J.ブラウンほど高潔で、心の広い、すばらしい男性はいなかった」と語っている。J.J.は遺言を残さず死去したため、2人の子供とは、財産の継承をめぐって5年間争う。彼らの浪費のため、J.J.の遺産はたった238,000ドルと評価。マーガレットは現金と証券とで20,000ドルを受け取ることになり、100,000ドルの信託財産の利子が彼女の名で用意された。2人の子供はその残りを受け取る。これ以降亡くなるまで、2人の子供に会うことはなかった。

マーガレット・ブラウン

第一次世界大戦中のフランスではアメリカ委員会とともに、荒廃したフランスのため、最前線より後ろの地域を立て直しフランス人やアメリカ人兵士の傷病者を助けた。アメリカで慈善を含め、そのよき市民権的行動のため、フランスのレジオンドヌール勲章を授けられた。人生最後の数年間は、女優業にも取り組んだ。

睡眠中の発作により65歳で死去。その死は世界大恐慌の間のことであり、2人の子供は彼女の財産を6,000ドルで売却した。ニューヨーク州ウェストベリーのホリールード墓地に埋葬されている。

伝説[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e "Titanic: a night remembered", Stephanie L. Barczewski, 2004, page 30, webpage: Books-Google-EC.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]