海難事故

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2006年10月に鹿島灘で発生した香港船籍の貨物船「オーシャン・ヴィクトリー」の座礁事故。当該船は鹿島港に入港していたが、荒天のために港外に避難したのち、操船不能に陥って座礁した。座礁後しばらくは引き出しが試みられたが、荒天が続いたため作業は難航、引き出せないでいるうちに船体が破断した。積荷は鉄鉱石であり、1/3強が避難出航までに荷下ろしが間に合わず搭載されたままになっていたが、幸いオイルタンカーではなかったため重大な汚染は発生しなかった。
積丹半島 西の河原に残骸となって今なお残る難破船。積丹半島は、船の難所であった。

海難事故(かいなんじこ)とは、船舶の運用中に起きた事故のこと。難破(なんぱ)とも言う。

文字どおりにはで起こる事故全般を意味する。しかし、本項では海難審判法2条に定義される「海難」(以下参照)を中心とした船舶に関する事故について述べる。で起こるものも含む。

  1. 船舶の運用に関連した船舶又は船舶以外の施設の損傷(海難審判法2条1号)
  2. 船舶の構造、設備又は運用に関連した人の死傷(海難審判法2条2号)
  3. 船舶の安全又は運航の阻害(海難審判法2条3号)

類義語に水難事故(すいなんじこ)がある。ただしこの語には船舶の事故に限る意味合いはなく、船舶以外(海水浴など)について使うことも多い。

一般的に、戦争に起因する被害は海難事故に含まれないことが多い。

目次

[編集] 海難事故の種類

[編集] 海難事故の原因要素

海難事故の原因となるものには、以下のようなものがある(例示)。

操縦のミスによるもの。
  • 船員の操船判断に関連するもの
気象・海象に対する不注意、天候の読み違えによるもの、海洋法規や慣行の解釈ミス・誤解によるもの、見張り不十分による他船・桟橋氷山との接触・衝突など。
  • 船舶の堪航能力に関連するもの
設計ミス、材質の強度不足、構造欠陥などによるもの。小規模な船体損傷から船体折損などの重大なものまで、さまざまなものがある。当初予定していたものとは別の用途に転用されるなどした際に、問題点が顕在化するケースなどもある(運用の問題とも関係する)。
  • 船舶の搭載機関・搭載機器の性能・整備・運用に関連するもの
故障や火災など施設の管理問題に由来するもの。老朽化に由来するもの。積載重量オーバー・荷崩れなど運用管理に由来するもの。
  • 故意によるもの
戦争・海賊行為・船内での騒擾などによるもの。

[編集] 海難事故の様式種別

海難事故の様式としては、以下のようなものがある(例示)。

船体が水面下に沈んでしまうもの。潜水艦の浮上不能も含む。浅海で沈没した場合、船の上部構造物が海面上に出ていることがあるが、座礁とは異なる。
船体がなんらかの理由で上下逆になるもの。横倒しになるとたいてい沈没するが、さかさまになってしまうと案外沈まない。
船底が海底・川底と接触し操船が不能になるもの。船の多くは、液体の水の上に浮くことで全体で分散して重量を負担する設計となっているため、固体の海底などに接触しそこに重量が集中すると、容易に船体断裂などの損壊を引き起こす。潮の満ち引きなどの影響で結果として同等になる場合はあるが、座礁・触底は「通常の喫水で航行中に浅くなっているところに乗り上げる」ものであり、沈没とは異なる。
  • 機関故障・推進器故障・かじ故障などによる漂流
なんらかの理由で航行できなくなり、海上を漂うもの。
  • 落水
船上から乗組員・乗客・積荷が転落するもの。
  • その他
火災や浸水

[編集] 海難事故の影響

引き起こされる結果としては、以下のようなものがある(例示)。

  • 人的損害
死亡怪我など。
  • 物的損害
船体の喪失・荷物の流失・港湾施設の損壊など。
  • 自然損害
燃料・輸送物の漏洩・散乱による海洋汚染など。オイルタンカーの海難事故の場合には特に大きな被害の発生が報告されている。

[編集] 海難事故の複合的様態

海難事故は、個々に様態が異なり、またさまざまな複合的要素を持つ。たとえば「荒天による操船不能→座礁→船体断裂→燃料流出」など。また、関係者が生還しないケースも少なくなく、原因の解析が困難なことも珍しくない。

[編集] 海難事故の法的扱い

海難事故は、船という陸上での経験があまり通用しない交通機関にかかわるものであること、独特の法的規制や慣習があることなどに鑑み、法的に特殊な扱いがなされる場合がある。

[編集] 日本における海難事故の法的扱い

日本では、一般に事故をめぐる責任の追及については民事上の責任や刑事上の責任が問題となり、海難事故に関しても同様であるが、海難事故の場合には特に将来的な海難の防止という観点から、運輸安全委員会による海難事故の究明(運輸安全委員会設置法1条)がなされ、故意・過失によって海難を発生させた船員に対しては海難審判所海難審判による懲戒がなされる(海難審判法1条)。なお、海難事故の究明や海難審判について以前は海難審判庁が担っていたが、2008年10月の法改正により海難審判庁は廃止され現行の体制に移行した。

[編集] 海難事故の損害賠償枠組み

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一般的な海難事故の損害賠償については、通常の損害賠償保険によって扱われる。

しかしながら海難事故の場合、特にオイルタンカー座礁事故などの際には、その汚染規模が大きく、被害額・除染費用などが巨額に上ることが少なくなく、補償の実効性には疑問が持たれるケースも少なからず存在した。そのため、1967年のトリー・キャニオン号事故を契機として1969年には「油による汚染損害についての民事責任に関する国際条約」が作られ、以下幾度か改定されている。

この条約では、タンカー事故などについて、ほとんど無過失責任であるといえるレベルの損害賠償責任を負わせている。また、現実的な被害救済のために、一定量以上の荷主に拠出を義務付けるなどして国際基金を整備し、確実に補償がなされるような枠組みを作っている。

日本国内では、この条約に基づいて船舶油濁損害賠償保障法が制定されている。また、保険未加入船舶については入港を拒否するといった方法で、補償が期待できないような被害の発生を防止している。

[編集] 年表

ここでは特に社会的影響の大きかったものに限り、便宜的に記載する。

[編集] 1900年代以前

英国シリー諸島沖で英国海軍艦隊4隻が座礁。2000人を超える犠牲者を出した。
唐船(17人乗組)紀伊熊野に漂着
アメリカ合衆国ミシシッピ川で就航していた貨客船のサルタナ号が過積載のためボイラー爆発、火災を起こし沈没。多数乗船していた南北戦争帰還将兵など少なくとも1450人が死亡。
客船ドイッチュラントテムズ川河口でブリザードに遭遇し、砂州に座礁。翌日に救助が来たが、乗客・乗務員100名以上が死亡する惨事となった。この事故は社会に大きな衝撃を与え、「ドイッチュラントの遭難」という詩が作られた。
北海道瀬棚海岸沖にてロシア軍艦「アレウト」がおりからの暴風に煽られ座礁。乗組員60人全員が地元住民により救助されるも、翌1878年(明治11年)4月20日迎えに来た軍艦「エルマック」へ「アレウト」乗組員がボートで向かう途中高波により転覆、12人が犠牲になった。
  • 1878年(明治11年)12月
和歌山県太地において「大セミ流れ」が発生。荒天を突いて鯨組が出漁したことから集団遭難事故を引き起こし、110名余が死亡した。
英国商船ノルマントン号が、和歌山県潮岬沖で沈没、日本人乗客25人ほか、中国人、インド人乗組員12人が死亡。イギリス人船員は全員生存し、当時の日本で社会問題になった。
  • 1886年(明治19年)12月
日本海軍巡洋艦畝傍がフランスから日本への回航中、シンガポールを発ったのを最後に消息を絶つ。荒天により沈没と思われるが原因や状況などは現在に至るまで不明。フランス人乗組員や日本海軍の将兵など計90人が行方不明となった。
客船ブリタニックが霧のためセルティックと衝突。激しく損傷したが沈没の恐れがなかったため援助にきた船とニューヨーク港に移動した。
詳しくはブリタニック (客船・初代)を参照のこと
日本和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦エルトゥールル号が座礁沈没。乗員約600人中、地元の漁民らによって69人が救出されたが、587名が死亡または行方不明となった。

[編集] 1900年代

ニューヨークにて遊覧船「ジェネラル・スローカム」がイースト川で火災。犠牲者1031人。
イギリス船籍貨客船「ワラタ」が南アフリカ・ダーバンから出航後、消息を絶つ。サイクロンに遭遇、転覆・沈没したと推定される。乗員乗客211名全員行方不明。

[編集] 1910年代

日本海軍の第六潜水艇が、広島湾でガソリン潜航実験の訓練中に沈没。艇長佐久間勉大尉以下乗員14名全員殉職。後日引き上げられ、最後まで規律を保って配置を守っていた乗組員の遺体と、佐久間が絶命の瞬間まで書き綴った遺書が発見された。その様子は国内では教科書や軍歌に取り上げられるほどの社会現象となり、アメリカ・イギリスなどにおいても大きな話題となった。
タイタニック号
イギリス船籍客船タイタニック号が処女航海中、氷山に衝突して沈没。1517人が死亡。
静岡県新島近くで石炭運搬船「幸運丸」(総トン数2878トン)が沈没。乗員42名中40名死亡。
青森県尻屋崎の沖合いで石炭運搬船「相川丸」(総トン数1536トン)が台風による暴風雨で沈没。乗員33名全員死亡。
カナダ船籍客船「エンプレス・オブ・アイルランド」(総トン数14191トン)が濃霧のセントローレンス川でノルウェー船籍貨物船「ストールスタッド」(総トン数6028トン)と衝突して沈没。1024人が死亡・行方不明。

[編集] 第一次世界大戦時

英国船籍客船「ルシタニア号」がUボート雷撃で沈没。米国人を含む1198人が死亡。
イギリス軍に病院船として徴用された客船ブリタニック」がドイツ軍の機雷に触れて沈没。死者30名。
カナダハリファックス港で軍用火薬を積んだ船と貨物船が衝突して大爆発を起こした。両船だけでなく、付近にいた船を巻き込み、ハリファックス市街に重大な被害をもたらす大災害となった。
イギリス軍に輸送船として徴用された客船「オリンピック」が「U-33」の雷撃を受けたものの、「オリンピック」は発射された魚雷をかわして体当たりによる逆襲を敢行、「オリンピック」に体当たりされた「U-33」が沈没した。

[編集] 1920年代

カムチャッカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高」がオゼルナヤ沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨。海岸に座礁、転覆した。15人は救助されたが、残りの327人は死亡した。
京都府舞鶴港に向かっていた海軍の工作艦「関東」が、吹雪の気象条件のなか位置を誤認もしくは確認できないまま航路を逸脱。福井県下糠浦海岸の二ッ栗岩に座礁して沈没、乗組員と便乗者のあわせて99名が死亡。
漁船「良栄丸」(総トン数42トン)が本州東方海上で機関を破損して航行不能となって漂流。乗組員全滅後、27年10月末に北アメリカ西岸に漂着した。
島根県美保関沖で夜間演習中の軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「」が衝突して「蕨」が沈没、軽巡洋艦「那珂」と駆逐艦「」も衝突し、将兵119名が殉職した。「神通」艦長水城圭次大佐は軍法会議にかけられ、判決の前日に自決した。

[編集] 1930年代

愛媛県南宇和郡内海村(現愛南町)の沖にて南宇和郡深浦港行の連絡船「第3大和丸」(総トン数45トン、乗員乗客24名)が沈没。生存は乗組員1名のみで残りの23人は死亡した。
日本海軍水雷艇友鶴」が演習中に転覆。乗員100名が死亡。
広島県帝釈峡にある神竜湖の遊覧船が沈没。比婆郡田森村(現在の庄原市東城町)の粟田尋常小学校と粟田尋常高等小学校児童の卒業遠足一行(計42名)が乗船しており、児童12名と引率教諭2名、合計14名が死亡した。
広島県の尾道を出航して豊島へ向かう汽船「大崎丸」(総トン数33トン)が生野島沖で暴風雨によって沈没。乗っていた30名以上のうち11名が死亡。
大分県の別府を出航して兵庫県神戸市へ向う途中の大阪商船の客船「船緑丸」(総トン数1724トン)が小豆島の近くで大連汽船の「千山丸」(総トン数2775トン)と衝突。この事故で「船緑丸」は沈没。乗員乗客107名が死亡。
日本海軍第四艦隊が演習中、台風に遭遇。54名が死亡。
長崎県から大阪府に石炭を運ぶ途中の福岡県の貨物船「彦山丸」(総トン数929トン)が博多湾の沖でで遭難。22名が死亡。
貨物船「雲南丸」(総トン数2200トン)が中国の大連から横浜へ向かう途中に和歌山県の樫野岬沖で遭難。乗員40名が死亡。
埼玉県の川柳村から彦成村へと通う中川の彦成の渡し船が定員20名のところ、無理に36名を乗せて出航したところ川を半分ほど渡ったところで浸水して沈没、10名が死亡。
愛知県八開村(現・愛西市)の木曽川渡船場で渡し船が定員を超えた状態で出航したところ沈没して8名が死亡。
樺太・栄浜沖で「相州丸」(総トン数1219トン)が浅瀬に座礁する事故が起きた。「相州丸」は救助船「大浦丸」に曳航されて函館港に向かっていたが、「大浦丸」は天売島沖で舵を損傷。「相州丸」は23日に増毛の南に漂着した。また「大浦丸」の救難ボートに乗り移った者もいたが、この救難ボートは23日に留萌付近に着岸する前に転覆した。これらの事故により19名が行方不明になった。
北海道から静岡県へ向けて航行中の石炭運搬船「愛国丸」(総トン数3212トン)が積丹岬の沖合いにて座礁、船体が二つに折れて沈没、33名が死亡。
横浜から函館へ向っていた貨物定期船「小樽丸」(総トン数1464トン)が吹雪で荒れる太平洋を北上中に行方不明となり後日岩手県八幡平市の沖合いで沈没しているのが発見された。乗組員36名全員死亡。
北海道猿払村オホーツク海にてソ連貨客船「インディギルカ号」が座礁沈没、700名以上が死亡。

[編集] 1940年代

東京湾にて季節風に伴う突風が吹き荒れ数多くの小型漁船が次々と遭難する事態となった。その被害は翌21日までの間に死者20名、行方不明7名にも及んだ。
琵琶湖に面する滋賀県大津市に合宿していた第四高等学校(現・金沢大学)の漕艇部員8名と他の3名(合計11名)が強風の中を同県今津町(現・高島市)から琵琶湖へボートを出艇させて遭難し、全員が死亡した。遭難の原因は強風で転覆したものと推測されるが全員が死亡したため詳細は不明。なお、この事故は後日、その悲劇を悼む歌として琵琶湖哀歌(歌は東海林太郎小笠原美都子)としてレコード発売された事により全国的に有名な事件となった。
茨城県にある香取神宮鹿島神宮への参拝客77名を乗せた水郷汽船「水郷丸30号」(総トン数4トン)が鹿島郡豊津村(現・鹿嶋市)から潮来町(現・潮来市)へ向かう途中の利根川で転覆・沈没し49名が死亡。定員30名のところを77名も乗せて運航したのが原因とされた。
ニューヨーク港で軍の徴用に向けて改装中だった「ノルマンディー」が火災を起こし、消火時の放水で浸水したことにより転覆。船体が巨大であったこと、狭い埠頭で転覆したことから上部構造物を全て撤去して引き上げたが、結局第二次世界大戦後に解体された。
東亜海運客船「長崎丸」が上海から長崎港外に到着し、附近の哨戒艦と連絡のため、指定航路を僅かに外れた時、日本海軍の機雷に触れて沈没。死者13名、行方不明者26名。生き延びてしまった菅源三郎船長の切腹と言う壮絶な結末で有名な海難事故。
関西汽船の貨客船「浦戸丸」が愛媛県松山市波妻ノ鼻沖合で、宮地汽船の貨物船「聖山丸」と衝突して沈没。死者231名。
伊予灘で試験潜行中の「伊号第33潜水艦」が浸水し沈没、死者102名。8年後に引き上げられた。
  • 1944年(昭和19年)12月
アメリカ海軍第38任務部隊がフィリピン沖で台風に遭遇し、駆逐艦3隻沈没など大きな損害を出した(コブラ台風)。
青森港内にて青函連絡船の「第五青函丸」が折からの暴風に煽られ防波堤に接触し浸水、沈没した。死者・行方不明者82名。戦時設計のため二重船底が廃止された上に外板が薄く設計されていたこと、重心が高かったことなどが沈没の要因としてあげられる。
朝鮮人労働者とその家族を乗せた「浮島丸」が舞鶴湾内で機雷に触れて沈没。乗員と便乗者549名が死亡。
尾道港今治港行き瀬戸内海汽船の今尾連絡船「第十東予丸」(総トン数162トン)が、荒天の中、定員210名の3倍を超える乗客を乗せた為、復元力を失って伯方島木浦港沖で転覆・沈没し、死者・行方不明397名を出す惨事になった。地元で架橋運動が始まるきっかけとなり、1957年第五北川丸沈没事故もあり、しまなみ海道の建設につながった。
阪神 - 多度津航路の「女王丸」が瀬戸内海牛窓沖で機雷に触れて沈没。死者行方不明183名。
千葉県香取郡高岡村(現・成田市)の利根川にある「高岡の渡し」で、渡し船が対岸の茨城県側にある大島渡船場へと向かう途中で転覆して沈没、乗っていた31名のうち19名が死亡。

[編集] 第二次世界大戦時

大阪商船貨客船「高千穂丸」、米潜水艦の雷撃により沈没。乗客844名が死亡。
沖縄からの児童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の雷撃により沈没。疎開児童708名を含む1484名が死亡。3隻の疎開船団(「暁空丸」、「和浦丸」、「対馬丸」)の唯一の犠牲。また、沖縄方面からの疎開船(延べ187隻)の中で、唯一撃沈されてしまった船でもある。
捕虜交換船「順陽丸」英潜水艦の雷撃により沈没。連合国軍の捕虜など約5620名が死亡。
バルト海にてソ連潜水艦の雷撃によりドイツ客船「ヴィルヘルム・グストロフ」が沈没。乗船していた難民など9331名が死亡。
ドイツ客船「シュトイベン」がソ連潜水艦の雷撃により沈没。難民など4500名が死亡。
安全航行を保障されていた緑十字船「阿波丸」が台湾海峡にて米潜水艦により撃沈される。乗客2000名以上が死亡。「阿波丸」は協定に違反して戦略物資を積み込んでいたことが明らかになっている。
ドイツ客船「ゴヤ」がソ連潜水艦の雷撃により沈没。難民など6666名が死亡。
ドイツ客船「カップ・アルコナ」が英空軍の空襲により沈没。5594名が死亡。強制収容所の収容者が多く犠牲となった。
米重巡洋艦「インディアナポリス」が日本潜水艦伊58の雷撃により沈没。米海軍は同艦沈没の事実を人為的ミスによって丸四日間気付かず、乗員1196人中、880名が死亡した。同艦は広島へ投下された原子爆弾の輸送任務を終えた直後だった。生き残ったマクヴェイ艦長は軍法会議にかけられ有罪となり、1968年に自殺している。この事件は海軍の真相隠蔽疑惑と、マクヴェイ艦長の名誉回復を巡って今も論争が続いている。
樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」・「第二新興丸」・「泰東丸」が停船命令に従わず、ソ連潜水艦(L-12L-19)の雷撃・砲撃を受け小笠原丸と泰東丸が沈没、第二新興丸が大破した。1700名以上が死亡。犠牲者の大半は民間人だったという。なお、第二新興丸の反撃により、ソ連潜水艦も1隻(L-19)が沈没している。

[編集] 1950年代

[編集] 1950年(昭和25年)

静岡県伊東市の「盛徳丸」(総トン数30トン)が伊豆大島の沖合いで沈没。乗組員32名が死亡。
広島県佐伯郡にある長島の近くで漁船が操業していたところ、付近に浮遊していた大型機雷が爆発。これにより漁船4隻が大破し2隻が損壊した。犠牲者46名。
北海道厚岸郡の霧多布沖で捕鯨船が救難信号を出した後に行方不明となった。21名が乗り組んでいたが生存者は発見されなかった。
三重県北輪内村(現・尾鷲市)の漁船が岩手県三陸海岸の魹ヶ崎(とどがさき)付近で行方不明。48名死亡。
愛媛県の今治市から大阪へ向かう定期旅客船「第2高島丸」(総トン数161トン)が沈没。16名が死亡。
長崎から名古屋へ向かっていた「豊丸」(総トン数725トン)がSOSを発信した後に消息不明となった。その後救命ボートに乗っていた5名が助かったが26名が犠牲となった。
青森県の深浦沖にて東邦海運の貨物船(総トン数1684トン)が座礁の後に沈没。乗組員40名が死亡。

[編集] 1951年(昭和26年)

横浜市の大岡川に浮かぶ日雇い労務者用の水上ホテルが転覆。7名が犠牲となった。定員250名のところに432名が乗り込みバランスが崩れたのが原因と思われた。
佐賀県東松浦郡の波戸岬の沖で貨物船(総トン数880トン)が座礁した後に沈没。33名死亡。
東京湾および関東付近の太平洋で吹雪まじりの嵐となり漁船などの連続遭難事件が発生した。14日と15日の両日だけで小型漁船を中心に沈没43隻、流失46隻、損壊15隻、行方不明9隻、座礁6隻を出す事態となった。
福島県にある桧原湖にて遊覧船(定員60名)が定員をオーバーする乗客を乗せて沈没。女子中学生1名死亡。

[編集] 1952年(昭和27年)

当時活発な活動を繰り返していた海底火山明神礁の調査に向かった海上保安庁の測量船「第五海洋丸」が、明神礁付近で調査を行っている際に突如発生した海底火山噴火に巻き込まれて沈没。船長以下乗組員22名、学術調査員9名、計31名全員が死亡。
静岡県の漁船「福徳丸」(総トン数64トン)が宮城県塩釜沖の太平洋で沈没。21名が犠牲。
北海道の稚内沖で「日進丸」が定置網の引き上げに出航したまま行方不明になった。31名が乗り組んでいたが強風により沈没したものと思われる。
千葉県天津町(現・鴨川市)の漁船が岩手県の釜石沖で沈没。1名が救助されたが18名が行方不明。

[編集] 1953年(昭和28年)

沖永良部島から与論島へ向っていた機帆客船「新生丸」(総トン数25トン)が沈没。乗客82名のうち80名が死亡。
米国の貨物船と日本の水産指導船が静岡県白浜沖の太平洋で衝突。これにより水産指導船が沈没して11名が死亡した。
福島県のカオマグロ漁船「みどり丸」(総トン数98トン)が宮城県の金華山沖で消息を絶った。海上保安庁だけでなく在日米軍の協力も得て海難地点付近を捜索したが、「みどり丸」のものと思われる釣竿や魚を入れる道具しか発見できないまま8月8日に捜索を打ち切った。乗員51名全員が行方不明。

[編集] 1954年(昭和29年)

北海道で荒天のため小型漁船などの連続遭難事件が発生。3日間に沈没17隻、大破11隻、中破29隻、小破21隻、座礁39隻を出し、死者・行方不明者の合計は37名にも及ぶ事態となった。
マグロ漁船「第五福竜丸」がビキニ環礁にて行われた核実験で被曝。乗員が死の灰を浴び、1名死亡。
青函連絡船「洞爺丸」が函館沖で台風15号(洞爺丸台風)の暴風により転覆・沈没。乗員乗客1155名が死亡。
  • 洞爺丸台風では、同様に函館沖で停泊していた「北見丸」(乗員70名死亡)・「十勝丸」(乗員59名死亡)が転覆、「日高丸」(乗員56名死亡)が浸水、「第十一青函丸」(乗員90名死亡)が船体破断で沈没。あわせて1430名が犠牲となっている。
神奈川県与瀬町(現・相模原市)にある相模湖遊覧船「内郷丸」が定員を大幅に超過した状態で運航して沈没、死者22名。

[編集] 1955年(昭和30年)

北海道根室市納沙布岬沖で漁船「第八東丸」(総トン数57トン)が転覆。乗組員14名全員が死亡・行方不明となった。
大阪府大阪港第3埠頭に停泊中だった関西汽船の「にしき丸」(総トン数1850トン)から出火。その後、消火活動が始まったが消防の放水を浴びてバランスを崩して転覆・沈没した。出火の原因は船員の寝室にあった石油ストーブの火の不始末と考えられた。死者や怪我人はなかった。
青森県尻屋崎の沖合いで大阪府大阪市の五大光商船所属の貨物船「大玄丸」(総トン数918トン)が浸水し、SOS信号を発信しながら沈没。乗組員29名が行方不明となった。
北海道の小樽港の沖合いで小樽石油海運のタンカー「第五葵丸」が時化で沈没。
いずれも宇高連絡船である「紫雲丸」(貨客船)と「第3宇高丸」(貨物船)が濃霧の中で衝突し、「紫雲丸」が沈没。死者166名、負傷者122名。これも国鉄戦後五大事故の一つに数えられる。

[編集] 1956年(昭和31年)

イタリア客船「アンドレア・ドーリア」(総トン数29083トン)と、スウェーデン客船「ストックホルム」(同12165トン)が濃霧の中で双方ともレーダーを過信し、20ノットの高速で航行中に北大西洋・ナンタケット島沖で衝突。「アンドレア・ドーリア」は沈没し、双方で55名死亡。

[編集] 1957年(昭和32年)

瀬戸内海の定期客船であった「第5北川丸」が、定員の3倍超の乗客を乗せて生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航したところ、途中の暗礁に座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す惨事になった。海難審判では船長の職務上の過失に加え、運航会社による管理が不適当であったとされた。

[編集] 1958年(昭和33年)

紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が和歌山市に向け徳島県小松島市から出航したところ、悪天候に遭遇したため紀伊水道沼島沖で沈没。乗員乗客167名全員が死亡・行方不明になった。沈没までの詳細な過程は生存者がいないため不明である。

[編集] 1959年(昭和34年)

福岡県にある米軍芦屋基地の沖で八幡製鉄所構内の小型貨物船「松栄丸」(総トン数422トン)が沈没、10名死亡。
千葉県銚子市の一ノ島灯台付近で茨城県の漁船「第5幸辰丸」(総トン数32トン)が高波を受けて転覆・沈没。乗組員35名のうち28名が死亡。

[編集] 1960年代

[編集] 1960年(昭和35年)

津軽海峡東方で対潜訓練中の海上自衛隊の護衛艦2隻、「あけぼの」と「いなづま」が、操船ミスで衝突し2人が死亡、2人が負傷した。なお翌日には修理中の「いなづま」で室内での清掃作業に用いたガソリンへの引火による爆発事故が発生し、3人が死亡した。
岩手県釜石市漁船「第6神明丸」(総トン数36トン)が北海道の釧路沖500キロで消息不明となった。17名の乗組員は全員死亡したものと思われる。

[編集] 1961年(昭和36年)

宮城県金華山沖で東京都中央区の太洋海運所属の貨物船「第五太平丸」(総トン数900トン)が積荷の荷崩れが原因で沈没。乗組員25名は沈没直前に救命ボートに乗り移って脱出、全員生還した。
岩手県三陸沖でギリシャ船籍の貨物船「アトランチック・サンライズ」(総トン数14408トン)と大洋漁業の捕鯨船「第7文丸」(同391トン)が衝突。「第7文丸」はたちどころに沈没して死者不明16名となった。
北海道の広尾港を出港した刺し網漁船「第18雲浦丸」(総トン数53トン)が襟裳岬東南35キロでバラバラとなった船体の破片が発見された。状況から他の船と衝突して沈没したものと思われたがぶつけた相手の船は判らなかった。この事故により乗組員14名全員が行方不明となり全員が死亡したものと推察される。
千葉県銚子沖30キロの太平洋茨城県の漁船「第6政豊丸」(総トン数30トン)が貨物船「玉川丸」(同6844トン)と衝突し、「第6政豊丸」は転覆・沈没。乗組員12名のうち9名が死亡した。
東京湾の各所にて強風のため遊漁船や小型の釣り船が沈没して3隻の合計11名が死亡した。
石川県七塚町(現かほく市)の漁船「第1梅丸」(総トン数21トン)が遭難、乗組員全員の6名が行方不明。
新潟県新潟市沖の日本海で長谷部海運のタンカー「第18八幡丸」(総トン数452トン)が転覆。乗組員のうち2名が死亡、9名が行方不明。
韓国の済州島の北西約370キロの海上で漁船「第8山田丸」(総トン数92トン)が突然の横風を受けて沈没。乗組員13名のうち3名は救助されたものの10名が行方不明。
福島県北塩原村にある桧原湖にてモーターボートが沈没。乗っていた6名全員が死亡。

[編集] 1962年(昭和37年)

神奈川県川崎市京浜運河を航行中の出光興産所有の小型タンカー「第一宗像丸」(総トン数1972トン)が、ノルウェー船籍の大型タンカー「タラルド・ブロビーグ」(同21634トン)に衝突。「第一宗像丸」の積荷のガソリンが炎上し、付近を航行していた太平丸(同89トン)と宝栄丸(同62トン)も巻き込まれて炎上、4隻で41人が死亡。海難審判では「第一宗像丸」の船長と「タラルド・ブロビーグ」の水先人が見張りを疎かにしていたためとされたが、狭い運河に揮発性の高い積荷を満載した船舶が過密航行していることも原因のひとつであった。

[編集] 1963年(昭和38年)

韓国済州島の近くで日本の漁船「第十二泰安丸」が沈没。乗組員12名のうち1名は韓国側に救助され、2名の遺体を収容、9名が行方不明となった[1]
韓国のソウルに近い木浦港の近くでフェリーが沈没。乗客約80名が死亡[2]
北海道枝幸郡枝幸町のはえなわ漁船「第二瑞宝丸」(総トン数74トン)が北海道の千島列島沖で操業中に火災発生。夜間で乗組員全員が就寝中だったため火災の発生に気付くのが遅れて乗組員14名のうち6名死亡、3名が重軽傷。
兵庫県神戸市和田岬沖で貨物船「りっちもんど丸」(総トン数9547トン)と鳴門・阪神間の定期旅客船「ときわ丸」(同238トン)が衝突。「ときわ丸」は衝撃で沈没し乗員7人と乗客40人が死亡し3人が負傷した。海難審判では「りっちもんど丸」船長の職務上の過失が主とされたが、「ときわ丸」側にも過失があったと認定された。
東京湾内で海上自衛隊護衛艦「てるづき」の右舷に貨物船「賀茂春丸」の船首が衝突し、自衛官5人が死亡。
岩手県陸前高田市の沖で福島県のサケマス流し網漁船「第三福寿丸」(総トン数61トン)が沈没。乗組員11名死亡、8名不明[3]
フィリピンからラワン材を運搬していた「洞南丸」(総トン数4815トン)が和歌山県潮岬沖で遭難。乗員33人が死亡・行方不明。荷崩れにより転覆の危険があるため総員退避すると通信があったことから、荷崩れで横倒しになり沈没したとみられている。また「洞南丸」が戦時標準型貨物船(1945年(昭和20年)5月29日三菱造船長崎造船所で進水)であったことも事故原因の一因であるとの指摘が、事故直後の6月12日の衆議院運輸委員会でなされた。
岩手県宮古市のサケマスはえなわ漁船「第3宝運丸」(総トン数39トン)から火災発生。乗員16名のうち4名焼死。6名火傷。
広島県福山市で製鉄所建設現場に通勤する作業員57人が乗船したタグボート「第13湊川丸」(総トン数6.15トン)が転覆沈没して10名が死亡。原因は定員の5倍が乗っていたことによる重量超過であった。
沖縄本島久米島を結ぶ「みどり丸」が横波を受けて転覆・沈没。死者・行方不明112人。
北海道の松前沖にて兵庫県神戸市の正向海運所属の貨物船「加明丸」(総トン数998トン)が積荷の硫化鉱の荷崩れが原因で沈没。死者20名。

[編集] 1964年(昭和39年)

青森県下北半島沖にて広島県豊田郡安芸町(現広島市)の進徳海運所属の貨物船「第二進徳丸」(総トン数757トン)が積載量を超えた荷物を積んで出航し、また時化にあったことにより沈没。乗組員11名のうち一等航海士1名は救命ボートにより脱出に成功して生還したが両手足に凍傷を負った。残り10名は死亡行方不明となった。
午後9時頃(日本時間:午後8時頃)オーストラリアニューサウスウェールズ州のジャーヴィス湾にてオーストラリア海軍所属の空母メルボルン」(総トン数19000トン)と駆逐艦「ボイジャー」(同2800トン)が衝突して約3時間後に「ボイジャー」が沈没。死者82名。
北海道小樽市の沖合いで底引漁船「第三豊善丸」(総トン数82トン)が消息を絶ち、乗組員17名が行方不明となった。
ギリシャ船籍の貨物船「マリア・G・L」(総トン数7238トン)がアメリカのロングビーチから横浜港肥料を運んでいたところ、千葉県勝浦市布良鼻の沖で座礁して動けなくなった。またこのあと「マリア・G・L」を救助するため現場へ向かったアメリカ船籍の貨物船「ダディビレジ」(同8245トン)も座礁してしまった。そして2日後の17日になって「マリア・G・L」は船体が真っ二つに割れて沈没。乗組員は沈没前に全員救助されて無事だった。「ダディビレジ」も船体が危なくなったので全員が退船するなどした。
アメリカバージニア州沖の大西洋でタンカー「サンジャシント」(総トン数11257トン)が突然爆発。船体が真っ二つに分かれて沈没[4]
オーストラリア西岸のインド洋で操業していた三重県志摩郡浜島町(現・志摩市)のマグロはえ縄漁船「第三幸喜丸」(総トン数179トン)が行方不明となった。僚船やオーストラリア空軍などにより捜索が行われたが手かがりが得られず全員遭難したものと判断され、4月3日に捜索は打ち切られた。乗組員24名全員行方不明[5]
伊豆半島南の静岡県南伊豆町波勝崎の沖合いで東京都中央区の渡辺海運所属の砂利運搬船「光進丸」が積荷の砂利が傾いて横転沈没。乗組員8名のうち5名が死亡[6]
静岡県賀茂郡松崎町沖の駿河湾で漁船「第一鉱造丸」及び「第二鉱造丸」の2隻が相次いで転覆沈没、合計32名が海へ投げ出された。近くにいた仲間の船が27名を救助したが、2名死亡。3名行方不明となった。
鹿児島県薩摩半島の西約で台湾船籍の貨物船「チュンカイ」(総トン数1873トン)が積荷の火薬が爆発してSOSを出す間もなく沈没。翌12日の午前0時30分頃に同海域を通りかかったギリシャ]船籍の貨物船「バアン」(同6729トン)が漂流する「チュンカイ」の救命ボートを発見して佐世保海上保安本部へ連絡したため、事故が発覚した。このあと現場海域で大がかりな捜索が行われ、救命イカダで漂流する乗組員などを救助したが、全乗組員45名中24名については行方不明のまま5月13日の日没をもって捜索は打ち切られた[7]
北海道亀田郡椴法華村東(現・函館市)の噴火湾で日魯漁業のサケマス漁船「協宝丸」(総トン数7158トン)と、北海道漁業公社の「第三海鳳丸」(同84トン)が衝突し、「第三海鳳丸」は転覆・沈没した。「第三海鳳丸」は衝突と同時に転覆してしまい、また夜間で海が暗かった事もあり、「協宝丸」はすぐに救助作業を始めたものの1名も救助する事はできなかった。また朝になり海上保安庁の船も付近を捜索したが生存者の発見は出来ず、「第三海鳳丸」の乗組員21名の命は絶望とされた。[8]
北海道襟裳岬東南東約240kmで、岩手県大船渡市のサケマスはえ縄漁船「第八成徳丸」(総トン数39トン)が沈没。釧路海上保安部の巡視艇「宗谷」が救助に向かったところ6月5日に乗組員17名中13名を乗せた救命ボートを発見。しかし、13名全員が死亡していた。[9]
東京湾を航行していた館山竹芝桟橋行の水中翼船「バカンス号」(総トン数39トン)が浮遊していた障害物と接触して急停船。この事故で乗客51名のうち23名が座席から放り出されるなどして負傷した。負傷した乗客は竹芝桟橋に入港後、すぐさま病院へ搬送されるなどした。東京水上署が調べたところ船体両側にある水中翼が二つとも損傷していたことから障害物は水面すれすれに浮かんでいた巨大な丸太などではないかと推察されたが結局のところ何がぶつかったのかは判らなかった[10]
愛知県常滑市沖の伊勢湾イギリス船籍の貨物船「イースタンテイク」(総トン数11222トン)と、大阪府大阪市の日化汽船所属のケミカルタンカー「日化丸」(同339トン)が衝突し、「日化丸」はまもなく沈没し乗員9名全員が死亡した。
  • 11月4日
    • 東京都羽田沖の東京湾で大阪商船三井船舶所属の貨物船「はわい丸」(総トン数9332トン)と、静岡県清水市の砂利運搬船「第一大伸丸」(同733トン)が衝突。この事故で「第一大伸丸」はまもなく沈没し乗組員12名中8名は「はわい丸」などに救助されたが、4名が行方不明となった。
  • 11月21日
北海道茅部郡南茅部町(現・函館市)のイカ釣り漁船「美保丸」(総トン数1.54トン)が漁に出たまま行方不明となった。海上保安庁の巡視船が捜索したところ椴法華村の沖合いで転覆して船底を上にして漂流している「美保丸」を発見。しかし乗組員4名は発見されなかった。
千葉県富津岬の沖合いで個人所有のヨットが荒天のため転覆し乗っていた会社員2名が死亡。
兵庫県高砂市の沖合いで砂利運搬船「第二天祐丸」(総トン数198トン)が強風に煽られて横転し沈没。乗組員5名中1名が死亡。
アメリカニュージャージー州沖の大西洋でイスラエル船籍の客船「シャローム」(総トン数24500トン)と、ノルウェー船籍のタンカー「ストルトダガリ」(同12723トン)が衝突。この事故で「ストルトダガリ」は船体が2つに裂けて沈没、乗組員43名のうち16名が死亡した。また「シャローム」は船首部分を大破したものの自力航行が可能な状態で怪我人を多数乗せたままニューヨーク港まで自力で戻った。
北海道稚内市にある結城水産所属のタラ漁船「第11幸福丸」(総トン数105トン)が千島列島アライト島の北方約26kmのオホーツク海で火災発生。乗組員17名のうち8名は逃げ遅れて焼死。9名は付近で操業していた宮城県石巻市の漁船に救助されたがうち2名は大火傷の重傷を負った。
アフリカアンゴラ沖の大西洋福岡県北九州市日本水産戸畑支社所属のトロール漁船「宇治丸」(総トン数535トン)が行方不明となった。その後、同水産会社所属の漁船が「宇治丸」のものと思われる“浮き”や“木箱”“海面に浮く重油”などを発見した。乗組員33名は1名の遺体が発見されたが残りの者は全員が行方不明となった。その後、船体は陸地からすぐ近くの深さ85mの海底に沈んでいるのが魚群探知機により発見された
千葉県銚子港沖の太平洋で青森県八戸市のカツオマグロ漁船「第三十五正進丸」が行方不明となった。後日、「第三十五正進丸」の遭難ブイからと思われる電波をキャッチしたが船は見つからなかった。
伊豆御蔵島高知県安芸郡安田町のマグロはえなわ漁船「起久丸」(総トン数39トン)が座礁。乗組員14名は自力で御蔵島へ渡ったが、うち1名が怪我した。

[編集] 1965年(昭和40年)

北海道室蘭港にてノルウェー船籍の油槽船ヘイムバード(ハイムバルト、総トン数35355トン)が桟橋に衝突し漏れた原油に引火して爆発、乗組員10名が死亡した。
日本のタンカー「海藏丸」がサウジアラビアラスタヌラで原油の積み込み作業中に爆発炎上、乗組員や陸上作業員など14名が死亡。
マリアナ諸島アグリガン島の島陰で台風29号を避けていた日本のかつお・まぐろ漁船群が、台風の予想外の針路変更と急発達のため暴風圏内に巻き込まれた結果、6隻沈没、1隻が陸に打ち上げられて大破沈没し、死亡及び行方不明者209名の大量遭難となった。

[編集] 1966年(昭和41年)

愛知県名古屋市港区にある石川島播磨重工の造船所の岸壁でLPGタンカー「ブリヂストン丸」(総トン数33800トン)の船倉から出火。船内で作業中だった作業員15名が窒息死した。
神奈川県三浦半島東側の東京湾でタンカー「第七大手丸」(総トン数365トン)と台湾の貨物船「チャンキンビクトリア」(総トン数7305トン)が衝突。「第七大手丸」が沈没して7名死亡。

[編集] 1967年(昭和42年)

イギリス沖で、リベリア船籍の大型タンカーである「トリー・キャニオン」(Torrey Canyon、載貨重量トン数118285トン)が座礁。同船はクウェート産の原油を満載しており、船体破損で船外に流出した。船体は3月26日に二つに破断。英国政府は船内に残った原油の流出を避けて燃焼させるために船体を爆破、3月30日に沈没した。流出した原油は8万トン以上に及び、タンカー事故で広範囲に原油が流出して海洋を汚染した最初の事故となった。これをきっかけに国際海事機関(IMO)は1969年に「油による海水の汚濁の防止に関する国際条約」を改正、さらに1973年にこれを発展的に強化した海洋汚染防止条約(マルポール条約)が採択されるに至った。
  • このころから世界中で大型タンカーが建造され始めたが、当初知りえなかった現象(静電気の発生、それが残油に引火)により、多くの船が爆発炎上している。日本のタンカー及び日本に寄港したタンカーにおいても、サウジアラビアにおける海藏丸火災事故(同国ラス・アル・カフジに入港中のタンカー海藏丸(総トン数20949トン)が、船内に侵入・滞留した石油気化ガスに引火して爆発炎上し14名が死亡)や、室蘭港におけるヘイムバード火災事故(ノルウェー船籍のタンカー・ヘイムバード(総トン数35355トン)が室蘭港への接岸に失敗し、原油を大量に流出させた所へ曳船のエンジンの火の粉もしくは火花から石油気化ガスに引火。同船は大爆発を起こして27日間にわたって燃え続け、10名が死亡すると共に一時は周辺住民に避難命令が出された)など、大規模な炎上事故が起こっている。

[編集] 1968年(昭和43年)

北海道静内郡静内町(現・新ひだか町)の沖合いで操業中の同町漁協所属の漁船「高徳丸」(総トン数9トン)が漁のため投網したところ魚が網に入り過ぎて船体のバランスを崩し横転沈没。5名が死亡した。

[編集] 1969年(昭和44年)

野島崎南東沖合を航行中のばら積貨物船「ぼりばあ丸」(総トン数33768トン)の船首部分が突然折損脱落して航行不能となり、約1時間後に沈没。長沢吉三郎船長ほか乗組員30人が行方不明となった。翌1970年(昭和45年)2月9日にも野島崎東方沖合で鉱石船「かりふおるにあ丸(同34001トン)」の遭難事件(船体破損により浸水沈没。船長ほか4名死亡)が発生し、どちらも就役して5年も経たない(ぼりばあ丸:3年3ヶ月、かりふおるにあ丸:4年4ヶ月)新鋭大型貨物船が相次いで船体破損で沈没したことは、当時大型船の建造を推し進めていた日本の造船業界に大きな衝撃を与えた。
東シナ海にてオーストラリア海軍所属の空母メルボルン」(総トン数19000トン)とアメリカ海軍駆逐艦「フランク・E・エヴァンズ」が衝突、エヴァンズは艦首部分が切断されて沈没。死者74名。

[編集] 1970年代

[編集] 1970年(昭和45年)

静岡県の田子ノ浦港を出航した合洋海運の砂利運搬船第1合洋丸(総トン数349トン、乗員5名)が行方不明となったと船主より海上保安庁に届出があった。1月31日以降同船と連絡が取れておらず太平洋上で沈没したものと推察された。
千葉県犬吠埼の沖合い約300kmの太平洋上で第一中央汽船の鉱石運搬船「かりふぉるにあ丸」(総トン数61000トン、乗員29名)が、船首部分を破損して浸水をおこして沈没。乗組員のうち24名は無事に救助されたが、住村博船長(当時45歳)は船長としての責任を取るべく「船と運命を共にすると」言い残し、救助される事を拒否。ブリッジより乗組員へ別れを告げ、そのまま沈没した船と運命を共にした。この事故では船長の他に合計5名が死亡した。
  • この半月ほど前の1月17日にも北海道奥尻島沖を航行中の石炭運搬船「波島丸」(総トン数3913トン)が時化のために転覆、18人が死亡したが、この時も「波島丸」の上床力船長(当時60歳)が船と運命を共にしている。当時の船員法第12条に「船長の最後去船義務」という項目があり、「旅客・海員その他船内にある者を去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない」との条文があったが、これが「船長に殉職精神を植え付けているのではないか」との批判が巻き起こり、国会でも大きな論争となった。同年5月15日に船員法が一部改正され、第12条が削除されるきっかけとなった。

[編集] 1971年(昭和46年)

新潟西港沖でリベリア船籍のタンカー「ジュリアン」が荒天の為、船体が分裂。周囲に油が流出する。

[編集] 1972年(昭和47年)

茨城県の日立港から神奈川県の久里浜港へ向かう途中の材木運搬船「武光丸」(総トン数2298トン)が千葉県の大東埼灯台沖で座礁して沈没。乗員22名死亡。

[編集] 1974年(昭和49年)

和歌山県南端の潮岬沖でリベリア船籍の貨物船「オーシャン・ソリバーン」が高知県のマグロ漁船「第十一昌栄丸」に衝突、「第十一昌栄丸」は転覆・沈没。死者行方不明14名。
LPG石油タンカー「第十雄洋丸」とリベリア船籍の貨物船「パシフィック・アレス」が東京湾木更津沖で衝突して炎上した。死者33名。

[編集] 1976年(昭和51年)

宮崎県の細島港から広島県の広島港に向かっていた日本カー・フェリー所属のカーフェリー「ふたば」(総トン数1933トン)が山口県のミルガ瀬戸で、パナマ船籍の貨物船「グレート・ビクトリー」(同7519トン)と衝突、「ふたば」が沈没。「ふたば」の乗員28人と乗客58人のうち5人が死亡・行方不明となり車両24台も水没した。日本国内でカーフェリーで発生した初の人身死亡事故となった。
深刻な海洋汚染を引き起こしたアルゴ・マーチャント号
リベリア船籍のタンカー「アルゴ・マーチャント」がアメリカのマサチューセッツ州ナンタケットで座礁。数日後に船体は破断し、積荷の燃料油29000キロリットル全量を流失、極めて深刻な海洋汚染を引き起こした。

[編集] 1978年(昭和53年)

今治市東門町一、寿汽船所属の「第8福徳丸」(総トン数342トン、野崎幸夫船長ら4人乗り組み)は午後2時半過ぎ、セメント原料約600tを積んで香川県・直島港を出港、福岡県苅田町三菱セメント苅田工場に向かったが、同4時頃、坂出沖付近を航行中、船舶電話で「17日午前7時ごろ到着する」と苅田工場に連絡したのを最後に消息を絶った。寿汽船からの連絡で、第六管区海上保安本部は18日朝から巡視船20隻、飛行機3機動員して捜索を開始。23日朝からも走査線を10隻に減らしたものの、飛行機3機を引き続き飛ばして捜したが手がかりは全くなかった。同本部では「遭難したとすれば海面に油が浮いたり漂流物が見つかる。全く謎の蒸発」と言った。予定を変更して上陸した形跡はなく、船内で何かが起きて外洋に出たという情報もない。
兵庫県の神戸港から宮崎県の細島港に向かっていた日本カー・フェリー所属のカーフェリー「さいとばる」(総トン数6574トン)が、愛媛県来島海峡大韓民国のタンカー「チャン・ウォン」(同3409トン)と衝突して転覆沈没した。乗用車69台とトラック69台とコンテナ4個と多数の積荷が水没する甚大な被害が生じたが、幸い深夜かつ強潮流の悪条件の中から乗員・乗客245人全員無事に救出された。

[編集] 1980年代

[編集] 1980年(昭和55年)

野島崎東南東沖合約800海里(約1500km)を航行中のばら積貨物船「尾道丸」(全長226.4m、総トン数33833トン)が、船首方向からの強いうねりの中、波高20mほどの大波に突っ込んだ際に船首部分が上方に折損(スラミング現象による)、その後脱落して航行不能となった。「尾道丸」の前方を航行していた鉱石運搬船「だんぴあ丸」が引き返し、翌1981年(昭和56年)1月1日に「尾道丸」乗組員29名全員を無事救助する。この事故が乗組員全員を無事救助した初のケースとなった。

[編集] 1980年(昭和56年)

下甑島付近を航行中の貨物船「日昇丸」(総トン数2350トン)にアメリカ海軍所属のジョージ・ワシントン級原子力潜水艦「ジョージ・ワシントン」が海中から急浮上したため衝突、「日昇丸」は船底を破壊されたため沈没した。乗員2名が死亡。なお潜水艦が救助せずに現場海域から離れたことに対し、非難された(米原潜当て逃げ事件)。
ソ連のウィスキー級潜水艦「U-137」が、航法の誤りからスウェーデンの領海を侵犯して座礁。死傷者はなかったが、事故発生場所がスウェーデンの軍港付近であったこともあり国際問題に発展した。

[編集] 1982年(昭和57年)

ベーリング海で遠洋底引網漁業に従事中、原料置場の設備が破損して置いてあった大量の魚が流動化、船体動揺と魚などの流動化とが相まって激しく横揺れしたときに海水が船内に進入、沈没。乗組員33人中、24人が行方不明、8人が死亡した。

[編集] 1983年(昭和58年)

旧ソ連のウリヤノフスク近郊でヴォルガ川に架かるウリヤノフスク橋 (Ульяновский мост) の橋脚に客船「アレクサンドル・スヴォーロフ」 (Александр Суворов(英語)、定員400人) が衝突。橋脚が移動し、走行してきた貨物列車脱線し、この船の上に転落した。死者176名以上。

[編集] 1984年(昭和59年)

ベーリング海で操業中、猛吹雪となったために支えの態勢をとっていた「第十一協和丸」(24人乗)と、他の船に引き渡すオブザーバー4名を乗せた「第十五安洋丸」(25人乗)が100m程度の視界の中で衝突、死者14名、行方不明者2名、負傷者5名を出す事故となった。

[編集] 1985年(昭和60年)

カムチャッカ沖で操業中の「第五十二惣寶丸」が漁獲物を整理していたところ、船尾方向へ著しく沈み込み、大きなうねりで左舷側へ大きく傾斜した同船へ海水が流入して沈没。乗組員22名中、死者行方不明者20名。
定員超過の瀬渡船「開洋丸」が沖へ出たところ、大波を受けて転覆、乗員乗客26名全員死亡または行方不明。
漁船「第七十一日東丸」が樺太南部の漁場で強風のため沈没。8人死亡。

[編集] 1986年(昭和61年)

福島県相馬市鵜ノ尾岬沖付近を航行していた「海洋調査船へりおす」が悪天候下で沈没し乗っていた9人が死亡。

[編集] 1987年(昭和62年)

銚子港より約十数km沖で乗員22名の青森県八戸市の福島漁業所属のイワシ漁船「第65惣宝丸」(総トン数80t)が強い横風と波高5mもの高波により沈没。船体2月27日に引き上げられたが、この沈没で死亡8名、不明7名となった。
フィリピン客船「ドニャ・パス」(総トン数2640トン)とガソリンを積載した小型タンカー「ヴェクター」(同640トン)が、フィリピン・タブラス海峡で衝突し炎上、双方が沈没。正確な乗船数は不明だが、少なくとも1576人以上死亡、行方不明。平時における最大の海難事故といわれている。

[編集] 1988年(昭和63年)

アイルランド向けに輸出される日本製自動車5458台を積載した自動車運搬船麗神丸(総トン数58000トン)がポルトガル沖で座礁。後日、この船の撤去には時間がかかり、また積荷の自動車が錆びて商品価値を失ってしまった事などにより積荷の新車ごと船ごと深度2000mの地点まで曳航した後に海に沈める事を提案、ポルトガル政府もこの案に合意した事により実行された。しかし、後日これは重大な環境破壊であると日本国内はもとより外国でも批判が高まった。
大阪港中央突堤北岸壁に停泊していたソ連船籍の貨物船「プリアムリーエ」(総トン数4870トン)が左舷中央客室付近から出火しロシア人旅行客の11名が死亡。船自体は消火活動により17時間後に鎮火、沈没は免れた。
海上自衛隊潜水艦なだしお」と遊漁船「第一富士丸」が横須賀港北防波堤灯台東約3キロ沖で衝突。「第一富士丸」は衝突から2分後に沈没し、乗客39名、乗員9名のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負った。
ペルーカヤオ港外でペルー海軍所属の潜水艦「パコーチャ」に、日本の遠洋マグロ漁船「第8共和丸」が衝突して潜水艦が沈没。艦長ら8名が死亡。なお同艦は元は米海軍バラオ級潜水艦「アトゥル」で、1944年に浅間丸を撃沈した潜水艦であった。

[編集] 1989年(平成元年)

原油タンカーエクソンバルディーズアラスカ州プリンスウィリアム湾で座礁、原油が流出した。流出量は推定で1080万ガロンとされ、周辺環境に重大な被害を与えた。
ロンドンテムズ川にかかるキャノン・ストリート鉄道橋の付近で、浚渫船「ボウベル」とクルーズ船「マーショネス」が衝突。「マーショネス」の乗客132名中51名が死亡した。

[編集] 1990年代

ギリシャ船籍のクルーズ客船オシアノス (総トン数14000トン) が防水設備の修理を終えないまま出航、南アフリカ東海岸沖で沈没した。この事故では乗客を残して先に逃げた乗員の対応が非難を浴びる。全員無事。
  • 1991年(平成3年)12月
日本からグアムを目指すヨットレース『トーヨコカップ・ジャパングアムヨットレース'92』に参加していた「たか」が29日に悪天候の為に沈没した。乗員7名のうち6名がゴムボートで脱出したが、わずかな食料しかなかったため、漂流から27日目の1992年(平成4年)1月25日に発見されたときには生存者は1名だけであった。生存していた彼は後に『たった一人の生還』(新潮文庫)の題名で手記を出版している。また同レースに参加していた「マリンマリン」も同様に沈没して8名が死亡しており、参加9隻のうち2隻が沈没し14名が死亡する日本のヨットレース史上最悪の惨事になった。
タンカー(英国船籍:ブレア社(英国)所有)、英国シェットランド諸島沿岸にて暴風雨の直撃を受け転覆。乗員全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊、沈没、重油流出。
スウェーデン船籍フェリー「エストニア」(総トン数21794トン)がバルト海の荒天下でに転覆沈没。852名死亡。
客船「アキレ・ラウロ」が火災を起こし、3日後に沈没。「アキレ・ラウロ」は1985年10月にハイジャックされた船(上記参照)である。
ロシア船籍のタンカー「ナホトカ」が波浪により船体を破断し、6240キロリットルのC重油が海上に流出、日本海沿岸各地の広い範囲に深刻な汚染。船長が死亡、乗組員は脱出。除去作業にあたったボランティアに5名の死者を出す二次被害が発生した。
マニラ-セブ島の定期航路「PRINCESS OF THE ORIENT」(総トン数13599トン、Sulpicio Lines(フィリピン)所有、元・ブルーハイウェイライン「さんふらわあ11」)が台風7号の嵐の中を航行中に沈没し、死者51名、行方不明者216名を出した。直接の沈没原因は荷崩れであったが、フィリピンでの大幅なデッキ増設工事により船体が不安定になっていたとも云われる。
クルーズ客船「サン・ビスタ」がマラッカ海峡で機関室からの失火が原因で沈没。速やかな避難誘導が行われたため犠牲者は無し。このことが原因で運航していたクルーズ会社は倒産した。

[編集] 2000年代

ロシア海軍原子力潜水艦クルスク」がバレンツ海において演習中、魚雷発射管室の爆発により沈没。乗員118名全員が死亡。
ハワイ州オアフ島沖で宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」とアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンヴィル」が衝突し、「えひめ丸」が沈没。「えひめ丸」の乗員35名中9名が死亡。
セネガル政府所有のフェリージョラ」が、ガンビア沖で沈没。この事故で少なくとも1863人が死亡。
自動車運搬船「HUAL・ヨーロッパ」(バハマ船籍、HUAL社(ノルウェー)所有)が、伊豆大島沿岸にて暴風雨の直撃を受け座礁。乗員24名は全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊し火災が発生。航行不能および重油流出。
日立港で北朝鮮船籍のチルソンが座礁して重油が流出、のちに船体は放棄された。船舶所有者側による保障措置が何らなされなかったことから、無保険船の日本寄港を制限する油濁損害賠償保障法(改正後の名称は船舶油濁損害賠償保障法)改正のきっかけとなった。
玄界灘海難事故福岡県沖の玄界灘にて操業中の日本漁船団に韓国船が(漁船団からの再三の警告を無視して)漁船団に突入して衝突。日本側の1名が死亡、6名が行方不明。
上記海難事故の4日後、貨物船「コレックス・クンサン」(韓国船籍)が玄界灘にて、夜間の警戒不備により漁業取締船「からしま」(水産庁所属)に衝突。「からしま」は乗員全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊して沈没。「コレックス・クンサン」は乗員全員無事であったほか損壊もなかった。なお、相次いだ2件の海難事故については、事故の規模に対する報道の少なさが恣意的ではないかと問題視する者もいる(「同時期に発生した児童殺害事件が比較的大きく扱われていただけ」とも考えられる)[要出典]
コンテナ船「ZIM・アジア」(イスラエル船籍、ZIM社(イスラエル)所有)、北海道根室市沖合いにて、夜間の警戒不備によりサンマ漁船「第三新生丸」(日本船籍)に衝突。「第三新生丸」は乗員7名死亡し、船体はほぼ全部を損壊し沈没した。「ZIM・アジア」は乗員全員無事で船体の損壊もほとんどなかったが、救助活動をおこなわず逃走した。
サウジアラビアからエジプトに向かって紅海を航行していた1400人乗りのフェリー「アル・サラム・ボッカチオ98」が、フェリーデッキに積載していた車両からの火災が原因で沈没し、1000名以上の死者・行方不明者を出した。多くの犠牲者を出した原因としては、悪天候のほか、老朽船であったことや建造後の改造により重心が極めて高くなっていたことが要因となり、消火活動中にバランスを崩して転覆したことが指摘されている。なお、生存者の証言によれば船長が真っ先に逃亡したとされる。
横倒しになったRO-RO船 クーガー・エース
自動車運搬船クーガー・エース」(シンガポール船籍、総トン数55000トン、商船三井(日本)所有)、米国アラスカ州アリューシャン列島沖合いにて、暴風雨の直撃を受け転覆。乗員23名は全員無事だったが、船体はほぼ損壊ないものの80度に傾き横転し航行不能となる(重油流出なし)。積荷の乗用車4,703台(全てマツダ製)および小型トラック110台(全ていすゞ自動車製)が全損扱いとなり廃棄される。
『フローティングレストランスカンジナビア』として2005年3月まで静岡県沼津市西浦木負で使用され、現存していたクルーズ客船では最古の「ステラ・ポラリス」が、伊豆箱根鉄道より建造国であるスウェーデンの企業に買収された後、中国上海での改修工事の行うため8月31日に出航し航行中、和歌山県潮岬沖3km(水深72m)の海上で沈没。乗船者はおらず死傷者はなかった。
茨城県鹿島港外にてパナマ船籍の貨物船「ジャイアント ステップ」が急速に発達した低気圧による暴風のため走錨して座礁し船体を切断。10名死亡または行方不明。ほぼ同時・同位置にて、「オーシャンビクトリー」、「エリダエース」も座礁し、連続事故となった。同日には、女川港沖でサンマ漁船「第七千代丸」が高波をかぶって機関停止し座礁・横転。16名死亡または行方不明となる事故も発生している。
海上自衛隊の練習潜水艦「あさしお」が宮崎県沖で訓練航行中、パナマ船籍の貨物船「スプリング オースター」と接触。「スプリング・オースター」は船底部にわずかな亀裂と少量の浸水を起こし、「あさしお」は縦舵を損傷するも、双方とも負傷者はなかった。なお、 「スプリング・オースター」側は当初、潜水艦との接触したことに気付かなかったという。また、一部の専門家によれば「あさしお」の損傷は『沈没してもおかしくない』ほどであったともされる[12]
原子力潜水艦ニューポート・ニューズ」(アメリカ海軍所属)がホルムズ海峡にて、警戒不備によりタンカー最上川」(日本船籍、16万トン、川崎汽船(日本)所有)に衝突。「最上川」は乗員全員無事だったものの船底部を損壊し航行不能となった(重油流出なし)。「ニューポート・ニューズ」は乗員全員無事で損壊および放射能漏れもなかった。
コンテナ船「MSC・ナポリ」(英国船籍、MSC社(スイス)所有)が英国・デヴォン州沖合いにて、暴風雨の直撃を受け座礁。乗員26名は全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊し航行不能となる。さらに重油の流出および、約50個のコンテナが沿岸に漂着した。
サントリーニ島沖で客船「シーダイヤモンド」が座礁して沈没。
貨物船「アルファ・アクション」(ギリシャ船籍、総トン数77000トン)が伊豆諸島利島沖合いにて、夜間の警戒不備により、コンテナ船「ワンハイ307」(シンガポール船籍、総トン数26000トン、ワンハイ海運(台湾)所有)に衝突。「ワンハイ307」は乗員全員無事だったものの、船尾を損壊し航行不能となり、重油が流出した。「アルファ・アクション」は乗員全員無事だったものの、船首を損壊し航行不能となった(重油流出なし)。
海上自衛隊のイージス艦あたご」がハワイでのミサイル発射実験から帰投途中、千葉県野島崎沖の太平洋上で三宅島北方に向け移動中のマグロ延縄漁船団と交錯したさいに船団の一隻「清徳丸」と衝突、あたごの舳先で清徳丸は両断し沈没。乗員の父子2人が行方不明となった。
神戸市垂水区沖の明石海峡付近で、「第五栄政丸」が「オーシャンフェニックス」に衝突。その後「オーシャンフェニックス」が「ゴールドリーダー」(ベリーズ船籍)に衝突し、「ゴールドリーダー」が沈没。乗組員9人のうち3人が行方不明となった。
フィリピンシブヤン島沖で、台風6号の影響によりフェリー「プリンセス・オブ・ザ・スターズ」が沈没。乗客700人以上が死亡または行方不明となった[13][14][15]※詳細は、プリンセス・オブ・ザ・スターズ#転覆事故を参照。
韓国・秦安近海に停泊していたタンカー「ホベイスピリット」にサムスン重工業所属のクレーン船が衝突。12547キロリットルの重油が流失し、韓国史上最大規模の海洋汚染となった。原因は、航行中であるクレーン船を曳航中のタグボートが、停泊中の船舶「ホベイスピリット」を迂回する義務があるにもかかわらずそれを無視し、近道をしようと「ホベイスピリット」に接近。その後、波浪と曳航ワイヤの破断等によってコントロールを失ったことである。しかし、韓国では「(停泊していた)タンカーに責任がある」とし、インド人の船長と一等航海士に有罪判決を下した。このことから、インドではサムスン製品の不買運動が発生したほか、各国の船員組合が韓国行きをボイコットしようとするなど波紋が広がった。
海上自衛隊の護衛艦くらま」が観艦式から帰投途中の関門海峡において、他船を追い越そうとした韓国籍の貨物船「カリナスター」に衝突されて炎上し、乗組員6人が軽傷。この事故に関して、関門海峡事務所が事故直前にカリナスターに出した指示(前方を航行中の船を追い越すことを示唆)と、カリナスターの操船(海峡通過中にもかかわらず、前方を航行中の船を追い越そうとした)に疑問の声が上がった。
横倒しになったフェリー ありあけ
東京発志布志経由那覇行のフェリー「ありあけ」(マルエーフェリー、乗員21名乗客7名)が三重県熊野市の沖合を航行中、大波により積荷が片寄ったことにより船体が傾斜し、救難信号を発したのち熊野港に避難を試みるも座礁した。乗員乗客は全員救助されるが船体は横倒しになったほか、重油が流出した。[16] ※詳細は、マルエーフェリー#トラブルを参照。

[編集] 2010年代

タンザニアペンバ島ザンジバル島の間の海域でフェリー「Spice Islander I」が沈没。死者240人以上。
イタリアのジリオ島付近にある浅瀬で、「コスタ・コンコルディア」が座礁し、その後浸水・横転。

[編集] 海難事故に関する創作物一覧

[編集] 映画

タイタニック沈没を扱った作品群についてはタイタニック (映画)を参照。

[編集] ノンフィクション

  • 沈んだ船を探り出せ
アメリカの小説家、クライブ・カッスラーが稼いだ印税を使って沈船の探索を行なった記録。

[編集] アニメ

[編集] コンピューターゲーム

[編集] クラシック音楽

[編集] 脚注

  1. ^ 朝日新聞・昭和38年1月18日朝刊記事
  2. ^ 朝日新聞・昭和38年1月19日朝刊記事
  3. ^ 朝日新聞・昭和38年4月25日朝刊記事
  4. ^ 朝日新聞・昭和39年3月27日記事
  5. ^ 朝日新聞・昭和39年3月31日及び4月4日記事
  6. ^ 朝日新聞・昭和39年3月31日及び4月5日朝刊記事
  7. ^ 朝日新聞・昭和39年5月12日及び14日記事
  8. ^ 朝日新聞・昭和39年5月16日朝刊及び夕刊記事
  9. ^ 朝日新聞・昭和39年6月5日夕刊記事
  10. ^ 朝日新聞・昭和39年8月31日記事
  11. ^ 貨物船尾道丸遭難事件”. 海難審判所. 2011年2月13日閲覧。
  12. ^ 『軍事研究』2007年3月号
  13. ^ フィリピン沖で沈没の大型フェリー、生存者28人を発見 - AFPBB News(2008年6月23日付、2010年8月16日閲覧)
  14. ^ 台風通過中のフィリピンでフェリー沈没、700人超が行方不明 - ロイター(2008年6月22日)
  15. ^ 人数については報道機関によりまちまちとなっている。
  16. ^ 三重県沖、フェリーから救助要請 乗客7人は全員救助 - 47NEWS共同通信社、2009年11月13日付・2010年10月29日閲覧)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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