「松平清昌」の版間の差分
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'''松平 清昌'''(まつだいら きよまさ、[[文禄]]2年([[1593年]]) - [[承応]]4年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]([[1655年]][[4月24日]]))は、[[江戸時代]] |
'''松平 清昌'''(まつだいら きよまさ、[[文禄]]2年([[1593年]]) - [[承応]]4年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]([[1655年]][[4月24日]]))は、[[江戸時代]]初期における[[徳川氏]]の家臣。[[竹谷松平家]][[松平家清|家清]]の庶子。[[松平忠清|忠清]]の異母弟。通称、庄次郎。玄蕃頭。[[三河国|三州]][[宝飯郡]][[西郡]]領主の初代。子に上から清雄、清勝、清直、清吉それと清昌の甥・[[浅野長直]]の養子になり[[浅野長賢 (旗本)|浅野長賢]]と改名した末男の5人。 |
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== 生涯 == |
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[[慶長]]17年([[1612年]])、[[江戸城]]の[[書院番]]士だったが、父の死後間もない中、嫡兄・忠清まで卒去。[[三河吉田藩]]の竹谷松平家は無嗣除封となる。だが、竹谷松平家の |
[[慶長]]17年([[1612年]])、[[江戸城]]の[[書院番]]士だったが、父の死後間もない中、嫡兄・忠清まで卒去した。[[三河吉田藩]]の竹谷松平家は無嗣除封となる。だが、竹谷松平家のそれまでの働きを惜しんでか、[[江戸幕府|幕府]]は封地没収としながらも替地として縁ある三州宝飯郡[[西ノ郡領]]の地へ清昌を配す。11ヵ村5000石の領主として、清昌への跡式相続が許されることとなった。こうして竹谷松平家は[[大名]]から[[交代寄合]]となった。 |
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亡き父・家清には弟・清定が |
亡き父・家清には弟・清定があり、そのまま家に残って家老格として働きを示し、三河吉田藩では3200石を給されていたという。藩内で重きを成していた清定は既に故人であったが、その子で忠清、清昌兄弟の従弟にあたる清信への相続も考慮された。ところが清信はまだ9歳と幼く、より年長の清昌を跡目とした判断といわれる。 |
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家名は存続したものの、3万石が5000石と6分の1にまで低下 |
家名は存続したものの、3万石が5000石と6分の1にまで低下し、緊縮財政の政策が求められた。そこで、それまでの菩提寺が、初代からの龍台院と三河吉田藩以降の全栄院などに分かれていた諸院を、全部併せ龍台山天桂院とした。 |
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[[大坂の役]]へは、冬夏共に36騎を率いて参戦。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])7月、[[徳川秀忠|秀忠]]将軍の上洛に随従。父、兄以来続く玄蕃頭に叙任される。翌月8月には宮中関係各者への御礼を済ませている。一方で武芸にも励んでいた清昌は、弓の印可目録4巻を授けられている。 |
[[大坂の役]]へは、冬夏共に36騎を率いて参戦した。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])7月、[[徳川秀忠|秀忠]]将軍の上洛に随従した。父、兄以来続く玄蕃頭に叙任される。翌月8月には宮中関係各者への御礼を済ませている。一方で武芸にも励んでいた清昌は、弓の印可目録4巻を授けられている。 |
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[[寛永]]3年([[1626年]])、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]・秀忠の再上洛に供奉。 |
[[寛永]]3年([[1626年]])、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]・秀忠の再上洛に供奉した。 |
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[[二条城]]での宴のために[[後水尾天皇|後水尾帝]]と[[徳川和子|中宮和子]]([[徳川家光|家光]]の妹)が御移りになられるために[[9月6日_(旧暦)|9月6日]]、お渡りになられる前に女官ら関係者3000人による衣装など必需品が運び込まれてから、ようやく中宮の御車が出立。その御車の直前を進む騎衛の諸大夫20人がいたが、清昌もその中の1人だった。衣装は束帯姿でそのまま騎馬にまたがり、更にそれぞれが長刀持ち、馬副い、傘持ちを従えていたといわれる。この20人は石高こそ高くは無かったが、[[久松氏|久松松平家]]の者、[[水野氏|水野家]]の者といった将軍家との縁が深い家の者で固められていた。 |
[[二条城]]での宴のために[[後水尾天皇|後水尾帝]]と[[徳川和子|中宮和子]]([[徳川家光|家光]]の妹)が御移りになられるために[[9月6日_(旧暦)|9月6日]]、お渡りになられる前に女官ら関係者3000人による衣装など必需品が運び込まれてから、ようやく中宮の御車が出立。その御車の直前を進む騎衛の諸大夫20人がいたが、清昌もその中の1人だった。衣装は束帯姿でそのまま騎馬にまたがり、更にそれぞれが長刀持ち、馬副い、傘持ちを従えていたといわれる。この20人は石高こそ高くは無かったが、[[久松氏|久松松平家]]の者、[[水野氏|水野家]]の者といった将軍家との縁が深い家の者で固められていた。 |
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寛永9年([[1632年]])、大御所・秀忠死去による遺金として銀3枚を拝領。 |
寛永9年([[1632年]])、大御所・秀忠死去による遺金として銀3枚を拝領した。 |
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寛永10年([[1633年]])、同7年に務めて以来2度目の[[大坂城]]の勤番。ちなみにこの時の同役は、[[井上正利]]([[遠江国|遠州]][[横須賀藩]]4万7000石)、[[大関高増 (江戸時代)|大関高増]]([[下野国|野州]][[黒羽藩]]2万石)、[[西郷正員]]([[安房国|房州]][[東条藩]]1万石)の3人であった。これから |
寛永10年([[1633年]])、同7年に務めて以来2度目の[[大坂城]]の勤番。ちなみにこの時の同役は、[[井上正利]]([[遠江国|遠州]][[横須賀藩]]4万7000石)、[[大関高増 (江戸時代)|大関高増]]([[下野国|野州]][[黒羽藩]]2万石)、[[西郷正員]]([[安房国|房州]][[東条藩]]1万石)の3人であった。これからわかるように普通は万石大名の仕事である。しかも警備など必要な人員は自身の家臣を国許から補うことになっていたため、清昌の負担が一番重かったと考えられる。 |
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寛永13年([[1636年]])、大坪流馬術の秘伝目録を授かる。 |
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[[浅野氏|浅野家]]と縁が有り、忠清・清昌らの姉妹が[[浅野長重]]へ嫁いでいることによる。その姉妹と[[浅野長重|長重]]の間の男子が浅野長直であったが、嗣子がしばらく居なかった。そこで家格こそ低下しながら清昌の人品の高さに期待がかけられ、清昌の子の1人を長直の嗣子に望まれた(後の浅野長賢)。 |
[[浅野氏|浅野家]]と縁が有り、忠清・清昌らの姉妹が[[浅野長重]]へ嫁いでいることによる。その姉妹と[[浅野長重|長重]]の間の男子が浅野長直であったが、嗣子がしばらく居なかった。そこで家格こそ低下しながら清昌の人品の高さに期待がかけられ、清昌の子の1人を長直の嗣子に望まれた(後の浅野長賢)。 |
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ところが長賢の入嗣から、しばらくすると浅野長直に実子が誕生し、長賢は次男の扱いを受け、3500石の[[旗本]]となった。この実子は長じて[[浅野長友]]となる。そして長友の嫡子が、[[元禄赤穂事件|赤穂事件]]で有名な内匠頭[[浅野長矩|長矩]]である。 |
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2011年12月3日 (土) 10:26時点における版
松平 清昌(まつだいら きよまさ、文禄2年(1593年) - 承応4年3月18日(1655年4月24日))は、江戸時代初期における徳川氏の家臣。竹谷松平家家清の庶子。忠清の異母弟。通称、庄次郎。玄蕃頭。三州宝飯郡西郡領主の初代。子に上から清雄、清勝、清直、清吉それと清昌の甥・浅野長直の養子になり浅野長賢と改名した末男の5人。
生涯
慶長17年(1612年)、江戸城の書院番士だったが、父の死後間もない中、嫡兄・忠清まで卒去した。三河吉田藩の竹谷松平家は無嗣除封となる。だが、竹谷松平家のそれまでの働きを惜しんでか、幕府は封地没収としながらも替地として縁ある三州宝飯郡西ノ郡領の地へ清昌を配す。11ヵ村5000石の領主として、清昌への跡式相続が許されることとなった。こうして竹谷松平家は大名から交代寄合となった。
亡き父・家清には弟・清定があり、そのまま家に残って家老格として働きを示し、三河吉田藩では3200石を給されていたという。藩内で重きを成していた清定は既に故人であったが、その子で忠清、清昌兄弟の従弟にあたる清信への相続も考慮された。ところが清信はまだ9歳と幼く、より年長の清昌を跡目とした判断といわれる。
家名は存続したものの、3万石が5000石と6分の1にまで低下し、緊縮財政の政策が求められた。そこで、それまでの菩提寺が、初代からの龍台院と三河吉田藩以降の全栄院などに分かれていた諸院を、全部併せ龍台山天桂院とした。
大坂の役へは、冬夏共に36騎を率いて参戦した。元和3年(1617年)7月、秀忠将軍の上洛に随従した。父、兄以来続く玄蕃頭に叙任される。翌月8月には宮中関係各者への御礼を済ませている。一方で武芸にも励んでいた清昌は、弓の印可目録4巻を授けられている。
二条城での宴のために後水尾帝と中宮和子(家光の妹)が御移りになられるために9月6日、お渡りになられる前に女官ら関係者3000人による衣装など必需品が運び込まれてから、ようやく中宮の御車が出立。その御車の直前を進む騎衛の諸大夫20人がいたが、清昌もその中の1人だった。衣装は束帯姿でそのまま騎馬にまたがり、更にそれぞれが長刀持ち、馬副い、傘持ちを従えていたといわれる。この20人は石高こそ高くは無かったが、久松松平家の者、水野家の者といった将軍家との縁が深い家の者で固められていた。
寛永9年(1632年)、大御所・秀忠死去による遺金として銀3枚を拝領した。
寛永10年(1633年)、同7年に務めて以来2度目の大坂城の勤番。ちなみにこの時の同役は、井上正利(遠州横須賀藩4万7000石)、大関高増(野州黒羽藩2万石)、西郷正員(房州東条藩1万石)の3人であった。これからわかるように普通は万石大名の仕事である。しかも警備など必要な人員は自身の家臣を国許から補うことになっていたため、清昌の負担が一番重かったと考えられる。
寛永13年(1636年)、大坪流馬術の秘伝目録を授かる。
浅野家と縁が有り、忠清・清昌らの姉妹が浅野長重へ嫁いでいることによる。その姉妹と長重の間の男子が浅野長直であったが、嗣子がしばらく居なかった。そこで家格こそ低下しながら清昌の人品の高さに期待がかけられ、清昌の子の1人を長直の嗣子に望まれた(後の浅野長賢)。
ところが長賢の入嗣から、しばらくすると浅野長直に実子が誕生し、長賢は次男の扱いを受け、3500石の旗本となった。この実子は長じて浅野長友となる。そして長友の嫡子が、赤穂事件で有名な内匠頭長矩である。
関連項目
松平郷 | 信広 | 長勝 | 勝茂 | 信吉 | 親長 | 由重 | 尚栄 | 重和 | 信和 | 親貞 | 尚澄 | 親相 | 信乗 | 信言 | 信汎 | 頼載 | 信英 | 信博 | 九洲男 | 信泰 | 英男 | 弘久 | 輝夫 | … | ||||
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宗家 | 信光 | 竹谷 | 守家 | 守親 | 親善 | 清善 | 清宗 | 家清 | 忠清 | 清昌 | 清直 | 清当 | 義堯 | 義著 | 義峯 | 守惇 | 守誠 | 善長 | 清良 | 清倫 | 敬信 | … | ||||||
宗家 | 親忠 | 大給 | ||||||||||||||||||||||||||
宗家 | 長親 | 宗家 | 信忠 | 宗家 | 清康 | 広忠 | 家康 | 徳川氏 | ||||||||||||||||||||
三木 | 信孝 | 重忠 | 忠清 | 断絶 | ||||||||||||||||||||||||
鵜殿 | 康孝 | 康定 | 清長 | 清吉 | 清忠 | 清政 | 清次 | 祐義 | 義清 | 祐教 | 清門 | 義崇 | 義理 | 健三郎 | 鉄太郎 | 富次郎 | … | |||||||||||
福釜 | 親盛 | 親次 | 親俊 | 康親 | 康盛 | 康俊 | 康兆 | 康永 | 断絶 | |||||||||||||||||||
桜井 | 信定 | 清定 | 家次 | 忠正 | 忠吉 | 家広 | 忠頼 | 忠重 | 忠倶 | 忠喬 | 忠名 | 忠告 | 忠宝 | 忠誨 | 忠栄 | 忠興 | 忠胤 | 忠養 | … | |||||||||
東条 | 義春 | 忠茂 | 家忠 | 忠吉 | 断絶 | |||||||||||||||||||||||
藤井 | ||||||||||||||||||||||||||||
滝脇 | 乗清 | 乗遠 | 乗高 | 乗次 | 正貞 | 正勝 | 重信 | 信孝 | 信治 | 信嵩 | 昌信 | 信義 | 信圭 | 信友 | 信賢 | 信進 | 信書 | 信敏 | 信成 | 信広 | 信鑰 | 宏光 | 平人 | … | ||||
形原 | 与副 | 貞副 | 親忠 | 家広 | 家忠 | 家信 | 康信 | 典信 | 信利 | 信庸 | 信岑 | 信直 | 信道 | 信彰 | 信志 | 信豪 | 信義 | 信正 | 信興 | 信美 | 忠正 | … | ||||||
大草 | 光重 | 親貞 | 昌安 | 昌久 | 三光 | 正親 | 康安 | 正朝 | 正永 | 断絶 | ||||||||||||||||||
五井 | 忠景 | 五井 | 元心 | 信長 | 忠次 | 景忠 | 伊昌 | 忠実 | 伊耀 | 忠益 | 忠明 | 忠根 | 忠寄 | 忠命 | 忠元 | 忠質 | 忠凱 | 弘之助 | … | |||||||||
深溝 | 忠定 | 好景 | 伊忠 | 家忠 | 忠利 | 忠房 | 忠雄 | 忠俔 | 忠刻 | 忠祇 | 忠恕 | 忠馮 | 忠侯 | 忠誠 | 忠精 | 忠淳 | 忠愛 | 忠和 | 忠威 | 忠諒 | 忠貞 | … | ||||||
能見 | ||||||||||||||||||||||||||||
長沢 | 親則 | 親益 | 親清 | 勝宗 | 一忠 | 親広 | 政忠 | 康忠 | 康直 | 松千代 | 忠輝 | 直信 | 昌興 | 親孝 | 親応 | 親芳 | 忠道 | 忠敏 | 忠徳 | … |