元禄赤穂事件

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元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)は江戸時代中期の元禄期に発生した仇討ち事件で、吉良上野介を討ちそんじて切腹した浅野内匠頭の代わりに、その家臣である大石内蔵助以下47人が、吉良を仇討ちしたものである。

この事件は一般には忠臣蔵と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称はこの事件をもとにした人形浄瑠璃歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、およびそこから派生したさまざまな作品群の総称であり、史実としての事件を述べる場合は区別の為「元禄赤穂事件」と呼ぶ。

事件の概要[編集]

この事件は元禄14年3月14日浅野長矩(内匠頭)が、江戸城松之大廊下吉良義央(上野介)に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由は浅野内匠頭によれば「この間の遺恨」が原因との事だが、浅野のいう「遺恨」がどんなものであるのかは記録に残されておらず、不明である。ドラマ等では、吉良の要求した賄賂の拒否やそれを発端とした吉良による嫌がらせが遺恨の原因として描かれる。

場所もわきまえず吉良を斬りつけた浅野内匠頭は即日切腹。浅野の属する赤穂藩もお取り潰し、赤穂城も明け渡す事が決まった。それに対し吉良は何のお咎めもなかった。当時の「喧嘩両成敗」の原則に従えば、吉良にも何らか刑が下されるはずだが、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかった為[1]この事件は「喧嘩」として扱われず[2]、吉良には咎めがなかったのである。

しかし浅野のみ刑に処せられた事に浅野の家臣である赤穂藩士達は反発。筆頭家老である大石良雄(内蔵助)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せる為、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡した。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心としたお家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである[3]

吉良はその後3月23日に屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。元・赤穂藩士(赤穂浪士)達が主君の浅野内匠頭の代わりに吉良を仇討ちする、そんなことを期待して幕府が吉良を人気のない郊外に移したのではないかと江戸の人々は噂した[4]。そして自身の評判があまりに悪い事を知った[5]吉良上野介は、隠居を決意する。

これを聞いた赤穂浪士の一部は焦りだした[6]。ぐずぐずしていると、吉良が、息子の養子先である米沢の上杉家に引き取られてしまい、仇討ちが難しくなってしまうからである[7]

そこで赤穂浪士達は、大石が隠棲していた山城国(今の京都)の山科で会議(山科会議)を開き、仇討ちの是非を検討。しかしこの段階では仇討ちに賛同する浪士は少なく[8]、しばらく様子を見るという結論になった[9]

元禄15年7月頃から、大石内蔵助は京の祇園や島原で遊興にふけりはじめる[10]。ドラマ等ではこの遊興は敵の目を欺く為に行ったものだとされる事が多いが、ドラマで描かれるような派手な遊興にふけったかどうかは疑問である[11](後述)。

7月18日、浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定した。これはお家再興があり得ない事を事実上示している。

そこで赤穂浪士達は7月28日、に京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は10月に江戸に行き吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[12]。そして仇討ちの意思を同志に確認する為、事前に作成していた血判を返して回り、これを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけが同志として認められた[13](神文返し)。

その後、大石は宣言通り、10月7日に京を出て江戸に下り((第二次)大石東下り)、元禄15年12月14日、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。(ただし討ち入り後一人行方不明になっている為、討ち入り人数が一人少ない可能性もある。)

赤穂浪士達は吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供え、幕府の指示に従い、全員切腹した。

経緯[編集]

松之大廊下の刃傷[編集]

江戸城本丸跡(東京)

3月14日4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)[14]、浅野長矩は

「此間の遺恨、覚えたるか」[15](この間の遺恨、覚えているか)

と言いながら背後から吉良義央を小刀で斬りかかった。(浅野のいう「遺恨」がどんなものであるのかは記録に残されておらず、不明である。)

切りかかった場所は江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)であり、それゆえこの沙汰は「松之大廊下の事件」と呼ばれる。

吉良が振り返ったので小刀は吉良の眉の上[16]を傷つけた。そして吉良が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた[17]

すぐさま、浅野はその場に居合わせた梶川頼照らに取り押さえられ、柳之間[18]の方へと運ばれた。その際浅野はこう繰り返したという:

「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候」(上野介には、ここしばらくのあいだ、遺恨があったので、殿中であり、また大事な儀式の日でありながらやむをえず討ち果たしました)[19]

一方の吉良は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に取り押さえられ、御医師之間[20]に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた[21]。吉良の傷は外科の第一人者である栗崎道有[22]数針縫いあわせられている。


また浅野は次のようにも述べた:

「拙者も5万石の城主だ。場所柄をはばからないのは重々恐れ入るが、乱暴な取り押さえで服が乱れた。お上にはなんの恨みもないから刃向かわない。殺せなかったのが残念だ」と言っていたとのことであった。

(以上は梶川による『梶川與怱兵衛筆記(梶川日記)』により記されている)。

取り調べを担当した多門重共によれば、浅野長矩は次のように答えたという:

「幕府に対する恨みは全くない。ただ吉良には私的な遺恨がある。だから己の宿意をもって前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」

一方の吉良は、大久保と久留らから聞き取りを受けた際、こう答えた:

「拙者は恨みを受ける覚えは無い。浅野内匠頭の乱心であろう。またこの老体であるから、何を恨んだかなどいちいち覚えてはいない」[要出典]

その後浅野は、平川門[23]から江戸城を出て、芝愛宕下[24]陸奥一関藩田村建顕の屋敷にお預けとなり、幕府の裁定を待つ事となった。なお平川門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出す為の門であった[25]。浅野は罪人として江戸城から出されたのである。

事件の取り調べ結果は大目付仙石久尚(伯耆守)や、老中小笠原長重秋元喬知土屋政直稲葉正往へ報告され幕臣にて評議され、同時に側用人柳沢吉保から将軍徳川綱吉に言上された。

勅使饗応役は[事件後すぐさま[戸田忠真]]へと交代となり、奉答の儀は白書院から黒書院へと移された。[要出典]


浅野長矩切腹[編集]

朝廷との儀式を台無しにされた将軍の綱吉は、浅野長矩の即日切腹を以下のように命じた:

「其方儀、意趣これある由にて、吉良上野介を理不尽に切つけ、殿中をも憚らず、時節柄と申し、重畳不届至極に候。これにより切腹仰せつけらる」(そのほうは、恨みがあるということで、吉良上野介を理不尽に斬りつけた。殿中をもはばからず、また勅使登城の日でもあり、重ね重ね不届至極である。これにより切腹を命じれらる。)[26]

切腹はすなわち死なねばならぬという事であるが、同じ死刑に当たる「打ち首」が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていた[27]

そこで浅野は命令に対し、こう礼を述べて切腹した。

「今日、不調法なる仕方、如何様にも仰せつけらるべき儀を、切腹と仰せつけられ、有り難く存じ奉り候」(今日の不調法な行動はどのような厳しい処罰を命じられてもしかたのないところ、切腹を命じていただき、ありがとく存じ奉ります。)[28]

切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた[29]。 切腹の際には大目付庄田安利(下総守)が検使正使、目付多門重共・大久保忠鎮が検使副使として立会い[30]、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた[31]。切腹の時刻は同日六つ半(午後7時40分頃)[要出典]である。

浅野長矩の遺体は、田村邸からの連絡により、浅野家家臣達に引き取られた。引き取りに行ったのは、片岡高房礒貝正久田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内であり[32]、時刻は申の下刻(午後6時20分頃)[要出典]である。遺骸は菩提寺の泉岳寺でひっそり埋葬された[33]

長矩の正室阿久里3月14日夜に剃髪し、名を瑤泉院と改め[34]、翌15日明け方に麻布今井町の屋敷に移った[35]

3月15日4月22日)深夜頃には、略奪を目的に町人が大勢群集して浅野家の鉄砲洲上屋敷裏口に乱入するようになる。大垣藩戸田家から送られてきていた警備兵たちや堀部武庸らが刀を持って追い払い、さらに翌朝には本家の浅野綱長(安芸守)にも警備の兵が依頼されて、小堀新五右衛門(大番物頭)が指揮する広島藩兵(足軽50名・小人30名)が到着し、上屋敷は治安を取り戻した。[要出典]

吉良への見舞い[編集]

一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられたらしい。

「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」[36]

吉良にお咎めがなかった理由の一つは、吉良が浅野に手向かいしなかった事にある。 幕閣は、この事件の取り調べを行なった際、吉良が脇差に手をかけたかどうかを梶川に問うている[37]のだが、もし吉良が脇差に手をかけていればこの事件は「喧嘩」とみなされ、「喧嘩両成敗」の法により「双方切腹」となったであろう[38]。しかし吉良は逃げただけだったので、この事件は喧嘩としては扱われなかったのである[39]。 また吉良は将軍の親戚筋に当たる[40] 為、見舞いの言葉があったのかもしれない[41]


赤穂への使者[編集]

事件の知らせは早駕籠で赤穂に届けられた。まず早水満尭萱野重実による第一の急使が3月14日未の下刻(午後3時半頃)[42]に江戸を出発し、次いで原元辰と大石信清による第二の急使が同日夜更け[43]に出発。前者は19日寅の下刻(午前5時半頃)[44]に赤穂に到着、後者も同日中[45]には赤穂に到着した。

江戸から赤穂へは早駕籠でも通常一週間程度かかるところだが、使者たちは昼夜連続で駆け続ける事で、4日半程度で赤穂に到着している[46]

第一の急使は江戸での刃傷沙汰のみを伝え[47]、第二の急使が浅野長矩の切腹と赤穂藩の取り潰しを報告[48]

吉良の生死については急使達は何も伝えず、結局生死が赤穂側に伝わったのは3月の下旬であった[49]

藩札の処理[編集]

お取りつぶしの話が藩に広まると、商人達が札座に押し寄せて大混乱となった。 藩が取り潰しになると彼らの持っている藩札が無価値になってしまうからである。 そこで大石良雄は、3月20日4月27日)藩札を銀に六分率で交換するよう指示[50]。 赤穂経済の混乱の回避に努めた。

赤穂での議論[編集]

事件の知らせを受けた浅野家家臣達は、筆頭家老の大石内蔵助を上座に据え、連日[51]、城に集まって対応を議論した。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、浅野家は浅野長矩の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである[52]。親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。

連日の議論を経て、筆頭家老の大石内蔵助は、結論を出した。赤穂城の前で皆で切腹しようというのである[53]。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も吉良への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである[54]。 ただし、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので[55]、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある[56]

家臣達の意見は、籠城により吉良が処罰されなかった事に対する抗議の意思を示すというものが多かった[57]が、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったのである[58]

また大石は、籠城すれば大学に迷惑がかかると考えたのも籠城を辞めた理由の一つである[59]。大石は城内での議論と並行して、吉良の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたのだが[60]、この事が浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学の耳に入った為、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである[61]

なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野知房等による反対意見もあった[62]事によるが、原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出し[63]、これをみて大石内蔵助は、前述した切腹という結論を出したのである。

最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余り[64]が提出した。しかし江戸から下ってきた片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎の3人は、切腹をせず、吉良を討つ旨を述べて退出した[65]

江戸強硬派の動き[編集]

一方江戸には堀部安兵衛等ら強硬派がおり[66]、堀部は高田郡兵衛奥田孫太夫とともに吉良邸に討ち入ろうと試みたものの[67]、吉良の実子の上杉綱憲が吉良邸を訪問するなど警戒が強く、討ち入りは難しかった。 そこでまず国元の藩士と合流しようと4月5日に江戸をたち[68]4月14日[69]に赤穂に到着した。3人は大石に籠城を説くも大石は賛成せず、城を明け渡した4月22日に赤穂を出発した[70]


赤穂城開城[編集]

赤穂城

大石内蔵助は4月12日[71]に赤穂城の明け渡しを決意し、4月18日[72]に明け渡された。これに際して大野九郎兵衛が4月12日の夜に赤穂を出奔し、行方不明となっている[73]

明け渡しの際、大石は浅野大学によるお家再興を上使に嘆願[74]し、上使から江戸に帰り次第その旨を老中に伝えるとの返答を得た[75]。また取り潰しによって家臣が路頭に迷わぬよう、大石は4月5日から、赤穂に残った財産を家臣に分配している[76]

4月12日から3日間、浅野内匠頭の法要が泉岳寺で執り行われた[77]。幕府から許可がおりた為である。位牌や石塔もこの時建立された[78]

残務処理が終わった後、大石良雄は腕にできた腫れ物の療養のため赤穂に滞在している。この間も御家再興運動を積極的に行っており、原元辰らを大坂へ派遣して広島藩浅野家の家老の戸島保左衛門と会見させたり、遠林寺の住職祐海を江戸に遣わして将軍徳川綱吉やその生母桂昌院に影響力が大きい隆光大僧正らに会見させるなどした。また先に浅野家再興の嘆願を取りなして欲しいと依頼した荒木政羽も、江戸に戻ってから老中や若年寄に取り成しを行ってくれた。荒木は6月9日7月14日)に赤穂浅野家分家筋の旗本浅野長恒の屋敷を訪れて、「浅野家再興の見込みあり」の旨を大石に伝えて欲しいと伝言している。[要出典]


山科隠棲[編集]

赤穂城が明け渡しになると、大石内蔵助は6月に家族と合流し、山城国山科に隠棲する[79]進藤源四郎が代々ここに田畑を持っており、これを頼って居を定めたのである[80]

ここで大石は幕府に対してお家再興の嘆願を、赤穂の遠林寺の僧祐海を通じて出している[81]

吉良の屋敷替えと隠居[編集]

一方の吉良は3月23日[82]にお役御免となり、8月19日[83]日には屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。討ち入りをしやすくする為に吉良を人気のない郊外に幕府が移したのではないか、そんな噂が江戸に流れた[84]

堀部達急進派はこの屋敷換えを討ち入りのチャンスととらえ[85]11月2日に江戸に下ってきた(いわゆる第一次東下り)大石内蔵助に討ち入りの日の起源を決断するよう迫った[86]。大石は浅野内匠頭の一周忌には結論を出したいと約束した[87]

自身の評判があまりに悪い事を知った吉良上野介は、隠居を願い出て、12月13日に許可されている[88]。これを聞いて堀部安兵衛たちは焦り始めた[89]。ぐずぐずしていると、吉良が、息子の養子先である米沢に上杉家に引き取られて[90]、討ち入りが難しくなってしまうからである。一方、大石内蔵助や上方の同志は討ち入りの先延ばしに意見が傾いていた[91]。浅野大学によるお家再興に影響が出てしまうかもしれないからである[92]

山科会議[編集]

こうした中、京都の山科で、今後の行く末を決める会議が翌元禄15年2月15日から数日間[93]執り行われた。いわゆる山科会議である。

会議では、すぐさま討ち入りに行くという意見は少数で[94]、しばらく様子を見るという結論になった[95]。大石内蔵助は浅野内匠頭の三回忌まで待つべきであろうとしている[96]

大石の遊興[編集]

元禄15年7月頃から、大石内蔵助は京の祇園や島原で[97]遊興にふけりはじめる。 同士の中にはこれを見て愛想を尽かす者もおり[98]、吉良側の間者もこれを見てもはや討ち入りは考えてないだろうと江戸に送った[99]

大石の遊興は敵の目を欺く為に行ったものだとドラマ等では扱われる一方、単に重圧を逃れる為に遊んでいたとする意見もある[100]

ただし、ドラマで描かれるような派手な遊興にふけったかどうかは疑問[101]で、資料には「遊山見物等の事に付き(中略)金銀等もおしまず遣い捨て候」[102]とあるのみで、ここから脚色されて派手な遊興というイメージができあがったのかもしれない[103]。また祇園や伏見に出かけたという記録もあるものの[104]、息子の主税も一緒であった[105]

しかしこのころ京都の妾に手を出し、孕ませている[106]。なお大石は、赤穂時代にもやはり妾を孕ませていた[107]

円山(まるやま)会議[編集]

7月18日[108]に浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定すると、同志達は7月28日[109]に京都の円山で会議を開く事にした。いわゆる円山会議である。

浅野大学の本家引き取りは、お家再興があり得ない事を事実上示しているので、大石内蔵助は10月に江戸に上り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[110]

神文返し[編集]

山科会議の頃までは同市は120名ほどいたが[111]、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する[112]。これを受けて大石は、貝賀弥左衛門大高源五[113]を派遣し、連判状から切り取った血判を返してまわった[114]。いわゆる神文返しである。そしてそれでもどうしても討ち入りをしたいと答えたものだけを同志として認める事にした[115]。これにより同志は50人程度[116]に減った。

(第二次)東下り[編集]

大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日[117]に京を出て、11月5日[118]に江戸に到着している。道中には箱根を通り、そこにあった曾我兄弟の墓を詣でている[119]。また10月26日[120]には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている。

討ち入り日の決定[編集]

討ち入りの日は、吉良が確実に在宅している日を選ばねばならない。そこで赤穂浪士達は吉良の予定を探り、討ち入りの日を12月14日に決めた。というのも、内蔵助の一族である大石三平が12月14日に吉良が自分の邸宅で茶会を開く事を突き止めたからである[121]

大石三平は茶人山田宗偏の弟子なのだが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた羽倉斎宮が江戸で新道や歌道を教えており[122]、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて[123]、この情報を聞いたのである。また赤穂浪士の一人である大高源五もやはり山田宗偏の弟子で[124]、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいた[125]。こうした情報を踏まえ、討ち入り日が14日にきまったのである。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたというのは、一応記録にはあるものの[126]、俗説にすぎない可能性もある[127]

12月2日、頼母子講を装って全同志が深川八幡前の大茶屋に集まった。このときに討ち入り時の綱領「人々心覚」が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」ことを定めた。[要出典]

直前の脱盟[編集]

11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、小山田庄左衛門[128](100石[128]片岡高房から金を盗んで逃亡[要出典])、田中貞四郎[128](小姓あがり[128]、150石[128]酒乱をおこして脱盟[要出典])、中田理平次[128]30石4李施[要出典]。理由不明)、中村清右衛門[128](小姓[128]100石[要出典]。理由不明)、鈴田重八郎[128](理由不明)、瀬尾孫左衛門[128](大石内蔵助家来[128]。理由不明)、矢野伊助[128](足軽5石2人扶持[128]。理由不明)が姿を消した。

そして討ち入り前日の12月13日まで同志の中にいた[129]毛利小平太大納戸役20石5人扶持[要出典]。理由不明)も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった。

討ち入り[編集]

元禄15年12月14日1703年1月30日)午後、同志は両国橋西の米沢町にあった堀部金丸の借宅に集まり、その後3か所の集合場所に分かれた。吉田兼亮らは集合場所の本所林町5丁目にある堀部武庸の借宅に行く途中、竪川の河岸地にある「亀田屋」という茶屋でそば切など食べながら時をすごした。それぞれの集合場所から本所吉良屋敷裏門近くの前原宗房の借店を経て、表門隊と裏門隊の二手に別れて吉良邸に討ち入った。

実際に襲撃したのは現在の時刻で元禄15年12月15日1703年1月31日)に入っての未明午前4時頃であった。江戸時代の慣習では夜明けの明六つと日暮れの暮六つ(1月30日では午前6時8分頃と午後5時39分)を境とし1日の始点を暁九つとした。この時に雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色であり、実際は冷え込みが厳しかったが空は晴れていた。なお、月齢は13.6で満月の一歩手前であった。

表門隊[編集]

表門隊の大将は大石良雄。その下に23士が属した。そのうち片岡高房(槍)、富森正因(槍)、武林隆重(槍)、奥田重盛(太刀)、矢田助武(槍)、勝田武堯(槍)、吉田兼貞岡島常樹小野寺秀富の9士で吉良邸内へ突入している。

庭の見張りについたものは早水満堯(弓)、神崎則休(弓)、矢頭教兼(槍)、大高忠雄(太刀)、近松行重、間光興(槍)の6士。

新門の見張りについた者は、堀部金丸(槍)、村松秀直(槍)、岡野包秀(槍)、横川宗利(槍)、貝賀友信の5士。

そして表門には大石良雄(槍)、原元辰(槍)、間瀬正明(半弓)という参謀格の3士が陣取り、表門隊の指揮をとった。

裏門隊[編集]

裏門隊の大将は大石良雄の嫡男大石良金。実質的な指揮者は吉田兼亮。その下に24士が属した。そのうち堀部武庸(太刀)、礒貝正久(槍)、倉橋武幸杉野次房赤埴重賢三村包常、菅谷政利、大石信清(槍)、村松高直(槍)、寺坂信行の10士が吉良邸内へと突入した。

庭内の見張りは大石良金(槍)、潮田高教、中村正辰(槍)、奥田行高(太刀)、間瀬正辰(槍)、千馬光忠(半弓)、茅野常成(弓)、間光風(弓)、木村貞行(槍)、不破正種(槍)、前原宗房(槍)の11士。

裏門には吉田兼亮(槍)、小野寺秀和(槍)、間光延(槍)が陣取り、裏門隊の指揮をとった。

吉良方[編集]

吉良家臣の数は諸説あってはっきりとしていないが、討ち入り後の幕府の検死役の書に「中間小物共八十九人」と書かれている。桑名藩所伝覚書では「上杉弾正(上杉綱憲)から吉良佐平(吉良義周)様へ御付人の儀侍分の者四十人程。雑兵百八十人程参り居り申し候よし」と記しており、上杉家からかなりの数の士分と非士分が吉良義周(上杉綱憲の次男。吉良義央の養子)にしたがって吉良家へ入ったとしている。姓名などが判明しているのは以下の通り。

  • 筆頭家老…斎藤宮内忠長(150石)
  • 家老…左右田孫兵衛重次(100石)・松原多仲宗許(100石)
  • 取次月番…須藤与一右衛門(50石)・岩瀬舎人(50石)
  • 取次…平沢助太夫(15両4人扶持)斎藤十郎兵衛(15両3人扶持)清水団右衛門(5両5人扶持)
  • 目付…糟谷平馬(8両3人扶持)・新貝伝蔵(6両)
  • 近習…山吉新八郎盛侍(30石5人扶持)・永松九郎兵衛(7両3人扶持)・新貝弥七郎安村(6両)・天野貞之進(6両)・鈴木浅右衛門(5両)・高橋治右衛門(10両)
  • 中小姓…左右田源八郎(7両)・斎藤清右衛門(6両)・笠原長太郎(5両)・伊藤喜左衛門(4両)・鈴木杢右衛門(4両)・岩瀬喜大夫(7両)・宮石島之助(5両)
  • 祐筆…堀江勘左衛門(7両)・鈴木元右衛門(6両)
  • 台所役…岩田弥一兵衛(5両)
  • 隠居付家老…小林平八郎央通(150石)
  • 隠居付用人…鳥居利右衛門正次(50石)・宮石新兵衛(50石)
  • 隠居付近習…清水一学義久(7両3人扶持)・大須賀治郎右衛門(6両)・榊原平右衛門(6両)・加藤太左衛門(6両)
  • 隠居付台所役…三田八右衛門(5両)

役職石高などが不明な者では、小笠原忠五郎、村上甚五右衛門、古沢善右衛門、馬場次郎右衛門、石原弥右衛門、富田五左衛門、星八左衛門、若松新右衛門、近藤徳兵衛、山下甚右衛門、榊原五郎右衛門といった名前が挙げられている。非士分の者たちとして厩別当の杉山与五右衛門、茶坊主の鈴木松竹、牧野春斎、足軽の大河内六郎右衛門、森半右衛門、権十郎、仲間八大夫、兵右衛門、若右衛門などの名が伝わる。創作では討ち入り時に吉良家の女中が逃げ惑う演出なども行われるが、実際には夫人の富子がすでに吉良家におらず、それに仕える女中も屋敷内にはいなかった。

山鹿流陣太鼓と装束[編集]

山鹿素行が赤穂に配流になった縁で藩主が山鹿素行に師事し、赤穂藩は山鹿流兵法を採用していたとされるが、実践における戦術・戦法ではなく儒教的な色彩の武士の心得というものであった。

映画やテレビドラマ、演劇では、雪の降りしきる夜、赤穂浪士は袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、大石良雄が「一打三流」の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす。吉良家の剣客清水一学がその太鼓の音を聞いて「あれぞまさしく山鹿流」と赤穂浪士の討ち入りに気づくのが定番となっている。

実際には赤穂浪士は合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった。門を叩き壊す音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。また山形模様は『仮名手本忠臣蔵』の衣装に採用されて広く認知されるようになったものだが、先行作でも使用が確認されている[130]。実際には赤穂浪士は討ち入りの際は火事装束に似せた黒装束でまとめ、頭巾に兜、黒小袖の下は鎖帷子を着込んだ完全武装だった。羽織などの着用もばらばらだったといわれている。山形模様ではないが、袖先には小袖と羽織をまとめるため、さらしを縫い付けている者もいた。

討入開始[編集]

吉良邸討ち入り。葛飾北斎

元禄16年1月24日1703年3月10日)に礒貝正久と富森正因が連署で書いた『礒貝富森両人覚書』によると、表門は梯子をかけて登り、裏門は門を打ち破ったとしている。赤穂浪士のお預かりを担当した伊予松山藩松平定直の家臣波賀清大夫が赤穂浪士たちから話を聞き、それをもとにして書いた『波賀聞書』では、表門隊で最初に梯子を上って邸内に侵入したのは大高忠雄と小野寺秀富であったといい、大高が飛び降りざま名乗りを上げ、吉田兼貞と岡島常樹もそのあとに続いて上っていったとしている。原元辰は飛び降りた際に足をくじき、また神崎則休も雪で滑り落ちたが、大事はなく働きにも影響はなかったという。堀部金丸は高齢であるため大高忠雄が抱いて下ろしたとしている。一方裏門の様子を示した『波賀聞書』では、杉野次房と三村包常が門を破り、一番に突入したのは横川宗利、番人を倒したのは千馬光忠の半弓であったとしている。寺坂信行の書いた『寺坂私記』によると原元辰が書いた「浅野内匠頭家来口上書」を上包して箱に入れ、青竹に挟んで吉良邸の玄関前に立て置いたという。

富森正因の証言によると礒貝正久が軽い者を捕えてろうそくを出させ、真っ暗だった吉良邸内を明るくしたという。後に取り調べの時にこれを聞いた大目付仙石久尚も礒貝の機転の良さに感心したという。

『小野寺書状』によると、表門隊は玄関に差し掛かり、玄関の戸を蹴破ったとしている。飛び起きて広間からかけつけてきた番人3人と戦っている間、小野寺秀富が立て並べてある弓を発見、秀富は吉良家臣1人を斬り倒したあと、すぐにそれらの弓の方へ向かって弦を切って使い物にならないようにしたという。ドラマなどではこれは秀富のその場の機転のようになっているが、『小野寺書状』によると吉良家臣は弓の使い手が多いという情報を事前につかんでいたので弓は発見次第に弦を切るよう事前に決めていたとしている。

『波賀聞書』によると、庭の見張り組は「五十人組は東へ回れ」「三十人組は西へ回れ」などと声高に叫ぶことであたかも百人以上の大勢が討ち入ったかに装ったとしており、これが功を奏し、長屋にいた吉良家臣たちは本当にその人数がいると信じ込み、ほとんどの者が恐怖で長屋から出てこなかったという。『礒貝富森両人覚書』も、邸内ではたびたび戦闘が起きたが、長屋の侍は出てこなかったとしている。しかし『小野寺書状』によると長屋から飛び出してきた吉良家臣2人がおり、先に出てきた男を小野寺秀和が槍で倒し、もう1人は間光延の槍で倒したという。

『赤城士話』によると間瀬正明に遮二無二斬りかかる吉良家臣がおり、孫九郎はその男の脇腹に槍を突き刺したが、その吉良家臣は槍を手繰り寄せようと槍を二打ち三打ちしてきた。孫九郎が槍を投げだすと男は倒れて息絶えたという。

大石良雄が12月19日に寺井玄渓(浅野長矩の藩医だった人物)に送った書状によると、一番の働きをしたのは不破正種であったという。四、五人の敵と戦い、その刀がささらのようになっていたという。不破正種が父佐倉新助にあてた書状では本当は不破は庭の見張り担当であったが、こらえ難くて独断で邸内へ突入してしまい、邸内では長刀を振るう当主吉良義周と遭遇し戦闘になった。

新井白石が吉良邸の隣人の旗本土屋逵直から聞き取った話を室鳩巣が書き綴った『鳩巣小説』では、隣の吉良邸が騒がしくなったので外へ出て見た土屋が壁越しに声をかけたところ、片岡高房、原元辰、小野寺秀和と名乗った者が、吉良義央を打ち取って本望を達したと言う声を聞いたとしている。これを聞いた土屋は壁際に灯りを掲げてその下に射手をおき、「塀を越えてくる者は誰であろうとも射て落とせ」と命じたという。

上杉家の動き[編集]

米沢藩主である上杉綱憲は吉良義央の実子で、赤穂浪士の討ち入りを知った綱憲がいきり立って父の援軍に出馬しようとするところを家老千坂高房(または色部安長)が強く諫言しておしとどめる場面が「忠臣蔵」の物語でよく取り上げられる。実際には、千坂は元禄13年(1700年)に死去しており、色部は父親の喪中により出仕しておらず、上杉家の縁戚である高家・畠山義寧(先の松の廊下の事件の時、義央を運んだ一人)が綱憲を止めている。

綱憲は、江戸では赤穂の浪人が多く危険であるとして、吉良に米沢へ隠居するよう勧めていた。12月14日(1月30日)の吉良屋敷での茶会は江戸での別れの茶会であったといわれる。

赤穂浪士は討ち入りに際して上杉家からの援軍と、引きあげ時の追撃を警戒していた。実際に上杉家では藩邸に討ち入りの報が入ると、直ちに数人を出して様子を探らせ、赤穂浪士に対抗できるだけの人数を集めていた。そうしているうちに吉良義央が討ち取られて、赤穂浪士たちは引きあげてしまったという報告が入った。やがて、幕閣から上杉家へ赤穂浪士の処分は幕府が行うので上杉家は手出ししないよう命じられてしまった。上杉家は幕府の命に従う外なかったが、世間からは腰抜けと冷笑されたといわれる。

吉良方の奮戦[編集]

小林平八郎と清水一学は吉良家臣として劇作などに取り上げられ、吉良義央の身代わりとなって奮戦する小林平八郎の姿や、泉水にかけられた橋の上で二刀を構えた清水一学が赤穂浪士を大いに苦しめ、赤穂浪士第一の剣客堀部武庸と大立ち回りを演じる場面が描かれている。しかし上杉家家臣が編纂した「大河内文書」によると、小林平八郎は逃げようとしたところを赤穂浪士につかまり、「上野介はどこか?」「身分が低い家臣なので知りません」「身分の低い家臣がなぜ絹の寝巻きなど着ている?」という問答の末に首をはねられたといわれている。また『江赤見聞記』は、吉良方に強者が広間に六人、台所に一人いたとしており、吉良家臣の清水一学は台所で討ち死にしたとされ、特に活躍したとは伝えられていない。ただ大河内文書は上杉家家臣のみを持ち上げ吉良家家臣の評価をさげる傾向にあり必ずしも真実を語っているとは限らない、との懐疑的な見方もある。[要出典]小林平八郎については、落合与左衛門(瑤泉院付き用人)の書といわれる『江赤見聞記』で「小林平八は、槍を引っさげて激しく戦い、上野介をよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦ってついに討ち取られた」と記載がある。 『大河内文書』が最も目覚しい働きがあったとしている家臣は新貝弥七郎山吉盛侍である。新貝は玄関口で奮戦して討死し、山吉はより奮戦して近松行重を斬り捨てて庭の池に叩き落したという。山吉は重傷を負ったものの、一命をとりとめ、吉良家断絶後も吉良義周に従って配流先の信濃国諏訪藩へ供した。彼らはいずれも上杉家から吉良義周に従って吉良家へ移ってきた元上杉家家臣である。

当時18歳の吉良家当主の吉良義周は薙刀を持って、赤穂浪士の剣客のひとりである武林隆重(堀部武庸とも)と果敢に渡り合ったが、斬られて目に血が入り、気を失ったという。事件後に来た幕府の検分役に重傷の身で気丈に応対して、検分役を感心させている。

終結[編集]

赤穂浪士引き揚げの図。歌川広重

『礒貝富森両人覚書』によると、吉田兼亮や間光興らが、台所横の炭小屋からヒソヒソ声がするのを聞いたため、中へ入ろうとすると、中から皿鉢や炭などが投げつけられ、さらに2人の吉良家臣たちが中から斬りかかってきたのでこの2人を切り伏せたあと、尚奥で動くものがあったため、まず間光興が槍で突いた。出てきたのは老人で脇差で抵抗しようとするも武林隆重に一刀のもと斬り捨てられた。老人であり、白小袖を着ていることからこの死体をよく調べてみると面と背中に傷があったので吉良に間違いないと判断し、一番槍の間光興が首を落とした。そして合図の笛を吹き後、玄関前に集合した赤穂浪士たちは表門番人の3人に吉良の首を見せて間違いなく吉良義央であることを確認した。『鳩巣小説』によると声だけしか聞こえない土屋邸では赤穂浪士たちが吉良を探している間の声を聞いて取り逃がしたのだろうと思っていた。しかし突然「有り様に申さぬか」という大声が聞こえてきたという。他の者が「額の傷を見よ」という声も聞こえきた。その後しばらくしてわっと泣き出す声が聞こえた。これを聞いて土屋は今まさに吉良の首をあげて悦びの泣き声をあげているのだろうと思ったという。

吉良家は小林平八郎、清水一学、鳥居利右衛門正次、新貝弥七郎安村、須藤与一右衛門斎藤清右衛門左右田源八郎大須賀次郎右衛門小境源次郎鈴木元右衛門笠原七次郎榊原平右衛門鈴木松竹牧野春斎、ほか足軽2名の死者を出し、負傷者23人であった。赤穂浪士の負傷者は近松勘六、原惣右衛門の2名。また、吉良家家老の左右田孫兵衛は、討ち入りの時に生き残ってしまったために「途中で逃げ出した」とする悪評を立てられたが、討ち入り後も配流された吉良義周のために尽くし、その死後は生涯他家への仕官を断ったことから、吉良家への忠節を尽くした家臣とみなされ汚名は除かれたと言われる。

引き上げ[編集]

討ち入り後は、吉良邸内の厳重な火の始末をし、吉良義央の遺体を寝所に安置した後、吉良の首は潮田高教の持つ槍の先に掲げられ吉良邸を出発し、当初は回向院へ向かったが受け入れられず、浅野長矩の菩提である高輪泉岳寺に向かった。この時、吉田兼亮・富森正因の両名を、討ち入りの口上書の写しを持って大目付仙石久尚のもとに出頭させた。辰の刻(午前8時ごろ)泉岳寺に着き、住職酬山長恩[131]によって受け入れられ、墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告した。また、この際に吉田兼亮の足軽の寺坂信行が立ち退いており、泉岳寺にいる赤穂浪士は44人だった[132]

幕府の評定[編集]

吉田兼亮・富森正因より申し出を受けた大目付仙石久尚は月番老中稲葉正往の屋敷へ行き、事件の概略を報告し、仙石と稲葉はそろって江戸城に登城することになった。泉岳寺からの届け出で寺社奉行阿部正喬から、また町奉行松前嘉広からの報告も上がっていた。又吉良邸に派遣した目付も戻って報告を行った。情報が出そろい、老中・若年寄の評定が行われたが、一同はそろって称賛し、老中の中には感涙する者もあった。筆頭老中阿部正武は「このような忠義の士が出た事はまさに国家の慶事」と一同に述べている[133]

その後一同はそろって綱吉に拝謁してその旨を報告した。綱吉も非常に喜び、処分をゆっくり決めたいとして、46人の赤穂浪士は、細川綱利松平定直毛利綱元水野忠之の4大名家に御預けとした[134]。早速泉岳寺に徒目付3人が派遣され、赤穂浪士たちはその指示に従ってひとまず仙石の屋敷に移動した。この際に仙石は「御上からの指図ではないが後学のために」と前置きしたうえで赤穂浪士たちから討ち入りの模様を詳しく聞き、「この度本懐を遂げられた次第は実に前後落ち着いた仕方であって、誠に落ち度のない、行き渡ったことである」と感心した[135]

その後、赤穂浪士たちは仙石邸から4家へ駕籠で移送されていった。浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、松平家と毛利家では冷遇したようである。細川家などは江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したものである。もっとも、江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである。

大目付4人、寺社奉行3人、町奉行3人、勘定奉行4人から成る幕府評定所12月23日2月8日)に意見書を老中に提出した。それには「一、吉良左兵衛は自滅してでも親の身を守るべきところを自分だけ存命しているのは捨て置き難いことであり、切腹を申し付けるべき」「一、吉良上野介家来のうち出合って働き、手傷を受けた者は親類預けにし、働きもなく手傷も負っていない者は侍の面目に関わる故に残らず斬罪に処すべき」「一、小者・中間の類は追い払うべき」「一、上杉弾正大弼(上杉綱憲)、同民部大輔は、内匠頭家来一同が上野介屋敷から泉岳寺へ向かうまで何もしなかったため領地召し上げ」「一、内匠頭家来が亡主の志を継ぎ、一命を捨てて上野介邸へ討ちこんだことは真の忠義であり、御条目の『文武忠孝を励み、礼節を正しくすべし』にも的中している行動である。大勢が申し合わせ、兵具を付けた狼藉の仕方のようであるが、それに遠慮していては本懐を遂げることができないので、やむを得ぬ行為である」「一、御条目に徒党を結んで誓約することを禁止しているが、もし内匠頭家来に徒党の志があったなら去年内匠頭切腹申し付けられ、城召し上げに際して存念がましき事を申し出たはずである。然るにその時は少しも違背しなかった。このたびのことは一列に志を合わさなければ本望を遂げることができないのでやむを得ずに行った手段であるので徒党とは言い難い」「一、このようなことが後にあったとしても人々の心次第で決することであるからその時は致し方の是非をもって処分を決めるべき」「内匠頭家来はこのままお預けとし、後年になってから処分するべき」といった内容が書かれていた[136][137]

学者間でも議論がかわされ、林信篤(林大学頭)や室鳩巣(当時加賀前田家家臣)は義挙として助命を主張した。林大学頭は「このたび浅野が旧臣大石らが亡主の遺恨を継いで吉良を討ったことは、義にあたることであり、その行為はいささかも公儀に背いていない。人臣が忠誠を尽くすことは賞すべきことである。にも関わらず、陪臣の身で恣に高貴の官人を殺害したと唱え、或いは徒党を組んで、御府内を恐れず、白刃を挙げるのは不敬なりなどと主張し、強いてこの輩を厳罰に下すことがあれば、天下の笑いを取るのみならず、忠義の道が地に落ちる事は必定である。この議は臣(私)の私論ではない。聖賢の大経に基づいて申している所であるので、深く思慮されるべし」という意見書を奉呈している[138]。室鳩巣は赤穂士たちは田横500人の気概を有していると絶賛した[139]。一方荻生徂徠(当時柳沢吉保家臣)は「かの46士が主人のために仇を報じたことは、臣たる者の恥を知り、己を潔くした道であり、確かに義である。しかしこれは、その党に限ることであり、畢竟私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない。切腹を申しつければ武士としての面目も立ちつつ、また上杉家の願いも叶う。そうなれば幕府が46士の忠義の行動を軽んじていないことにもなって、そこにはじめて天下の公論が成り立つ」と主張した。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた[140]

一方将軍綱吉は徐々に助命に傾き、皇族から出された恩赦という形を得るため、上野寛永寺輪王寺門主公弁法親王が2月1日に年賀で江戸城を訪問した際に閑談の機を見計らって、二度に渡ってそれとなく法親王から恩赦を出すよう依頼した。しかし法親王は赤穂浪士について話題にするのを避けて答えず、そのまま退出した。上野へ戻った後、法親王はこの時に恩赦を出すことを拒否した理由について「亡主の憤死を憐れみ、忠義の志に励むのは比類なきことだが、人心の変化は明日に夕に違うので、万が一この輩が世に永く存生して終わりのよくない者が出た時、忠義の志を空しくし、一党の名にも関わる。」「このたび46人一同を死に就かせれば、忠義の名声益々高く聞こえ、後々まで世のためとなるのは明らか。夢幻の世々の有様を思えば、彼らに死を与えることが彼らの芳名を永久に伝えることにつながる」と述べた。法親王の声掛かりという道もふさがれた綱吉は切腹の沙汰を出すしかなくなった[141][142]

切腹[編集]

泉岳寺の赤穂浪士の墓
花岳寺の赤穂義士の墓

元禄16年2月4日 (旧暦)西暦1703年3月20日)、4大名家へ切腹の命が伝えられる。また同日、幕府評定所の仙石久尚は吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信濃諏訪藩高島への配流の処分を下した。

46人の赤穂浪士はその日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹。4大名家で切腹開始時刻の多少のずれはあったが、どの家でも半時(約1時間)ほどで切腹を終えている。当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていたため、素早く終わった。間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている[143]細川綱利は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩の氏神であるとして清掃する必要なしと指示している[144]。赤穂浪士の遺骸は主君浅野長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺には、泉岳寺から分骨されて赤穂浪士の墓(義士墓所)が建てられた。

当時の刑罰は明治時代以降と大きく異なり、一族連座が基本であったが、赤穂浪士については幕閣内にも同情論が強かったため、本件での一族連座は限定的となった[144]。赤穂浪士の遺子のうち、15歳以上の男子でかつ出家した者を除いた4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬定八、村松政右衛門)が伊豆大島流罪となったが、浅野長矩室瑤泉院の働きかけで1706年には出家を条件に赦免された[145]

浅野家の再興[編集]

宝永6年1月10日1709年2月19日)、将軍綱吉が死去し甥の家宣が将軍を継ぐと、新将軍就任の恩赦により、出家していた赤穂浪士の遺子たちの還俗も認められた[145]

同年8月、内匠頭の実弟である浅野長広も赦免され、500石の旗本に列した[146]

また、正徳3年(1713年)、大石良雄の三男である大三郎広島の浅野宗家に1,500石で召抱えられた[147]

逸話や伝承[編集]

元禄赤穂事件には「忠臣蔵」への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域をでていないものをあげる。

脇坂安照が吉良に一矢報いる[編集]

殿中刃傷があった直後、播磨龍野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良義央とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。吉良は激痛でひっくり返り、「お許しを」と許しを請いながら逃げ去っていく。

村上喜剣[編集]

薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石良雄をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良義央を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。大高忠雄の墓の隣にある「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであるといわれる。

大野や奥野は第二陣であった[編集]

大野知房は実は逃げたわけではなく、大石が失敗した時に備えた第二陣の大将であり、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて山形県板谷峠に潜伏していた。しかし大石の討ち入りが成功したという報を聞き、大野は歓喜してその場で自害したとするもの(実際に板谷峠に大野の墓が現存しているが、後世の人間に作られたといわれる)。奥野定良にも同様に第二陣の大将とする逸話があるが、彼にはさらに浅野長矩の隠し子の姫を幕府に知られぬようこっそり育てる役目を大石から命じられていたためやむなく脱盟したという逸話がある。

大高忠雄の詫び証文の逸話[編集]

大高忠雄が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできた。大高は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った団蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。しかしながらこの大高の詫び証文と伝わるものは後世の人が作ったものといわれている。神崎則休にも同様の逸話がある。

岡野包秀とお艶の逸話[編集]

岡野包秀は吉良邸絵図面を手に入れるため、吉良義央の本所屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘お艶と恋人になる。しかし岡野はやがて本当にお艶に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。

大高忠雄と宝井其角[編集]

大高源五と宝井其角。尾形月耕

大高源五は、子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士である。俳人の宝井其角とも親交があったため、このような逸話が残る。討ち入りの前夜、大高は煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していたが、両国橋で宝井其角と出会った。其角は早速「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句し、大高はこれに「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ちをほのめかす。

赤埴重賢、徳利の別れ[編集]

赤埴重賢は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。しかし兄は留守であった。義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。もう簡単にはお会いできますまい。ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる」と兄の羽織に対して涙を流しながら酒を酌み交わし、帰って行く。その後帰宅した兄は下女から重賢の様子を聞いて、もしや重賢はと思いを巡らせる。そして12月15日、吉良義央の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟重賢の姿があった。

俵星玄蕃[編集]

杉野次房は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、是非助太刀しようと吉良邸へ向かった。両国橋で赤穂浪士達と遭遇したが、大石には同道を断られた。しかしその中になんと蕎麦屋の十助がいるではないか。そして二人は今生の別れを交わした。その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。これは文化の頃の講釈師大玄斎蕃格による創作といわれる[148]。玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は「仮名手本忠臣蔵」の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」の字[149]

上杉家の忠臣[編集]

討ち入りを聞いた上杉綱憲は実父を助けるため吉良邸への出兵を宣言。しかし江戸家老・色部安長(または千坂高房)が上杉の御家を守るために主人の前に立ちふさがり、「殿は吉良家の御当主にあらず!上杉家の御当主でございますぞ」と一喝。綱憲はその迫力に威圧されて出兵を諦めるしかなかった。大佛次郎の小説『赤穂浪士』に上杉家の江戸家老が上杉綱憲を止める場面があることにちなむ。しかし色部は実父の喪に服していてこの日上杉家に出仕しておらず、このようなことはできなかった。実際に綱憲を止めに来たのは家臣ではなく上杉家親族の高家畠山義寧。また討ち入り中ではなく討ち入り後のことである。

色部や千坂ではなく、綱憲の母富子が綱憲を押しとどめるという逸話もある。

南部坂雪の別れ[編集]

討ち入り直前、大石良雄は赤坂・南部坂に住む浅野長矩正室・瑤泉院のところへ最期のあいさつへ向かう。

しかし吉良か上杉の間者が聞き耳を立てていたので口頭で討ち入りのことを伝えることはできず、その場では「他家に仕官するので最後に殿にご焼香させてください」と述べた。瑤泉院はそれに激高し「不忠臣の焼香など殿は望まない。失せよ」と大石をののしって追い払う。大石はこっそりと討ち入りに加わる者たちの名前を連ねた書状を置いて立ち去るより他になかった。そして邸外から瑤泉院の方へ向けて土下座して不敬を詫びたというもの。

物語によっては、その後間者が連判状を盗もうとして発覚、瑤泉院が大石の真意に気づき彼を罵った事を後悔するという場面がある場合もある。

その他[編集]

「不忠臣」のその後[編集]

赤穂藩浅野家家臣は士分だけでも300名以上いたが、このうち討ち入りに参加したのは46名で(寺坂は士分ではなく足軽身分)、8割以上が討ち入りに参加していない。討ち入りに参加した藩士が義士として称えられれば称えられるほど、その反動として、討ち入りに参加しなかった者とその家族に対しては幕末まで厳しい批判が向けられることになっていった。討ち入りに参加した浪士の子弟らは各藩から争って招聘される一方、脱盟者で後に仕官が適った者は大石信興以外には確認されていない。小山田庄左衛門の父小山田一閃は、息子が同志の片岡高房から金を奪って逃げだしたことを恥じて自害しており、また岡林直之も兄の旗本松平忠郷から義挙への不参加を責められ切腹させられた。旗本内田家の養子に入ったはずの高田郡兵衛も悪評に耐えかねた養父内田元房に家を追い出されるなどしている。元赤穂藩士たち、およびその子孫は町人からさえ「義挙に加わらなんだ不忠者」と蔑まれ、味噌、醤油さえ売ってもらえず、出自を隠して変名を名乗るほかなかったとも伝えられる。

ただし、江戸時代に同様の事件で改易、取り潰しにあった大名家の家臣で徒党を組んで正面切った意趣返しをしたのは本件だけであり、その他の浪人に対し討ち入りをしなかったとして倫理的な批判が向けられたわけではない[要出典]

また、「不忠臣」と呼ばれるが、討ち入りを事前に密告した者はいなかった。

刃傷の理由[編集]

浅野長矩の「この間の遺恨覚えたか」という発言に関しては、『梶川筆記』にも『多門筆記』にも『内匠頭お預かり一件』に長矩が「遺恨あり」と証言していることが記されている。いずれの書物も長矩が遺恨を主張していることについては触れているが、刃傷の原因となった「遺恨」の細かい内容については記していない。 当事者が語っていないからであり、刃傷の動機は「永遠に謎」であり、語られる動機は全て推測・創作である。

『忠臣蔵』など芝居に由来する創作では、院使饗応役の伊達村豊が黄金100枚、狩野探幽の絵などを吉良義央へ進物をしたのに対して、潔癖な浅野長矩は鰹節2本しか贈らなかったために賄賂好き(後述の様に、現在の賄賂とは意味合いが異なる)な吉良の不興を買い、饗応役に不慣れな浅野長矩に対して勅使への音信、増上寺の畳替え、殿中礼服の違いなど事あるごとに苛めたことが原因としているものが多い。しかし長矩は17年前の天和3年(1683年)にも同じ勅使饗応役に就任している。ただしこの17年間で物価は大幅に上昇しており、そのことを考慮せず、不興を買った可能性はある。 また吉良本人は直前まで上洛し、更に自身の発熱および大井川の増水により帰京が予定より大幅に遅れており、実際の饗応指導は部下にあたる高家品川伊氏・畠山義寧が行ったことから、途中で何らかの連絡ミスが発生した可能性もある。

また進物や賄賂についても、公費予算から支出される現代の公務員と異なり、高家や勅使饗応役の大名は必要経費を自弁しなければならなかった(言葉を換えれば、旗本や大名に与えられている所領は、現代の公務員の給料とは異なり、そういった公務における必要経費を含めた支給である)。広大な領地と莫大な石高をもつ大名ならこれも何とかなるであろうが、一方の高家は家格は高いとはいえど所詮、旗本に過ぎないので、わずかな領地と石高しかもっていない。吉良家は高家の最名門の家柄であるが、それでも石高で言えば4,200石。5万石の浅野長矩の収入に及ぶべくもない。高家が饗応役を命じられた大名から進物をもらうことは、賄賂というよりも授業料や必要経費の性格が強い(言葉を換えれば、大名から授業料を受け取る立場にある高家は領地が少なく、また饗応役に命じられる大名にとっては、高家に支払う授業料も必要経費の一部である。また大名から授業料を受け取った高家も、当然ながらそれを全て私する訳ではなく、上洛折衝等の役目を果たすための必要経費に用いる事となる)。そもそも当時の武家社会では賄賂自体が卑しまれている類のものではなく、庶民や後世の視点で見て不正なものである賄賂と、後世の視点で見ても正当なものである授業料が混同されている事に留意する必要がある。

浅野長矩と吉良義央のそれぞれの領地で産出するの製法と販路の問題で対立があったという説があった。これは吉良出身の作家の尾崎士郎が自らの随筆『吉良の塩』の中で唱えていたものである。堺屋太一もこの説に基づいて『峠の群像』を執筆し、NHK大河ドラマになっている。しかし、実際には吉良の領地にあったとされる塩田の遺跡は旗本大河内家の領地であった。塩による遺恨説は、飛び地の領地に気付かずに吉良の領地に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。

両者の性格に原因を求める説もある。浅野長矩については痞(つかえ)という、今で言う心療内科的な持病をもっていたという逸話が残っていることから、生来短気な人物だったのではないかとも言われている。史実だけを見ると、浅野長矩は、四十七士の1人千馬光忠を閉門処分にしており、重臣近藤正憲も組頭から解任している。また四十七士の1人不破正種も藩から追放している。このうち千馬は直言癖があり、不破は人を斬って、それぞれ浅野を激怒させたといわれている。

吉良義央は、亀井茲親を苛めたという逸話が津和野に残っており、嫌がらせが常習的だったとも言われる。大河ドラマ『元禄繚乱』などもこの説を採っており、吉良が田舎大名が困るのを面白がるような描き方をして、サディスト的な性格を持っていたことを強調している。ただし亀井の逸話の初出は元禄赤穂事件から数十年後の『仮名手本忠臣蔵』成立以後であり、創作の疑いが強い。

また史実を見ると、吉良義央は、息子が当主となっている米沢藩上杉家に対して吉良家の大量の買い掛け金や自邸の普請費用を押し付けて、上杉家勘定方を困らせている。破綻寸前となった上杉家を上杉鷹山が立て直すエピソードが有名だが、そこまで上杉家を傾けたのは吉良とも言われている。

しかし、実際には関ヶ原の戦いに際して上杉家は徳川家康に敵対し、米沢藩30万石に減封されるものの、120万石を領有していた当時の藩士を解雇しなかったため、収支に対し人件費だけでも倍の出費を強いられ、また体面を保つための出費も著しかったなど、一概に吉良のみを非難する向きも疑問があり、『仮名手本忠臣蔵』を盾に自藩の失策を弁明しているとも受け取る事が出来る。

吉良義央が浅野長矩に美しい小姓を譲ってくれるよう懇望したが、断られたため恨みをいだいたという男色衆道)遺恨説も、幾つかの文献に記されている。

学術的にはほとんど取り上げられていないものの、陰謀史観の一つとして、本来は吉良義央の側を陥れるはずだった陰謀に浅野長矩が利用されたとの説、桂昌院の従一位叙任を阻止しようとした御台所鷹司信子の陰謀説、幕府の役人と結びついた塩商人が赤穂の塩を狙い、赤穂藩を潰して天領にし儲けを得ようとしたという説もある。

浅野長矩は統合失調症(精神分裂病)であったとする説もある。なお、吉良の傷を治療した栗崎道有という医者が、当時の長矩について「乱心にあらず」と記録しているとする主張があるが、実際には栗崎は幕府がそのように判断したと書いているのであって、栗崎自身が判断したわけではない。そもそも、当然ながら当時の医学レベルは現代と比べれば低いものであり、しかも医者ですらない幕府の診断の正確性については裏付けは無い。統合失調症説を出した精神科医の考えにも問題がある。浅野長矩の母方の叔父・内藤忠勝を精神分裂病と決めつけた上で遺伝的な要因があるとしたが、内藤忠勝による刃傷事件で彼の「失神」(乱心)が原因とした公的発表には根拠が無いし、仮に内藤忠勝が統合失調症だとしても叔父と甥の関係ではそれほど高頻度に発症するものでないことは精神医学上の常識である。[要出典]

大石良雄の意図[編集]

大石良雄がお家再興を第一とし、討ち入りを引き伸ばして家臣に不評を買った点から、「初め内蔵助には討ち入りを行う意図は無かったのではないか」という推測もある。実際には、刃傷事件4か月後の元禄14年7月の大石の自筆の手紙(お家再興嘆願を依頼された遠林寺の僧侶祐海への手紙)に「吉良殿つつがなきところは、大学様ご安否次第と存じ候」とある。

幕府裁定の正当性[編集]

本件に関する幕府の裁定は浅野長矩の殿中抜刀に対する処罰だけで、これは相手の生死や傷害の程度・抜刀の理由に関係なく、無条件に死罪となる。これに対して吉良義央は抜刀はしていないので無罪となる。唯一の目撃者である梶川頼照は「老中・若年寄・大目付列席のもと、質問された。老中が『吉良は刀に手をかけたか、または抜いたのか?』と聞いたので、私は『帯刀には手をかけ申さず』と答えた」と記していることから、幕府は殿中抜刀に集中して審議をしていたことがうかがえる。この幕府裁定は当時として妥当であり、前例にも沿っており、問題は無いとするのが通説である。

しかし、主君である浅野長矩だけが切腹となり、吉良義央に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと主張する説もある。だが、幕府が喧嘩両成敗を殿中抜刀の被害者に適用した例はない。そもそも、松の廊下事件においては、浅野が背後から一方的に吉良に斬りつけ、吉良は気を失っているので「そもそも喧嘩として成立していない」「よって喧嘩両成敗は考慮できない」。

元禄赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

  • 寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。鈴木は死亡。木造は助かった。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡。木造は逃げたことを咎められ、改易となった。加害者は死罪、被害者は死亡と改易の例。
  • 寛永5年(1628年):目付豊島信満が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木義精を殺害し、その場で自害した(豊島事件)。被害者加害者共に死亡の例。
  • 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。加害者は死罪、被害者は無罪の例。
  • 貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。加害者被害者共に死亡の例。

「浅野長矩が吉良義央に斬りかかったのは、相応の理由があった」とするのであれば、吉良に対して一切の咎めが無いのは不公正である、という論は成り立つ。そして、その論をわかりやすく説明する上で「喧嘩両成敗」という言葉を持ち出すのであれば、あながち間違っているとはいえない。また吉良には一切非が無いのであれば、浅野の行動はまさしく乱心であり、赤穂藩に対する幕府の処分は過酷にすぎる、という論も成り立つ。

後年の例としては享保10年7月28日 (旧暦)1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件がある。水野忠恒松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かった。このとき将軍徳川吉宗は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも吉宗と綱吉の違いがここにあると言われる。

討入に関する説[編集]

討入は、はじめ元禄15年12月5日1703年1月21日)に予定されていたが、将軍が柳澤吉保の屋敷に御成りになるからこの日は避けたという。これは、堀部金丸が元禄15年12月11日付で大石良穀に宛てて書いたという書状(去ル五日相延候会日相定候哉……)による。12月2日に深川八幡の前の大茶屋で吉良邸襲撃に関する最後の全体会議が行われたが、それについて書いたなかには12月5日討入予定の話はない。12月6日が最初の討入予定日だったという説もある。12月14日(正しくは12月15日未明)の討入は、諸史料を照らして暁7ツ(午前2時40分)頃行われたとされている。この日であれば、月齢13.6、月没時刻は午前5時17分。月没時刻までは月明かりがある。12月5日であれば月齢3.5で月没は午後8時55分。三日月のような細い幼い月で早々に沈んでしまう。眠りの深くなったま夜中や未明に奇襲襲撃するとすれば月明かりは役に立たない。月没後、腰に刀を差し松明を片手に持って梯子を上って闇の中に飛び降りる。そのようなことは不可能。12月6日であっても、月齢4.5で、月没は午後9時55分。15日のように表門の脇に梯子を立てて、それを上って暁に吉良邸内に入ることはできない。堀部武庸の従兄で討入の際に堀部金丸に付き添った佐藤一敞の覚書によれば、12月15日の「7半過」(午前5時を過ぎた頃)に月は家の蔭に隠れ、薄暗くなった(七半過ニ茂可成哉と存候月の入際ニて家之陰江月落薄暗成候)。月没後は、皆が手に灯りを持っていたという。

従来は、堀部武庸ら江戸急進派による度重なる督促や、浅野長広の広島浅野家預かりによって赤穂浅野家再興の可能性がなくなったことにより、大石良雄のとる道は討入になったとされていたが、討入は幕府主導によって計画的に行われたとする説が有力になってきた。その理由のひとつは、12月13日付で大石が赤穂の3人の僧に宛てた書簡のなかに、「若老中(若年寄)も知っているようだ。(討入は)うまくいくだろう」という意味のことが書かれている。また、堀部武庸ら3名が大石に元禄14年8月19日付で連名で送った書簡のなかで、吉良の本所移転が確定したような書き方をしているが、本所屋敷の先住者・松平信望に屋敷替の命が出されたのが8月12日で翌日には移転先の屋敷の受取証を提出している。吉良に屋敷替の命があったのはその後であり、本所屋敷の受領証を提出したのは9月3日である。この流れからしても堀部武庸らが吉良の本所移転の情報を得たのは早すぎる。松平信望の屋敷だったときには南が正面であったのに、吉良屋敷になってから正面が東になっている。吉良屋敷の絵図面を見ると東に表門があるにもかかわらず、表玄関が南向きである。本所屋敷が松平信望のものであった時代の江戸の地図や幕府普請方の役所用資料においても、南が正面であったことが確認できる。表門が移設された、ということである。天和3年1月12日(1683年20月8日)日発令の触れによって町の防火対策として屋根番制度が始まった。風の激しい時には屋根番を屋根の上に立たせて監視するというもので、大岡忠相によって町の火の見櫓(10町に1つ)と火の見櫓のない町では「枠火の見」と呼ばれる火の見梯子が設置されるまで、屋根番制度は続いた。吉良屋敷の正面が南であった場合、本所相生町2丁目の屋根の上に立てば表門周辺はまる見えになる。東に表門を移設すればたとえ相生町2丁目で屋根番が立ったとしても、死角になる。表門の移設は、町人に討入の実態を見させないための策であった。さらに、2ツ目の道沿いに中山直房の屋敷があった。初代火付改で、「鬼勘解由」という異名で恐れられた人物である。中山直房は事件当時は火付改の現職ではなかったが、「鬼勘解由」の話は後世まで語り継がれていた。また、中山直房は当時は御使番の職にあって、火事のときには大名火消定火消を管理・監督することが職務のうちにあった。火事を装った討入とするための条件が、すべてそろっていたのである。[要出典]

後世の顕彰[編集]

博物館・資料館[編集]

類似の事件[編集]

赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった寛文12年(1672年)の浄瑠璃坂の仇討がある。 浄瑠璃坂の仇討宇都宮藩を脱藩した奥平源八が寛文12年(1672年)2月3日に父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討った事件である。 源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。 源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。幕府は本来ならば死罪であるところを死一等を減じて伊豆大島への流罪という寛大な処分を行った。 恩赦後、一党は他家へ召抱えられた。 この事件を知っていた赤穂浪士は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある[152]

事件を題材とした作品[編集]

事件後はさまざまな劇化が試みられ、討入りから45年後の寛延元年8月(1748年8月)人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演され、同年12月(1749年1月)には歌舞伎として上演された。同作は多くの観客を呼び、事件を元にした作品群の代表的存在となっている。劇化の詳細については「忠臣蔵」を参照。

なお、映画やテレビドラマでは、松之大廊下での刃傷事件時の吉良義央の装束が狩衣あるいは大紋となっているのが見受けられるが、映画『元禄忠臣蔵』などに見られる狩衣は四品侍従成していない従四位下の者)の装束、映画『赤穂浪士 天の巻 地の巻』などに見られる大紋は侍従成していない五位の者の装束であり、朝廷との交渉を職務とする高家(初任従五位下侍従)の装束は昇殿できる直垂である。この時代考証の誤りは、四品を「四位の者全員」と解する誤解に基いており、実際の儀典においては四位と五位の別よりも侍従成の有無が優先している[153]

事件を題材とした評論[編集]

  • 丸谷才一 『忠臣蔵とは何か』(1984年)ISBN 406196013X (忠臣蔵のみならず、事件の本質にも言及)
  • 野口武彦 『忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』(ちくま新書 1994年 ちくま学芸文庫 2007年)
  • 尾崎秀樹編 『徹底検証「忠臣蔵」の謎』(講談社文庫 1998年)

脚注[編集]

  1. ^ 山本(2012) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」
  2. ^ 山本(2012) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」
  3. ^ 山本(2012) 第二章二節「大石の真意」
  4. ^ 山本(2012) 第三章三節
  5. ^ 山本(2012) 第三章四節
  6. ^ 山本(2012) 第三章四節
  7. ^ 山本(2012) 第三章四節
  8. ^ 山本(2012) 第三章四節「山科会議」
  9. ^ 山本(2012) 第三章四節「山科会議」
  10. ^ 山本(2012) 第四章一節
  11. ^ 山本(2012) 第四章一節
  12. ^ 山本(2012) 第四章二節
  13. ^ 山本(2012) 第四章三節
  14. ^ 山本(2012) 第一章一節
  15. ^ 『梶原氏筆記』。山本(2012) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」より重引
  16. ^ 山本(2012) 第一章一節
  17. ^ 山本(2012) 第一章一節
  18. ^ 山本(2012) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」
  19. ^ 『梶原氏筆記』。山本(2012) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」より重引。現代語訳も同書から引用。
  20. ^ 山本(2012) 第一章一節
  21. ^ 山本(2012) 第一章一節
  22. ^ 山本(2012) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」
  23. ^ 山本(2012) 第一章二節「幕府の裁定」
  24. ^ 現在の東京都港区新橋4丁目
  25. ^ 山本(2012) 第一章二節「幕府の裁定」
  26. ^ 山本(2012) 第一章二節より重引。現代語訳も同書から引用。
  27. ^ 山本(2012) 第一章二節「幕府の裁定」
  28. ^ 山本(2012) 第一章二節「幕府の裁定」より重引。現代語訳も同書から引用。
  29. ^ 山本(2012) 第一章二節
  30. ^ 山本(2012) 第一章二節
  31. ^ 山本(2012) 第一章二節
  32. ^ 山本(2012) 第一章三節
  33. ^ 山本(2012) 第一章三節
  34. ^ 山本(2012) 第一章三節
  35. ^ 山本(2012) 第一章三節
  36. ^ 山本(2012) 第一章二節「吉良の家系」
  37. ^ 山本(2012) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」
  38. ^ 山本(2012) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」
  39. ^ 山本(2012) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」
  40. ^ 山本(2012) 第一章二節「吉良の家系」
  41. ^ 山本(2012) 第一章二節「吉良の家系」
  42. ^ 山本(2012) 第二章一節
  43. ^ 山本(2012) 第二章一節
  44. ^ 山本(2012) 第二章一節
  45. ^ 山本(2012) 第二章一節
  46. ^ 山本(2012) 第二章一節
  47. ^ 山本(2012) 第二章一節
  48. ^ 山本(2012) 第二章一節
  49. ^ 山本(2012) 第二章一節「江戸屋敷と居城の明け渡し」
  50. ^ 山本(2012) 第二章一節「藩札の処理」
  51. ^ 山本(2012) 第二章一節「江戸屋敷と居城の明け渡し」
  52. ^ 山本(2012) 第二章一節「江戸屋敷と居城の明け渡し」
  53. ^ 山本(2012) 第二章二節
  54. ^ 山本(2012) 第二章二節
  55. ^ 山本(2012) 第二章二節「大石の真意」
  56. ^ 山本(2012) 第二章二節「大石の真意」
  57. ^ 山本(2012) 第二章二節
  58. ^ 山本(2012) 第二章二節
  59. ^ 山本(2012) 第二章二節「大石の真意」
  60. ^ 山本(2012) 第二章一節「吉良存命の報」
  61. ^ 山本(2012) 第二章二節「大石の真意」
  62. ^ 山本(2012) 第二章二節
  63. ^ 山本(2012) 第二章二節
  64. ^ 山本(2012) 第二章二節
  65. ^ 山本(2012) 第二章二節
  66. ^ 山本(2012) 第二章三節
  67. ^ 山本(2012) 第二章三節
  68. ^ 山本(2012) 第二章三節
  69. ^ 山本(2012) 第二章三節
  70. ^ 山本(2012) 第二章三節
  71. ^ 山本(2012) 第二章四節
  72. ^ 山本(2012) 第二章四節
  73. ^ 山本(2012) 第二章四節
  74. ^ 山本(2012) 第二章四節
  75. ^ 山本(2012) 第二章四節
  76. ^ 山本(2012) 第二章四節
  77. ^ 山本(2012) 第二章五節
  78. ^ 山本(2012) 第二章五節
  79. ^ 山本(2012) 第三章一節
  80. ^ 山本(2012) 第三章一節
  81. ^ 山本(2012) 第三章二節
  82. ^ 山本(2012) 第三章三節
  83. ^ 山本(2012) 第三章三節
  84. ^ 山本(2012) 第三章三節
  85. ^ 山本(2012) 第三章三節
  86. ^ 山本(2012) 第三章三節
  87. ^ 山本(2012) 第三章三節
  88. ^ 山本(2012) 第三章四節
  89. ^ 山本(2012) 第三章四節
  90. ^ 山本(2012) 第三章四節
  91. ^ 山本(2012) 第三章四節
  92. ^ 山本(2012) 第三章四節
  93. ^ 山本(2012) 第三章四節「山科会議」
  94. ^ 山本(2012) 第三章四節「山科会議」
  95. ^ 山本(2012) 第三章四節「山科会議」
  96. ^ 山本(2012) 第三章四節「山科会議」
  97. ^ 山本(2012) 第四章一節
  98. ^ 山本(2012) 第四章一節
  99. ^ 山本(2012) 第四章一節
  100. ^ 山本(2012) 第四章一節
  101. ^ 山本(2012) 第四章一節
  102. ^ 山本(2012) 第四章一節「祇園遊びの真意」
  103. ^ 山本(2012) 第四章一節「祇園遊びの真意」
  104. ^ 山本(2012) 第四章一節「祇園遊びの真意」
  105. ^ 山本(2012) 第四章一節「祇園遊びの真意」
  106. ^ 山本(2012) 第四章一節「祇園遊びの真意」
  107. ^ 山本(2012) 第四章一節「祇園遊びの真意」
  108. ^ 山本(2012) 第四章二節
  109. ^ 山本(2012) 第四章二節
  110. ^ 山本(2012) 第四章二節
  111. ^ 山本(2012) 第四章三節
  112. ^ 山本(2012) 第四章三節
  113. ^ 山本(2012) 第四章三節
  114. ^ 山本(2012) 第四章三節
  115. ^ 山本(2012) 第四章三節
  116. ^ 山本(2012) 第四章三節
  117. ^ 山本(2012) 第五章一節
  118. ^ 山本(2012) 第五章一節
  119. ^ 山本(2012) 第五章一節
  120. ^ 山本(2012) 第五章一節
  121. ^ 山本(2012) 第五章四節
  122. ^ 山本(2012) 第五章四節
  123. ^ 山本(2012) 第五章四節
  124. ^ 山本(2012) 第五章四節
  125. ^ 山本(2012) 第五章四節
  126. ^ 山本(2012) 第五章四節「吉良邸茶会の情報」
  127. ^ 山本(2012) 第五章四節「吉良邸茶会の情報」
  128. ^ a b c d e f g h i j k l m 山本(2012) 第五章二節「続出する脱盟者」
  129. ^ 山本(2012) 第五章四節「揺れる討ち入り前の心」
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  146. ^ 泉(1998) p.278
  147. ^ 泉(1998) p.122/279
  148. ^ 初出について文化2年(一八〇五年)の『江戸名釈看板 雪の曙 誉の槍』が初出であると『赤穂義士事典』に記されているほか、三波春夫が自著『真髄 三波忠臣蔵』(小学館)で記している。
  149. ^ 俵星の表記について凝香園の『赤穂四十七士』湊邦三の『元禄武士道』などに記述がある。『歌がこんなに上手くなって良いのだろうか!?: あなたにも出来る「日本人のための究極歌唱法」』(江本弘志)より
  150. ^ 斎藤(1975) p.804
  151. ^ 斎藤(1975) p.805-87
  152. ^ 竹田真砂子 浄瑠璃坂の討入り - 忠臣蔵への道 -(1999/3) ISBN9784087811698 (4087811697)
  153. ^ 高家の装束が直垂であることは、神坂次郎著『おかしな大名たち』所収の大沢基寿の史談会での談話に明らかである

参考文献[編集]

関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]