赤穂事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
元禄赤穂事件から転送)
移動: 案内検索

赤穂事件(あこうじけん)[1]もしくは元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)[2]江戸時代中期の元禄期に発生した事件で、吉良上野介を討ちそんじて切腹した浅野内匠頭の代わりに、その家臣である大石内蔵助以下47人が、吉良を討ったものである。

この事件は一般には忠臣蔵と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称はこの事件をもとにした人形浄瑠璃歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、およびこの事件を元にした様々な作品群の総称であり、史実としての事件を述べる場合は区別のため「赤穂事件」と呼ぶ。

目次

事件の概要[編集]

この事件は元禄14年(1702年3月14日浅野長矩(内匠頭)が、江戸城松之大廊下吉良義央(上野介)に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由は浅野内匠頭によれば「この間の遺恨」が原因との事だが、浅野のいう「遺恨」がどんなものであるのかは記録に残されておらず、不明である。ドラマ等では、吉良の要求した賄賂の拒否やそれを発端とした吉良による嫌がらせが遺恨の原因として描かれる。

場所もわきまえず吉良を斬りつけた浅野内匠頭は即日切腹。浅野の属する赤穂藩もお取り潰し、赤穂城も明け渡す事が決まった。それに対し吉良は何のお咎めもなかった。当時の「喧嘩両成敗」の原則に従えば、吉良にも何らか刑が下されるはずだが、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかったため[3]この事件は「喧嘩」として扱われず[3]、吉良には咎めがなかったのである。

しかし浅野のみ刑に処せられた事に浅野の家臣である赤穂藩士達は反発。筆頭家老である大石良雄(内蔵助)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡した。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心としたお家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである[4]

吉良はその後3月23日に屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。元・赤穂藩士(赤穂浪士)達が主君の浅野内匠頭の代わりに吉良を仇討ちする、そんなことを期待して幕府が吉良を人気のない郊外に移したのではないかと江戸の人々は噂した[5]。そして自身の評判があまりに悪い事を知った[6]吉良上野介は、隠居を決意する。

これを聞いた赤穂浪士の一部は焦りだした[6]。ぐずぐずしていると、吉良が、息子の養子先である米沢の上杉家に引き取られてしまい、仇討ちが難しくなってしまうからである[6]

そこで赤穂浪士達は、大石が隠棲していた山城国(今の京都)の山科で会議(山科会議)を開き、仇討ちの是非を検討。しかしこの段階では仇討ちに賛同する浪士は少なく[7]、しばらく様子を見るという結論になった[7]

7月18日、浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定した。これはお家再興があり得ない事を事実上示している。

そこで赤穂浪士達は7月28日、に京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は10月に江戸に行き吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[8]。そして仇討ちの意思を同志に確認するため、事前に作成していた血判を返して回り、これを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけが同志として認められた[9](神文返し)。

その後、大石は宣言通り、10月7日に京を出て江戸に下り(大石東下り)、元禄15年12月14日、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。(ただし討ち入り後一人行方不明になっているため、討ち入り人数が一人少ない可能性もある。)

赤穂浪士達は吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供え、幕府の指示に従い、全員切腹した。

経緯[編集]

松之大廊下の刃傷まで[編集]

事件の発端となる、松之大廊下の刃傷を説明するために、まずそれまでの経緯を説明する。

江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀のあいさつをしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わせていた[10]。こうした朝廷とのやり取りを担当していたのが高家であった。

吉良上野介は事件のあった元禄14年に高家筆頭の立場にあったため、朝廷へのあいさつと朝廷からの使者の接待とを受け持っていた[10]

一方の浅野内匠頭は同年、吉良の補佐役に任命されていた。朝廷からの使者には天皇の使者である勅使と上皇の使者である院使がいるのだが、事件のあった元禄14年における勅使の接待役(勅使饗応役)が浅野内匠頭だったのである[10]

朝廷からの使者達は3月11日[10]に江戸に到着し、彼等の接待を受けていた。

事件は、この大事な接待の最後の日である3月14日に起こった[10]

松之大廊下の刃傷[編集]

江戸城本丸跡(東京)

3月14日4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)[11]、浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う[12])で斬りかかった。浅野が斬りかかったのは吉良に「遺恨」があったためであるというが、どのような「遺恨」があったのかは記録に残されておらず、不明である。

切りかかった場所は江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)である。

吉良が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上[11]を傷つけた。そして吉良が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた[11]

すぐさま、浅野はその場に居合わせた梶川与惣兵衛らに取り押さえられ、柳之間[3]の方へと運ばれた。その際浅野はこう繰り返したという:

「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候
(上野介には、ここしばらくのあいだ、遺恨があったので、殿中であり、また大事な儀式の日でありながらやむをえず討ち果たしました)[13]

一方の吉良は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に取り押さえられ、御医師之間[11]に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた[11]。吉良の傷は外科の第一人者である栗崎道有[14]数針縫いあわせられている。

浅野は幕府の裁定を待つため、芝愛宕下[15]陸奥一関藩田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。

浅野を乗せた駕籠は江戸城の平川門[16]から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった[16]。浅野は罪人として江戸城から出されたのである。

田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ体制ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた[17]


浅野内匠頭切腹[編集]

浅野内匠頭の切腹(2009年赤穂義士祭にて撮影)

朝廷との儀式を台無しにされた将軍の綱吉は、浅野内匠頭の即日切腹を命じた。

これを受けて浅野は切腹。その遺体は浅野家の家臣達に引き取られ、 菩提寺の泉岳寺でひっそり埋葬された[18]

また浅野内匠頭の正室の阿久里は、浅野の切腹を受けて3月14日夜に剃髪し、名を瑤泉院と改め[18]、翌15日明け方に麻布今井町の屋敷に移った[18]

切腹の詳細はいかの通りである。まず将軍は切腹を以下のように命じた

「其方儀、意趣これある由にて、吉良上野介を理不尽に切つけ、殿中をも憚らず、時節柄と申し、重畳不届至極に候。これにより切腹仰せつけらる」
(そのほうは、恨みがあるということで、吉良上野介を理不尽に斬りつけた。殿中をもはばからず、また勅使登城の日でもあり、重ね重ね不届至極である。これにより切腹を命じれらる。)[19]

当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていた[16]ので、浅野は以下のように礼を述べている

「今日、不調法なる仕方、如何様にも仰せつけらるべき儀を、切腹と仰せつけられ、有り難く存じ奉り候」
(今日の不調法な行動はどのような厳しい処罰を命じられてもしかたのないところ、切腹を命じていただき、ありがとく存じ奉ります。)[20]

切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた[21]

また切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎大久保権左衛門であり[21]、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた[21]

遺体を田村邸に引き取りに行ったのは、片岡源五右衛門礒貝十郎左衛門田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内である[18]

吉良への見舞い[編集]

一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられたらしい。

「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」[22]

吉良にお咎めがなかった理由の一つは、吉良が浅野に手向かいしなかった事にある。 もし吉良が事件の際に自身の脇差しに手をかけていればこの事件は「喧嘩」とみなされ、「喧嘩両成敗」の法により「双方切腹」となったであろう[3] 。 しかし吉良が脇差しに手をかけなかったという証言が事件の場に居合わせたり梶川から得られたため[3]、この事件は喧嘩としては扱われなかったのである[3]

また吉良は将軍の親戚筋に当たる[22] ため、見舞いの言葉があったのかもしれない[22]


赤穂への使者[編集]

事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が浅野の領地である赤穂藩へと飛んだ。

早駕籠は二度にわたり赤穂に届られ、第一の早駕籠は江戸での刃傷沙汰のみを伝え[23]、第二の早駕籠が浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の取り潰しを報告[23]

江戸から赤穂へは早駕籠でも通常一週間程度かかるところだが、使者たちは昼夜連続で駆け続ける事で、4日半程度で赤穂に到着している[23]

吉良の生死については早駕籠は何も伝えず、結局生死が赤穂側に伝わったのは3月の下旬であった[24]

なお、第一の早駕籠に乗って赤穂に訪れたのは 早水藤左衛門萱野三平の二人で [23] 、第二の早駕籠に乗っていたのは原惣右衛門大石瀬左衛門の二人であった[23]

時刻に関しては第一の早駕籠は3月14日未の下刻(午後3時半頃)に江戸を出発し、 第二の早駕籠は同日夜更け[23]に出発した。前者は19日寅の下刻(午前5時半頃)[23]に赤穂に到着、後者も同日中[23]には赤穂に到着した。

藩札の処理[編集]

お取りつぶしの話が藩に広まると、商人達が札座に押し寄せて大混乱となった。 藩が取り潰しになると彼らの持っている藩札が無価値になってしまうからである。

両替所可能な金の量が不足していたため、大石内蔵助は、3月20日4月27日)藩札を銀に六分率で交換するよう指示[25]。 赤穂経済の混乱の回避に努めた。

このとき大石は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っている[26]。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けている[26]

赤穂での議論[編集]

浅野内匠頭の刃傷事件の知らせを受けた浅野家家臣達は、筆頭家老の大石内蔵助を上座に据え、連日[24]、城に集まって対応を議論した。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、浅野家は浅野内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである[24]。親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。

連日の議論を経て、筆頭家老の大石内蔵助は、結論を出した。赤穂城の前で皆で切腹しようというのである[27]。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も吉良への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである[27]。 ただし、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので[4]、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある[4]

家臣達の意見は、籠城により吉良が処罰されなかった事に対する抗議の意思を示すというものが多かった[27]が、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったのである[27]

また大石は、籠城すれば大学に迷惑がかかると考えたのも籠城を辞めた理由の一つである[4]。大石は城内での議論と並行して、吉良の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたのだが[28]、この事が浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである[4]

なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野九郎兵衛等による反対意見もあった[27]事によるが、原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出し[27]、これをみて大石内蔵助は、前述した切腹という結論を出したのである。

最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余り[27]が提出した。しかし江戸から下ってきた片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎の3人は、切腹をせず、吉良を討つ旨を述べて退出した[27]

江戸急進派の動き[編集]

一方、同じ赤穂藩でも、江戸に詰めている家臣には堀部安兵衛をはじめとした強硬派(いわゆる江戸急進派)がおり[29]、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。

堀部は同じく江戸詰めの高田郡兵衛奥田孫太夫とともに吉良邸に討ち入ろうと試みたものの[29]、吉良の実子の上杉綱憲が吉良邸を訪問するなど警戒が強く、討ち入りは難しかった[29]

そこで3人はまず国元の藩士と合流しようと4月5日に江戸をたち[29]4月14日[29]に赤穂に到着した。3人は大石に籠城を説くも大石は賛成せず、城を明け渡した4月22日に赤穂を出発した[29]


赤穂城開城[編集]

赤穂城

大石内蔵助は4月12日[30]に赤穂城の明け渡しを決意し、4月18日[30]に明け渡された。これに際して大野九郎兵衛が4月12日の夜に赤穂を出奔し、行方不明となっている[30]

幕府は赤穂城受け取りのために受城目付の荒木政羽と榊原政殊、代官石原正氏、受城使の脇坂安照、木下㒶定を派遣した。脇坂は総勢4550人を動員し、これに木下の軍勢が加わり、さらに船数百隻が警戒する中、赤穂城は開城された[31]

明け渡しの際、大石は浅野大学によるお家再興を上使に嘆願[30]し、上使から江戸に帰り次第その旨を老中に伝えるとの返答を得た[30]。また取り潰しによって家臣が路頭に迷わぬよう、大石は4月5日から、赤穂に残った財産を家臣に分配している[30]

4月12日から3日間、浅野内匠頭の法要が泉岳寺で執り行われた[32]。幕府から許可がおりたためである。位牌や石塔もこの時建立された[32]

山科隠棲[編集]

赤穂城が明け渡しになると、大石内蔵助は6月に家族と合流し、山城国山科に隠棲する[33]。親戚の進藤源四郎が代々ここに田畑を持っており、これを頼って居を定めたのである[33]

ここで大石は幕府に対してお家再興の嘆願を、赤穂の遠林寺の僧祐海を通じて出している[34]

吉良の屋敷替えと隠居[編集]

一方の吉良は3月23日[5]にお役御免となり、8月19日[5]日には屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。討ち入りをしやすくするために吉良を人気のない郊外に幕府が移したのではないか、そんな噂が江戸に流れた[5]

堀部達急進派はこの屋敷換えを討ち入りのチャンスととらえ[5]11月2日に江戸に下ってきた大石内蔵助に討ち入りの日の起源を決断するよう迫った(江戸会議[5]。大石は浅野内匠頭の一周忌には結論を出したいと約束した[5]

自身の評判があまりに悪い事を知った吉良上野介は、隠居を願い出て、12月13日に許可されている[6]。これを聞いて堀部安兵衛たちは焦り始めた[6]。ぐずぐずしていると、吉良が、息子の養子先である米沢に上杉家に引き取られて[6]、討ち入りが難しくなってしまうからである。一方、大石内蔵助や上方の同志は討ち入りの先延ばしに意見が傾いていた[6]。浅野大学によるお家再興に影響が出てしまうかもしれないからである[6]

山科会議[編集]

こうした中、京都の山科で、今後の行く末を決める会議が翌元禄15年2月15日から数日間[7]執り行われた。いわゆる山科会議である。

会議では、すぐさま討ち入りに行くという意見は少数で[7]、しばらく様子を見るという結論になった[7]。大石内蔵助は浅野内匠頭の三回忌まで待つべきであろうとしている[7]

円山(まるやま)会議[編集]

7月18日[8]に浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定した。これはお家再興があり得ない事を事実上示している。

そこで同志達は7月28日[8]に京都の円山で会議を開き(いわゆる円山会議)、大石内蔵助は10月に江戸に上り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[8]

あらかじめ会合の予定があったわけではないので、参加者はたまたまその日京都周辺にいた人物である[35]。このとき会議に参加したのは19人[35]。うち17人は後に仇討に参加するメンバーである[35]

神文返し[編集]

山科会議の頃までは同志は120名ほどいたが[9]、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する[9]。これを受けて大石は、貝賀弥左衛門大高源五[9]を派遣し、連判状から切り取った血判を返してまわった[9]。いわゆる神文返しである。そしてそれでもどうしても討ち入りをしたいと答えたものだけを同志として認める事にした[9]。これにより同志は50人程度[9]に減った。

大石東下り[編集]

大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日[36]に京を出て、11月5日[36]に江戸に到着している。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した[37]。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという[37]

また10月26日[36]には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている。

深川会議[編集]

12月2日 頼母子講を装って[38] 深川八幡前の大茶屋 [38] に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた[39] 。いわゆる深川会議である。

討ち入り日の決定[編集]

赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた[40]。 というのも、吉良がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである [40]

茶会の情報を手に入れたのは 内蔵助の一族である大石三平であった [40]。大石三平は茶人山田宗偏の弟子なのだが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた羽倉斎宮が江戸で新道や歌道を教えており[40]、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて[40]、この情報を聞いたのである。

また赤穂浪士の一人である大高源五もやはり山田宗偏の弟子で[40]、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいたという[40]。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたというのは、一応記録にはあるものの[41]、俗説にすぎない可能性もある[41]

直前の脱盟[編集]

11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、小山田庄左衛門[42](100石[42]片岡源五右衛門から金と着物を盗んで逃亡[43])、田中貞四郎[42](小姓あがり[42]、150石[42]酒乱をおこして脱盟[要出典])、中田理平次[42](100石[44])、中村清右衛門[42](小姓[42]100石[44])、鈴田重八郎[42]瀬尾孫左衛門[42](大石内蔵助家来[42])、矢野伊助[42](足軽5石2人扶持[42])が姿を消した。

そして討ち入り三日前の12月11日まで同志の中にいた[45]毛利小平太(大納戸役[要出典]20石3人扶持[44])も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった。

討ち入り[編集]

元禄15年12月14日1703年1月30日)、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にで着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)に借宅を出た[46]。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ[46]、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は大きな木槌で門を打ち破り吉良邸に侵入した[46]

裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた[47]。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたのだが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした[47]。 吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる[47]

隣の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、片岡源五右衛門と小野寺十内が仇討ちを行っている旨を伝えたところ、了承したしるしに高提灯の数が増えた[48]

四十七士は吉良の寝間に向かったものの、吉良は既に逃げ出していた[48]。茅野和助が吉良の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した[48]。吉良はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は吉良を探した。

そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した[49]。この老人が吉良であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し[49]、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた[49]。無事吉良を打ち取ったのである。

そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた[49]

ここまでわずか二時間程度[50]。 吉良側の死者は15人負傷者は23人であった[51]

浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど、すぐさま噂として広まった[52]


幕府の評定[編集]

吉田兼亮・富森正因より申し出を受けた大目付仙石久尚は月番老中稲葉正往の屋敷へ行き、事件の概略を報告し、仙石と稲葉はそろって江戸城に登城することになった。泉岳寺からの届け出で寺社奉行阿部正喬から、また町奉行松前嘉広からの報告も上がっていた。又吉良邸に派遣した目付も戻って報告を行った。情報が出そろい、老中・若年寄の評定が行われたが、一同はそろって称賛し、老中の中には感涙する者もあった。筆頭老中阿部正武は「このような忠義の士が出た事はまさに国家の慶事」と一同に述べている[53]

その後一同はそろって綱吉に拝謁してその旨を報告した。綱吉も非常に喜び、処分をゆっくり決めたいとして、46人の赤穂浪士は、細川綱利松平定直毛利綱元水野忠之の4大名家に御預けとした[54]。早速泉岳寺に徒目付3人が派遣され、赤穂浪士たちはその指示に従ってひとまず仙石の屋敷に移動した。この際に仙石は「御上からの指図ではないが後学のために」と前置きしたうえで赤穂浪士たちから討ち入りの模様を詳しく聞き、「この度本懐を遂げられた次第は実に前後落ち着いた仕方であって、誠に落ち度のない、行き渡ったことである」と感心した[55]

その後、赤穂浪士たちは仙石邸から4家へ駕籠で移送されていった。浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、松平家と毛利家では冷遇したようである。細川家などは江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したものである。もっとも、江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである。

大目付4人、寺社奉行3人、町奉行3人、勘定奉行4人から成る幕府評定所12月23日2月8日)に意見書を老中に提出した。それには「一、吉良左兵衛は自滅してでも親の身を守るべきところを自分だけ存命しているのは捨て置き難いことであり、切腹を申し付けるべき」「一、吉良上野介家来のうち出合って働き、手傷を受けた者は親類預けにし、働きもなく手傷も負っていない者は侍の面目に関わる故に残らず斬罪に処すべき」「一、小者・中間の類は追い払うべき」「一、上杉弾正大弼(上杉綱憲)、同民部大輔は、内匠頭家来一同が上野介屋敷から泉岳寺へ向かうまで何もしなかったため領地召し上げ」「一、内匠頭家来が亡主の志を継ぎ、一命を捨てて上野介邸へ討ちこんだことは真の忠義であり、御条目の『文武忠孝を励み、礼節を正しくすべし』にも的中している行動である。大勢が申し合わせ、兵具を付けた狼藉の仕方のようであるが、それに遠慮していては本懐を遂げることができないので、やむを得ぬ行為である」「一、御条目に徒党を結んで誓約することを禁止しているが、もし内匠頭家来に徒党の志があったなら去年内匠頭切腹申し付けられ、城召し上げに際して存念がましき事を申し出たはずである。然るにその時は少しも違背しなかった。このたびのことは一列に志を合わさなければ本望を遂げることができないのでやむを得ずに行った手段であるので徒党とは言い難い」「一、このようなことが後にあったとしても人々の心次第で決することであるからその時は致し方の是非をもって処分を決めるべき」「内匠頭家来はこのままお預けとし、後年になってから処分するべき」といった内容が書かれていた[56][57]

学者間でも議論がかわされ、林信篤(林大学頭)や室鳩巣(当時加賀前田家家臣)は義挙として助命を主張した。林大学頭は「このたび浅野が旧臣大石らが亡主の遺恨を継いで吉良を討ったことは、義にあたることであり、その行為はいささかも公儀に背いていない。人臣が忠誠を尽くすことは賞すべきことである。にも関わらず、陪臣の身で恣に高貴の官人を殺害したと唱え、或いは徒党を組んで、御府内を恐れず、白刃を挙げるのは不敬なりなどと主張し、強いてこの輩を厳罰に下すことがあれば、天下の笑いを取るのみならず、忠義の道が地に落ちる事は必定である。この議は臣(私)の私論ではない。聖賢の大経に基づいて申している所であるので、深く思慮されるべし」という意見書を奉呈している[58]。室鳩巣は赤穂士たちは田横500人の気概を有していると絶賛した[59]。一方荻生徂徠(当時柳沢吉保家臣)は「かの46士が主人のために仇を報じたことは、臣たる者の恥を知り、己を潔くした道であり、確かに義である。しかしこれは、その党に限ることであり、畢竟私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない。切腹を申しつければ武士としての面目も立ちつつ、また上杉家の願いも叶う。そうなれば幕府が46士の忠義の行動を軽んじていないことにもなって、そこにはじめて天下の公論が成り立つ」と主張した。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた[60]

一方将軍綱吉は徐々に助命に傾き、皇族から出された恩赦という形を得るため、上野寛永寺輪王寺門主公弁法親王が2月1日に年賀で江戸城を訪問した際に閑談の機を見計らって、二度に渡ってそれとなく法親王から恩赦を出すよう依頼した。しかし法親王は赤穂浪士について話題にするのを避けて答えず、そのまま退出した。上野へ戻った後、法親王はこの時に恩赦を出すことを拒否した理由について「亡主の憤死を憐れみ、忠義の志に励むのは比類なきことだが、人心の変化は明日に夕に違うので、万が一この輩が世に永く存生して終わりのよくない者が出た時、忠義の志を空しくし、一党の名にも関わる。」「このたび46人一同を死に就かせれば、忠義の名声益々高く聞こえ、後々まで世のためとなるのは明らか。夢幻の世々の有様を思えば、彼らに死を与えることが彼らの芳名を永久に伝えることにつながる」と述べた。法親王の声掛かりという道もふさがれた綱吉は切腹の沙汰を出すしかなくなった[61][62]

切腹[編集]

泉岳寺の赤穂浪士の墓
花岳寺の赤穂義士の墓

元禄16年2月4日 (旧暦)西暦1703年3月20日)、4大名家へ切腹の命が伝えられる。また同日、幕府評定所の仙石久尚は吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信濃諏訪藩高島への配流の処分を下した。

46人の赤穂浪士はその日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹。4大名家で切腹開始時刻の多少のずれはあったが、どの家でも半時(約1時間)ほどで切腹を終えている。当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていたため、素早く終わった。間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている[63]細川綱利は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩の氏神であるとして清掃する必要なしと指示している[64]。赤穂浪士の遺骸は主君浅野長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺には、泉岳寺から分骨されて赤穂浪士の墓(義士墓所)が建てられた。

当時の刑罰は明治時代以降と大きく異なり、一族連座が基本であったが、赤穂浪士については幕閣内にも同情論が強かったため、本件での一族連座は限定的となった[64]。赤穂浪士の遺子のうち、15歳以上の男子でかつ出家した者を除いた4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬定八、村松政右衛門)が伊豆大島流罪となったが、浅野長矩室瑤泉院の働きかけで1706年には出家を条件に赦免された[65]

浅野家の再興[編集]

宝永6年1月10日1709年2月19日)、将軍綱吉が死去し甥の家宣が将軍を継ぐと、新将軍就任の恩赦により、出家していた赤穂浪士の遺子たち還俗も認められた[65]

同年8月、内匠頭の実弟である浅野長広も赦免され、500石の旗本に列した[66]

また、正徳3年(1713年)、大石良雄の三男である大三郎広島の浅野宗家に1,500石で召抱えられた[67]

関連人物[編集]

主な四十七士[編集]

四十七士の傾向[編集]

討ち入り参加者の半数強にあたる24人が、内匠頭刃傷の際、江戸にいた浪士たちである[68]。藩士の多くは国元にいた事を考えれば、この比率は際立って高い。 国元在住だが江戸まで内匠頭についてきて刃傷事件に遭遇したものも12人いる[68]

家臣団の頂点に位置する家老4人と番頭5人のうち、討ち入りに参加したのは内蔵助のみで[68]、物頭は吉田忠左衛門と原惣右衛門のみであり[68]、残りは用人、馬廻、小姓、およびその家族が大半であった[68]

また親族での討ち入り参加が多く、単独で討ち入りに参加したものは21人、残り26人は親子あるいは何らかの親族関係のものとともに討ち入りに参加している[68]

大石主税[編集]

大石主税は大石内蔵助の嫡男で四十七士では最年少で、内匠頭の刃傷の際は元服前で幼名の松之丞を名乗っていた[69]

討ち入りの際には裏門隊の大将を務めた[69] 。享年16[69]

吉田忠左衛門[編集]

吉田忠左衛門は大石内蔵助に次いで事実上の副頭領[70]。足軽頭で裏門隊の副将を務めた。享年64[70]

寺坂吉右衛門[編集]

寺坂吉右衛門は四十七士では最も身分が低く、唯一の足軽である[71]。吉田忠左衛門に仕える[71]

討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった[71]

姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である(後述)。

堀部安兵衛[編集]

堀部安兵衛は江戸詰めの浪士の一人で、内匠頭の切腹の報を聞くと最初から吉良への仇討ちを主張したいわゆる江戸急進派の中心人物の一人である。

25才の時[72]に甥・叔父の義理を結んだ菅野六郎左衛門の危機に助太刀した高田馬場の決闘で名を馳せ、吉良邸への討ち入りは生涯2度目の戦いとなる。享年34[72]

堀部弥兵衛[編集]

堀部弥兵衛は四十七士最高齢で享年77[73]

高田馬場の決闘で名を馳せた安兵衛を強いて求めて養子にした[73]

不破数右衛門[編集]

不破数右衛門は元禄10年頃[74]浅野内匠頭の勘気を受けて浪人していたが、浅野内匠頭の刃傷後、大石内蔵助に許されて帰参し、討ち入りに参加。

討ち入りでは斬り合いのしすぎで刀がささらのようになるほどの活躍を見せたという。享年34[74]

矢頭右衛門七[編集]

矢頭右衛門七は大石主税に次ぐ若年である[75]

刃傷後、父・矢頭長助とともに盟約に加わったが、大阪に移り住んだ頃から父が病に倒れ、帰らぬ人となったため、右衛門七のみが討ち入りに参加する[75]。享年18[75]

討ち入りへの参加は、病に倒れていたころからの父の遺言であったという[76]

主な脱落者[編集]

脱落者の傾向[編集]

赤穂藩士に士分の子や隠居を含めた三百数十人のうち[77]、1/3以上が神文を提出[77]。そこから80名ほどが脱名し[77]、討ち入りに参加したのは46名(寺坂は士分ではなく足軽身分)であった。 神文提出の段階でまず下級武士がいなくなり[77]、そこから46人に絞られる段階で比較的高禄のものが離脱した[77]

最初に下級武士がいなくなったのは、町人になるなど生計を立てる道があったからであろうし[77]、その後で高禄のものが離脱したのは浅野大学の処分が決まりお家再興の道が閉ざされたためだろう[77]

離脱者は時に討ち入り参加者から義絶されたり不通にされたりするが、それは討ち入り参加者が離脱者の援助を受けられなくなるという事でもあった[78]

四十七士の一人である小野寺十内は義兄(妻の兄)が脱盟したため義兄を義絶したが、その結果として小野寺の妻「おたん」は兄を頼る事ができなくなってしまっている[78]。 おたんは討ち入り後、京都で自害している[78]

岡林杢之助[編集]

岡林杢之助は最初から盟約に加わらなかったが、四十七士が討ち入りを果たした事が伝わると、兄の孫左衛門や弟の左門から不義をなじられ、弟の介錯により12月28日に切腹した[79]

寺井玄渓[編集]

赤穂藩の医師である寺井玄渓は円山会議以前から浪士たちの活動を支えており[80]、討ち入りに参加したいという意思を持っていたが[80]、玄渓は武士でないという理由により、内蔵助に断られている[80]

高田郡兵衛[編集]

高田郡兵衛は討ち入りに参加した堀部奥田と同じ堀内道場の同門であった[81]ためか、江戸急進派の一人としてこの二人とともに行動し、吉良を討つよう大石に迫っていたにもかかわらず、脱盟した。

父方の伯父が高田を養子にしたいと言ってきたのを断りきれず、仲介にたった高田の兄が仇討ちの事を伯父を話さざるを得なくなったからである[82]。高田は堀部と相談し、伯父を納得させるために脱盟[82] 。最初の脱盟者となった[83]。元禄14年12月頃のことである[84]

高田は討ち入り後泉岳寺に向かう赤穂浪士達のもとに駆けつけたが、堀部以外の全員から無視された[82] 。その後酒を持って赤穂浪士のいる泉岳寺にも行ったが、赤穂浪士からは「踏み殺してやりたい」と罵られた[82]

萱野三平[編集]

萱野三平の父は三平に他家への仕官の口を見つけてきた[82]。赤穂浪士の密命に参加したかった三平は仕官を固辞したものの父が仕官の内諾をもらってしまう[82]。板挟みになった三平は元禄15年1月14日、切腹で自害してしまった[82]

小山源左衛門、進藤源四郎、大石孫四郎[編集]

小山源左衛門進藤源四郎の二人は大石内蔵助の親戚であったにも関わらず、浅野大学の処分が決まり、浅野家再興の望みがなくなると脱盟してしまった[85]

同じく大石の親戚にあたる大石孫四郎もその後の円山会議には出席したものの、そのまま脱盟した[85]

この結果、大石孫四郎は四十七士の一人である弟の大石瀬左衛門から義絶されている[85]

また小山源左衛門の娘ユウは、四十七士の一人である潮田又之丞のもとに嫁いでいたのだが、源左衛門の脱盟により実家に返され、源左衛門ともども又之丞から義絶された[86]

橋本平左衛門[編集]

浅野内匠頭の刃傷事件のとき18才だった橋本平左衛門は赤穂浪士の密命に加わっていたが、大阪で蜆川の茶屋淡路屋の遊女「はつ」に入れあげ、2人で心中してしまった[87][88]

2人の心中は元禄15年7月15日の事だとされる[87]が、佐々小左衛門が早水藤左衛門にあてた手紙ではそれは11月の事だとある[88]

小山田庄左衛門、田中貞四郎[編集]

小山田庄左衛門は四十七士の一人である片岡源五右衛門から小袖と金三両を盗んで逃亡した[89]。深川会議のあった元禄15年11月2日のことであった[90]。酒が原因で金に困っていたという[90]

田中貞四郎も酒の虜になり、その二日後に逃亡した[90]。田中は病毒のため、顔まで変わっていたという[90]

庄左衛門の父である一閑は脱盟のことを知ると、刃で胸元から背後の壁まで突き通して自害した[89][91]

渡辺半右衛門、中村清右衛門[編集]

渡辺半右衛門は四十七士の一人武林唯七の兄にあたる人物である。渡辺は当初盟約に参加していたが、武林から自分に代わって両親の面倒を見てほしいと説得され、離脱している[92]

中村清右衛門は年老いた母を置いて盟約に加わったが、(老母の世話を頼んでいる人物と思われる)太郎左衛門が自殺を考えていると聞き、半ば脅迫のような形で討ち入りを断念させられた[93]

瀬尾孫左衛門[編集]

内蔵助の家来である[94]瀬尾孫左衛門は、山科で江戸行きを止められて立腹し、江戸までついてきた[95]。そして内蔵助の東下りに先行して瀬踏み役をしたり平間村の仮宿を斡旋したりする活躍があったが[96]、矢野伊助とともに脱名[96]

二人の脱盟は元禄15年12月6日の事とされるが[42]、『寺坂私記』によれば元禄15年12月12日に内蔵助留守中に矢野伊助とともに平間村から姿を消したとあり[96][97]、 これが事実なら通常「最後の脱名者」とされる毛利小平太よりも後に脱名したことになる[96]

毛利小平太[編集]

毛利小平太はさる大名の下男になりすまして吉良邸に潜入し、世間で言うほど警備は強固でないという報告をもたらしたこともあるほどの男であった[98]。にもかかわらず討ち入り三日前の元禄15年12月11日に脱盟[98]。最後の脱盟者となった。

同志たちは毛利が本当に脱盟したのか分からず、討ち入り前日になっても大石は毛利を同志の一人として数えていたという[42]

逸話や伝承[編集]

赤穂事件には「忠臣蔵」への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域をでていないものをあげる。

松之大廊下の刃傷に関する逸話[編集]

柳沢吉保の関与[編集]

忠臣蔵のドラマでは、当時将軍の側用人として牽制をふるった柳沢吉保が、いわば事件の黒幕として振る舞っていたように描くものがあり、例えば大佛次郎の『赤穂浪士』では柳沢は吉良に「聞き分けのない浅野はいじめてしまえ」という趣旨のことを言っている。

史実でも『多門伝八郎筆記』には柳沢の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった旨が書いてあり、事件への柳沢の関与をにおわせるが[99]、後述するようにこの文献の記述には創作が多い。

脇坂淡路守が吉良に一矢報いる[編集]

殿中刃傷があった直後、播磨龍野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良義央とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。吉良は激痛でひっくり返り、「お許しを」と許しを請いながら逃げ去っていく。この話1912年の浪曲の筆記本にすでに見える[100]

なお、史実において脇坂安照は赤穂城受け取りの時の正使であった[101]

浅野内匠頭の切腹に関する逸話[編集]

『多門伝八郎筆記』における逸話[編集]

浅野内匠頭の切腹に立ち会った多門伝八郎は、その時の事を記した『多門伝八郎筆記』を残しており、そこに書かれた逸話が忠臣蔵のドラマ等で描かれる事も多い。 以下、『多門伝八郎筆記』に記載された逸話を紹介するが、この筆記は他の資料との比較により、多門伝八郎の創作が多分に含まれている[99]事が判明しているので、以下の逸話の信憑性は不明である。

  • 多門が浅野を慰める)多門が浅野に殿中で刃傷におよんだ理由を聞いてみたところ、浅野は「私の遺恨」ゆえに刃傷におよんだものの、吉良に負わせた傷が浅手だったのが残念だと答えた[99]。そこで多門が武士の情けで「相手は高齢だから養生はおぼつかないだろう」と慰めた所、浅野は喜んだ表情を見せた[99]
  • 多門が幕府の裁定に抗議柳沢吉保の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった[99]。これに憤慨した多門が裁定が「片落ち」である旨を抗議したところ、多門は柳沢の怒りを買い、目付部屋に軟禁された[99]
  • 多門が庭先での切腹に抗議)浅野の切腹場所を庭先の白洲にて行うよう庄田下総守が指示したものの、これに不満を持った多門は「庭先での切腹など一城の主にはあるまじき事」だという趣旨の抗議をし、立腹した庄田と掴み合いになりかけた[99]
  • 多門が片岡源五右衛門の今生の別れを許可)浅野の切腹の直前、赤穂藩士の片岡源五右衛門が今生の別れをするために会いに来た。多門は「明日は退役と覚悟いたし」[99]て片岡を浅野に会わせた[99]。しかしこの逸話の信憑性は疑わしく、切腹を行った田村家の記録にはそのような事は記載さてていないうえ[99]、『杢助手控』にはその期間は誰も立ち入りさせないよう厳命があったと記載されている[99]。さらに赤穂側の資料にもこの件は記載されていない[99]
    • 切腹の翌日にあたる3月15日に片岡源五右衛門が多門を訪ねて上記の件の礼を言い[99]、同年11月23日にも城内の「中の口」で多門に会って「もはや二君に交えず、この春から町人になる」という趣旨の事を言った[99]。しかし一塊の浪人にすぎない片岡が中の口に入るつてはない[99]
  • 浅野内匠頭の辞世の句)浅野は切腹に際して辞世の句を詠み、その内容は「風さそふ花よりもなほ我はまた花の名残りをいかにとか(や)せん」というものであった[99]。この逸話も田村邸の記録や赤穂藩の記録になく[99]、信憑性は疑わしい[99]
  • 浅野本家の抗議)3月15日に広島藩浅野本家の松平安芸守は切腹の場所が不当であると松平陸奥守と田村右京太夫に厳重に抗議した[99]。この逸話は『冷光君御伝記』にすら記録がなく[99]、信憑性は疑わしい[99]

なおドラマ等では、上述した片岡源五右衛門のエピソードに関して、浅野内匠頭と口をきかない事を条件として片岡を浅野に会わせるものも多い。

母の葬式と出くわした萱野[編集]

講談に次のような話がある[102]

赤穂藩士の萱野三平は、同じく赤穂藩士である早水藤左衛門とともに、浅野内匠頭の刃傷の急報を告げるべく、早駕籠で赤穂城へと向かっていた。

しかしその途中萱野の実家の近くを通りかかったとき、葬式の列に出くわす。聞けばなんと萱野の母が亡くなってしまっていたのだ。

だが今はお家の一大事を赤穂へと伝えに行く途中。葬式への出席を断念し、赤穂へと急ぐのだった。

赤穂開城の逸話[編集]

藩札交換の逸話[編集]

伴蒿蹊の『閑田次筆』に次のような話がのっている[103][要高次出典]

赤穂の政治は次席家老の大野九郎兵衛が上席で全て取り仕切っていたので、民は税の取り立てに耐えれなかった。

そのうち内匠頭の刃傷が起こり赤穂城が開城すると、民は大いに喜んで餅をついて賑わった。

そこへ大石が出てきて事を取り仕切り、赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので、皆は大いに驚き、「この城中にこのような計らいをする人がいるのか」と顔を改めた。

大石の忠僕[編集]

伴蒿蹊『近世畸人伝』「大石氏僕」の挿し絵[104]

伴蒿蹊の『近世畸人伝』の巻之二に次のような話が載っている[105]

赤穂開城の後、大石が赤穂を離れ京に登ろうとするとき、老僕の八介が訪ねてきた。

八介は大石に付き従って京に行きたいが、この年ではそれもかなわない、何か形見の品がいたたげないだろうか、と言った。

大石はあらかたの荷物を既に京に送っていたので形見にするものもなく、仕方なしに金子を八介に渡すことにした。

だが大石のこの行動に対し八介は、金子のどこが形見なんだと腹を立てる。

そこで大石は紙をひろげて墨で絵を描いて、これを形見とした。その絵は若き日の大石が八介と吉原に遊びに行ったときの二人の様子を描いたものだった。

「これに勝る形見はない」と八介は喜び、泣いて暇乞いをして去っていった。


なお、『近世畸人伝』には「寺井玄渓 」[106]、「小野寺秀和妻」[107]という話も載っており、前者は藩医の寺井玄渓が盟約に加わるのを大石に断られる話、後者ばかり小野寺十内とその妻の心温まる書状の話でいずれも史実に基づく。

大石の遊興[編集]

人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』をはじめとして元禄赤穂事件を描いたドラマでは山科で暮らしていた頃の大石が花街で派手に遊ぶ様子が描かれる事が多い。

この遊興により、大石に渾名すものはもちろん、大石が吉良を仇討ちすると信じていたものも愛想を尽かし始める。例えば講談では大石が吉良の仇討ちをしてくれるものとかたく信じる薩摩武士の宇都宮重兵衛が、大石のあまりの姿に呆れ果てている[108]

多くのドラマでは大石は敵の目を欺くためにあえて遊び呆けたのだとされ、たとえば仮名手本忠臣蔵でも、遊興により斧九太夫(史実の大野九郎兵衛)の目を欺いている。

一方、仇討ちの重圧から逃れるために遊んでいたとするドラマもあり、例えば芥川龍之介の『或日の大石内蔵助』では大石は単に仇討ちを忘れて楽しんでいただけなのに、周囲がそれを誤解して敵を欺く計略なのだと賞賛する場面が描かれている。

村上喜剣[編集]

薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石良雄をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良義央を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。


泉岳寺には明和4年(1767年)に作られた「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓(寺坂吉右衛門か萱野三平のものだといわれている[109])があり、村上喜剣はこの戒名などから作られた人物だと思われる[110]

村上喜剣の話は江戸後期の儒者[111]林鶴梁の『烈士喜剣伝』によって喧伝されたため[110][109]、事実のごとく伝わった[109]。これが原因で、前述の「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであると広く信じられた[109]

大石の妾[編集]

大石の遊興に絡んで、大石が妾を作るエピソードが入る事もある。

例えば『仮名手本忠臣蔵』では、大星(史実の大石)は一文字屋の「お軽」を身請けしようとする(ただしこれは、仇討ちに関する密書を盗み見たお軽を亡き者にするための口実)。

講談でも大石の遊興をおさめるために、小山源五左衛門と進藤源四郎が二文字屋次郎左衛門の娘「お軽」を妾として差し出す[108]

近年の作品では池宮彰一郎の『四十七人の刺客』および『最後の忠臣蔵』において、大石は一文字屋の可留に手をつけ、可留との間に娘の可音をつくっている。

母と妻子との別れ[編集]

大石は放蕩の末、遊女を妻にするといいだし、本妻と離縁して実家に帰す。大石の子供と実母もこれに付き従った。

しかし討ち入り後、寺坂吉右衛門が現れて、妻子等に大石の真意を伝えるのだった(講談「忠臣二度目の清書」、「山科妻子の別れ」など)。

史実では大石の母はこの時すでに死亡しているし、妻との離縁状にもこのような経緯は載っていない[112]

史実[編集]

史実においても大石内蔵助は、山科にすんでいた元禄15年7月頃から京の祇園や伏見で[113]遊興にふけりはじめている。『江赤見聞記』によれば、同志の中にはこれを見て愛想を尽かす者もおり[113]、吉良側の間者もこれを見てもはや討ち入りは考えてないだろうと江戸に送った[113]

ただし、ドラマで描かれるような派手な遊興にふけったかどうかは疑問[113]で、『江赤見聞記』には「遊山見物等の事に付き(中略)金銀等もおしまず遣い捨て候」[114]とあるのみで、ここから脚色されて派手な遊興というイメージができあがったのかもしれない[114]。また祇園や伏見に出かけたという記録もあるものの[114]、息子の主税も一緒であった[114]。なお、このころ内蔵助が作ったといわれる「里げしき」という唄があり、そこには「うきつとめ」と署名している[115]。内蔵助が「うきさま」で通ったのはこの「うきつとめ」からきたものであろう[115]

なお、大石が遊興にふけった動機に関して『江赤見聞記』ははっきりと「宜しからざる行跡」と書いており[116] 、敵の目を欺くために遊んだとする説には汲みしていない[116]

しかしこのころ京都の妾に手を出し、孕ませている[114]。 「赤穂浪士の十七回忌にあたり、その義勇に感じ、これを顕彰しようとした」 [117]『赤城義臣伝』[1]はこの妾は「二文字屋の娘かる」であると伝える[118]。また大石は、赤穂時代にもやはり妾を孕ませていた[114]

人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』における大星(史実の大石)遊興の場面は、同じく赤穂事件に題材を得た歌舞伎の『大矢数四十七本』における初代澤村宗十郎の演技を真似たものである[119]

垣見五郎兵衛[編集]

大石内蔵助は(第二次)東下りの際に「垣見五郎兵衛」(もしくは立花左近)という変名を名乗り、江戸へと向かっていた。しかしその途中で、本物の垣見五郎兵衛と鉢合わせしてしまう。

絶体絶命のピンチを向かえた大石であったが、垣見五郎兵衛は目の前にいるのが吉良を討とうと人目を忍んでいる大石内蔵助である事を察し、大石に助力するため、垣見五郎兵衛としての通行手形を渡すのであった。

史実[編集]

大石内蔵助は江戸に入った際、実際に「垣見五郎兵衛」という変名を名乗っており、息子の主税には「垣見左内」という変名を名乗らせている[120]

しかし上述したエピソードは史実ではない。戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、この逸話はマキノ省三監督が1912年の映画『実物応用活動写真忠臣蔵』を撮るときに歌舞伎の勧進帳を基にして役者の嵐橘楽のために作り上げたものであり[121]、この時は「立花左近」の名称であった[121] 。史実に合わせて「垣見五郎兵衛」の名前を用いたのは松竹の1932年版の『忠臣蔵』がはじめである[121]

一方大正13年発行の『講談落語今昔譚』(関根黙庵著、雄山閣)によると、この話は講釈師の伊東燕尾(えんび)の持ちネタで、後に芝居にも脚色されたのだという[122]。燕尾は明治33年(1900年)に亡くなっている[123]ので、燕尾の講釈の方がマキノ省三の映画よりも早いことになる。

燕尾の講釈では、近衛家雑掌・垣見左内の変名を名乗る内蔵助が川崎の宿で本物の垣見左内に出くわす。内蔵助は仕方なしに本名を書いた詫書を左内に渡すが、そこに内蔵助の名を見た左内は事実上を察し、詫書を内蔵助に帰してこの件を不問にする。

侮辱される浪士達[編集]

忠臣蔵に関する逸話の中には、仇討ちの件を秘密にするため、赤穂浪士達が周囲の侮辱にじっと耐え続けねばならなくなる話が数多い。(そして討ち入りの後には、侮辱した者たちは自身の行動を後悔する)。

こうした逸話をいくつか紹介する。

大高源吾の詫び証文[編集]

四十七士の一人大高源吾が江戸下向しようとしている道中、国蔵[124]というヤクザ者の馬子がからんできた。

大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、じっと我慢する。

調子に乗った国蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてきたので、大高はおとなしくその証文を書いた。

後日、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った国蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。

大高の詫び証文と称するものが箱根旧街道休憩所に展示されている[124]。そこの説明によれば元々は三島宿の話として伝わっていたものが時代を経て箱根山中の甘酒茶屋の話に変わったという[124] 。しかしながらこの大高の詫び証文と伝わるものは後世の人が作ったものといわれている。

このエピソードは大高源吾ではなく神崎与五郎のものとして語られる事もある[125]。その場合因縁をつけてくるのは「丑五郎」という男である[125]

大高源吾の義兄[編集]

大高源吾にはもう一つ似たような逸話がある。

大高源吾は四十七士の一人中村勘助とともに江戸に下向していた。

途中で源吾の義兄弟の水沼久太夫のもとに挨拶にいき、他家に仕官が決まった旨の嘘をつく。

これを聞いた水沼は大高たちにコノシロをご馳走する。コノシロは「腹切り魚」とも呼ばれ、仕官の門出を祝うにはふさわしくない魚だ。

大高に仇討ちを期待する水沼は、仇討ちに相応しい腹切り魚を出して、大高を試したのだ。

しかし例えば義兄弟と言えども仇討ちの事は言えず、大高がとほけると、水沼は怒りだし、義兄弟の契りを解消すると言い出す。

後に水沼は討ち入りの件を知り、先の行動を後悔するのだった[125]

勝田新左衛門の逸話[編集]

四十七士の一人勝田新左衛門は、赤穂城が開城された後、八百屋に身をやつしていた。

その様子を見た新左衛門の舅は、武士が八百屋をするなどけしからんと、新左衛門の妻とともに嘆いた。

しかしその後、新左衛門が同志とともに討ち入りした事を知り、新左衛門の事を見直すのであった[125]

岡野金右衛門とお艶の逸話[編集]

四十七士の一人である岡野金右衛門は吉良邸の絵図面を手に入れるため、吉良上野介の屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘である「お艶」と恋人になる。

しかし岡野はやがて本当にお艶に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。

天野屋利兵衛[編集]

町人・天野屋利兵衛は赤穂浪士に肩入れし、浪士達が討ち入りに使うための武器を調達して長持ちに保管していた。

この事が奉行の耳に入ると、奉行は利兵衛を拷問し、武器の入った長持ちの鍵を渡すように言った。

しかし利兵衛は拷問に耐え抜き、利兵衛の態度に感心した奉行は、武器の準備の件を不問にするのだった。

史実[編集]

天野屋利兵衛は、大坂の惣年寄を勤めた実在の人物「天野屋兵衛」の事だとする説もある[126]。 しかしこの人物は赤穂藩とは無関係であるため、上記の話は史実としては疑問が残る[127]。松島栄一は、天野屋利兵衛が芝居で扱われたのはあるいは芝居と特別な関係にあるスポンサーだったのではないかと想像している[128]

また京都一条大宮鏡石町の呉服屋で、赤穂浪士を援護した綿屋善右衛門をモデルにしているとも言われる[126]

創作物において[編集]

討ち入りのあった年である元禄15年12月に出た『赤穗鐘秀記』には町名主の「天野屋次郎右衛門」について書かれている。 次郎右衛門は赤穂浪士のために槍二十本を鍛治に鍛えさせた事が、町奉行の耳に入り詰問されたが、白状せず牢に入れられる。そして赤穂浪士の討ち入りの話を聞くと、初めて事実を自白したと言う[129]

その後『忠誠後鑑録或説』や『參考大石記』でもこの話は書かれ、前者では名前が既に「天野屋理兵衛」になっている[129]

討ち入りから47年後の寛延元年(1748年)8月には人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の十段目としてこの物語は描かれている。当時は実在の人物を芝居にするのに規制があったため、作中では「天河屋義平」という名前で登場する。

本作ではは捕り手達が天河屋の息子を人質に取り、息子の喉元に刀を置いて天河屋を脅迫する。

しかし天河屋は 「天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を、存じたとは得申さゆ」といい、これを突っぱねる。

この話のオチは、実は捕り手は大星由良助(史実の大石内蔵助)率いる四十七士がなりすましたもので、天河屋を試すためにこの様なことをしたのだという。大星は天河屋の忠義に礼をし、討ち入りの際の合い言葉を天河屋にちなんで「天」、「河」にするのだった。

大高忠雄と宝井其角[編集]

大高源五と宝井其角。尾形月耕

大高源五は、子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士である。俳人の宝井其角とも親交があった。

討ち入りの前夜、大高は煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していたが、両国橋で宝井其角と出会った。其角は早速「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句し、大高はこれに「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ちをほのめかす。


宝井其角と大高源五が両国橋で会う話は安政3年に森田座で初演された瀬川如皐の『新舞台いろは書始』で登場しており、これが後年『松浦の太鼓』になり、さらにそれが中村鴈治郎の『土屋主税』になった[130]

赤埴源蔵、徳利の別れ[編集]

赤埴源蔵は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。しかし兄は留守であった。義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。

やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。もう簡単にはお会いできますまい。ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる」と兄の羽織に対して涙を流しながら酒を酌み交わし、帰って行く。

その後帰宅した兄は下女から源蔵の様子を聞いて、もしや源蔵はと思いを巡らせる。そして12月15日、吉良義央の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟源蔵の姿があった。

史実[編集]

この話はもともと天保年間の講釈師初代一立斎文車が語ったものだという[131]

史実では赤埴には兄はおらず弟と妹がいるだけである[132]。 史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている[132]。その日赤埴が普段より着飾ってた事に関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参るためあいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている[132]

俵星玄蕃[編集]

杉野十平次の蕎麦屋、尾形月耕

四十七士の一人杉野十平次は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。

かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、是非助太刀しようと吉良邸へ向かった。両国橋で赤穂浪士達と遭遇したが、大石には同道を断られた。しかしその中になんと蕎麦屋の十助がいるではないか。そして二人は今生の別れを交わした。その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。

史実[編集]

文化2年(1805年)の『江戸名釈看板』の中の「雪の曙 誉の槍」に俵星玄蕃の名前が出ており[133]、当時からこの話は有名になっていたものと思われる。 「俵星」の名は槍で米俵も突き上げるという話と「仮名手本忠臣蔵」の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」を組み合わせたものであろう[133]。 またこの話は講釈師大玄斎蕃格により語られており[134][要高次出典]、大玄斎蕃格が創作したものとも言われる[要出典]

南部坂雪の別れ[編集]

討ち入り直前、大石内蔵助は赤坂・南部坂に住む浅野内匠頭正室・瑤泉院のところへ最期のあいさつへ向かう。しかし吉良の間者と思しき女中が聞き耳を立てていたので、大石は仇討ちの意思はないと瑤泉院に嘘をつく。討ち入りを期待する瑤泉院はこの言葉に激昂するが、大石は本心をひた隠しにして去っていくしかなかった。

史実[編集]

南部坂の別れは創作であり[39]、元禄15年11月29日に大石は瑤泉院に『金銀受払帳』を届け、瑤泉院の用人落合与左衛門に討ち入りの事を知らせている[39]。しかしこれは手紙を送っただけで大石が直接南部坂の瑤泉院のもとへ向かったわけではない[39]

創作物における歴史[編集]

元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』にはすでに大石と瑤泉院の別れの場面が描かれている[135]

『赤穂鍾秀記』によれば、瑤泉院のもとに内蔵助がやってきて「近々遠国へ行くために御暇乞いの挨拶に来た」と言い、昔の事を話して帰っていった。去り際に内蔵助は瑤泉院お付きの侍に歌書が入っていると称する一封を渡していった。12月15日、まだ討ち入りについて知らないうちに封書をあけると、中には瑤泉院から預かった金子七千両の使い道を書いた書類が入っていた[136]

天保7年 - 明治5年(1836年 - 1872年)に書かれた為永春水の『正史実伝いろは文庫』の第七回にもすでにこの話が載っている[137]

『誠忠大星一代話廿六』、三代目歌川豊国画。嘉永元年(1848年)の泉岳寺の開帳にあわせてつくられた35枚組の1つ[138]で今日でいう「南部坂雪の別れ」を描く。本国に帰る暇乞いに来たという大星(史実の大石)は葉泉院(史実の瑤泉院)と去りし日の話をする。 葉泉院は翌日寺岡(史実の寺坂吉右衛門)の報告で討ち入りを知る。

また明治4年(1871年)10月16日守田座初演の左団次一座による河竹黙阿弥作『四十七石忠箭計(しじゅうしちこくちゅうやどけい)』でもこの場面は描かれている[139]

『南部坂雪の別れ』はその後桃中軒雲右衛門の口演により浪花節の人気演目をになり[140]、明治45年(1912年)には口演の筆記本も出ている[141]

さらに同じく明治45年(1912年)には立川文庫の本にもこの話は収録され[142]、 1910 - 1917年の尾上松之助による忠臣蔵の映画にもこの場面は登場する。

また昭和13年(1938年)11月には、今日でも上演される真山青果元禄忠臣蔵の一編として『南部坂雪の別れ』が歌舞伎座で上演されている。

戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、映画やドラマにおける「南部坂雪の別れ」の瑤泉院の描写は時代により変化しているという[143]。今日のドラマでは、瑤泉院は大石が本心を偽っている事に気づかずに大石を罵るいわば「浅はかな女」[143]という「ネガティブな」[143]描かれ方をされるが、これは映画忠臣蔵黄金期末期[143]にあたる1962年に公開された『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』以降[143]、忠臣蔵の主力がテレビドラマに移ってからの描かれ方で、それ以前の映画では、口には出さずとも大石の真意に気付く映画もあり[143][144]、本心に気付かなかったお詫びに討ち入り後の内蔵助に会いに雪の中を駆けつけるもの[143][145]もある。

脚色[編集]

ドラマ等ではこの場面に以下のような脚色がつくことが多い

  • 今日のドラマでは大石は瑤泉院に「他家に仕官が決まった(から最後の別れにきた)」と嘘をつくものが多い。しかし古くは町人になる(『正史実伝いろは文庫』、『四十七石忠箭計』)、大阪で小間物屋を始める(桃中軒雲右衛門の浪花節)という嘘であった。
  • 瑤泉院に仕える「戸田の局」が登場する事もあり、大石は瑤泉院にはもちろん彼女にも真意を秘密にする。
    • 『正史実伝いろは文庫』では女中は「松島」という名前だが、『四十七石忠箭計』や桃中軒雲右衛門の浪花節ではすでに「戸田の局」という名前になっている。また彼女が小野寺十内の妹だという設定も後者に出ている[141][142]
  • 大石は最後に亡き殿に御焼香したいと願い出るが、激昂した瑤泉院はそれすら許さない。
    • すでに『元禄忠臣蔵』にこのエピソードが見える[146]
  • 大石は激昂した瑤泉院から文鎮(『正史実伝いろは文庫』)や亡き殿の位牌(『四十七石忠箭計』)で叩かれる。
  • 大石は去り際に何らかの書類をおいて帰る。後でそれを見た瑤泉院はこの書類を見て大石の真意を知る。その後間者も無事捕まり、瑤泉院は先の行動を後悔するのだった。
    • 今日のドラマでは書類の中身は同志の連判状とするものが多い。
  • 今日のドラマでは間者の名前は「お梅」、「紅梅」など。『四十七石忠箭計』ではすでに「お梅」の名になっている。
  • 『四十七石忠箭計』には清水大学(史実の清水一学)が登場する。間者のお梅は清水に大星(史実の大石)には仇討ちする気がない旨を報告し、清水は大星に直接あってその腑抜けぶりを確認する。

討ち入りの際の逸話[編集]

討ち入り蕎麦[編集]

元禄15年12月14日の深夜に四十七士が両国の蕎麦屋の二階に全員集結し、蕎麦を肴に最後の宴を開いてから討ち入りにでかけたという話[147]

創作物において[編集]
饂飩屋久兵衛の店。『正史実伝いろは文庫』二十一回の挿し絵[148]

『泉岳寺書上』には討ち入りの日に楠屋十兵衛というものに手打ち蕎麦五十人前を作らせ、義士達が皆で泉岳寺を詣でた後に楠屋に集結したと書かれている[149]。しかしこの文献は浅野内匠頭の亡霊が登場する[149]など怪しげな内容のものであり、偽書とされる[150][151]

また『泉岳寺書上』には「手打ち蕎麦」を食べたとあるが、「手打ち蕎麦」という言葉は宝暦以後のもので、元禄の頃は「蕎麦切り」といっていたはずである[150]。したがってドラマ等で見られる浪士達が吉良を「手打ち」にする蕎麦を食べてげんを担いだとする話は史実ではない。

元禄16年3月に書かれた[152]『易水連袂録』の「ウドン屋久兵衛口上書の事」には「ウドン屋久兵衛」の店に皆で集まりうどん、そば切り、酒肴を食べたとある[152]。 また創作物ではあるが、『正史実伝いろは文庫』の第二十一回には、赤穂浪士二十四、五人が饂飩屋久兵衛の店に集まり蕎麦きりを食べたとある[153]

史実[編集]

史実においても討ち入り前日の12月13日の夕方には同志たちで酒肴を用意して今生の暇乞いの盃を交わした[154]。 討ち入り当日の14日は吉田忠左衛門原惣右衛門吉田澤右衛門ら6、7人が両国橋向川岸町の亀田屋という茶屋でそば切りなどを注文してゆっくり休息したと『寺坂信行筆記』にある[154][155]

当日の天気[編集]

忠臣蔵もののドラマでは雪が降りしきる中討ち入りに行くものが多いが、史実では数日前に降った雪が積もっていたものの[156]、討ち入り当日は晴れていた[156]。また空には月が輝いていた[156]

月は満月に近いが、討ち入りの時刻には月は大分西の空の低い場所にあったため、月齢から考えるほど明るくはなかった[157]

山鹿流陣太鼓[編集]

討ち入りの際、大石内蔵助が「一打ち三流れ」(ひとうちみながれ[158])の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす、というもの。

四十七士側の史料である『人々心覚』、『寺坂信行筆記』、『富森筆記』には、笛や鉦を持参した話は載っているが、太鼓を用意したとは書かれていない[159]。 しかし吉良義周の口上書には赤穂浪士が「火事装束」で「太鼓」などを叩いて切り込んできたとあるし[159]、上杉家の資料や『桑名藩所伝覚書』、『浅野浪人敵打聞書』などにも太鼓について触れられている。

現実問題として、太鼓を叩いてしまっては奇襲が意味をなさなくなってしまうので、浪士たちは太鼓を叩いていないであろう[159]。当時太鼓といえば火事を連想するものであったので[159]、火事装束のような姿で侵入した浪士たちに気が動転する吉良側が扉を打ち壊す際の音を火事太鼓と聞き間違えたのではないかと宮澤誠一は推測している[159]

なお、討ち入りの際太鼓を打ち鳴らしたという俗説は、浪士切腹後二か月で世に出た『易水連快録』にすでに載っており[159]、他にも『浅野仇討記』[159]や『泉岳寺書上』[149]にもこの話は載っている。

山鹿流兵法[編集]

赤穂浪士たちが吉良家との戦いにおいても山鹿流の兵法を用いたとする。

史実としては山鹿素行山鹿流は朱子学を基礎に哲学を主とし政治学や陰陽思想を加えたもので[160]、実際の兵法は二次的なものにすぎない[160]。山鹿素行は1652年から1660年まで浅野家に仕えていたが[160]、以上の理由から山鹿流兵法で討ち入りを成功させたという逸話は創作だといえる[160]

装束[編集]

討ち入りの際、四十七士は全員、服装を黒地に白の山形模様のついた火事場装束のような羽織に統一した、というもの。

史実では11月初めの覚書ですでに「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」に決まっており[161]、あとは思い思いの服装でよかった[161]。全員が一様であったのは定紋つきの黒小袖と両袖をおおった合印の白晒くらいである[161]。衣類の要所要所には鎖を入れて防備を固めた[161]。 全体として火消装束に近いスタイルであったが、人生最期の晴れ舞台であったこともあり、火事装束よりはもっと派手だった[161]

火事羽織からの連想からか元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』ではすでに「黒い小袖」が「黒い羽織」に代わってしまっている[161]。黒地に白の入山形は宝永7年(1710年)6月の『鬼鹿無佐志鐙』に原型があり[161]、『仮名手本忠臣蔵』で広く知られるようになった[161]。浪士の名前を書いた左右の白襟は片島武矩の『義士伝』に端を発し、幕末の浮世絵師の一勇斎国芳画『誠忠義士伝』で形作られ、明治にかけて一般化した[161]

上杉家の忠臣[編集]

討ち入りを聞いた上杉綱憲が実父・吉良上野介を助けるため出陣しようとするも、幕府に睨まれるのを避けるために家老にとめられたというもの[162]。この家老は千坂兵部もしくは色部又四郎だとされる。

史実において事件当時千坂兵部は既に死んでおり[163][164]、家老は色部又四郎であった[162]が、以上の事を事実とみるのは「うがちすぎた見方であろう」[162]。 色部は父が11月に亡くなった事により討ち入りがあった夜は出仕してしなかったともいう[163][要高次出典]

討ち入り当日、綱憲は病気であったが[162]、藩士を派遣しようとした[162]。 しかし『上杉家年譜』によると高家の畠山下総守がやってきて、討手を出さないようにという老中の言葉を伝えた[162]ためか、結局は藩士を送っていない[162]

浅野内匠頭が切腹に用いた刀で吉良を討つ[編集]

浅野内匠頭が切腹に用いた刀で吉良を討ったとする逸話はすでに『仮名手本忠臣蔵』に登場している。

討ち入り後の逸話[編集]

琴の爪[編集]

赤穂浪士達が切腹する当日、四十七士の一人礒貝十郎左衛門が討ち入り直前に付き合い始めた許嫁の「おみの」が人目を忍んでやってくる。 「礒貝は仇討ちの作戦に利用するために、自分と付き合っただけなのではないか」そんな疑念を抱いていたおみのは、最後に真実を知りたかったのだ。

礒貝は本心ではおみのに恋心を抱いていたのだが、おみのを前にして「そんな女は知らぬ」と嘘をついて取り合わない。

だがその場に居合わせた大石内蔵助は、礒貝がおみのの琴の爪を肌身はなさず持っていた事を告げる。

おみのは礒貝の本心を悟って喜び、礒貝の後を追って自害する決意を固める。

そして礒貝と大石は切腹の場へと赴くのだった。


この話は真山青果の新歌舞伎『元禄忠臣蔵』の一編『大石最後の一日』に登場する逸話[165]で昭和9年(1934年)2月に歌舞伎座で初演された。

本作はその後二度にわたり映画化されている(1942年の『元禄忠臣蔵後編』と1957年の『「元祿忠臣蔵・大石最後の一日」より 琴の爪』[2])。

史実[編集]

礒貝が切腹の時に琴の爪を持っていたとする逸話自身は史実であり、『堀内覚書』に「死を賜ふの後紫縮緬の袱紗に包みたる鼻紙袋中に琴の爪一つありたり」とある[166]。 史実によれば磯貝は能と鼓が堪能であったが、浅野内匠頭が嫌いであったからこれをやめたという[166]。しかし弾琴は続け、それゆえ切腹時に琴の爪を持っていたのである[166]

創作物においても嘉永7年(1854年[167]に書かれた山崎美成の『赤穂義士伝一夕話』の四巻に磯貝が切腹時に琴の爪を持っていた琴がでてくる[168]。 しかしここでは「おみの」は登場せず、礒貝が風流である事を示す逸話として討ち入りに琴の爪を持っていた事が語られるのみである。

『祇園可音物語』[編集]

大石内蔵助の下僕であった半右衛門は呉服屋の茶屋宗古という男と懇意になる。 半右衛門は宗古から、自分の嫡男の嫁を見つけるよう依頼され、半右衛門は一人の娘を紹介する。

祝言の前日には、三百人もの腰の者がついて来たので、娘は裕福な身の上であることが想像されるが、半右衛門は娘の素性をいっさい明かさない。

祝言をすませると、夜中に半右衛門が突然切腹する。不振に思った周囲の者が娘に問いただすと、娘は自分が大石内蔵助の姫なのだと明かした。

半右衛門は内蔵助の姫を預かっていたため、討ち入りにも参加せずにこれまでむなしく生きてきたが、無事祝言もすませたので、主人の後を追って殉死したのだ。

史実[編集]

この話は大田南畝が『半日閑話』の中で 宝永六年(1709年)四月上旬の聞書きという体裁で『祇園可音物語』(ぎおんかねものがたり)の名のもとに書き留めたものである[169]

しかしこれは史実ではなく、大石には二人の娘がいたもののの長女クウは14才で夭折しているし[169] 、次女ルリは進藤源四郎のもとへ養子に行った後浅野長十郎へ嫁いでいる[169]

また大石が赤穂時代に妾と作った子供も元禄15年に夭折しているし[114]、山科で妾と作った子供はまだ7才である。

脱盟者は実は第二陣であった[編集]

大野九郎兵衛[編集]

芝居などで悪名高い大野九郎兵衛は実は逃げたわけではなく、大石が吉良を討ち漏らした場合に備え、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて山形県板谷峠に潜伏していたという逸話がある[170][171]明和6年(1769年)にたてられた板谷峠近くの馬場の平に残る大野九郎兵衛の供養碑にその旨を記載されている[171]

また群馬県安中市には、その周辺にある吉良家の飛び領地に上野介が逃れてくると予想して、大野が手習い師匠をしながら潜伏していたという伝説がある[172]。山梨県甲府市の能成護国禅寺には、大野九郎兵衛が柳沢吉保を頼って甲斐に移り住んだという伝説がある[172]

その他[編集]

奥野将監にも別働隊を率いていたとか、浅野内匠頭の姫を密かに育てたという逸話がある[173]

『江赤見聞記』には「討ち入りは失敗するだろうから自分が第二陣になる」という趣旨の事を述べて奥野将監が脱盟したとあるが[174]、「これは信じられない」[174] 。同書には進藤源四郎も第二陣になると述べた旨が書かれている[170]

創作物ではあるが、人形浄瑠璃の『忠臣後日噺』では進藤源四郎が第二陣であったとされているし[170]為永春水の『正史実伝いろは文庫』には、奥野将監小山源五右衛門進藤源四郎佐々小左衛門毛利小平太が第二陣であった旨が記載されている[175]

大野九郎兵衛の娘[編集]

伴蒿蹊の『閑田次筆』に次のような逸話が収められている[176]

大野九郎兵衛は赤穂を出奔するとき、娘を置いて逃げた。 置いていかれた娘は、父・九郎兵衛が出奔したのは、敵を欺くための計略だろうと信じていた。 しかし赤穂浪士たちの討ち入りについて記した瓦版を読んでも父の名はなく、打ちひしがれて寝込んでしまった。

この娘の夫・梶浦は事態を知り、こう言った「九郎兵衛の娘と連れ添っているのは武士の道にもとるので、お前とは縁を切る。行くところもないだろうから裏の隠居所で暮らせ」。 娘に罪があるわけではないので、夫の梶浦は妾を持つこともなく、やもめとして一生を終えた。

親族の自害[編集]

四十七士の一人である間十次郎の妻は、討ち入り後、赤穂浪士たちの墓の前で十次郎の後を追って自害したという伝説がある[177]

しかし史実ではそもそも間十次郎に妻はいない[177]

為永春水の『正史実伝いろは文庫』には討ち入りの際、四十七士の一人である武林唯七の妻が吉良を討つため捨て身で吉良を押さえたとあるが、史実では唯七にも妻はいない[177]

四十七士の一人である原惣右衛門が同志に入る際、惣右衛門の心残りにならないよう母が自害する話が伝わっている[178]

同じような話が四十七士の近松勘六、杉野十平次、武林唯七[179]、および間十次郎と新六の兄弟にもある[178]

史実では惣右衛門の母は討ち入り4か月前の8月に病死しているのに室鳩巣が『赤穂義人録』の中で誤伝したのがそもそもの始まりらしい[178]

間十次郎の母は史実では二十八年前に亡くなっている[178]

鳩の平右衛門[編集]

『鳩の平右衛門』という歌舞伎の演目がある。四十七士の一人寺岡平右衛門(史実の寺坂吉右衛門)は、同志たちとともに江戸へ下るため実家をでる。しかし鳩の親子が仲睦まじくしているのを見て情にほだされ、実家に帰る。

だが寺岡の父はこれに激怒し、寺岡の未練を断ち切るために切腹する。


この話は河竹黙阿弥作の歌舞伎『鳩の平右衛門』に出てくるが、これは寛政3年に大阪角の芝居で上演された奈河七五三助作の『いろは仮名四十七訓』の八つ目「鳩の平右衛門」を粉本とする[180]

『正史実伝いろは文庫』の第八十二回には類話が載っており、原郷右衛門(史実の原惣右衛門)がやはり鳩の親子を見て家に戻ると、母が郷右衛門を諫めるために自害する[181]

浪士の娘だと騙る女たち[編集]

赤穂浪士が切腹した後、浪士の娘だと騙る女が何人か登場した。

妙海尼堀部安兵衛の娘だと騙り、清円尼は大石内蔵助の娘だと騙り[182]長国寺の尼は武林唯七の娘だと騙った[182]

その他[編集]

刃傷の理由[編集]

浅野内匠頭は刃傷に及んだ理由を説明していない為、刃傷の原因は今日に至るまで不明である。

『梶川与惣兵衛筆記』の東大史料編纂所写本には、浅野内匠頭は刃傷の際、「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったされるが、同じ『梶川与惣兵衛筆記』でも南葵文庫本(東大図書館所蔵)には「声をかけた」としか書かれておらず、本当に内匠頭がこの発言をしたのかはよくわからない[183]

しかし『多門伝八郎覚書』には、多門が近藤平八郎と共に内匠頭を事情聴取したとき、内匠頭は一言も申し開きもないとした上で次のように述べたという[184]

「私的な遺恨から前後も考えず、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せつけられても異議を唱える筋はない。しかし上野介を打ち損じたことは残念である」[184]

したがっていずれにせよ、何らかの「遺恨」が原因であると思われる。

梶川与惣兵衛によれば、刃傷の少し前に梶川が浅野と話した時には特に異変を感じていなかったといい[185]、刃傷は突発的犯行だった事が推測される[185]。実際、刃傷の無計画さはよく指摘され、吉良を仕留めるのであれば、切りかかるのではなく刺し殺すべきで[185]、江戸城における過去の刃傷事件では、小刀で刺す事により、相手を仕留めている[185]

浅野内匠頭のストレス[編集]

『冷光君御伝記』によれば、浅野内匠頭は勅使御馳走役が嫌で仕方がなかったらしく、「自分にはとても勤まらない」と述べている[186]。 御馳走役はほぼ家中をあげて準備をしなければならず、接待費は藩ですべて持たねばならず、しかも典礼の詳細は高家肝煎である吉良の指図を受けねばならないなど、ストレスの溜まる仕事であった[186]。 また内匠頭は11日ころから持病の痞(つかえ、詳細後述)が出るなど、心身に不調をきたしていた[186]事もストレスの表れかもしれない。

こうしたストレスが爆発して、刃傷に及んだのかもしれない[186]

前回の勅使御馳走役の差[編集]

浅野内匠頭はこの時二度目の勅使御馳走役であったが、それゆえ「前々の格式」にこだわりすぎ、そこから吉良との確執が生まれたのかもしれない[186]

また前回の勅使御馳走役の後、急激な物価上昇があった為、前回の額面が通用しなくなっていた[186]。 浅野内匠頭が「前々の格式」にこだわりすぎたとすれば、物価上昇ゆえ、現実にそぐわないものになっていたであろうし、 風説にあるように吉良に「付届け」が必要だったとすれば、その額も物価上昇ゆえに少なすぎるものになっていたであろう。

浅野内匠頭の性格[編集]

吉良を治療した金瘡外科の栗崎道有は『栗崎道有記録』で「我慢できない事でもあったのか、内匠頭は普段から短気な人間だったというが、上野介を見つけて小さ刀で抜き打ちに眉間を切りつけた」と述べ[187]、さらに内匠頭と上野介の人間関係はかねてからよくなかったと記している[187]

『土芥寇讎記』という、元禄3年時点での大名の家計、略歴、批評等を書いた本には「内匠頭は智のある利発な人物で、家臣の統率もよく領民は豊かである。しかし女好きが激しく、内匠頭好みの女性を見つけてきた者が立身出世し、女性の血縁者も禄をむさぼるじょうたいにある。昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せきたままだ」とある[188]

そして同書は大石内蔵助と藤井又左衛門を主君の内匠頭を諫めない不忠な家臣としている[188]

元禄14年春に作成された『諫懲後正』には内匠頭は武道を好むが文道を好まず、知恵もなく短慮だが職務を怠らず不行跡なことはないとしている[188]

多門伝八郎は内匠頭が「私は乱心したわけではないから離してほしい」と内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛に言っていたと書き留めており、当人の言によれば内匠頭は「乱心」したわけではない[189]。 幕府は当初、内匠頭が乱心したと思い、外科の栗崎道有を呼んだが、結局乱心ではないと判断されたため、治療の判断を上野介にゆだね、治療費は上野介の自費になった[189]

吉良の性格[編集]

事件直後に書かれた『秋田藩家老岡本元朝日記』には「吉良殿は、評判の横柄な人だということです。過大な進物などを平気で受け、人の物を方々で欲しがってせびり取ることが多いということです」[190]とあり、こうした性格が刃傷に影響したかもしれない。

否定された理由[編集]

賄賂と吉良のいじめ[編集]

史実に俗説を取り交えて書かれた[191]『赤穂鍾秀記』(元禄16年元加賀藩士の杉本義鄰著)の憶測によれば、吉良は元来奢侈で利欲深く、いつも過言し、「付届け」の少ない者には指図を疎かにしたり陰口をたたいたりする人物であったという[191]。 同書によれば、浅野が吉良に付届けをしなかったので吉良は不快に思い、浅野が勅使をどこで迎えるべきかと吉良に問うたところ、「そんな事は前もって知っておくべきだ」と嘲笑し、「あのような途方もないことをいう人間にごちそう人が勤まるか」と少し声高に雑言したという[191]。同書はさらに、勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを吉良が指示せず浅野内匠頭が危うく失態を招きそうになったという話や、「吉良から無礼な事をされても堪忍すべきだ」と親友の加藤遠江守から浅野が忠告されたという話が載っている[191]

後の「赤穂義士」観に決定的な影響を与えた室鳩巣の『赤穂義人録』(元禄16年10月著、宝永6年改訂)では、さらにはっきりと吉良が儀式作法を伝授する際「賄賂」を受け取っていたと書かれている[191]。 同書によれば、浅野は公私をわきまえず贈り物をする気は全くなかった事が吉良との不和の根本原因となったという[191]。 そして「大広間の廊下」で浅野は勅使の迎え方で吉良から侮辱される[191]。 梶川が「勅答の礼が終わったら連絡してほしい」と浅野に伝えると、吉良は横から口を挟み、「相談は私にすべきだ。そうでないと不都合が生じるでしょう」と浅野を侮辱し、さらに吉良が「田舎者は礼を知らない。またお役目を辱めるだろう」と追い打ちをかけた為、浅野は刃傷に及んだという[191]

しかしこうした記述は刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾しており、「大胆な虚構」に基づいて書かれたものである[191]

また忠臣蔵のドラマ等では、吉良による以下のような苛めが描かれるが、佐々木杜太郎はこれに対して反証をしている。

  • 増上寺や寛永寺の畳替えが必要なのに、吉良が「畳替えは必要ない」と嘘をついた、というもの。しかし当時の御馳走役の任務に増上寺や寛永寺の警護は入っていたが修繕は入っていないし[192]、刃傷は増上寺の参詣の翌日の事であるので[192]信憑性に乏しい。
  • 殿中での服装は本来、烏帽子大紋なのに、長上下を身に着けるべきだと吉良が内匠頭に嘘をついた、というもの。しかし内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、服装に関してはすでに知っているはずであり、信憑性に乏しい[192]
  • 伝奏屋敷に墨絵の屏風が置いてあったが、吉良から難癖をつけられたので、あわてて金屏風に取り換えた、というもの。史実としても刃傷後に伝奏屋敷に引き取りに行った道具の目録に金屏風がある[192]。しかし天保8年の文献に「伝奏屋敷は前々から金屏風であった」と書いてあり、初めから金屏風があったものと思われる[192]。しかも内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、この辺も熟知していたはずである。
  • 老中の連名の奏書を吉良が内匠頭に見せなかったというもの。信夫恕軒の『義士の真相』などに載っている説である[192]が、事件の場に立ち会った梶川与惣兵衛による『梶川与惣兵衛筆記』には奏書の事は書いておらず[192]、信憑性に乏しい。
痞(つかえ)[編集]

浅野内匠頭は3月11日未明に勅使一行が到着してから心身に不調をきたしており持病の痞(つかえ)が出たと『冷光君御伝記』にある[193]

立川昭二はこの痞は今で言う偏頭痛か緊張性の頭痛だろうと考察している[194]。 一方痞とは癪の事とも解され[195]、中島陽一郎の『病気日本史』によれば、癪は「胃痙攣、神経性の胃痛、心筋梗塞、慘出性肋膜炎、胃癌、後腹膜腫瘍、脊髄の骨腫瘍、ヒステリーなどを含んでいると考えられ」[195]る。

『江赤見聞記』によれば、浅野内匠頭は「持病の痞のために行動に対する抑制が利かなくなり刃傷に及んだ」という趣旨の事を述べている[195]が、痞が癪の事だとすれば、「痞が刃傷の原因だとはとても信じられない」[195]。 宮澤誠一も、「痞」が精神発作を起こしたという説を、「単なる推測の域を出ない」ものとしている[191]

塩の生産をめぐる対立[編集]

浅野長矩と吉良義央のそれぞれの領地で産出するの製法と販路の問題で対立があったという説があった。これは吉良出身の作家の尾崎士郎が昭和29年に随筆『きらのしお』の中で唱えていたものである[196]堺屋太一もこの説に基づいて『峠の群像』を執筆し、NHK大河ドラマになっている。

しかしこの説は経済論ブームの中突如わいた説であり[196]、塩問題に関する記録や伝承がいっさい残っておらず[196] 、信憑性に乏しい[196] 。また赤穂の塩が主に大阪で売られていたのに対し、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られており直接の競合関係にない[197]

浅野内匠頭の親戚の刃傷[編集]

浅野内匠頭の母の弟である内藤和泉守忠勝も延宝八年に殺害事件を起こしている[198]ため、浅野内匠頭も刃傷を起こしやすい血縁にあったという説があるが、これは「そう考えれば考える事もできる」という程度のものである[198]

浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説[編集]

『赤城盟伝』には「上野介に宿意あるは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの[192]。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5才であり、この説には信憑性がない[192]

衆道に関する怨恨[編集]

浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説。

『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」[199]文献にこの説がでている。 しかし福本日南は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている[192]

茶器に関する怨恨[編集]

浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。

これは「余程後世になっていい出された説」[192]で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている[192]

一休の書画の鑑定に関する怨恨[編集]

浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗徧が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説[192]

この話は史料にはみあたらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい[192]

内匠頭の謡曲[編集]

明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話[192]

元禄13年に内匠頭が謡曲熊野を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの[192]。 これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない[192]

寺坂吉右衛門問題[編集]

四十七士のひとりである寺坂吉右衛門は討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消していた。 これは古来から謎とされており、逃亡したという説から密命を帯びて消えたという説まで様々である。

この謎に取り組むためまず事実を確認すると、吉良邸裏門で一人ずつ名指しで点呼をとったときには討ち入り時と同じだけいたという[200]。 しかし寺社奉行への届け出の為、泉岳寺で点呼を取った時には寺坂はいなかった[200]。 つまり寺坂は引き上げの最中にいなくなった事になる。

逃亡か否か[編集]

当時の資料を見ると、内蔵助、原惣右衛門、小野寺十内が連名で寺井玄溪に出した書状には

  • (1)「(寺坂は)かろきものの儀、是非に及ばず候」[201]

とあり(「かろきもの」という発言は寺坂が四十七士の中で最も身分が低く唯一の足軽である事を指していると思われる)、 『堀内覚書』にも吉田忠左衛門が

  • (2)「此者(=寺坂)は不届者にて候。重ねては名をも仰せ下さるまじく」[201]

と発言したとある。これらを字義通りにとれば、寺坂は逃亡したのだという事になろう。

実際、『堀内覚書』を書いた堀内伝右衛門は、一方では寺坂は吉良邸まできて「欠落」したらしいと聞き、他方では寺坂は仇討の成就を伝える使いを申し付けられたのだと聞き判断に迷っていたが、(2)の忠左衛門の言葉で「実の欠落」なのだと推測した[202]

しかし逃亡説を支持しない立場からは、寺坂の密命を隠すためにあえてこのような嘘をついているとも考えられる[201]

実際下記のように、寺坂は単純に逃亡したのではなかろうと推測される文献が残っている。

  • (3)忠左衛門は元禄16年2月3日の極秘の書状に「堀内伝右衛門から寺坂吉右衛門について話があったが、吉右衛門の事は事情があってめったに口外してはならぬ」と書いている[201]
  • (4)同年2月26日には忠左衛門の親戚拓植六郎右衛門の書状に「吉右衛門はさりとては〳〵頼もしき心中、忠左衛門の頼もあるから自身に引とって世話したい」とある[201]
  • (5)忠左衛門の親戚である平地市右衛門の宝永7年の書状に「寺坂吉右衛門の身の上気の毒である」とある[201]

佐々木杜太郎は以上の書状を根拠にして逃亡説を退けている[201]

寺坂当人も『寺坂信行筆記』において

  • 私儀も上野介殿御屋敷へ一同押し込み相働き、引き払いのとき子細候て引き別れ申し候[203]

と、事情があって離れた旨を書いている

佐々木杜太郎はさらに逃亡説を退けてる理由として以下をあげている

  • 内蔵助の(1)の書状に関しては用意周到な内蔵助が公儀への報告と矛盾する事を書くとは思えない[201]
  • 忠左衛門の(2)の発言における「重ねては名をも仰せ下さるまじく」という言い方は「この件についてはこれ以上触れるな」と言外に言っているようにも取れる[201]
  • 寺坂は12年も吉田忠左衛門の娘婿・伊藤家と忠左衛門の妻子の面倒を見ており、逃亡した人間ができる事とはおもえない[201]

野口武彦も逃亡説は退けており、理由として以下をあげている

  • 内蔵助の(1)の書状に関しては「是非に及ばず候」と書いてある一方で四十七士のリストには寺坂の名前を加えており、これは「今後寺坂については触れるな」というメッセージだとも取れる[200]
  • (2)の忠左衛門の件に関しては佐々木と同じく言外の意図を推測している[200]

密命を帯びていたか否か[編集]

野口武彦は前述したように内蔵助も忠左衛門も寺坂に関して隠したがっている以上、寺坂は何らかの密命を帯びていたのだろうとしている[200]

松島栄一は討ち入りの件を広島浅野本家等に報告させるため、内蔵助達が寺坂を逃がしたのではないかとしている[204]。寺坂は身分が低い足軽である為追求されることもなく、報告役として適任だった[204]

実際、『寺坂私記』には寺坂の孫が

  • 祖父吉右衛門儀は、その場より芸州江注進のため罷(まか)り越す。右芸州へ罷り越し候訳(わけ)は、内匠頭殿舎弟大学との居られ候に付き、内蔵助より差図(さしず)に付き罷り越し候[203]

と内蔵助の指図により、浅野大学に報告しに行くためにその場を離れたと記している。ただし、これは後になって書かれたものなのでそのまま信じることはできない[203]

初期の実録本である『赤穂鍾秀記』も密命説の立場をとり、これを室鳩巣の『赤穂義人録』も取り入れた事で、寺坂を抜いた「四十六士説」ではなく寺坂を入れた「四十七士説」は生まれた[202]

一方、宮澤誠一は、(2)と(3)により、寺坂と忠左衛門には「何か二人の間で個人的に複雑な事情についての了解があったのかもしれない」[202]としつつも、密命説に対しては批判的で、その理由として以下の二つを挙げている。

第一に、仮に内蔵助や忠左衛門が寺坂をかばうためにあえて嘘をついているにしても、私信にまで「欠落」したと書く必要はないはずである[202]。寺坂とは直接関係がないと思われる四十七士の一人・三村次郎左衛門すらも泉岳寺で母にあてて書いた手紙に、寺坂が立ち退いた旨を述べている[202]

第二に、そもそも討ち入りが終わった時点で浅野大学らに密かにどうしても伝えなければならない事柄が果たしてあるのか疑問である[202]。仮にあったとしても、浅野大学が差し置きになったときすら主家に累が及ぶのを恐れて会うのを避けたほど慎重な内蔵助が、討ち入りの顛末を知らせる使者を立てるとは思えない[202]。また内蔵助は大石無人・三平に書簡を出し、死後の供養を頼むとともに「芸州・上方へも仰せ遣わされ下さるべく候」と述べており、危険を冒してまで寺坂を派遣するまでもなく、もっと安全な方法で討ち入りの報告ができたはずである[202]

佐々木杜太郎も宮澤誠一と同様、浅野大学が差し置きの際にすら会うのを避けた内蔵助が寺坂を浅野大学や瑤泉院への報告に使うはずがないとして密命説を退けている[201]

その他の説[編集]

逃亡説・密命説以外でこれまで論じられた説は以下の3つになる[201]

  • 公儀に対する遠慮:高家に武士が乱入して首を取っただけでも公儀から秩序の破壊とみなされかねないのに、身分の低い足軽である寺坂吉右衛門が討ち入りに加わっていたら問題視されるので、寺坂を除外したというもの[201]
  • 亡君の名誉の為:身分の低い足軽である寺坂が討ち入りに加わっては亡君の名誉にならないので、寺坂を除外した[201]
  • 寺坂の本意から:寺坂は吉田忠左衛門に使える足軽なので、直接の主人は浅野内匠頭ではなく忠左衛門である。よって他の者と違い、討ち入り後は忠左衛門の意思を重んじて退去し、忠左衛門の家族に活躍を物語ったとするもの[201]

佐々木杜太郎は「公儀に対する遠慮」や「亡君の名誉の為」という理由であるなら、なぜ最初から寺坂吉右衛門を同志に入れたのかという疑問がわくという理由により、最後の「寺坂の本意から」の説をとっている[201]

また山本博文は武士ではない寺坂を哀れんで吉田忠左衛門が寺坂を逃がしたのではないかとしている[205]

大石良雄の意図[編集]

大石良雄がお家再興を第一とし、討ち入りを引き伸ばして家臣に不評を買った点から、「初め内蔵助には討ち入りを行う意図は無かったのではないか」という推測もある。実際には、刃傷事件4か月後の元禄14年7月の大石の自筆の手紙(お家再興嘆願を依頼された遠林寺の僧侶祐海への手紙)に「吉良殿つつがなきところは、大学様ご安否次第と存じ候」とある。

後世の顕彰[編集]

吉良の服装[編集]

映画やテレビドラマでは、松之大廊下での刃傷事件時の吉良義央(従四位上左近衛権少将)の装束が狩衣あるいは大紋となっているのが見受けられるが、映画『元禄忠臣蔵』などに見られる狩衣は四品侍従成していない従四位下の者)の装束、映画『赤穂浪士 天の巻 地の巻』などに見られる大紋は侍従成していない五位の者の装束であり、朝廷との交渉を職務とする高家(初任従五位下侍従)の装束は昇殿できる直垂である。このうち前者の誤りは、「侍従・四品・諸大夫」と列挙した場合の「四品」は、あくまで「侍従成していない従四位の者」に限られるのを「四位の者全員」と解した誤解によるところが大きい[208]

赤穂事件を題材とした歌舞伎と人形浄瑠璃[編集]

初期の芝居[編集]

浅野内匠頭の刃傷が起こると、元禄15年(1702年)3月[209]にはこの事件が江戸の山村座で『東山栄華舞台』として取り上げられたという[209][210]。そして赤穂浪士が切腹すると、元禄16年2月16日から江戸の中村座で『曙曽我夜討』を上演して当時活躍中の中村七三郎らが曾我兄弟の仇討ちという建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せたものの、3日で上演禁止とされたという[210]。しかし『東山栄華舞台』の上演に関しては『歌舞伎年表』にも『歌舞妓年代記』にも載っていないため疑問が残るし、『曙曽我夜討』の上演に関しては宝井其角の書簡に載っているものの、この書簡には史料的に疑問が残るとされている[210]

また元禄15年10月の大坂竹本座『傾城八花形』の第一段に浅野内匠頭の刃傷を仕込んだともいわれ[209]、翌16年1月に江戸の山村座で上演された『傾城阿佐間曽我』にも大詰に集団の討ち入りを仕組んでいた[209]。同じく元禄16年1月には京都の早雲万太夫座で上演された近松門左衛門作の『傾城三の車』に討ち入りの場面が仕込まれているのも、赤穂浪士の討ち入りの影響とされている[210]。しかしこれらの上演は、幕府から差し止められたという[209]。実際、元禄16年2月には堺町と木挽町(いずれも当時の芝居町)で「近き異時」(最近の事件)を扱ってはならないという幕府の禁令が出ている[210]。このためしばらくは赤穂事件を扱った芝居は上演記録は残っていない[210]

『仮名手本忠臣蔵』まで[編集]

赤穂事件を題材にした演目は数多いが、以下代表的なものを紹介するに留める。

討入りから4年後の宝永3年(1706年)の6月に、赤穂事件に題材をとった近松門左衛門作の一段だけの人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されている[210]。これは(前述の禁令により赤穂事件を直接扱う事はできないので)太平記の世界に擬して赤穂事件を取り扱ったもので、同じく太平記に擬して赤穂事件を扱う『仮名手本忠臣蔵』に影響を与えている。とくに、大石内蔵助に相当する人物が『仮名手本忠臣蔵』と同じく大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)という名前で初めて登場している[210]事は特筆に値する。


浅野内匠頭の17回忌にあたる正徳3年の12月には大阪の豊竹座で紀海音作の人形浄瑠璃『鬼鹿毛無佐志(むさし)鐙』が上演されている。これは宝永7年に大阪の篠塚庄松座で上演された吾妻三八作の『鬼鹿毛武蔵鐙』に負う所が大きい[210]もので、内蔵助は『鬼鹿毛武蔵鐙』と同じく大岸宮内という名である。この作品では赤穂事件を『太平記』に仮託しつつ、そこから離れて足利義政の時代の事件の小栗判官と照手姫の物語も取り上げられている[210]。 この作品は近松門左衛門のライバルであった紀海音であり、内容的にも近松門左衛門の『碁盤太平記』を意識したものになっている[211]。 この『鬼鹿毛無佐志鐙』(とその前作『鬼鹿毛武蔵鐙』)は近松門左衛門の『碁盤太平記』と並び、『仮名手本忠臣蔵』につらなる源流の一つで[211]、この作品で出てきた大岸宮内、小栗判官といった名前は後の作品にも頻出する。

浅野内匠頭の33回忌にあたる享保17年の10月には豊竹座で並木宗輔らの作による『忠臣金短冊(こがねのたんざく)』が上演されているが[210]、これは『碁盤太平記』の系譜と『鬼鹿毛無佐志鐙』の系譜を妥協・融和させて描かれている[211]。作者の一人である並木宗輔は後に「並木千柳」と名をかえ、後に『仮名手本忠臣蔵』の作者の一人になっている。

そして翌延享4年(1747年)には京都の中村粂太郎座で、沢村宗十郎の自作自演による『大矢数四十七本』(延享3年のものと同じ外題)が上演された[210]。 この『大矢数四十七本』は『仮名手本忠臣蔵』の粉本になったことで知られ[210]、大石内蔵助に相当する大岸宮内の役を沢村宗十郎が演じ、祇園町で生酔する演技をしたところ大当たりを取った[210]。後の『仮名手本忠臣蔵』において大星由良之助(大石内蔵助に相当)が遊興する場面は宗十郎のこの演技を真似たものである[212]

『仮名手本忠臣蔵』[編集]

そして赤穂浪士の討ち入りから47年目にあたる寛延元年(1748年)の8月14日に、大阪道頓堀の竹本座で、二代目竹田出雲三好松洛並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が上演され[213]、連続4か月も上演するほどの大当たりとなった[213]。同年12月には大阪の嵐座で歌舞伎でも上演されている[213]。歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた[213]

伊原青々園の『歌舞伎年表』によれば、慶応3年までに江戸だけで89回も上演され、それに大阪、京都、その他での上演を加えると179回にもなる[213]。 人情浄瑠璃のほうでも、黒木勘蔵の『近世邦楽年表・義太夫節之部』には70回も上演されたときされている[213]

忠臣蔵事件[編集]

『仮名手本忠臣蔵』の上演に絡んで、竹本座で内紛があった。上演開始から二か月ほどたった十月に、人形遣いの吉田文三郎から、九段目の段取りが詰まりすぎているところを少し変えてほしい旨の要望が座頭の竹本此太夫に対して出されたのだが、此太夫がこれを断った事ところ、両者とも引き下がらず、どちらかが竹本座を辞めねばならぬところまで事態は発展した[213]。座元の竹田出雲は文三郎を失わないよう、此太夫を引かせることにし、此太夫以下四人が竹本座を辞して豊竹座に行った[213]。代わりに政太夫他3人が豊竹座から竹本座に招かれた[213]。この事件のため、『仮名手本忠臣蔵』の公演を続ける事ができなくなり、十一月で公演を終えている[213]。(この年は閏十月があったため、興業期間は4か月[213])。

なお、文三郎の工夫で今日まで残っているものとして、由良之助の衣装に文三郎の家の家紋である「二つ巴」をつけた事があるといわれている[213]

『仮名手本忠臣蔵』以後[編集]

『仮名手本忠臣蔵』以外にも赤穂事件を題材にした演目は作られ続け、『歌舞伎年表』に載っているものだけでも85個もある[213]。 その中でも特に有名なのは『太平記忠臣講釈』(明和3年竹本座初演、近松半次ら6人の合作)、『義臣伝読切講釈』で、『歌舞伎年表』に載っているだけでも前者は56回、後者は13回も上演されている[213]

寛政期の大阪で上演された奈河七五三助作の『いろは仮名四十七訓』は『泰平いろは行列』と『大矢数四十七本』を合わせて作り直したものと言われ[214]、6幕目が能狂言の『鎌腹』の換骨奪胎である「弥作の鎌腹」であり、今日も上演される[214]。また8幕目は今日でいう「鳩の平右衛門」で、寺岡平右衛門が仇討に行く最中、逢坂山で鳩の親子の愛情を見て、引き返して母親に討ち入りの話を明かし、母親が寺岡を激励するため自害する。8幕目はのちに書き換えられて『稽古筆七いろは』になり、今日では前述のように『鳩の平右衛門』という演題で上演される[214]

文政8年に初演された四代目鶴屋南北の『東海道四谷怪談』は、『仮名手本忠臣蔵』と同時上演され、『仮名手本』の裏で起こっている事件として描かれている。 同じく鶴屋南北の盟三五大切も、四十七士の不破数右衛門が猟奇殺人鬼として登場する一種のパロディ作品である。

天保年間に上演された『裏表忠臣蔵』には、蜂の巣の乱れで大事を知って寺岡平右衛門が江戸へと急ぐ「蜂の平右衛門」が含まれている[215]。 またこの演目が天保4年3月に河原崎座で上演された際には、三升屋二三治が市川海老蔵(後の7代目団十郎)と3代目の尾上菊五郎のために清元の「道行旅路之花聟」が書き下ろされており[216][215]、これが現在では歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』に取り込まれている。

安政期に書かれた『新舞台いろは書初』には現在でいう「松浦の太鼓」が含まれている[215]。 また黙阿弥の『仮名手本硯高島』には「徳利の別れ」が含まれており、『忠臣後日建前』はいわゆる「女定九郎」の物語である[215]

明治以後[編集]

それ以外の創作物[編集]

江戸時代[編集]

評論、読本、浮世絵等[編集]

正徳元年(1711年)には『忠義武道播磨石』(『武道忠義太平記』とも)という実録風の読本が出ており、赤穂事件を鎌倉期の出来事に仮託して描いている[217]。 そして享保2年にはこれを模倣した『近士忠義太平記大全』がでている[217]。 これらは『鬼鹿毛無佐志鐙』から『仮名手本忠臣蔵』までの人形浄瑠璃や歌舞伎に影響を与えているであろう[217]

さらに時代が下ると、安政8年の『案内手本通人蔵』のような『仮名手本忠臣蔵』を前提とした洒落を効かせた本も登場する[217]。 また寛政11年には忠臣蔵を水滸伝に当てはめた山東京伝の『忠臣水滸伝』が描かれた[217]

天保の頃から開港時期にかけて「義士研究」がさかんになり、特に開国直前の嘉永4、5年には、赤穂事件関連の史料を数十年がかりで集めた『赤穂義人纂書』が登場している[218]。 19世紀中葉は「義士伝集成時代」ともいうべき義士ブームの時代で[218]、天保7年には四十七士の銘々伝が書かれた為永春水の『正史実伝いろは文庫』が登場し、安政期には山崎美成が銘々伝的な逸話を集めた『赤穂義士一夕話(いっせきわ)』や『赤穂義士随筆』を書いている[217]。この時期には全国各地の義士の遺跡に記念碑が続々とたてられ[218]、忠臣蔵の芝居も続々と作られた[218]。弘化・嘉永の頃には一勇斎国芳の武者絵『誠忠義士伝』が出て江戸中で大評判になった[218]

天保の頃には泉岳寺に詣でる客も多く、泉岳寺の近くには『仮名手本忠臣蔵』にちなんだ名前がそこかしこにあり、たとえば一力茶屋、大星力弥、天河屋義平にちなんだ「一力」ののれん、「力弥豆」、「天川白酒」などがあったという[219]

嘉永元年には泉岳寺で開帳があり、義士ブームの頂点に達した[218]。これにあわせ一陽斎豊国の芝居絵『誠忠大星一代噺』が描かれている[218]。 泉岳寺の開帳の際には義士の木像が作られたが、これを無料で拝観させようとしたところ、幕府から差し止められた[218]。 忠義ものであっても罪人である赤穂浪士たちの木像を公開して騒ぎ立てるのはよくないというのが理由であった[218]。 幕府は最後まで赤穂浪士を罪人として扱い続けたのである[218]

講釈[編集]

講釈の世界においても、事件当初から「義士伝」が好んで読まれた[220]。義士伝は赤穂事件全体の流れを述べる「本伝」、個々の義士の逸話を述べる「銘々伝」、義士以外の関連人物を対象とした「外伝」に分かれるが、この区分ができたのは近世中期である[220]

19世紀前半に田辺南窓(後に柴田南窓を名乗る)という博覧強記な講釈師が義士伝を得意とし、今日の義士銘々伝はおおむね南窓のものを稿本にしているという[221]

明治以降[編集]

宮澤誠一によると、明治以降の忠臣蔵物の特徴として、欧化主義の時代には「義士」としての四十七士像は批判され、国粋主義・日本回帰の時代には「義士」は賛美される傾向にあるという[222]

明治元年11月5日には、明治天皇が泉岳寺の大石らの墓に対して、勅使を遣わし、勅旨を述べ、金幣を届けさせた[223]。 松島栄一によれば、この件は四十七士が義士であるという論功行賞になってしまったという[223]。 この件は四十七士の義士像を天皇の公認のものとし、それはそのまま明治政府公認の立場ととらえられ、義士を賛美・称揚する人に利用されることになる[223]。 そして同時に、君主・浅野内匠頭に対する義士の忠誠が、天皇や国家に対する忠誠にすり替えられる原因ともなった[223]

一方、文明開化の影響による封建思想への批判もあり、たとえば福沢諭吉は『学問のすゝめ』で「義士」を批判している[222]。福沢によれば内匠頭にしろ四十七士にしろ、刃傷や仇討ちに及ぶのではなく時の政府である江戸幕府に訴えを起こすべきだったとしている[224]

歴史学の立場からは明治22年に重野安繹の『赤穂義士実話』が登場し、ここにはじめて、赤穂事件は近代歴史学の俎上にのった[223]。その後信夫恕軒により、赤穂事件を講談のように面白く物語る『赤穂義士実談』が出ている[223]

日露戦争後、国家主義思潮の高揚にともない、明治維新後最初の忠臣蔵ブームが起こる[225]。その起爆剤になったのが、桃中軒雲右衛門の浪花節と近代の忠臣蔵物の原点[225]となる福本日南の『元禄快挙録』であり[225]、それらの背後には国家主義的な政治結社玄洋社の後援があった。

浪曲師桃中軒雲右衛門玄洋社の後援で「義士伝」を完成させ、武士道鼓吹を旗印に掲げ、1907年(明治40年)には大阪中座や東京本郷座で大入りをとっている。 雲右衛門の義士伝はレコードという新しいメディアを利用する事で爆発的な人気を呼んだ[226]。 また浪曲師二代目吉田奈良丸も『大和桜義士の面影』で大高源吾と宝井其角の出会いを歌って大ヒットを呼び、「奈良丸づくし」と称して演歌にまでなった[226]。この事が大高源吾の笹売り伝説の普及に一役買った[227]

明治42年には、玄洋社系の新聞九州日報の主筆兼社長である国粋主義者[228]福本日南著『元禄快挙録』のような、「義士」の犠牲精神を強調し、国民統合を目指した言説が登場し[222]、洛陽の紙価を高めるような評判をとった[223]。 この本によって戦前の近代日本における忠臣蔵的見解が示されたといっても過言ではない[223]。これは時を同じくして国民道徳としての武士道が高揚されたことと無関係ではない[223]。日露戦争で旅順攻囲戦を指揮した乃木希典山鹿素行に心酔していた[223]

明治45年には福本日南が中心となって中央義士会が設立される。

活動写真もこの頃「忠臣蔵」を普及させたメディアの一つで、最初の忠臣蔵映画は、1907年に歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の五段目を撮影したものである[229]。 またこの頃の忠臣蔵映画の代表作の一つに、1912年の横田商会による牧野省三監督作品『実物応用活動写真忠臣蔵』全47場があり、主人公の尾上松之助が大石内蔵助、清水一学、浅野内匠頭の三役を演じている[229]。この映画はその2年前に作成された松之助最初の全通し42場の『忠臣蔵』をもとにしたて村上喜剣の話などを付け加えたもので[229]、「実物応用」というのは活動写真の合間に俳優が実演する映画の事である[229]。この頃の忠臣蔵映画では、浪花節が口演されたりレコードで流されたりする事があった[229]

大正デモクラシーの頃には忠臣蔵もその影響を受け、忠義よりも人間的の自然な感情や抵抗の精神を重視した研究も生まれてくる[230]。 1913年に刊行した司馬僧正の『拙者は大石内蔵助ぢや』とその続編『赤裸々の大石良雄』は、忠臣蔵に自然的な手法を持ち込み、英雄大石内蔵助といえど内面は凡人と変わらぬ事を説こうとしたが、それは伝統的な儒教道徳の禁欲倫理の裏返しに過ぎないなどの限界があり、近代的自我に目覚めつつある当時の知識人の期待に応えるものではなかった[231]

1917年には吉良低討ち入り後に細川屋敷に預けられた大石内蔵助の内面に初めて近代文学の光を当てた芥川龍之介の『或日の大石内蔵助』が登場している。

大正デモクラシーの衰退期には明治維新後第二の忠臣蔵ブームが起こり、中央義士会の活発な活動や、忠臣蔵の講談や浪花節がラジオで活発に放送された[232]。 しかしこのころには同時に、忠君愛国的な「義士」像に対する批判や、人間的政治的視点を盛り込んだ小説も登場している[232]。 1926年、野上弥生子は『大石良雄』において、そのときどきの感情に突き動かされ、最終的に復讐を義務・責任と感じる内蔵助像を描いた[233]。これは近代的精神が抑圧され挫折させられた大正末期の知識人の屈折した内面を表現したものであろう[233]。 また1927年から新聞連載された大佛次郎の『赤穂浪士』は昭和の金融恐慌にはじまる社会不安を背景として書かれ、腐敗した封建的な官僚主義政治に対抗する大石内蔵助像を描いてベストセラーになった[234]

五・一五事件の首謀者達は自分たちの行動を桜田門外の変に見立てていたが、泉岳寺に集結するなど「忠臣蔵」をも意識した行動をとっていた[235]。また彼らに対する論告求刑文においても、山本検察官が赤穂事件に対する荻生徂徠の論説を引き、もし首謀者達を無罪にすれば後の禍根になる旨を述べた[235]

二・二六事件では首謀者達が忠臣蔵を想起したと思われる言動は少ないが、岡田啓介首相の生存が報道されると、吉良上野介のように炭小屋に隠れていたのではないかというデマが流れた[236]

博物館・資料館[編集]

類似の事件[編集]

類似の刃傷事件[編集]

赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

  • 寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。鈴木は死亡。木造は助かった。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡。木造は逃げたことを咎められ、改易となった。加害者は死罪、被害者は死亡と改易の例。
  • 寛永5年(1628年):目付豊島信満が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木義精を殺害し、その場で自害した(豊島事件)。被害者加害者共に死亡の例。
  • 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。加害者は死罪、被害者は無罪の例。
  • 貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。加害者被害者共に死亡の例。


後年の例としては享保10年7月28日 (旧暦)1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件がある。水野忠恒松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かった。このとき将軍徳川吉宗は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも吉宗と綱吉の違いがここにあると言われる。


類似の討ち入り事件[編集]

赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった寛文12年(1672年)の浄瑠璃坂の仇討がある。 浄瑠璃坂の仇討宇都宮藩を脱藩した奥平源八が寛文12年(1672年)2月3日に父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討った事件である。 源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。 源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。幕府は本来ならば死罪であるところを死一等を減じて伊豆大島への流罪という寛大な処分を行った。 恩赦後、一党は他家へ召抱えられた。 この事件を知っていた赤穂浪士は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある[237]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 三田村(1930)松島(1964)今尾(1987)宮澤(1994)野口(1994)田口(1999)山本(2012a)、『元禄時代と赤穂事件』(大石学、角川選書)、『忠臣蔵の世界: 日本人の心情の源流』(諏訪春雄 大和書房)、『忠臣蔵 もう一つの歴史感覚』(渡辺保、講談社学術文庫)
  2. ^ 『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎 (歴史群像デジタルアーカイブス)』(今井敏夫)、『考証 元禄赤穂事件―「忠臣蔵」の虚実』(PHPビジネスライブラリー 稲垣 史生)
  3. ^ a b c d e f 山本(2012a) 第一章一節「梶川与惣兵衛の証言」
  4. ^ a b c d e 山本(2012a) 第二章二節「大石の真意」
  5. ^ a b c d e f g 山本(2012a) 第三章三節
  6. ^ a b c d e f g h 山本(2012a) 第三章四節
  7. ^ a b c d e f 山本(2012a) 第三章四節「山科会議」
  8. ^ a b c d 山本(2012a) 第四章二節
  9. ^ a b c d e f g 山本(2012a) 第四章三節
  10. ^ a b c d e 山本(2012a) 第一章一節「運命の三月十四日」
  11. ^ a b c d e 山本(2012a) 第一章一節
  12. ^ 野口(1994) p56
  13. ^ 『梶原氏筆記』。山本(2012a) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」より重引。現代語訳も同書から引用。
  14. ^ 山本(2012a) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」
  15. ^ 現在の東京都港区新橋4丁目
  16. ^ a b c 山本(2012a) 第一章二節「幕府の裁定」
  17. ^ 『一関藩家中長岡七郎兵衛記録』宮澤(1999) p44より重引。
  18. ^ a b c d 山本(2012a) 第一章三節
  19. ^ 山本(2012a) 第一章二節より重引。現代語訳も同書から引用。
  20. ^ 山本(2012a) 第一章二節「幕府の裁定」より重引。現代語訳も同書から引用。
  21. ^ a b c 山本(2012a) 第一章二節
  22. ^ a b c 山本(2012a) 第一章二節「吉良の家系」
  23. ^ a b c d e f g h 山本(2012a) 第二章一節
  24. ^ a b c 山本(2012a) 第二章一節「江戸屋敷と居城の明け渡し」
  25. ^ 山本(2012a) 第二章一節「藩札の処理」
  26. ^ a b 宮澤(1999) p53-54
  27. ^ a b c d e f g h 山本(2012a) 第二章二節
  28. ^ 山本(2012a) 第二章一節「吉良存命の報」
  29. ^ a b c d e f 山本(2012a) 第二章三節
  30. ^ a b c d e f 山本(2012a) 第二章四節
  31. ^ 谷口(2006) p44
  32. ^ a b 山本(2012a) 第二章五節
  33. ^ a b 山本(2012a) 第三章一節
  34. ^ 山本(2012a) 第三章二節
  35. ^ a b c 谷口(2006) p100
  36. ^ a b c 山本(2012a) 第五章一節
  37. ^ a b 山本(2012b)第四章1節
  38. ^ a b 山本(2012a) 第五章三節
  39. ^ a b c d 山本(2012a) 第五章三節「南部坂の別れ」
  40. ^ a b c d e f g 山本(2012a) 第五章四節
  41. ^ a b 山本(2012a) 第五章四節「吉良邸茶会の情報」
  42. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 山本(2012a) 第五章二節「続出する脱盟者」
  43. ^ 山本(2014)p74-75
  44. ^ a b c 元禄(1999) p64
  45. ^ 山本(2012a) 第五章四節「揺れる討ち入り前の心」
  46. ^ a b c 山本(2012a)第六章一節
  47. ^ a b c 山本(2012a)第六章一節「結実のとき」
  48. ^ a b c 山本(2012a)第六章二節
  49. ^ a b c d 山本(2012a)第六章三節
  50. ^ 野口(1994) p146
  51. ^ 山本(2012b)第四章三節「計画通りの討ち入り」
  52. ^ 谷口(2006) p175
  53. ^ 渡辺(1998) p.206-207
  54. ^ 渡辺(1998) p.207
  55. ^ 渡辺(1998) p.212-213
  56. ^ 渡辺(1998) p.234-237
  57. ^ 斎藤(1975) p.492-493
  58. ^ 斎藤(1975) p.494
  59. ^ 渡辺(1998) p.238
  60. ^ 渡辺(1998) p.240-241
  61. ^ 渡辺(1998) p.241-242
  62. ^ 斎藤(1975) p.498
  63. ^ 泉(1998) p.119
  64. ^ a b 泉(1998) p.120
  65. ^ a b 泉(1998) p.121-122
  66. ^ 泉(1998) p.278
  67. ^ 泉(1998) p.122/279
  68. ^ a b c d e f 谷口(2006) p164-171
  69. ^ a b c 佐々木(1983) p203-206
  70. ^ a b 佐々木(1983) p318-322
  71. ^ a b c 佐々木(1983) p259-262
  72. ^ a b 佐々木(1983) p294-301
  73. ^ a b 佐々木(1983) p290-293
  74. ^ a b 佐々木(1983) p287-288
  75. ^ a b c 佐々木(1983) p313-314
  76. ^ 谷口(2006) p142
  77. ^ a b c d e f g 谷口(2006) p108-117
  78. ^ a b c 谷口(2006) p134-135
  79. ^ <佐々木(1983) p360
  80. ^ a b c 谷口(2006) p159
  81. ^ 谷口(2006) p167
  82. ^ a b c d e f g 山本(2012b)第二章3節「再仕官の悲劇と裏切り」
  83. ^ 佐々木(1983) p400
  84. ^ 山本(2012a)第三章四節「高田郡兵衛の脱盟」
  85. ^ a b c 田口(1998) 第三章2節「大石ファミリー」
  86. ^ 田口(1998) 第三章2節「妻たちの苦悩」
  87. ^ a b 田口(1998) 第五章1節「女でしくじった男の話」
  88. ^ a b 佐々木(1983) p418
  89. ^ a b 田口(1998) 第五章2節「 心乱るる庄左衛門」
  90. ^ a b c d 『忠臣蔵-その成立と展開-』松島栄一著 岩波新書 p109
  91. ^ 佐々木(1983) p365
  92. ^ 谷口(2006) p123
  93. ^ 谷口(2006) p124
  94. ^ 谷口(2006) p126
  95. ^ 谷口(2006) p131
  96. ^ a b c d 佐々木(1983) p398
  97. ^ 赤穂義士史料上(1931) p263
  98. ^ a b 野口(1994) p140
  99. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 野口(1994)p35-45
  100. ^ 近代デジタルライブラリ元禄快挙四十七士
  101. ^ コトバンクデジタル版 日本人名大辞典+Plus脇坂安照
  102. ^ 講談名作文庫(1976)
  103. ^ 忠臣蔵新聞「ダイジェスト忠臣蔵(第12巻)」
  104. ^ 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「大石氏僕」
  105. ^ 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「大石氏僕」
  106. ^ 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「寺井玄渓 」
  107. ^ 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「小野寺秀和妻」
  108. ^ a b 講談名作文庫(1976)
  109. ^ a b c d 佐々木(1983) p433
  110. ^ a b 宮澤(2001) p29
  111. ^ コトバンクデジタル版 日本人名大辞典+Plus『林鶴梁』
  112. ^ 田口(1998)、第四章2山科妻子の別れ
  113. ^ a b c d 山本(2012a)第四章一節
  114. ^ a b c d e f g 山本(2012a) 第四章一節「祇園遊びの真意」
  115. ^ a b 佐々木(1983) p191
  116. ^ a b 野口(1994)p124
  117. ^ コトバンク『武備和訓』
  118. ^ 今尾(1987)、p203
  119. ^ 今尾(1987)、p199
  120. ^ 山本(2012a) 第五章二節
  121. ^ a b c 谷川(2013)p280、283、379
  122. ^ 宮澤(2001) p47。近代デジタルライブラリー『講談落語今昔譚』149コマ目
  123. ^ コトバンク 新撰 芸能人物事典 『伊東燕尾』
  124. ^ a b c 箱根町観光情報ポータルサイト「箱根旧街道休憩所」
  125. ^ a b c d 講談名作文庫(1976)
  126. ^ a b 佐々木(1983) p336
  127. ^ コトバンクデジタル版 日本人名大辞典+Plus『天野屋利兵衛』
  128. ^ 松島(1964) p174
  129. ^ a b 江崎(1940) p14 -
  130. ^ 佐々木(1983)
  131. ^ 『江戸歌舞伎の残照』吉田弥生著 文芸社 p165
  132. ^ a b c 佐々木(1983) p175
  133. ^ a b 佐々木(1983) p405
  134. ^ 両国の俵星玄蕃道場跡の看板
  135. ^ 宮澤(1994)
  136. ^ 『赤穂義人纂書. 第2 巻之9−18』 国書刊行会 p432
  137. ^ 忠臣蔵文庫(1912)
  138. ^ 立命館大学『忠臣蔵と見立て』誠忠大星一代話
  139. ^ データ百科シリーズ『元禄忠臣蔵データファイル』、元禄忠臣蔵の会編、人物住来社 p238。近代デジタルライブラリ『文芸叢書. 忠臣蔵文庫 』 四十七石忠箭計 四幕目(404コマから)の葉泉院第舎の場
  140. ^ コトバンク世界大百科事典「南部坂雪の別れ」
  141. ^ a b 南部坂雪の別れ 図書 桃中軒雲右衛門 講演 (東京明倫社(ほか), 1912年)近代デジタルライブラリの該当箇所
  142. ^ a b 大石内蔵助東下り : 武士道精華 雪花山人著 (立川文明堂, 1912年)。近代デジタルライブラリの該当箇所
  143. ^ a b c d e f g 谷川(2013)「瑤泉院に見られる字自立する女性のイメージ」 p369 - p376
  144. ^ 谷川(2013)ではその例として忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻(1959年)と赤穂浪士(1961年)を挙げている
  145. ^ 1958年大映版の忠臣蔵谷川(2013)より。
  146. ^ 真山(1982) p59
  147. ^ すみだあれこれ/討ち入り蕎麦
  148. ^ 忠臣蔵文庫(1912)
  149. ^ a b c 近代デジタルライブラリ『義士伝』泉岳寺書上。p450に楠屋の件が載っており、p466に浅野内匠頭の亡霊が登場する。p455には太鼓を打ち鳴らしたとある。
  150. ^ a b 三田村(1930)p256 -
  151. ^ 今尾(1987) p49
  152. ^ a b 赤穂義士史料下(1931) p4, p513
  153. ^ 忠臣蔵文庫(1912)
  154. ^ a b 山本(2012b)第四章3節「計画通りの討ち入り」
  155. ^ 赤穂義士史料上(1931)p268(本書では寺坂信行筆記のうち寺坂私記と共通する部分は省かれているため、寺坂私記の方に当該文書が載っている)
  156. ^ a b c 元禄(1999)p118
  157. ^ こよみのページ「暦のこぼれ話」赤穂義士祭
  158. ^ 講談名作文庫(1976)。「神崎与五郎かながきの詫び証文」
  159. ^ a b c d e f g 宮澤(1994) p163-166
  160. ^ a b c d 『歴史群像デジタルアーカイブス<元禄赤穂事件と江戸時代>討ち入りは愚策? 山鹿流兵法と忠臣蔵』大山格
  161. ^ a b c d e f g h i 宮澤(1994) p166-168
  162. ^ a b c d e f g 山本(2012a)第六章四節「上杉家の対応」
  163. ^ a b 『忠臣蔵四十七義士全名鑑 完全版』 中央義士会 p324-325
  164. ^ 佐々木(1983) p342
  165. ^ 真山(1982)
  166. ^ a b c 佐々木(1983) p177-178
  167. ^ CiNii『 赤穂義士傳一夕話』
  168. ^ 近代デジタルライブラリ『赤穂義士伝一夕話』四巻53ページ
  169. ^ a b c 田口(1998)第三章3『祇園可音物語』
  170. ^ a b c 今尾(1987)、p108-119
  171. ^ a b 『歴史群像デジタルアーカイブス<元禄赤穂事件-忠臣蔵外伝>なぜ大多数の赤穂藩浪士は仇討ちに参加しなかったのか』桐野作人
  172. ^ a b 谷口(2006) p179-180
  173. ^ 元禄(1999)p113
  174. ^ a b 山本(2012a)第四章三「脱盟者の思い」
  175. ^ 近代デジタルライブラリ『正史実伝いろは文庫』 p103, 177, 401を参照。
  176. ^ 今尾(1987)、p97
  177. ^ a b c 田口(1998)第二章2節「いないはずの女たち」
  178. ^ a b c d 田口(1998)第二章3節「それぞれの母」
  179. ^ 『正史実伝いろは文庫』第十四回。忠臣蔵文庫(1912)
  180. ^ 佐々木(1983)。p756
  181. ^ 忠臣蔵文庫(1912)
  182. ^ a b 田口(1998)第三章3節「大石内蔵助の娘」
  183. ^ 谷口(2006) p20
  184. ^ a b 谷口(2006) p30
  185. ^ a b c d 野口(1994) p55
  186. ^ a b c d e f 野口(1994) p15
  187. ^ a b 谷口(2006) p20-21
  188. ^ a b c 谷口(2006) p20-21
  189. ^ a b 谷口(2006) p31-32
  190. ^ 山本(2012b) 序章「基礎史料と事件の経過」
  191. ^ a b c d e f g h i j 宮澤(1994) p26-33
  192. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 佐々木(1983) p26-42
  193. ^ 野口(1994)p22
  194. ^ 『元禄江戸人のカルテ』。野口(1994)p22より重引
  195. ^ a b c d 今尾(1987)、p91。中島陽一郎の『病気日本史』の記述は同書からの重引。
  196. ^ a b c d 『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎 (歴史群像デジタルアーカイブス)』今井敏夫 「浅野と吉良の間に塩問題は存在したか?」
  197. ^ 元禄(1999)p91
  198. ^ a b 山本(2012a)第一章三節「内匠頭の評判」
  199. ^ 『忠臣蔵の世界: 日本人の心情の源流』 諏訪春雄 大和書房, 1982年。p69
  200. ^ a b c d e 野口(1994) p197-200
  201. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 佐々木(1983) p259-262
  202. ^ a b c d e f g h 宮澤(1999) p168-172
  203. ^ a b c 山本(2012a)第六章三節「寺坂吉右衛門の行方」
  204. ^ a b 松島(1964) p118
  205. ^ 山本(2012b) 第一章3節「むしろ多い下級家臣の参加」
  206. ^ 斎藤(1975) p.804
  207. ^ 斎藤(1975) p.805-87
  208. ^ 高家の装束が直垂であることは、神坂次郎著『おかしな大名たち』所収の大沢基寿の史談会での談話に明らかである
  209. ^ a b c d e 立命館大学デジタル展示『忠臣蔵と見立て』仮名手本忠臣蔵成立史
  210. ^ a b c d e f g h i j k l m n 松島(1964) p132-142
  211. ^ a b c 松島(1964) p147-148
  212. ^ 今尾(1987)、p199
  213. ^ a b c d e f g h i j k l m n 松島(1964) p180-189
  214. ^ a b c 松島(1964) p199-200
  215. ^ a b c d 松島(1964) p201
  216. ^ 松島(1964) p161
  217. ^ a b c d e f 松島(1964) p203-208
  218. ^ a b c d e f g h i j 宮澤(2001) 20-21
  219. ^ 谷口(2006) p187
  220. ^ a b 宮澤(2001) p11-12。
  221. ^ 宮澤(2001) p11-12。関根黙庵『講談落語今昔譚』(雄山閣)を重引。近代デジタルライブラリー 46コマ目
  222. ^ a b c 谷口(2006) p186-188
  223. ^ a b c d e f g h i j 松島(1964) p210-215
  224. ^ 青空文庫『学問のすすめ』
  225. ^ a b c 宮澤(2001) p15
  226. ^ a b 宮澤(2001) p82
  227. ^ 松島(1964) p217
  228. ^ 広瀬玲子 『国粋主義者の国際認識と国家構想─福本日南を中心として─』 芙蓉書房出版、2004年 ISBN 4829503394
  229. ^ a b c d e 宮澤(2001) p82-84
  230. ^ 宮澤(2001) p109
  231. ^ 宮澤(2001) p113-116
  232. ^ a b 宮澤(2001) p15
  233. ^ a b 宮澤(2001) p144-146
  234. ^ 宮澤(2001) p147-153
  235. ^ a b 宮澤(2001) p167-168
  236. ^ 宮澤(2001) p175-176
  237. ^ 竹田真砂子 浄瑠璃坂の討入り - 忠臣蔵への道 -(1999/3) ISBN9784087811698 (4087811697)

参考文献[編集]

歴史に関する文献[編集]

創作物[編集]

  • 『文芸叢書 忠臣藏文庫』 博文館、1912年(明治45年)。 近代デジタルライブラリー Google Books
    • 『正史実伝いろは文庫』、『忠臣水滸伝』、『仮名手本忠臣蔵』、『四十七石忠箭計』を収録。
  • 『日本戯曲全集 第十五卷』 春陽堂、1928-1933年(昭和3年)。 近代デジタルライブラリー
    • 『太平記忠臣講釋』、『菊宴月白浪』、『忠孝兩國織』、『いろは假名四十七訓』、『義臣傳讀切講釋』、『繪本忠臣藏』、『假名手本忠臣藏』を収録。
  • 片島深淵子 『赤城義臣伝』。 近代デジタルライブラリー
  • 山崎美成 『赤穂義士伝一夕話』。 近代デジタルライブラリー
  • 『赤穗復讎全集: 全』 博文館 Google Books
    • 『赤穂義士伝一夕話』、『忠臣武道播磨石』、『忠臣藏當振舞』、『俳諧忠臣藏』、『長門本忠臣藏』、『忠臣藏岡目評判』、『繪本忠臣藏』、『いろは文庫』を収録
  • 『忠臣藏淨瑠璃集』 博文館、1896年(明治29年)。 Google Books
    • 『碁盤太平記』、『忠臣金短冊』、『假名手本忠臣藏』、『難波丸金鶏』、『いろは歌義臣鍪』、『太平記忠臣講釋』、『躾方武士鑑』、『いろは藏三組盃』、『忠臣伊呂波實記』『廓景色雪の茶會』、『忠義墳盟約大石』、『忠臣一力祇園曙』、『忠臣後日噺』を収録
  • 真山青果元禄忠臣蔵(上、下)』 岩波書店、1982年(昭和57年)。ISBN 978-4003110119, 978-4003110126。
  • 『講談名作文庫5赤穂義士銘々伝』 講談社、書籍版1976年(昭和51年)kindle版2014年(平成26年)。
  • 『定本講談名作全集 第7巻』 講談社、書籍版1971年(昭和46年)。

創作物に関する文献[編集]

史料[編集]

関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]