小野寺秀和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『誠忠義士傳 小野寺十内秀和』(歌川国芳画)
『誠忠義士傳 斧寺十内妻』(歌川国芳画)

小野寺 秀和(おのでら ひでかず、寛永20年(1643年)- 元禄16年2月4日1703年3月20日)))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。小野寺又八の子。通称は十内(じゅうない)、雅号は里竜悦貫本姓藤原氏家紋は木瓜。変名は、仙北十庵[1]

生涯[編集]

寛永10年(1643年)、浅野家家臣・小野寺又八の長男として常陸国笠間(赤穂移封前の浅野家城地)に誕生。母は多川九左衛門女。弟に岡野包住岡野包秀の父)、姉に貞立尼大高忠晴の室。大高忠雄小野寺秀富の母)がいる。また間瀬正明正辰父子、中村元辰なども縁戚にあたる。

赤穂藩士として仕え、150石を知行。寛文末から延宝初年ごろの間に灰方佐五右衛門の娘のと結婚し、丹と秀和は仲睦まじいことで知られ、丹の妹・いよも秀和の養女に迎えられた。また、秀和は武道のみならず和歌古典儒学にも通じ、元禄7年(1694年)に京都留守居役(役料70石)を拝命したのを機に、京で儒者伊藤仁斎に経史を学び、さらに夫婦で歌人・金勝慶安に師事して数々の和歌を残している。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易と決まった。京都でこの凶報に接した秀和は老母と妻を残し、鎧一領、槍一筋を具して篭城討死覚悟で赤穂へ駆けつけた。赤穂城開城では大石良雄の右腕として活動。江戸幕府目付荒木政羽榊原政殊の接待役にあたった。

赤穂城明け渡し後、6月に京都に戻った。基本的にはその後も大石派(お家再興優先派)として行動し、7月に大石が長矩の親族である戸田氏定大垣藩主)に主家再興の嘆願に訪れた時も同道している。その後、長矩の実弟・浅野長広に広島本家お預りが決まり、主家再興の望みが消えると、大石良雄は仇討ちを確定し、元禄15年(1702年)10月に秀和も瀬尾孫左衛門とともに江戸へ下り、大石の嫡男・大石良金や養子秀富と麹町中村宿宅にて同居した。偽名として「仙北十庵」と名乗る。その後も討ち入りまでの間、大石良雄をよく補佐し続けた秀和だが、元禄15年(1702年)4月21日には養女いよ、9月5日には弟の岡野包住、9月9日には母と、この頃立て続けに血縁を失っている。

12月14日の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して吉田兼亮間光延とともに裏門隊大将大石良金の後見にあたった。討ち入ろうとした直前、二人の敵が屋敷から飛び出し逃げようとしたので、大石・吉田・間・片岡らと一緒にこれを取り囲み、秀和は槍で杉松三左衛門を討ち取っている。もう一人の牧野春斎は間が突き殺した。その後邸内に皆で入り、秀和はさらに二人の敵を倒している。

武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、大石良雄らとともに熊本藩主・細川綱利の下屋敷へお預けとなる。細川家にお預け中は、妻丹と折に触れて和歌のやりとりをしている。元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により細川家家臣・横井時武の介錯で切腹。享年61。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃以串剣信士。

後史[編集]

妻の丹は、秀和の死後の6月18日、京都本圀寺で絶食して自害し、夫の後を追った[2]。養子・小野寺秀富大高忠雄の弟)、養女いよとは別に、妾との間に徳之丞という庶子があり、連座を怖れて各地を放浪したとも伝わる[3]

脚注[編集]

  1. ^ 関ヶ原西軍で敗れた仙北の大名・小野寺氏の庶流を自認する(嫡流は横手領(城はあるが藩ではない)士として明治に至る)。
  2. ^ 小野寺十内書簡「妻へ-飢え死にも覚悟されよ」(『涙襟集』所収)
  3. ^ 赤穂大石神社・赤穂市観光ガイド協会

関連項目[編集]