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佐野政言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐野善左衛門宅跡東京都千代田区

佐野 政言(さの まさこと / まさつね[注 1]宝暦7年(1757年) - 天明4年4月3日1784年5月21日))は、江戸時代中期の旗本。通称、善左衛門佐野政豊の子で、目付江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄(妻の兄)[2]。姉に春日広瑞室、小宮山長則室。10人姉弟の末子で一人息子であった。

生涯

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佐野善左衛門家は、松平清康以来松平氏徳川氏に仕えた譜代佐野備後守家[注 2]の分家であり、藤原秀郷流を称していた[4]。善左衛門家は五兵衛政之が徳川秀忠の時代に廩米300俵を受けて立家したのに始まる[4]。政之は御小姓組であり、子孫は代々番士を務めている[3]綱吉治世の1698年元禄11年)より番町に屋敷を構えた[注 3]。政之の孫政矩は廩米200俵の加増を受け、宝永6年の致仕とともに下野国都賀郡のうちに500の采地を賜った[4]。政矩の孫であり、政言の父に当たる伝右衛門政豊も大番西丸本丸新番を務め、1773年(安永2年)に致仕し、代わって政言が同年8月22日に17歳で家督を相続した。1777年(安永6年)に大番士、翌1778年(安永6年)に新番士となる[6]天明3年(1783年)年の冬、将軍徳川家治鷹狩りに供弓として選ばれる名誉を受け、1羽を射ち取りながらも褒賞にあずかれなかった[2]

同4年(1784年3月24日江戸城中で退出しようとしていた若年寄田沼意知に切りつけ、手と腹部と下腿部を負傷させた[7]。意知は切りつけられたまま逃亡し、政言は意知を見失った[8]。政言は大目付松平対馬守忠郷に取り押さえられ、目付の柳生主膳正久通によって脇差を取り上げられた[8]。その後蘇鉄の間に入れられた後、老中田沼意次の命令で伝馬町揚座敷に預けられた[9]。その後大目付大屋明薫江戸町奉行曲淵景漸、目付山川貞幹による取り調べを受けている[9]

意知は手当の遅れもあり、その8日後4月2日に絶命すると[6]、先例に従って4月3日に政言は揚座敷にて切腹を命じられた[10][11]。『田沼実秘録』や『佐野田沼始末』には政言の切腹の有様が描写されている。当時は切腹と言っても儀礼的なものであり、切腹人が三方の木刀に手をかけたところで介錯人が首を切るというもので、実際に腹を切ることはほとんどなかった。しかし政言は「刃物刃物」と叫び、実際に真剣で腹を切らせるよう要求した。要求通りに刀は三方に載せられたが、政言よりやや遠い位置に置かれた。政言が前かがみになって刀を取ろうとしたところ、首を差し出す形となり、介錯が行われたという[10]数えの28歳[12]であった。

政言の葬儀は4月5日に菩提寺の台東区西浅草徳本寺(とくほんじ[12][13])で行われたが、両親など遺族は謹慎を申し付けられたため出席できなかった[1]。葬儀には見物人が大勢詰めかけ、寺の門扉に「佐野大明神」と書かれた紙が貼り付けられるなどの騒ぎとなり、寺社奉行や同心が寺の玄関で待機する事態となった[14]。法名は元良印釈以貞居士[15]

後に徳本寺に寄贈された文書の中には、政言の辞世とされるものがある。これは鏡文字で書かれた異様なものであり「こと人に阿らて御国の友とちたたかひすつる身はゐさきよし(他の人ではない御国の人 戦いを捨てたこの身は清々しいものである)」というものであった[16]。また世上には辞世とされるものが広まっている。ただし、幕府の記録では政言が切腹の場で辞世を詠んだという記録はない[17]

  • 卯の花の盛りもまたで死手の旅 道しるべを山時鳥(『新燕石十種』)[16]
  • 卯の花の盛を捨て死出の旅 山時鳥道しるべせよ(『鼠璞十種』)[16]

事件の動機

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幕府の取り調べでは乱心と言うこととなり[18][19][21][23]、意知暗殺の動機は明らかにはならなかった。

事件直後から様々な憶測が広まったが、いずれも史料上に裏付けはない[18]。当時のオランダ商館長イサーク・ティチングは何らかの政治的謀略があったという噂が広まっていたとしている[16]

江戸時代後期に著された作者不明の『営中刃傷記』[注 4]によれば、政言は暗殺時に懐中に七か条の口上書を持っていたとされ、焼き捨てられたが松平忠郷がこれを密かに写し取っていたとされる[24]。また在所に17箇条の口上書を残していたともされる[24]。これによれば、「田沼家は本を正せば佐野の家来筋」「家系図を貸してくれと言うので貸したが全く返却されない」「佐野家の領地下野国甘楽郡西岡村・高井村にある佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神に改称した」[注 5]」「役付となるために田沼の公用人と話したが、何の役にもつけないまま3年間で620両取られた」[27][28][注 6][29]などの理由が書かれている。ただし佐野家の采地は『寛政重修諸家譜』によれば下野国都賀郡であり、「口上」の内容とは異なる[4]

その後の佐野家

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佐野家は改易となり、家屋敷は召し上げられた。しかし闕所とはされなかったため、遺産は遺族に譲ることが認められた[30]。政言には子や男兄弟はおらず、同居していた家族は父母と妻、そして叔父のみであった[3]。血縁者には連座は及ばず、父母は長女の婿であった春日家に身を寄せた。佐野家は絶えたが、明治から昭和頃には政言の後裔を称する人物が存在していた。山田忠雄は善左衛門家の祖・政之の弟の家系佐野喜左衛門家の出身ではないかと見ている[14]

その一人である人物と連絡を取っていた三田村鳶魚の日記によると、佐野家の再興を行う動きが何度かあったとされる。寛政年間には幕府から佐野家再取り立てのため徳本寺に問い合わせがあったが、徳本寺は政言に血縁の男子がいないと回答したため、再興はならなかった[31]。また、三田村が明治43年(1910年)に面会した佐野家の後裔は、50年ほど前の「松倉周防守が老中の時[注 7]」に、当該の人物を後嗣として政言の家の再興を認め、禄については追って沙汰をするということとなったが、幕末の混乱により叶わなかったという[31]。1984年には政言の名跡を継いでいた当時の当主が病死し、遺族が関連資料を菩提寺の徳本寺に寄贈している[30]

死後の影響と「世直し大明神」となった政言

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田沼とその倹約令を嫌う風潮があった市中では、田沼の跡継ぎを斬ったことを評価され、世人からは「佐野大明神」、後には「世直し大明神[18][2][19][32]と呼ばれ崇められた[33]。高止まりだった米の相場は投機筋の売り参入で刑の翌日から下落し財政は逼迫、やがて天明6年(1786年)の処分を経て田沼意次も失脚する[12]。ただし、佐野の切腹直後に米価が下落したのは幕府が天明の大飢饉で苦しむ民衆を救済するために、大坂町人から買持米を6万5000石ほど摘発し、その3分の1にあたる2万8000石が江戸に到着したためであり、佐野のおかげではない。しかも、米価は天明4年(1784年)春から再度上昇し始めた[34](天明8年(1788年)に意次は死去)。

佐野が意知を斬った刀は粟田口忠綱脇差だったため、忠綱作の刀は急に相場が上昇した。また、佐野に対する同情から、墓所の浅草徳本寺には多くの人々が参詣に訪れ、線香の煙がしばらく絶えなかったという[33]

年が明け改元後の寛政元年(1789年)に黄表紙『黒白水鏡』(石部琴好作、北尾政演画)を出版すると、刃傷事件を表現したとして、版元と絵師が手鎖に処されたうえ、江戸払いと過料を申し付けられた[2][35]

また浄瑠璃歌舞伎においては寛政元年の『有職鎌倉山』を皮切りに、刃傷事件を題材とした複数の「田沼騒動物」が上演された[36]

政言を取り押さえた松平忠郷は報奨として、上野国新田郡において200石を加増された[37]

関連作品

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古典
  • 有職鎌倉山』- 寛政元年(1789年)8月に浄瑠璃として初演、10月に歌舞伎として初演。菅専助作。謡曲鉢の木』をからめたストーリーで、「佐野源左衛門」が「三浦荒次郎」を討ち、切腹になるという筋立て[36][38]。『鎌倉比事青砥銭』の外題でも上演されている。
  • 『佐野系図由緒調』- 寛政元年(1789年)2月初演。実録物。
小説
映画
テレビドラマ
漫画

脚注

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  1. ^ 「まさこと」の読みは『寛政重修諸家譜』による。菩提寺である徳本寺の過去帳では「まさつね」とある[1]
  2. ^ 同世代の当主、佐野備後守政親は当時大坂町奉行を勤めていた[3]
  3. ^ 屋敷跡には大妻女子大学・短期大学が立つ。千代田区三番町12[5]
  4. ^ 国書刊行会編『新燕石十種』に収録
  5. ^ 根本資料とされる『営中刃傷記[25][26]』『佐野田沼始末記』『続三王外記』が伝わる。
  6. ^ 佐野は自家の系図に手を加えて、系図の明らかでない田沼家が佐野家の庶流であるように改竄を申し出て恩を売ろうとするが、出自に拘泥のない意次は佐野の申し出を政務多忙もあって放置する。これを、佐野は系図改竄まで申し出た自分の好意を無にしたと逆恨みした、という説もある[要出典]
  7. ^ 三田村は「板倉周防守」の誤りではないかとしている[31]。幕末期に周防守を称した板倉氏の老中は板倉勝静であり、老中在任期間は文久2年(1862年)から慶応4年(1868年)にあたる

出典

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  1. ^ a b 山田 1988, pp. 541.
  2. ^ a b c d 宇田敏彦佐野政言」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%94%BF%E8%A8%80コトバンクより2025年2月11日閲覧 
  3. ^ a b c 山田 1988, pp. 537.
  4. ^ a b c d 寛政重脩諸家譜, p. 459.
  5. ^ 千代田区教育委員会 (2004年(平成16年)3月). “佐野善左衛門宅跡”. tokyochiyoda.blog.shinobi.jp. 東京都千代田区の歴史. 2020年12月21日閲覧。
  6. ^ a b 山田 1988, pp. 533–547.
  7. ^ 営中刃傷記, p. 458-459.
  8. ^ a b 営中刃傷記, p. 458.
  9. ^ a b 山田 1988, pp. 533–534.
  10. ^ a b 山田 1988, pp. 547.
  11. ^ 佐野政言」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%94%BF%E8%A8%80コトバンクより2025年2月11日閲覧 
  12. ^ a b c 佐野善左衛門墓”. t-navi.city.taito.lg.jp. TAITOおでかけナビ. 台東区役所. 2020年12月21日閲覧。
  13. ^ 大蔵雄夫「失はれた佐野政言の墓」『掃苔』第3巻第7号、東京名墓顕彰会、1934年7月、216-218頁(コマ番号0012-)
  14. ^ a b 山田 1988, pp. 538–539.
  15. ^ 山田 1988, pp. 534.
  16. ^ a b c d 山田 1988, pp. 542.
  17. ^ 山田 1988, pp. 543.
  18. ^ a b c 山田忠雄佐野政言」『日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%94%BF%E8%A8%80コトバンクより2025年2月11日閲覧 
  19. ^ a b 佐々木潤之介佐野政言」『改訂新版世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%94%BF%E8%A8%80コトバンクより2025年2月11日閲覧 
  20. ^ 山田 1988, p. 533.
  21. ^ 『柳営日次記』天明四甲辰年三月二十四日に記載[20]
  22. ^ 黒板勝美、國史大系編修会(編)『續徳川實紀』新訂増補、第48巻-第52巻、国史大系刊行会 : 吉川弘文館〈国史大系〉、日用書房、1933年、NCID BN07439788ISBN 4642000518, 4642000526, 4642000534ISBN 4642000542, 4642000550
  23. ^ 『続徳川実紀浚明院殿実記』[22]巻五十(ISBN 4642000534)に記載。
  24. ^ a b 営中刃傷記, p. 460.
  25. ^ 『営中刃傷記』写本、和装、国立国会図書館蔵書 、国立国会図書館書誌ID 000007277525
  26. ^ 岩本活東子(編)、森銑三他(監修)「営中刃傷記」『新燕石十種』第4巻、中央公論社、1981年。57-96頁。全国書誌番号:81032956
  27. ^ 徳富猪一郎『近世日本国民史 第23 (田沼時代)』民友社、1927年、842-844頁。doi:10.11501/1920558NDLJP:1920558 
  28. ^ 佐野政言」『山川日本史小辞典改訂新版』https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%94%BF%E8%A8%80コトバンクより2025年2月11日閲覧 
  29. ^ 営中刃傷記, p. 467-470.
  30. ^ a b 山田 1988, pp. 536.
  31. ^ a b c 山田 1988, pp. 539.
  32. ^ 小田武雄「事件と旗本 世直し大明神佐野政言」『歴史と旅』第8巻第5号(91)、秋田書店、1981年4月、70-75頁(コマ番号0038.jp2)。
  33. ^ a b 中江 1998, p. 207.
  34. ^ 中江 1998, p. 208.
  35. ^ 宮武外骨黒白水鏡」『筆禍史』(マイクロフイルム image/jp2)雅俗文庫、1911(明治44年)、46 (コマ番号0030)頁。doi:10.11501/897233全国書誌番号:41016631https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8972332020年12月21日閲覧。「琴好は本所亀沢町に住める用達町人松崎仙右衛門といいえるものにて、政演は山東京伝のことなり(中略)作者琴好は数日手鎖の後、江戸払となり、政演は過料申しつけられたりき」 
  36. ^ a b 田沼騒動物」『改訂新版世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E9%A8%92%E5%8B%95%E7%89%A9コトバンクより2025年2月11日閲覧 
  37. ^ 『寛政重脩諸家譜 第1輯』國民圖書、1922年、164頁。doi:10.11501/1082717NDLJP:1082717 
  38. ^ 有職鎌倉山」『精選版日本国語大辞典』https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E8%81%B7%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B1%B1コトバンクより2025年2月11日閲覧 

参考文献

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関連資料

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発行年順

  • 飄琴亭「3 紀佐野政言去妻事」福井淳(編)、河野春帆ほか(評)『和英記事論説文叢 : 皇朝青年』上巻、吉岡宝文軒、1886年(明治19年) (コマ番号0051.jp2)。
  • 佐野政言賜死記事」『江戸会誌』第2巻第10号、博文館、1890年10月、20-24頁(コマ番号0014-、国立国会図書館内限定公開)。
  • 井上善雄「佐野政言の変」『大田錦城伝考』上巻、加賀市文化財専門委員会、江沼地方史研究会 、1959年。132頁-(コマ番号0078-)。遠隔複写可。
  • 稲垣史生『とっておき江戸おもしろ史談 : 将軍・大名・武士・町人…こぼれ話』KKベストセラーズ〈ワニ文庫. 歴史文庫〉、1993年。180-194頁。全国書誌番号:93053290ISBN 4-584-37008-7
  • 明田鉄男『近世事件史年表』雄山閣出版、1993年。304頁。全国書誌番号:93020046ISBN 4-639-01095-8
  • 中江克己『徳川将軍百話河出書房新社、1998年。 

関連項目

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外部リンク

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