清水一学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
五代目尾上菊五郎扮する清水一学(豊原国周画)
二刀流で奮戦する一学の典型的イメージ

清水 一学(しみず いちがく)は、元禄時代の武士忠臣蔵赤穂事件)における赤穂浪士討ち入りの際に討ち死にしている。名を「清水一(- いっかく)」とすることが多いが誤伝である。

忠臣蔵の芝居や講談などでは剣の達人として伝わるが、実際は吉良家の中小姓[1](用人[2][1])である。 『大河内文書』には吉良上野介と吉良義周にお供して、「少々戦いて討たれ候」とある[1]。『江赤見聞記』によれば、当時四十歳で台所で死んだ[1]

なお、『吉良家分限帳』には隠居付近習七両三人扶持[1]とあるが、『江赤見聞記』には「上野介用人、清水一学、台所口、四十歳」[1]とあり、近習なのか用人なのか不明。

江戸時代の歌舞伎では実際の人物の名称を使うことが禁じられていたため、作中では「清水一角」 [3] 、「清水大学」[4]などと表現される。

また今日の忠臣蔵のドラマでは清水一学を二刀流の剣士として描くことがあるが、彼を描いた明治期の歌舞伎では二刀流として扱っておらず[3] [4][5]、二刀流というイメージは近代に入ってからのものだと思われる。

生涯[編集]

高家吉良義央の所領である三河国幡豆郡宮迫村(現・愛知県西尾市吉良町宮迫)の農家に生まれる。幼名は藤作。武芸を好み兄・藤兵衛が吉良家の陣屋のひとつ岡山陣屋に勤めていたため、一学も幼少より剣術を習いに同陣屋に通ったという。二刀流だったと伝わる。

元禄5年(1692年)、吉良義央の妻・富子(梅嶺院)の目に止まり、士分取立てのうえ吉良家家臣として召抱えられ、江戸呉服橋の吉良邸で中小姓7両3人扶持で義央に勤仕するようになった。取り立てられた理由は一学が義央の子で夭折した吉良三郎に似ていたためといわれる。

元禄15年(1703年)、赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際に討ち死にした。享年25。『忠臣蔵』など元穂事件を題材にした創作物では、吉良邸討ち入りの際に小林平八郎とともに吉良側で最も奮戦した剣客として描かれることが多いが、上杉家の資料『大河内文書』では、一学は少しだけ戦って台所で討ち取られ、大した活躍はなかったとしている[6]

墓所は、吉良家菩提寺である江戸牛込万昌院や三河国宮迫村の円融寺。法号は端翁元的信士(万昌院)・実相院宗禅信士(円融寺)。なお、一学の兄の藤兵衛は児玉姓を名乗り、その子孫が今日まで続いている。

関連書籍[編集]

注釈・出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 佐々木杜太郎、赤穂義士顕彰会 『赤穂義士事典―大石神社蔵』 新人物往来社、1983年(昭和58年)。 p390-391
  2. ^ 『山本博文 『これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相』 小学館101新書、2012年(平成24年)。ISBN 978-4098251346。 第六章三節「吉良側の人的損害」
  3. ^ a b 『忠臣いろは実記』文化デジタルライブラリー
  4. ^ a b 『四十七石忠箭計』近代デジタルライブラリー
  5. ^ 文化デジタルライブラリーにおける仮名手本忠臣蔵の明治期のブロマイド
  6. ^ 同書では、最も活躍した吉良家家臣は、上杉春千代(吉良義周)が吉良家へ養子入りした際にその付き人として上杉家から移籍した家臣・山吉盛侍であるとする。ただこの資料は上杉家家臣が編纂したものなので、上杉家臣の働きを際立たせるために吉良家臣の働きを貶める傾向があると指摘する研究家もいる。
  7. ^ 清水一学を主人公に、赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件を吉良側の視点で描いた歴史小説。