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小林覚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 小林覚 九段
ワールド碁フェスティバル開会式にて挨拶をする小林覚(2019年6月)
名前 小林覚
生年月日 (1959-04-05) 1959年4月5日(65歳)
プロ入り年 1974年
出身地 長野県松本市
所属 日本棋院東京本院
師匠 木谷實
段位 九段
概要
タイトル獲得合計 11
七大タイトル
棋聖 1期 (1995)
名人 挑戦者 (2005)
碁聖 1期 (1995)
世界タイトル
三星火災杯 準優勝 (1997)
東洋証券杯 準優勝 (1997)
TVアジア選手権 準優勝 (1989)
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小林 覚(こばやし さとる、1959年4月5日 - )は、囲碁棋士日本棋院理事長(2019年4月-)、木谷實九段門下、九段。

第19期棋聖。第20期碁聖三星火災杯世界オープン戦準優勝など。第29回棋道賞最優秀棋士賞受賞。

木谷道場の中で最も若い七大タイトル獲得者(門下では7人目で最後の獲得者)。

兄姉弟4人皆プロ棋士で(小林千寿五段、小林健二七段、小林孝之準棋士二段)その末弟。なお同姓の小林光一名誉三冠は同じ木谷門下の兄弟子ではあるが血縁関係は無い。

経歴

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長野県松本市に生まれ、プロに2子を置けば負けないほどの実力の父に、3歳からスパルタ教育を受ける。[1]1966年に本格的な修行のために一家で東京に移る。長姉の千寿は6歳から一時期木谷の内弟子となっていたが、上京とともに4兄弟で木谷道場に入門し、翌年の8歳の時から内弟子となり、その翌年には通い弟子に戻る。加えて孝之は瓊韻社富田忠夫八段、覚は岩本薫九段にも師事する。覚が内弟子になった1967年頃、内弟子にはすでに成人した石田芳夫(現・二十四世本因坊)や加藤正夫(現・名誉王座)、入段したばかりの小林光一(現・名誉棋聖・名誉名人・名誉碁聖)、趙治勲(現・名誉名人)らがいた。道場には中学生で級位者の信田成仁[2]がおり、年下の覚が7子置かせて打っていたが1973年に覚を追い越して入段した[3]。これに覚はショックを受け兄弟では1972年の千寿に続いて、1974年に入段。低段時代から好成績を挙げ、同年代の山城宏片岡聡王立誠などと好ライバルであり、片岡、王、新垣武、健二らと研究会を行ない、「神楽坂グループ」とも呼ばれた。1976年四段、42勝10敗の成績で棋道賞新人賞。

1981年に堀越高等学校で同級生だった女優の村地弘美と結婚。1984年に「囲碁クラブ」誌主催で、棋聖・名人であった趙治勲と山城、王、覚の3人による「新撰組」による「必殺打込み勝負」を1年間行い、一時は二子に打ち込まれるが、最後は互先に戻した。同年八段。1986年の第2回日中スーパー囲碁では5人抜きを達成。1987年九段。1992年にIBM早碁オープン戦優勝、同年から兄弟子の小林光一碁聖に3年連続挑戦するも敗退。

1995年最高棋士決定戦森田道博七段・工藤紀夫九段・兄弟子の加藤正夫王座、決勝3番勝負で同じく兄弟子である小林光一名人に半目負けの後2連勝して優勝。第19期棋聖位への挑戦権を獲得する。棋聖戦では本因坊を6連覇し棋聖も含め三冠を取っていた同じく兄弟子の趙治勲棋聖本因坊王座に挑戦し1勝2敗のあと3連勝して4勝2敗で初の七大タイトルとなる棋聖位を獲得。

同年NHK杯で決勝で清成哲也九段に勝ち優勝。第20期碁聖戦で林海峰を3勝1敗で破り碁聖位を獲得。2冠となる。棋道賞最優秀棋士賞受賞。賞金ランキングで自己最高の2位につける。

翌年、趙に棋聖位を奪還され、その翌年に再挑戦するが敗れる。

2000年12月26日、江蘇省泰州市で行われた春蘭杯世界囲碁選手権戦に参加した際、柳時熏の頬をグラスを持った手で打ち、負傷させる事件を起こした。対局後の酒の席での出来事であり、喧嘩をしていたわけではなかったもののグラスが割れたことで柳が負傷したこともあり、同月に日本棋院は小林に1年間の謹慎処分を言い渡した。小林はこの件に際して引退願いを提出したが、日本棋院は小林が充分反省していることを理解した上で、将来の囲碁界のため尽力するのが一番と考え引退願いは預かりとした[4]。その後、小林は当初の設定期間より4ヶ月早い2001年9月に謹慎を解かれており、小林と柳の間に和解が成立したためと日本棋院から説明された[5]

2005年、第30期名人戦リーグで7勝1敗で山下敬吾天元とのプレーオフとなる。挑戦者決定プレーオフで1目半勝ちし名人位初挑戦となる。張栩名人王座との七番勝負は開幕3連敗するも3連勝し返し、第7局まで持ち越せたが中押し負けで敗れた。

2006年には賞金ランキング6位。

2007年に第31期棋聖戦Bリーグを4勝1敗で1位通過。Aリーグ1位の羽根直樹九段との挑戦者決定戦で中押し勝ちし10年ぶりに棋聖位挑戦者となる。しかし山下敬吾棋聖に4連敗し敗退。

2011年12月1日、通算1000勝達成 (507敗1ジゴ)。日本棋院棋士として史上14人目[6]

2013年、第3回マスターズカップ優勝[7]。賞金ランキング8位。

2015年、第5回マスターズカップベスト4[7]

2016年、第6回マスターズカップベスト4[7]。通算1100勝達成。

2017年、第7回マスターズカップ優勝。

2019年4月2日、同年3月に辞任した團宏明のあとを受けて日本棋院理事長に就任[8]

2019年10月には活動を再開した全日本囲碁連合の理事・副会長に就任[9]

人物

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碁ワールド』誌では、2005年「女流プロ、ここが強い!」、2006-07年「サトルの目、アマ有段の目」、2008年「ビストロサトル 定石選択のレシピ教えます」、2009年「ビストロサトル 攻防の基本レシピ教えます」と、講座を長期連載。趣味は競輪で「競輪は知力、囲碁は体力」の語もある。

棋風

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厚みを重視した柔軟な棋風とも言われるが、本人は読みを基調とする碁と言い、特に趙との七番勝負以後は鋭い踏み込みのある碁となる。

獲得タイトル結果

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棋戦
三大タイトル
他七大タイトル
国際タイトル
他大会
棋戦 期・回 対局日 相手
優勝 1 新鋭トーナメント戦 13期 1982年 神田英五段 1-0
優勝 2 NEC俊英戦 2期 1987年 王銘宛七段 1-0
優勝 3 IBM早碁オープン戦 3期 1989年 大平修三九段 1-0
奪取 4 棋聖戦 19期 1995年3月 趙治勲棋聖 4-2
優勝 5 NHK杯 42期 1995年 清成哲也九段 1-0
奪取 6 碁聖戦 20期 1995年 林海峰碁聖 3-2
優勝 7 竜星戦 5期 1996年 中小野田智己七段 1-0
優勝 8 アコム杯早碁オープン戦 5期 1998年9月 趙治勲九段 1-0
優勝 9 早碁選手権戦 33期 2000年 小林光一九段 1-0
優勝 10 マスターズカップ 3期 2013年7月 石井邦生九段 1-0
優勝 11 マスターズカップ 7期 2017年7月 趙治勲名誉名人 1-0

タイトル歴

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その他の棋歴

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国際棋戦

国内棋戦

受賞等

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  • 棋道賞 最優秀棋士賞 1995年、新人賞 1976年、敢闘賞 1990年
最多勝 1995年(44-13)、2005年(46-16)
勝率1位 1982年(31-8 .795)、1983年(35-9 .795)、1988年(24-6 .800)、1994年(34-7 .829)
連勝賞 1994年(18連勝)
  • 秀哉賞 1995年
  • テレビ囲碁番組制作者会賞 1995年
  • ジャーナリストクラブ賞 2002年

著作

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  • 『棋聖 小林覚の世界 囲碁界のニューヒーロー』 日本棋院 1995年
  • 『第十九期 棋聖決定七番勝負・激闘譜―趙治勲・小林覚 』読売新聞社
  • 『第二十期 棋聖決定七番勝負・激闘譜―小林覚・趙治勲 』読売新聞社
  • 『第二十一期 棋聖決定七番勝負・激闘譜―趙治勲・小林覚 』読売新聞社
  • 『第三十一期 棋聖決定七番勝負 激闘譜―山下敬吾・小林覚 』読売新聞社
  • 『第30期囲碁名人戦全記録―名人位決定七番勝負・挑戦者決定リーグ戦』朝日新聞社
  • 『小林覚 (囲碁文庫 打碁鑑賞シリーズ2)』 日本棋院 2003年
  • 『星への三々』河出書房新社 2003年
  • 『小林覚名局細解』誠文堂新光社 2005年
  • 『40歳からの囲碁入門 はじめての挑戦!』棋苑図書 1998年

参考文献

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  • 秋山賢司「天を掴んだ男 小林覚物語」(『棋道』1995年7-12月号)

脚注

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  1. ^ 囲碁人vol.10・11・12
  2. ^ 信田成仁”. 囲碁の日本棋院. 2023年11月2日閲覧。
  3. ^ 内藤由起子(囲碁観戦記者)『それも一局 弟子たちが語る「木谷道場」のおしえ』水曜社、1969年、154頁。ISBN 978-4-88065-396-9 
  4. ^ 小林覚九段、1年間の謹慎処分 日本棋院 2001年1月5日、2015年2月20日観覧
  5. ^ 「毎日新聞」2001年9月1日朝刊
  6. ^ 小林覚九段が通算1000勝達成!
  7. ^ a b c マスターズカップ
  8. ^ 日本棋院新理事長に小林覚副理事長を選定”. 日本棋院 (2019年4月2日). 2019年4月3日閲覧。
  9. ^ 全日本囲碁連合の団体概要

外部リンク

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