関西棋院

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一般財団法人関西棋院(いっぱんざいだんほうじんかんさいきいん)は囲碁棋士を統括し、関西を中心として棋戦や囲碁普及などの活動をう組織(一般財団法人)。日本棋院から1950年に分離独立。現在117人の棋士、女流棋士が所属。機関誌『囲碁関西』(月刊)を発行している。

概要[編集]

本院は大阪府大阪市中央区北浜にあり、全棋士が本院所属である。

事業活動として、プロ棋士の対局の実施運営、 各種囲碁大会・囲碁セミナー・囲碁ツアーの実施。機関紙『囲碁関西』など出版事業、免状の発行、囲碁サロン・囲碁教室・子ども囲碁学園の経営、 囲碁ネット事業等。2010年現在、48支部ある。

所属棋士が各種タイトル戦に参加する場合、まず3段階(ABC方式)の院内予選を行ない、その勝者が日本棋院所属棋士と混合の最終予選に出場することが多い[注 1]。また関西棋院独自の棋戦として、関西棋院第一位決定戦産経プロアマトーナメント戦がある[注 2]。その一方、本因坊戦最終予選の参加枠は4人(日本棋院の7分の1)に限られ、竜星戦阿含桐山杯NECカップ囲碁トーナメント戦についても出場制限が課されている。

日本棋院同様の院生からの入段(プロ入り)制度とは別に、特例で年長のアマ強豪をプロ編入してきた歴史があり、陳嘉鋭坂井秀至石井茜らにプロ棋士への道を開いた。2009年からは「研修棋士制度」[注 3]としてプロ編入試験(試験碁)を制度化し、日本だけでなく中国・韓国出身のアマ強豪が続々入段している[1]

歴史[編集]

独立までの動き[編集]

日本棋院設立から昭和初期までの関西囲碁界は、主な棋士は日本棋院に参加し、関西支部(後に関西本部)が設立されていた。中心にいたのは久保松勝喜代光原伊太郎などで、独自の大手合も行っていたが、五段以上の昇段は東京でなければ認められず、若手の高川格田中不二男をはじめ、有力な棋士は東京の大手合にも参加していた。

終戦後は、戦時中に宝塚に疎開していた橋本宇太郎を中心にまとまり、関西在住の棋士達の待遇面(主に昇段制度、交通関係)での地位向上を目指した。1947年(昭和22年)には、空襲で焼けた日本棋院会館の復興のために全棋士による募金活動が行われ、関西支部には計50万円の目標が課せられたが、関西でも資金が必要であることから、募金の半分を東京に送ることにして募金を行った。その結果100万円が集まったが、全額を関西で使おうという意見が棋士や後援者で強まり、関西の会館の建物を買い、財団法人関西棋院として財務上は独立した組織となった。

東西対立から独立[編集]

関西棋院が法人として独立した後も、日本棋院との関係はそれまでとは変わりなかった。1950年(昭和25年)には日本棋院と関西棋院の12人ずつの選手による東西対抗戦、及び東西対抗勝ち抜き戦が行われ人気を博す。同年第5期本因坊戦で橋本宇太郎が本因坊位を獲得するが、その就位式席上で日本棋院津島寿一総裁が、これまで2年で1期だった本因坊戦を1年1期に改めると述べた。本因坊当人に相談もなく決められたことで、関西棋院の内部は独立派が生まれて、協調派と分かれ、多数となった独立派により同年9月に免状発行権を持った組織として独立が宣言される。協調派の棋士は、日本棋院関西総本部を設立した。

翌年の第6期本因坊戦では、日本棋院新鋭の期待株坂田栄男が挑戦権を得た。この七番勝負で橋本は坂田に1勝3敗に追い込まれたが、そこから3連勝して本因坊を防衛。もしこの勝負に橋本が敗れていたら関西棋院は発足直後に解散に追い込まれていただろうとも言われている。

また1958年に日本棋院東海本部が中部総本部に再編成した際に、伊神肇、植松弘聖らが離脱して、名古屋市に関西棋院中部総本部を設立した。

発展と現状[編集]

この後、橋本宇太郎と橋本昌二の「両橋本」(両者に血縁関係はない)が関西棋院の二枚看板となり、十段王座のタイトルを奪うなど活躍した。1962年には名人戦リーグに10名中4名、本因坊リーグにも8名中3名の関西棋院所属棋士が参加(半田道玄が本因坊挑戦権獲得)、第1期・第2期の十段の座を橋本宇太郎と半田道玄の関西勢同士が争うなど、大いに気勢を上げた。橋本昌二は「組織存続のため、日本棋院との戦いは死活問題だった」と語る[2]

しかし日本棋院との緊張関係が緩和に向かった上、独立によって日本棋院所属棋士との対局機会が減少したこともあり、所属棋士の活躍は次第に目立たなくなった。七大タイトル保持者も、1981年の橋本昌二(王座)以降、長らく出現しなかった(次項参照)。三大タイトル(棋聖・名人・本因坊)リーグ在籍者もゼロの年が目立ちはじめ、特に本因坊リーグへは2000年度(結城聡)以降、2009年度(同)まで参加がなかった。

しかし2010年になり、坂井秀至が碁聖のタイトルを奪取すると、結城聡天元位を獲得してこれに続いた。若手の瀬戸大樹村川大介らの活躍もあり、関西棋院は久々にかつての勢いを取り戻しつつある。2012年の第68期本因坊リーグは8名中3名(32期ぶり)、2013年の第38期名人戦リーグも9名中3名を関西棋院勢が占めた。

中部総本部には一時は20名を超える棋士が所属したが、2010年3月末をもって閉鎖された[3]

2012年4月1日、法人制度改革に伴い、公益法人より活動の制約が少ない一般財団法人となった[4]。日本棋院との再統合も何度か話題に上っているが、両院の段位の調整、(主に日本棋院側の)財政問題などがネックとなり、未だに実現していない。全日本囲碁連合結成に参加するなど、そのあり方の模索が続いている。

近年の関西棋院棋士のタイトル戦[編集]

現行七大タイトル戦が発足した、1976年以降の成績を示す。太字は関西棋院所属棋士。

所属棋士[編集]

他、総勢117人

役員[編集]

(2010年10月1日現在)

脚注[編集]

  1. ^ ただし棋聖戦は第1期から第24期まで、各段優勝戦が両棋院混合で行なわれていた。第25期からリーグ制移行に伴い、他棋戦同様に院内予選がおこなわれるようになったが、第29期以降は予選C段階から日本棋院中部総本部・関西総本部との混合で行なわれている。
  2. ^ かつては関西棋院選手権戦(神戸新聞社主催)や関西棋院早碁名人戦(産経新聞社主催)もあった。関西棋院選手権戦は天元戦に、関西棋院早碁名人戦は十段戦にそれぞれ統合された。
  3. ^ http://www.kansaikiin.jp/kenshukishi/index.html

出典[編集]

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  1. ^ 試験碁で2人採用 関西棋院(朝日新聞2009年7月15日付)
  2. ^ 関西の若手 台頭の兆し 「西高東低」の囲碁会に旋風神戸新聞2005年4月5日付、題字ママ)
  3. ^ 『碁ワールド』2010年5月号
  4. ^ 一般財団法人に関西棋院が移行(朝日新聞 2012年4月10日)

外部リンク[編集]