元明天皇
元明天皇 | |
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『御歴代百廿一天皇御尊影』より「元明天皇」 | |
元号 |
慶雲 和銅 |
時代 | 奈良時代 |
先代 | 文武天皇 |
次代 | 元正天皇 |
誕生 | 661年 |
崩御 | 721年12月29日 |
陵所 | 奈保山東陵 |
漢風諡号 | 元明天皇 |
和風諡号 | 日本根子天津御代豊国成姫天皇 |
諱 | 阿閇 |
父親 | 天智天皇 |
母親 | 蘇我姪娘 |
子女 |
元正天皇 文武天皇 吉備内親王 |
皇居 | 藤原京・平城京 |
女帝 |
元明天皇(げんめいてんのう、661年〈斉明天皇7年〉 - 721年12月29日〈養老5年12月7日〉)は、日本の第43代天皇(在位:707年8月18日〈慶雲4年7月17日〉- 715年10月3日〈和銅8年9月2日〉)。
女性天皇(女帝)の一人。諱は、阿閇(あへ)[1]。阿陪皇女(あへのひめみこ)とも。天智天皇第四皇女子。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。
藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
略歴
[編集]即位まで
[編集]天武天皇4年(675年)に、十市皇女と共に伊勢神宮に親謁したという記録がある[2]。
天武天皇8年(679年)頃、1歳年下である甥の草壁皇子と結婚。天武天皇9年(680年)に氷高皇女を、天武天皇12年(683年)に珂瑠皇子を産んだ[注釈 1]。天武天皇10年2月25日(681年3月19日)に草壁皇子が皇太子となる。朱鳥元年(686年)に天武天皇が崩御し、草壁皇子がほどなく皇位を継承する見込みであったが、3年後の持統天皇3年4月13日(689年5月7日)、草壁皇子は即位することなく早世した[3]。草壁皇子と阿閇妃の遺児である珂瑠皇子が成長するまで、天武天皇の皇后であった鸕野讚良皇女(持統天皇)が皇位を一時期預かったのち[3]、文武元年8月17日(697年9月7日)に珂瑠皇子が文武天皇として即位し、阿閇妃は同日、皇太妃となった。
治世
[編集]慶雲4年6月15日(707年7月18日)、文武天皇が25歳で崩御[3]。残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、初めて皇后を経ないで即位した[3]。ただし、義江明子説では持統上皇の崩御後、文武天皇の母である阿閇皇女が事実上の後見であり、皇太妃の称号自体が太上天皇に代わるものであったとする[4]。
慶雲5年1月11日(708年2月7日)、武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた[3]。この時期は大宝元年(701年)に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であったため、実務に長けていた藤原不比等を重用した。
和銅3年3月10日(710年4月13日)、藤原京から平城京に遷都した[3]。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。
和銅5年(712年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。同年には天武天皇の代からの勅令であった『古事記』を献上させた。和銅6年(713年)には『風土記』の編纂と好字令(「諸国郡郷名著好字令」)を詔勅した。
晩年
[編集]晩年は、幼い首皇子の子孫に皇統が安泰して継承されるために手を打った。和銅6年(713年)11月には、首皇子の異母兄弟である広世王と広世王の兄弟を臣籍降下させ、首皇子が文武天皇の唯一の皇子となる。そして、和銅7年(714年)正月、娘の氷高内親王に、将来の皇位継承を見越して、食封を1000戸に加増された(内親王は二品で、令制では300戸が相当であった)。同年6月、首皇子が立太子[5]。
霊亀元年(715年)1月には、氷高内親王を一品に昇叙させる。翌2月、もう一人の皇女である吉備内親王を妃に迎えていた長屋王家を取り立て、吉備内親王所生の男女については、三世王でありながら、皇孫(二世)の待遇とすることとした。これによって、長屋王は一世親王の待遇を得ることになり、草壁直系の皇統に対する「藩屏」としての役割を果たすようになった[6]。
皇太子となった首皇子であったが、当時の天皇は、皇太子として天皇の治世を補佐する期間を一定程度経ることが慣例として求められており、また皇太子は数え15歳で、天皇としては若年であったことから[7]、同年9月2日、皇位を預かる後継者として、氷高内親王(元正天皇)に皇位を譲って[3]、同日太上天皇となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例となっている。以降も、元正天皇を立てつつ、政治の主導権は維持し続けた。
養老4年(720年)、右大臣藤原不比等が病没すると、後任に長屋王を任じ、皇親体制をより強固にする。翌養老5年(721年)5月、発病。10月12日、枕元に長屋王と参議藤原房前を召して後事を託し、房前を内臣に任ずる。藤原氏からは惣領の武智麻呂ではなく弟の房前を召したのは、二人の父・不比等の生前に確立されつつあった藤原氏の政治的立場に掣肘を加えるものであった[8]。
遺詔として葬送の簡素化を命じて、12月7日に崩御した。宝算61。
和銅発見の地、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する聖神社には、元明天皇下賜と伝えられる和銅製蜈蚣雌雄一対が神宝として納められている。また、養老6年(722年)11月13日に元明金命(げんみょう こがねの みこと)として合祀され今日に至る。
諡号
[編集]和風諡号は、日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である[3]。
漢風諡号の元明天皇(げんめいてんのう)は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。
文事
[編集]- 勢の山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌
- これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負ふ勢の山
- 越勢能山時阿閇皇女御作歌
- 此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山 [巻1-35]
- 越勢能山時阿閇皇女御作歌
- これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負ふ勢の山
- 和銅元年戊申 天皇の御製
このほか『古事記』『風土記』『万葉集』といった文献の成立に大きく関わったと推定されている[3]。
系譜
[編集]- 系図
34 舒明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古人大兄皇子 | 38 天智天皇 (中大兄皇子) | 間人皇女(孝徳天皇后) | 40 天武天皇 (大海人皇子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭姫王 (天智天皇后) | 41 持統天皇 (天武天皇后) | 43 元明天皇 (草壁皇子妃) | 39 弘文天皇 (大友皇子) | 志貴皇子 | 高市皇子 | 草壁皇子 | 大津皇子 | 忍壁皇子 | 長皇子 | 舎人親王 | 新田部親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛野王 | 49 光仁天皇 | 長屋王 | 44 元正天皇 | 42 文武天皇 | 吉備内親王 (長屋王妃) | 文室浄三 (智努王) | 三原王 | 47 淳仁天皇 | 貞代王 | 塩焼王 | 道祖王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
池辺王 | 50 桓武天皇 | 早良親王 (崇道天皇) | 桑田王 | 45 聖武天皇 | 三諸大原 | 小倉王 | 清原有雄 〔清原氏〕 | 氷上川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
淡海三船 〔淡海氏〕 | 礒部王 | 46 孝謙天皇 48 称徳天皇 | 井上内親王 (光仁天皇后) | 文室綿麻呂 〔文室氏〕 | 清原夏野 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石見王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高階峯緒 〔高階氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蘇我堅塩媛 | 29欽明天皇 | 石姫皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
33推古天皇 | 30敏達天皇 | 広姫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大俣女王 | 押坂彦人 大兄皇子 | 糠手姫皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉備姫王 | 茅渟王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
35皇極天皇 37斉明天皇 | 34舒明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蘇我遠智娘 | 38天智天皇 | 蘇我姪娘 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
40天武天皇 | 41持統天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
49代以降 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
草壁皇子 | 43元明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
44元正天皇 | 藤原宮子 | 42文武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光明皇后 | 45聖武天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
46孝謙天皇 48称徳天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元明天皇の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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在位中の元号
[編集]陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は、山形。
崩御にさきだって、「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山雍良岑に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて竈を作り棘を芟り場を開き即ち喪処とせよ、又其地は皆常葉の樹を植ゑ即ち刻字之碑を立てよ」といういわゆる葬儀の簡素化の詔を出したので、崩御後の12月13日、喪儀を用いず、椎山陵に葬った。
陵号は『続日本紀』奉葬の条には「椎山陵」、天平勝宝4年閏3月の条には「直山陵」、遺詔に「蔵宝山雍良岑」とある。延喜諸陵式には「奈良山東陵」とあり、兆域は「東西三町南北五町」とし、守戸五烟を配し、遠陵に列した。
中世になると陵墓の正確な場所がわからなくなったが、『前王廟陵記』は那富士墓の位置に、『大和志』は大奈辺古墳に、幕末の修陵の際に現在の陵墓に治定され、修補を加え、慶応元年3月16日、広橋右衛門督を遣わして竣工の状況を視し、奉幣した。
遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちていたのを発掘し、奈良春日社に安置したのを、明和年間に藤井貞幹が見て『東大寺要録』を参酌して元明天皇陵刻字之碑を考定した。文久年間の修陵の際にこれを陵側に移し、明治29年(1896年)に藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を建造し、かたわらに建立した。
また皇居(東京都千代田区千代田)では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに元明天皇の霊も祀られている。
元明天皇が登場する作品
[編集]漫画
[編集]- 里中満智子『天上の虹 持統天皇物語』
- 里中満智子『長屋王残照記』
- 長岡良子『古代幻想ロマンシリーズ・天ゆく月船』
- 長岡良子『古代幻想ロマンシリーズ・眉月の誓』
小説
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 吉備内親王については、氷高皇女の後ということ以外は不明。
出典
[編集]- ^ “元明天皇(げんめいてんのう)とは”. コトバンク. 2019年11月28日閲覧。
- ^ 『日本書紀』巻第二十九。壬申の乱の際の神宮の協力に対する報賽の意味をもつとされる。
- ^ a b c d e f g h i j 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第2巻』岩波書店、1984年1月、462頁。
- ^ 義江明子「元明天皇と奈良初期の皇位継承」(初出:『高岡市萬葉歴史館叢書21 万葉の女性歌人』(2009年)/所収:義江『日本古代女帝論』(雄山閣、2017年) ISBN 978-4-8273-1290-4)
- ^ 瀧浪, pp. 10–11.
- ^ 瀧浪, pp. 11–12.
- ^ 瀧浪, pp. 7–8.
- ^ 瀧浪, pp. 20–21.