中島宏之
埼玉西武ライオンズ #3 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県伊丹市 |
生年月日 | 1982年7月31日(41歳) |
身長 体重 |
180 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手、三塁手 |
プロ入り | 2000年 ドラフト5位 |
初出場 | 2002年10月6日 |
年俸 | 2億円(2009年) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2008年 |
WBC | 2009年 |
この表について
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中島 裕之(なかじま ひろゆき、1982年7月31日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(内野手)。背番号は3。愛称は「ナカジ」
プレースタイル
俊足強打の高い身体能力に加え、剣道の上段構えのようにバットを高々と掲げた構えからスイングする、豪快なバッティングフォームが特徴。自身が相手の呼吸に合わせて間合いをとっているため逆に自分の呼吸を読ませないように考えた結果、左腕が上がって口元を隠すようになりこのフォームに行き着いたという[1]。本人曰く「決まった形は無く、打席ごとに若干変化を加える事もある」との事。TV番組の企画で「ぶった切り打法」と命名された。
打撃はチャンスメイクもポイントゲッターもこなせ、3番を打つ事が多い。早いカウントから積極的に踏み込んで打ちに行く傾向があり、四球は少なく死球が多い。また、広角に長打が打てて右方向への巧打や本塁打が多い。これは高校時代の練習中に打球が左翼後方のテニスコートやプールに飛び込むことが多く他の部から苦情が頻出し、監督に「危ないから右に打て」と指示され右打ちを心がけた事が要因であるという。
守備は主に遊撃手を守り、高い身体能力を活かしたプレーが持ち味。粗っぽい面があり新人時代から失策数が多いが、送球難などは徐々に改善され2008年にはゴールデングラブ賞を受賞するなど無難にこなすようになった。グラブは久保田運動具店製の物を使用。
来歴
プロ入り前
兵庫県伊丹市出身。伊丹市立桜台小学校時代は投手として山崎勝己とバッテリーを組み、全国大会に出場。伊丹市立天王寺川中学校では宝塚シニアに所属し、高校進学時には県外の強豪校からもスカウトされ、地元の名門である報徳学園高校を受験するも不合格となり、野球では無名の公立校である伊丹北高校に進学[2]。しかし、中学時代にシニアの厳しい練習から野球に嫌気が差していたこともあり、強豪校とは違う練習環境の中で力を伸ばしていった。後に本人は「報徳に入学していたら野球を続けていなかったと思う」と発言している[2]。
高校では1年時からレギュラーとなり、1年夏は右翼手として出場。2年夏には1番打者として兵庫大会16強入りに貢献。以降は先発投手を務めるようになり、3年夏は1番投手として出場し兵庫大会4回戦敗退。高校通算43本塁打。
2000年のプロ野球ドラフト会議において西武ライオンズから5位指名を受け入団。無名校出身ながら高卒で指名された理由について、当時の監督は「真面目な性格が下積みにも耐えられるとスカウトが評価したのではないか」と語っている[3]。
プロ入り後
2001年は高校まで経験の無かった遊撃手に転向し[4]、イースタン・リーグで30試合に出場して打率.105、2安打。守備でも7失策を記録するなどプロの洗礼を浴びた。スポーツニッポンに掲載された同年の選手名鑑には同期入団の野田浩輔の顔写真が掲載され、数日後に訂正された。
2002年には二軍のレギュラーとなり、リーグで唯一全試合に出場。安打、得点、犠飛、死球でリーグ最多。リーグ2位の打率.299、チーム2位の11本塁打、リーグ4位の47打点を記録。一方でリーグワーストの10併殺打、25失策と粗さも目立った。
2003年は二軍でチームトップの打率.306、チーム2位の13本塁打を記録。オフにはニューヨーク・メッツにFA移籍した松井稼頭央の後釜に抜擢され、チームの大先輩である清原和博の背番号3を引き継いだ。
2004年は“ポスト松井”として7番遊撃手で初の開幕スタメンに抜擢された。その後も「荷が重過ぎる」との声もある中で伊東勤監督はスタメン起用を続け、それに応えて5月まで打率3割をキープし、スタミナ面での不安も夏場に打率を上げたことで払拭。オールスターにも監督推薦で初出場した。最終的に同年のパシフィック・リーグで唯一のフルイニング出場を果たし、打率.287、27本塁打、90打点、18盗塁と松井が抜けた穴を埋め、リーグ優勝と日本一に貢献した。
2005年はセ・パ交流戦の広島東洋カープ戦で、イレギュラーバウンドした打球が顔に当たり頬骨を骨折し戦線離脱。規定打席に到達して打率.274、チーム2位の11盗塁を記録したが、本塁打は半分以下に減少するなど全体的に前年を下回る成績で、リーグ3位の17併殺打、遊撃手としてリーグ最多の10失策を記録。
2006年はオープン戦で打率.390と首位打者になり、開幕からホセ・フェルナンデスの穴を埋める3番打者として活躍。オールスターにも選出された。7月30日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で山村宏樹から死球を受け、左第4中手骨(左手の甲)を骨折したが予定より早い9月12日に復帰した。復帰後は一時、首位打者争いに加わるなどチームの優勝争いに貢献。初の打率3割となるリーグ4位の打率.306を記録。しかし、守備では2年連続で遊撃手部門リーグ最多の16失策を記録し、同年オフの契約更改では球団初となる守備での出来高払いが設定された。
2007年も開幕から3番で起用された。オールスターに3度目の出場を果たし、両リーグ通じて唯一の9試合連続打点を記録するなど最終的にはリーグ5位の打率.300、同3位の160安打、チーム2位の74打点の成績を残したが、リーグ3位の134三振とレギュラー定着以来減少していた三振数が倍増した。守備でもリーグ2位、遊撃手としては3年連続リーグ最多となる20失策を記録。
2008年は北京オリンピック野球日本代表に選出され、オールスターにも4度目の出場。共に同じ遊撃手の川崎宗則、西岡剛が選出されたこともあり、オールスターでは三塁手を守ったが不安定で悪送球による失策を記録した。北京五輪では、川崎の故障によって主に遊撃手を務め、三塁を守る機会はほとんどなかった。ペナントレースでは中軸打者のクレイグ・ブラゼルやG.G.佐藤が不調に陥った際に消化試合以外では自身初の4番を打つこともあり、4年ぶりに20本塁打を記録。前半戦終了時ではリーグトップだった打率は後半戦に入って徐々に落ちていったものの、首位打者リック・ショートと7毛差でリーグ2位の自己最高打率を記録。チームトップの55四球を選び、それぞれ自己最高を更新する出塁率.410、25盗塁で、初タイトルとなる最高出塁率を獲得した。遊撃守備ではリーグ2位の12失策を記録したものの、守備率は遊撃手部門2位。送球ミスも減って前年より安定した守備を見せ、ゴールデングラブ賞とベストナインを初受賞した。同年、かつて背番号3を着けていた清原が引退を表明し、対オリックス・バファローズ最終戦の日にユニフォームの交換を行なった。
2009年は第2回WBC日本代表に選出され2番遊撃手として出場。1次ラウンド通過後、アメリカでの強化試合中に発熱して一部の試合を欠場したが、2度目のキューバ戦でスタメンに復帰した。最終的に20打席以上出場した選手の中では共にチームトップの打率.364、出塁率.516に7打点の成績を残して日本代表の大会2連覇に貢献した[5]。
人物
中嶋聡が移籍して以来「NAKAJIMA」表記の姓はチームで1人だけだが、文字数が多いほうが格好良いという本人の希望で背中のネーム表記は「H.NAKAJIMA」のままである。
兵庫県伊丹市出身のスポーツ選手で構成されているNPO法人「伊丹アスリートクラブ」に所属しており、シーズンオフにはイベントを行っている。
2006年シーズンからラッキーカラーとしてピンクのバッティンググローブとリストバンドを着用している。2008年5月11日(母の日)のオリックス戦では大リーグの慣習にヒントを得て大量のピンクのリストバンドを購入し、裏方も含めてチーム全員に配った。
小学生時代にバッテリーを組んでいた山崎勝己とは幼馴染みである。
出生時は右肩が母体内で引っかかるなどの難産で、担当医からは「右肩に何らかの障害が残る可能性がある」と指摘され、乳児の頃から柔らかいゴム製のボールを半ば握らされていた[6]。
背番号
- 56(2001年 - 2003年)
- 3(2004年 - )
- 6(2009年WBC)
年度別成績
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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2002 | 西武 | 4 | 7 | 7 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | .143 | .143 | .143 | .286 |
2003 | 44 | 98 | 89 | 12 | 23 | 3 | 1 | 4 | 40 | 11 | 1 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | 4 | 22 | 0 | .258 | .327 | .449 | .776 | |
2004 | 133 | 559 | 502 | 70 | 144 | 22 | 3 | 27 | 253 | 90 | 18 | 2 | 3 | 4 | 39 | 7 | 11 | 108 | 7 | .287 | .349 | .504 | .853 | |
2005 | 118 | 444 | 405 | 56 | 111 | 21 | 2 | 11 | 169 | 60 | 11 | 3 | 3 | 3 | 22 | 3 | 11 | 67 | 17 | .274 | .327 | .417 | .744 | |
2006 | 105 | 459 | 412 | 76 | 126 | 22 | 1 | 16 | 198 | 63 | 14 | 4 | 0 | 4 | 30 | 3 | 13 | 66 | 12 | .306 | .368 | .481 | .849 | |
2007 | 143 | 593 | 533 | 68 | 160 | 28 | 5 | 12 | 234 | 74 | 9 | 4 | 1 | 5 | 41 | 0 | 13 | 134 | 15 | .300 | .361 | .439 | .801 | |
2008 | 埼玉西武 | 124 | 556 | 486 | 75 | 161 | 32 | 0 | 21 | 256 | 81 | 25 | 5 | 0 | 3 | 52 | 3 | 12 | 96 | 15 | .331 | .410 | .527 | .937 |
通算:7年 | 671 | 2176 | 2434 | 357 | 726 | 128 | 12 | 91 | 1151 | 379 | 78 | 20 | 7 | 19 | 192 | 16 | 64 | 495 | 67 | .298 | .362 | .473 | .834 |
- 2008年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
個人記録
- 初出場・初スタメン出場:2002年10月6日 対日本ハムファイターズ28回戦(東京ドーム) 5番指名打者で先発出場
- 初安打:同上、2回表に金村曉から右前安打
- 初本塁打:2003年8月5日 対福岡ダイエーホークス21回戦(福岡ドーム) 2回表に寺原隼人から左翼席へソロ
- 初打点:2003年8月3日 対日本ハムファイターズ21回戦(西武ドーム) 4回裏関根裕之から中前適時打
- 初盗塁:2003年8月12日 対大阪近鉄バファローズ22回戦(西武ドーム) 9回裏に二盗
年度別守備成績
年 | 遊撃 | 三塁 | ||||||||||
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試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
2002 | ─ | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1.00 | |||||
2003 | 2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 1.00 | 20 | 8 | 20 | 3 | 2 | .903 |
2004 | 133 | 235 | 363 | 17 | 73 | .972 | ─ | |||||
2005 | 112 | 158 | 267 | 10 | 45 | .977 | ─ | |||||
2006 | 99 | 162 | 241 | 16 | 44 | .962 | ─ | |||||
2007 | 140 | 209 | 393 | 20 | 73 | .968 | ─ | |||||
2008 | 122 | 204 | 359 | 12 | 79 | .979 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.00 |
通算成績 | 608 | 970 | 1625 | 75 | 314 | .972 | 25 | 9 | 22 | 3 | 2 | .912 |
タイトル・表彰・記録
- 最高出塁率:1回(2008年)
- ベストナイン:1回(遊撃手部門・2008年)
- ゴールデングラブ賞:1回(遊撃手部門・2008年)
- オールスター出場:4回(2004年、2006 - 2008年)
- オールスター新人賞:1回(2004年)
- オールスター優秀選手賞:1回(2004年第2戦)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回(2008年)
- 日米野球出場:1回(2004年)
- 9試合連続打点(2007年)
登場曲
- ネリー「シェイク・ヤ・テイルフェザー」(2004年)
- DMX「Where The Hood At」(2005年)
- ファット・ジョー「Get It Poppin (feat. Nelly)」(2005 - 2006年)
- KREVA「音色」
- DJ KAORI feat. Yinling of JOYTOY with DOBERMAN INC「Be My Lover」(2006年)
- 50セント「If I can't」(2006年)
- The Black Eyed Peas「My Humps」(2007年)
- HOMEMADE家族「EVERYBODY NEEDS MUSIC」(2008年)
- ショーン・キングストン「Beautiful Girls」(2008年)
- タッキー&翼「恋詩-コイウタ-/PROGRESS」(2008年)
- GReeeeN「キセキ」(2008年)
- GReeeeN「歩み」(2009年)
関連項目
脚注
外部リンク
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