フランツ・ヨーゼフ1世

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フランツ・ヨーゼフ1世
Franz Joseph I.
オーストリア皇帝ハンガリー国王
Franz Joseph, circa 1915.JPG
フランツ・ヨーゼフ1世(1910年頃)
在位 1848年12月2日1916年11月18日
戴冠 1867年6月8日、於マーチャーシュ聖堂(ハンガリー国王)
全名 Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen
フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
出生 1830年8月18日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーンシェーンブルン宮殿
死去 1916年11月21日(満86歳没)
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンシェーンブルン宮殿
埋葬 Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者 エリーザベト・イン・バイエルン
子女
王家 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 フランツ・カール・フォン・エスターライヒ
母親 ゾフィー・フォン・バイエルン
宗教 キリスト教カトリック教会
サイン Franz joseph signature.png
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フランツ・ヨーゼフ1世ドイツ語: Franz Joseph I.1830年8月18日 - 1916年11月21日)は、オーストリア帝国、のちオーストリア=ハンガリー帝国オーストリア皇帝およびハンガリー国王(在位:1848年 - 1916年)。全名はフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語:Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)。ハンガリー国王としてはフェレンツ・ヨージェフ1世ハンガリー語: I. Ferenc József [ˈɛlʃøːˈfɛrɛnʦˌjoːʒɛf])、オーストリア帝国内のベーメン国王としてはフランティシェク・ヨゼフ1世チェコ語: František Josef I.)である。

68年に及ぶ長い在位と、国民からの絶大な敬愛から、晩年はオーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の「国父」とも称された。晩年は「不死鳥」とも呼ばれ、オーストリアの象徴的存在でもあった。しばしばオーストリア帝国の実質的な「最後の」皇帝と呼ばれる。皇后は美貌で知られるエリーザベトである。

生涯[編集]

誕生[編集]

母ゾフィーに抱かれたフランツ・ヨーゼフ・カール王子。

1830年8月18日、オーストリア皇帝フランツ1世の三男フランツ・カール大公とバイエルン王女であるゾフィー大公妃の長男として生まれる。ゾフィーはなかなか懐妊しなかったが、宮廷の侍医からの勧めによりバート・イシュルの塩泉で治療したところ、この王子が生まれるに至った。そのような経緯から「塩の王子」と呼ばれるようになった[1]

洗礼の際には祖父フランツ2世が代父を務めた。当時、皇太子の地位にあったフェルディナントは生来の病弱であり、彼が子孫を儲けることは不可能だと考えられていた。その弟である父フランツ・カール大公は政治に関心がなく、(強制される可能性はあったが)即位しないことをすでに表明していた[1]。よって、生まれたばかりの王子が将来的に帝位を継ぐことはほぼ確定していた。洗礼名は「フランツ・ヨーゼフ・カール」と定められた。祖父フランツ1世と、偉大な祖先である神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の二人の名前が含まれていた[1]。今日「フランツ・ヨーゼフ1世」として知られる彼であるが、即位するまでは複合名は用いられず、幼少期には「フランツィ」と、つまり「フランツ」と呼ばれた[2][3]。王子は、祖父フランツ1世の意志を継ぐ者として育てられた[4]

1835年、フランツィは5歳のクリスマスの際に「私が一番好きなのは軍隊のものです。」と語るなど、幼い頃から非常に軍隊を愛した[5]。フランツィはとても頑固な性格で、それは総司令官に適していた。さらに、几帳面、厳格さ、実直さ、責任感、義務感など、その性格のすべてが軍隊生活において尊重される美徳だった[5]

1835年、祖父フランツ1世が崩御し、伯父フェルディナントが即位した。

帝王学の日々[編集]

画家モリッツ・ミヒャエル・ダッフィンガー英語版に描かれた当時10歳のフランツ。(1840年)

将来の皇帝たるフランツは、ハプスブルク家の伝統に則って教育された。フランツは6歳の時に傅母の手から引き離され、宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒから傅育官に任命されたハインリッヒ・フランツ・フォン・ボンベルドイツ語版伯爵のもとで、週13時間の授業を、7歳の時には32時間の授業を受けるようになった[2]。この時点でフランツが受けた授業には、ドイツ語正書法地理宗教図画ダンス体操フェンシング水泳軍事訓練フランス語ハンガリー語チェコ語が含まれていた[6]。その後さらに、歴史馬術音楽イタリア語が追加された。12歳の時には週に50時間にも及ぶ授業時間が設けられ、13歳の時には勉強しすぎのストレスから病気になったが、しばらく休んだ後、さらに多くの科目が追加された[6]1844年以降は哲学法律学政治学天文学工学ポーランド語も追加された[6]。フランツが1週間に学ばねばならない科目は37に及び[7]、授業は朝6時に始まり、夜の9時まで続いた[6]。苦手な科目は数学と正書法であり、好きな科目は歴史と地理であった[7]。母ゾフィーは宗教と歴史を大切に思っていたことから、この両教科の授業には必ず同席した[7]

国語であるドイツ語や当時の外交言語であったフランス語のほか、ラテン語、ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語、イタリア語といったように多くの言語が含まれているが、これは多民族国家ハプスブルク君主国として重要な言語がカリキュラムに組み込まれた結果である[6][7]

軍事関係については、陣営での指揮、連隊の配置、歩兵、砲兵、騎兵の任務などの訓練を受けるようになった[7]。16歳で大佐となったフランツは1846年7月、故フランツ1世の記念碑の除幕式に出席するためにメーレンオルミュッツに足を運んだ。フランツが公の場に姿を現したのはこの時が初めてで、この日初めてフランツは自分の指揮すべき連隊を視察した[7]。この地でフランツはしばし牧歌的な生活を楽しんだが、間もなくウィーンで容易ならぬ騒動が発生することになる。

1848年革命[編集]

1848年革命下のウィーン市街。

フランス王国で発生した2月革命がヨーロッパ中に飛び火して、オーストリア帝国では3月革命が発生する。ウィーンでは、およそ27年にわたって帝国宰相を務めていたメッテルニヒの罷免を求める声が、学生や労働者を中心に高まった[8]。3月13日に群衆がシェーンブルン宮殿前の下オーストリア領邦議会議事堂に殺到し、検閲の廃止、出版の自由や自主憲法の制定を要求した[8]。翌14日にメッテルニヒが職を辞してウィーンから逃亡すると、メッテルニヒを悪政の象徴とみなしていた民衆は歓喜した。伯父フェルディナント帝がフランツ・カール大公、フランツとともに馬車に乗って市内を駆け巡ると、民衆はこれを歓声をもって迎えた。かくしてウィーンには一時平穏が戻ったが、やがてバイエルン王国ルートヴィヒ1世が退位したとの知らせが届く。ウィーンはふたたび混迷に陥り、皇帝の安全さえ保証できない情勢になった[9]

このような不穏な情勢の中で、ハプスブルク家の次代を担うフランツは病弱な皇帝よりも大事な存在だった[9]。母ゾフィー大公妃はイタリアのヨーゼフ・ラデツキー将軍のもとにフランツを託し、軍隊での経験を積ませることにした。当時のイタリア戦線はけっして思わしいものではなかったが、それでも革命的な様相を呈するウィーンよりはましだった。帝国騎兵隊の制服に身を固めたフランツは、4月25日にイタリアへの旅路につき、4月29日にラデツキー将軍のもとに到着する[10]。ラデツキー将軍は若き大公を安全な場所に避難させようとしたが、フランツはこれを拒絶した[10]。5月6日に始まったサンタ・ルチアの会戦英語版ではコンスタンティン・ダスプレドイツ語版中将の部隊に所属した[11]。ラデツキー将軍の報告書には、フランツについて次のように記されている[12]。「殿下は幾度となく、迫りくる砲火のもとに身をさらされ、しかも平然と落ち着き、冷静そのものであられた。これは私のいたく喜びとするところである。敵の砲弾が殿下のごく間近にまで飛来したにもかかわらず、微動だにされなかったのを、私自身が目にした。」

フランツがイタリア戦線に発った4月25日、ウィーンではフェルディナント帝が欽定憲法を発布し、またしばらくは平穏が戻っていた[12]。しかし5月15日、多くの民衆が普通選挙法の制定などの新たな要求を掲げて王宮前広場に集まり、宮殿の中に殺到しかねないありさまになった[12]。フェルディナント帝は皇族や宮廷人をすべて引き連れて、やむなくチロル州都インスブルックに避難した[12]。フランツはそのままイタリア戦線に留まることを望んだが、インスブルックへ来るようにとの指令を受け、やむなく両親らの待つインスブルックに入った。ここでは将来の花嫁となる従妹のエリーザベトとの対面もあったが、まだこの時には彼女に対して何の感情も抱かなかった[13]

やがてプラハの暴動を鎮圧したアルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ侯爵がウィーンに帰り、こちらの動乱も収束させていった。こうして8月初頭に宮廷はウィーンに帰還したが、ほんの2、3週間も経たないうちに、またしても急進的な学生や労働者が宮殿前に集った。宮殿を守る軍隊によって一時的に彼らは撃退されたものの、両者の溝は深まる一方だった。10月16日、暴徒と化した民衆が陸軍省を襲い、テオドール・ラトゥールドイツ語版伯爵を殺害し、路上で吊るし首にした[14]。ウィーンは予断を許さぬ情勢に陥り、宮廷はふたたび都落ちする。今度の行き先はメーレンのオルミュッツであった[14]。フランツは馬に乗り、一族の馬車に付き添うようにしてこれに同行した[14]。オルミュッツに逃れた宮廷では会議が行われ、伯父フェルディナント1世の退位が決定する[15]。フェルディナント帝では国家の安泰を維持できず、その弟フランツ・カール大公も適任ではないという結論から[15]、フランツが18歳の若さで即位することとなった。

即位[編集]

1948年、即位したばかりのフランツ・ヨーゼフ1世の肖像画。

1848年12月2日に伯父フェルディナント帝から譲位され、即位する。ウィーンから遠く離れたオルミュッツでの帝位継承ゆえ、戴冠式は執り行われなかった。また、しばらくはこの地で親政が行われた。「フランツ2世」ではなく「フランツ・ヨーゼフ1世」という複合名が用いられることになったのは、それだけ当時の革命の状況が危機的なものだったことを示している[4]。急進的な改革を行ったことによって自由主義者から敬愛されるヨーゼフ2世を彷彿とさせるこの名前を用いることで、革命勢力をなだめる意味も込められていたのである[4][16]

しかし当のフランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じて疑わない人物であった[17][18]。このような思想をもつ新皇帝にとって憲法とは、その内容いかんにかかわらず、神から与えられた「信念が命ずるままに統治する」という統治者の義務に背くものであった[18]。そのためフランツ・ヨーゼフ1世は、自由主義国民主義の動きを抑圧しようとした。新皇帝は軍服に身を包み、軍靴の足音を響かせながらウィーンの宮殿に入り、ただちに戒厳令を布いた[19]

これに多くのウィーン市民は失望したが、その一方でウィーンの平穏を取り戻すためには戒厳令が必要なのだと擁護する声も多く聞かれた[20]。革命運動に身を投じた市民の中でいち早く皇帝派に変節したのが、音楽家ヨハン・シュトラウス2世であった。フランツ・ヨーゼフ1世の即位以降、彼は矢継ぎ早に『皇帝フランツ・ヨーゼフ行進曲』『戦勝行進曲』『ウィーン守備隊行進曲』などの体制側を賛美する楽曲を作った[20]。もっとも、革命運動に深く関わったシュトラウス2世に対してフランツ・ヨーゼフ1世は何の反応も示さず、なかなか許そうとしなかった[20][21]。シュトラウス2世を宮廷舞踏会の指揮者に任命する動議が出ても、フランツ・ヨーゼフ1世はこれを二回も却下した[21]

治世初期[編集]

母であるゾフィー大公妃の尽力により皇帝に即位したため、フランツ・ヨーゼフ1世はゾフィー大公妃の意見にほとんど逆らえなかった。そのため治世当初は保守的なゾフィー大公妃がしばしば政治に介入した。首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵は、貴族でありながら伝統的貴族をハプスブルク家にとっての脅威とみなし[16]、むしろ農民層の大衆を信頼できる同盟者と考えた[22]。彼の補佐を受けながらフランツ・ヨーゼフ1世が行った統治は「新絶対主義」(ネオアプゾルーティスムス)と称される。それは古い絶対主義を復活させようとするものではなく、近代的な新しい絶対主義を生み出そうとしたからである[22]。また王権神授説を信じるフランツ・ヨーゼフ1世自身も、即位後ただちに内閣と議会の関係を変えようとはしなかった[16]。「新絶対主義」の理論的拠り所は、万人のための近代的な経済・行政・教育システムを有無を言わさず与えることによって、万人への政治的諸権利の譲渡を不要にするというものである[23]

1851年12月31日、「大晦日勅書」を発する。これは皇帝の絶対的権威をうたったものであり、政治や立法への国民の関与を認めず、出版の自由や検閲の廃止などを暫定的に認めた1949年3月の欽定憲法を完全に廃止するものであった[24]。これに先立つ8月にフランツ・ヨーゼフ1世は「イギリス的・フランス的憲法をオーストリア帝国に適用することの不可能なることは、見識あるすべての人々によって認められている。」と断言しており[25]、明らかに皇帝の意志が反映された結果である。9月には亡命していたメッテルニヒがウィーンに帰還する。かくしてオーストリアはふたたび絶対主義国家に戻った。

1852年にシュヴァルツェンベルク公爵が世を去ると、若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は首相を空席とし[26]、真の絶対君主として君臨することになる[27]。シュヴァルツェンベルク公爵の後継者たりうる人物は、誰も見当たらなかったのである[26]アレクサンダー・フォン・バッハ内相が政府内で枢要な地位にあったが、それはほとんど内政問題のみに関してであった。この時代は内相の名から「バッハ時代」と呼ばれる[28]

ハンガリー蜂起の弾圧[編集]

オーストリア帝国内の領邦であったハンガリーでは、ハンガリー貴族コシュート・ラヨシュらを中心とした独立闘争が活発に行われていた。これに対しフランツ・ヨーゼフ1世は1848年12月16日にヴィンディシュ=グレーツ侯爵をハンガリーに派遣してブダペストを陥落させた[29]。コシュートは国外に逃亡したが、1849年4月には再びハンガリー人勢力によってブカレストを奪われてしまう[29]。広大なハンガリーを抑えるのは困難であり、またハンガリー人は支配層であるオーストリア人(ドイツ人)に根強い反感を抱いていたので、オーストリアのみではハンガリー人を完全に屈服させることができなかった。ヴィンディシュ=グレーツ侯爵はロシア帝国に援助を求めるよう皇帝に要請したが、母ゾフィーが反対を唱えたためにフランツ・ヨーゼフ1世は躊躇した[30]。しかし事態を打破するにはやむを得ない状況であったので、ロシア皇帝ニコライ1世に援助を依頼することを決めた[30]。1849年4月、ワルシャワでニコライ1世と会談して支援を求め、これに応諾したロシアはハンガリー東部へ出兵した。ほとんどオーストリアの功績であるにも関わらず、ハンガリーの将軍アルトゥール・ゲルゲイドイツ語版の降伏を受理したのはロシア軍だった[31]

1949年10月6日、独立を企てたとされるハンガリー元首相バッチャーニュ・ラヨシュドイツ語版伯爵を始めとする計114名のマジャル人の要人を粛清させた[32]。バッチャーニュ伯爵は引退してすでに久しく、革命後期の暴動にはいっさい責任がないと当時の世論は考えていた[31]。これによって即位後まもなくのフランツ・ヨーゼフ1世は、「血に染まった若き皇帝(der blut-junge kaiser)」としてハンガリー人に恐れられた[32]。ハンガリーの反逆者に対して取られた措置はヨーロッパの世論にショックを与え、さらにハンガリー人の心情に大きな影響を及ぼすこととなった[31]

1852年、ハンガリー各地へ行幸し、ハンガリー人の熱狂的な歓迎を受けた。しかし、ある村を通り過ぎた際、村人たちがドイツ語で万歳を叫んでいたのに疑問を抱き、なぜハンガリー語で叫ばなかったのかを村長に訊ねた[33]。すると村長は、それを命じたのは自分であると言った。村人たちはハンガリー語で「万歳、コシュート」と叫ぶのに慣れており、ハンガリー語で万歳を叫ぶと、つい同じことを叫んでしまうのではないかと恐れたのがその理由であった[33]。かつて宰相メッテルニヒはこう言った。「ハンガリー人を熱狂させるのは簡単だが、彼らを統治するのは困難である。」と[34]。まさにこのメッテルニヒの言葉のように、彼らは心の奥底から忠誠を誓ったわけではなかった。

皇帝襲撃事件[編集]

皇帝襲撃事件の様子を描いたもの。

1853年2月18日の昼、副官マクシミリアン・カール・オドネルドイツ語版伯爵のみを伴っての散歩中に[35][36]、ブルク稜堡の胸壁に身を乗り出し、下の堀のところで行われていた軍事訓練の様子を眺めていた[37]。そこを2週間前から暗殺の機会をうかがっていたハンガリー人の仕立物師ヤーノシュ・リーベニに襲われた[37]。ヤーノシュが突進しようとした瞬間、たまたま近くにいた女性がそれを見て大声で叫んだ。フランツ・ヨーゼフ1世はその叫び声に驚いて後ろを振り向いたために、致命傷は逃れることができた[36]。しかし首から胸に突き刺されてフランツ・ヨーゼフ1世は血みどろになり、数秒後にその場に崩れ落ちた[36]。近くの古物市場で買い求めた刃物が凶器であった[37]。副官はただちにサーベルを抜いて犯人の第二の突きを牽制し、そこにヴィーデン地区の肉屋ヨーゼフ・エッテンライヒドイツ語版が駆けつけ、犯人を素手で殴り倒して取り押さえた[37]。フランツ・ヨーゼフ1世は刺された後、駆けつけた人々に向かって「彼を殴ってはならない。殺したりしてはならない。」と叫んだという[38]

フランツ・ヨーゼフ1世は傷口にハンカチを当てて近くのアルブレヒト宮殿に運び込まれ[37][38]、宮廷劇場付きの医師フリードリヒ・シュティルナーの手当てを受けた[37]。これ以降、医師団は12日の間に30の特別広報を出して、皇帝の容体・回復の様子を逐一伝えた[37][39]。初診によると、後頭部の骨が損傷しており、安物のナイフの刀身が不潔なものだったために、傷が化膿し始めていた[38]。しばらくの間は視力が衰え、一時は失明の恐れさえあった[38]が、フランツ・ヨーゼフ1世は次第に快方に向かった。

この暗殺未遂事件をハンガリーの武力蜂起の新たな兆候かと疑った軍部は、2万の兵を動員して警戒にあたった[39]。しかしこの事件に背後関係はなく、コシュートによるハンガリー革命の失敗を無念に思うハンガリー愛国主義者の単独犯行であることが判明する[39][40]。フランツ・ヨーゼフ1世は刑一等を減じてやりたいと願っていたとも伝えられるが、即時裁判によって死刑が確定し、ヤーノシュは2月26日の朝にウィーン南郊外の刑場で処刑され、その母親には年金が交付された[39]

ウィーン市民の多くはそれまでフランツ・ヨーゼフ1世に対してあまり良い感情を抱いていなかったが、この事件のあとは一種の同情心からか親しみが生まれた[41]。弟マクシミリアン大公は、皇帝の命が救われたことを神に感謝するために新しい教会を建立しようと呼びかけると[39][41]、30万人の市民がこれに賛同し、寄付金によってヴォティーフ教会が建立された。シュトラウス2世は、皇帝の命が救われたことを祝って、作品126『フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』(『フランツ・ヨーゼフ1世万歳!』とも日本語訳される)という行進曲を皇帝に捧げた[42]。なお、皇帝の命を救った肉屋エッテンライヒはその勲功により世襲貴族に叙せられた[39][38]。また、この事件をきっかけに帝都改造論が勢いづいた[35]。フランツ・ヨーゼフ1世の傷の後遺症はしばらく続き、完治するまでに一年近くを要した[38]

皇后の選定[編集]

第一候補、プロイセン王女マリア・アンナ。
第二候補、バイエルン公女ヘレーネ。

若き皇帝のために、宮中では皇后選びの作業が進められていた。先頭に立って妃選びにあたった母ゾフィー大公妃がまず候補に挙げたのは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪にあたるマリア・アンナ王女であった[34][43]1852年の冬、かつてプロイセン王がウィーンを訪れたことへの答礼としてフランツ・ヨーゼフ1世はベルリンを訪れており[34]、その際に美しいと評判の彼女に会って心を奪われていたことによる。また、好戦的な姿勢を隠さなかったフランス皇帝ナポレオン3世への対処のために、当時ぎすぎすしていたオーストリアとプロイセンの関係を改善したいという意図もあった[34]。しかし、プロイセンは自国主導のドイツ統一を目論んでおり、その足枷となるオーストリア帝室との婚姻をこの時期に結ぶことはありえなかった[34]。それに、プロテスタントホーエンツォレルン家カトリックのハプスブルク家では宗旨が違うという理由もあるので[43]、この縁談はプロイセン側に断られた。

次善の策として母が目をつけたのは、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系の公女で、皇帝にとっては母方の従妹にあたるヘレーネ・イン・バイエルンだった。1853年2月18日の夜、フランツ・ヨーゼフ1世とヘレーネのお見合いを兼ねて、外国からの賓客を招いた舞踏会が催される予定だった[34]が、当日の昼にヤーノシュによる皇帝襲撃事件が起こり、お見合いは延期となった[41]

8月18日に満23歳になる皇帝の誕生日の祝賀をするという名目で、母ゾフィーはミュンヘンから妹ルドヴィカと姪を招待した[13]。こうして8月16日、ウィーンとミュンヘンのほぼ中間に位置する避暑地バート・イシュルの地で両者のお見合いが行われたが、この時フランツ・ヨーゼフ1世は、社交界に慣れさせるためにヘレーネと一緒に連れてこられたその妹エリーザベトに一目惚れをしてしまった[43][44]。顔合わせの際にはヘレーネには見向きもせずにエリーザベトに熱い視線を注ぎ、その後の夜会でも、ヘレーネにはほとんど無関心でエリーザベトとばかり言葉を交わしていた[45]

翌17日の朝、フランツ・ヨーゼフ1世は母ゾフィーにエリーザベトがいかに魅力的であるかを情熱的に語った[46]。ゾフィーがヘレーネについての意見を訊ねても、フランツ・ヨーゼフ1世はすぐにその話をエリーザベトについてのものに変えてしまった[46]。夕べに舞踏会が催されたが、そこでもフランツ・ヨーゼフ1世はエリーザベトとしか踊ろうとしなかった[46]。今まで自分の言うことにはすべて従っていた息子が、自分の選んだヘレーネには目もくれないというこの状況を前にして、母ゾフィーは非常に困惑した[46]。エリーザベトの母ルドヴィカは偏頭痛の持病を抱えていたために部屋に引き篭もっており、婚約のことはゾフィーに委ねられていたが、彼女にとっても頭の痛い状況だった[46]

フランツ・ヨーゼフ1世の誕生日である18日の午後、ゾフィーは皇帝である息子とふたりの姪を伴って、近隣にあるヴォルフガング湖へ馬車で散策に出掛けた[47]。その際にもフランツ・ヨーゼフ1世の視線はエリーザベトにばかり向けられていた。フランツ・ヨーゼフ1世はこの外出から帰るとすぐに、エリーザベトに結婚する意志があるかどうか確認してほしいと母に懇願した[47]。8月19日の早朝、フランツ・ヨーゼフ1世は母に呼ばれ、結婚申し込みを承諾した旨の叔母ルドヴィカの書き付けを見せられた[48]。かくしてふたりの婚約は成立した。その日のうちにふたりは当地の教会に行き、祭壇の前で司祭から祝福を受け、婚約の儀式を終えた[48]

エリーザベトとの結婚[編集]

1854年4月24日、アウグスティーナー教会で執り行われた結婚式。
エリーザベトとともに散歩するフランツ・ヨーゼフ1世を描いたもの。

1854年4月22日の午後4時、エリーザベトとその家族を乗せた蒸気船がウィーンのヌスドルフの波止場に到着した[49]。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、ハプスブルク家の一族や高位高官の者をその背後に並ばせて、花嫁の一行を出迎えた[49]。そして24日、ウィーンのアウグスティーナー教会英語版で枢機卿ラウシャーのもと、午後6時半に結婚式が挙行された[50]

シェーンブルン宮殿の「鏡の間」で祝賀舞踏会が行われ、招待客は3000人に及んだ[50]。この舞踏会の指揮を担当したのはヨハン・シュトラウス2世であり、また彼は皇帝の結婚を祝賀するために作品154『ミルテの冠』(『ミルテの花束』とも)というワルツを作曲した[42]。この結婚によって皇帝の人気は高まり、夜に皇帝夫妻が馬車で町を巡遊すると、沿道には大勢の人々が詰めかけた。

新婚の皇帝夫妻は、まずラクセンブルク英語版の宮殿で新生活を始めた[50]。しかし、新婚早々クリミア戦争が激化したため、フランツ・ヨーゼフ1世は早朝から深夜まで会議や閣議、応接に追われ、あまり新妻を顧みる余裕がなかった。

母ゾフィーはエリーザベトにウィーン流の宮廷教育を施し、ハプスブルク家の皇后としてふさわしい振る舞いを常に求めた[51]。そもそも母ゾフィーはヘレーネ公女を皇后にと考えていたのであって、その妹であるエリーザベトについてはあまり快く思っていなかった[51]。このような状況の中で、フランツ・ヨーゼフ1世は妻と母の間で板挟みになった。両者が何かをめぐって対立した際、「皇帝になれたのは私のおかげ」だと母に常々言い聞かされてきたフランツ・ヨーゼフ1世はいつも母ゾフィーの側につかざるをえなかったが、母のいないときには妻エリーザベトに理解を示した[52]

ウィーン改造の開始[編集]

城壁の取り壊しと建設中のリングシュトラーゼ。(1863年)

1853年の皇帝襲撃事件が起きる前から、ウィーン城壁を撤去しようという意見は多く聞かれた。市街地区に建設用地はまったくなく、19世紀初頭以来、くりかえし建物禁止令が発された[53]。用地の慢性的な不足により建物を建設できないのに対して、ウィーンの人口は19世紀前半の50年でほぼ倍増し[53]、住まいを求める人口が20万人にも達していた[54]。このような状況下で、当時のウィーン市長ヨハン・カスパール・フォン・ザイラードイツ語版や通産大臣カール・ルートヴィヒ・フォン・ブルックドイツ語版などは熱心にウィーン改造を主張した[54]。皇帝襲撃事件の数日前にフランツ・ヨーゼフ1世は、美術アカデミーの教授ルートヴィヒ・フェルスタードイツ語版からウィーン改造案についての説明を受けて大いに関心を示し、基本的に帝都改造に同意していた[54]。そこに襲撃事件が発生し、ますますウィーン改造への追い風となった。

1857年7月、長年の懸案となっていたウィーン城壁の撤去計画がまとまり、12月20日にフランツ・ヨーゼフ1世は帝都改造の勅書に署名した[55][56]。皇帝の決断が30年後の世紀末ウィーンの栄華を導くことになる。警察長官ヨハン・フランツ・ケンペンドイツ語版のように、この決定を性急かつ無思慮なものと見なす軍人や保守派市民もいたが、大部分のウィーン市民に受け入れられた[57]。とりわけ労働者は、撤去工事と新たな建設工事によって仕事が増えると歓迎した[57]。市民はフランツ・ヨーゼフ1世の決断を絶賛し、皇帝の人気は急上昇した[58]

共和主義者は城壁が撤去されることによって宮殿が無防備になると考えた[57]が、そもそもこの古い城壁は、武器の飛躍的な発達によって有効性を失いつつあった[56] 。むしろ複雑に入り組んだ街区を整理することによって、1848年革命のようにバリケードが築かれる余地がなくなり、治安はより保たれることになる。それまでは狭い城門を通らねばならなかったが、城壁を撤去すれば大量の部隊を周辺から呼び寄せることもできる。支配者側としてはこのような考えのもとでウィーン改造を計画した[20]。これらは、フランス皇帝ナポレオン3世ジョルジュ・オスマンとともに断行したパリ改造の先例にいくらか影響を受けたものである[59]

それまでウィーン市内を囲んでいた城壁は長い時間をかけてすべて撤去され、旧市街と34ある郊外地区との間に横たわる、防備のための広々としたグラーシ(Glacis)と呼ばれる空間に、リングシュトラーセと呼ばれる環状線が設けられることとなった。

普墺戦争の敗戦[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世(1865年)

イタリア統一戦争に敗北し、北イタリアの帝国領ロンバルディア1859年に、ヴェネト1866年に相次いで失う。さらに、ドイツ統一に燃えるプロイセン王国首相のビスマルクの罠にかかり、1866年普墺戦争では、消極的な自軍指揮官に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝としてドイツの君主の首位を占めてきたし、ドイツ連邦の議長職にあったことでその後も象徴的な指導権を維持していたが、オーストリアはこれらの威信と権力を喪失した[60]。このような対外的な動きに押される形で、国内では1861年、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。それはオーストリアを立憲君主国とするものだったが、しかしフランツ・ヨーゼフ1世は依然として外務と軍事にかんする多くの権力を保持した[61]

普墺戦争後は、普仏戦争で中立を守り、ビスマルクおよびドイツ帝国と接近・協調していった(パン=ゲルマン主義)。1873年にはドイツ、ロシア三帝同盟を、1882年にはドイツ、イタリア三国同盟を結ぶ。

ハンガリーへの「妥協」[編集]

皇后エリーザベトの肖像画。彼女はハンガリーの地を非常によく愛した。(1865年)

プロイセンに敗戦したことによる諸々の喪失は、自国を支配する能力にも影響を及ぼした[60]大ドイツ主義ではなく小ドイツ主義が勝利したことによってオーストリアはドイツから締め出され、従来の西方重視の政策を東方主体に転換せざるをえなくなった[62]。また、1866年にイタリアの領土を失ったことで南方からも追い払われ、オーストリアは必然的に中・東欧に活路を見出すほかなくなった[62]。この時期にベーメン、メーレン、ハンガリーに目を向けた「ドナウ君主国」という観念が急浮上した。これらの諸地域でも、民族主義が高揚して反政府運動が盛んになっていた[63]。とりわけ警戒を要したのは、皇帝に対する恨みがいまだ残存しているハンガリーだった。ウィーンはこのような状況下において、ベーメンのチェコ人と組んでハンガリーを抑えるか、ハンガリーのマジャル人と組んでスラブ民族を抑えるかという二者択一を迫られることになったのである[63]

民族や人口比、宗教が同じカトリックであること、ウィーンとブダペストの近さなどからみて、ハンガリーとの協調が適切だと考えられた。また、皇后エリーザベトがハンガリーを愛してその熱烈な擁護者になっていたことも大きな影響を及ぼした。アウスグライヒについてのハンガリーとの交渉はプロイセンとの戦前から行われており、オーストリアがプロイセンに大敗した後も、ハンガリーは足元を見ることなく戦前と同じ条件のみを求めた[64]。フランツ・ヨーゼフ1世はこれに感謝しつつ、1867年ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、二重君主国であるオーストリア=ハンガリー帝国を成立させた。これにより、ハプスブルク帝国オーストリア帝国領ハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。

1867年6月8日、フランツ・ヨーゼフ1世はエリーザベトとともにマーチャーシュ聖堂へ赴き、ハンガリー国王としての戴冠式を執り行った。ハンガリー議会は二重帝国成立の記念として、皇帝夫妻にゲデレ城ドイツ語版と10万ドゥカーテン金貨を献上した。

戴冠式のためにハンガリーに向かうフランツ・ヨーゼフ1世。 
1867年6月8日、ハンガリー国王としての戴冠式。王冠を受けているのがフランツ・ヨーゼフ1世。左側中央に座っているのがエリーザベト妃。 
ハンガリー国王として即位するフランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベト妃。 


フランツ・ヨーゼフ1世はアウスグライヒが成立した後、ハンガリー人以外の民族とも関係を自由に改善する余地があると考えていた[65]。不満を抱くチェコ人のためにボヘミア王として戴冠することを約束したが、これを二重制を壊すものだとするハンガリー首相アンドラーシ・ジュラの猛烈な反対に遭い、断念せざるをえなかった[64]

文化メトロポーレの建設[編集]

リングシュトラーゼの両側にネオ・ゴシック様式の市庁舎や新古典様式の帝国議会を建設するなど、歴史主義的な建造物による都市計画が行われた。こうしてウィーンの街は、ヨーロッパ随一の文化メトロポーレとして変貌を遂げていった。ハプスブルク帝国の長い歴史において、フランツ・ヨーゼフ1世の統治した時代こそが、ウィーンが最も強い輝きを放った時代であった。新興の都ベルリンなど足元にも及ばぬ美しい帝都の完成に、フランツ・ヨーゼフ1世は非常に満足していたと伝えられる[66]。また、巨大な兵舎や国防省、警察の中枢がリングシュトラーセの両端に配置された[20]

フランツ・ヨーゼフ1世は芸術・音楽・文学などには疎かった[27]にも関わらずそれらの庇護者であり、当時ウィーンの批評家に酷評されていたジュゼッペ・ヴェルディに対する支持をシュトラウス2世とともに表明している[67]1870年1月5日にウィーン楽友協会の落成式に臨席する[68]など、公私を問わずさまざまな行事に姿を見せ、あらゆる芸術文化を庇護するフランツ・ヨーゼフ1世に対して、市民は尊敬と親愛の情を隠さなかった[69]

ボスニア・ヘルツェゴビナの併合[編集]

1908年の風刺画。

1878年ベルリン会議において、フランツ・ヨーゼフ1世はボスニアヘルツェゴヴィナの統治の委任を受けた[70]1881年、フランツ・ヨーゼフ1世とドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、そしてロシア皇帝アレクサンドル3世は秘密同盟を結んだ。ドイツもロシアも、オーストリア=ハンガリー帝国が時期を問わずにボスニア・ヘルツェゴビナを併合するのに反対しないと表明した[71]。そして1908年、両地域の併合に踏み切ったが、汎スラヴ主義の先頭に立つセルビア王国との関係を悪化させ、さらに民族問題を複雑化させることに繋がった。帝国内のスラヴ系民族を刺激したのである。

なお、この併合宣言は同盟国であったドイツとイタリアにも通知せずに行われたものであり、ヨーロッパは騒然となった。これはヨーロッパ戦争を引き起こす恐れがあり、ひとまずドイツによって戦争は回避されたが、この時ロシアはオーストリア側に立って参戦しようとする動きを隠そうとしなかった[70]。フランツ・ヨーゼフ1世には、世襲した領土をそのまま次代に譲渡したいとの思いがあったので、ボスニア・ヘルツェゴビナが多少なりとも失われたイタリア半島の領土の代わりになると考えてのことであった[70]

相次ぐ家族の不幸[編集]

1864年ナポレオン3世の誘いに応じてメキシコ皇帝になることを決意した弟マクシミリアン大公に対して、頑強とはいえない皇太子ルドルフに万一のことがあった際にはマクシミリアンが帝位を継ぐものであることさえ指摘して慰留した[72]。しかしマクシミリアンの決意は変わらず、フランツ・ヨーゼフ1世は、弟の居城であるミラマール城英語版まで出かけていって皇位継承権を放棄するという署名を取りつけることしかできなかった[72]。結局マクシミリアンはメキシコ共和国のベニート・フアレスに逮捕されて銃殺刑に処されることになるが、これをフランツ・ヨーゼフ1世は大いに悲しんだという。

聡明で将来を嘱望された長男ルドルフ皇太子は、保守的な父帝と対立、1889年マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とマイヤーリンクで謎の心中を遂げた(暗殺説もある)。息子ルドルフに代わる皇位継承者とした甥のフランツ・フェルディナント大公とも政治的対立が見られた。オーストリア=ハンガリー帝国の成立に見られる、皇帝のハンガリーの政治的独立を半ば認め、帝国内の民族融和を図る政策に対し、フランツ・フェルディナント大公はドイツ人の優位の上で、スラブ人の「保護」を主張したためである。

またフランツ・フェルディナント大公はゾフィー・ホテク伯爵令嬢との貴賎結婚を成しており、皇帝はこの結婚をめぐっても結婚式への出席を拒否し、その子供たちの相続権も認めなかった。フランツ・ヨーゼフ1世はシェーンブルン宮殿に好んで住み、またフランツ・フェルディナント大公はベルヴェデーレ宮殿に居を構えていたため、この対立はさながらシェーンブルン対ベルヴェデーレの様相を呈していた[73]

1898年、皇后エリーザベトが旅先のジュネーブでイタリア人無政府主義ルイジ・ルキーニに暗殺されたことは、皇帝に大きな衝撃を与えた。その突然の訃報に接した際、悲嘆のあまり「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と泣き崩れたと伝えられている[74]

ルエーガーとの対立[編集]

1895年、ウィーン市長選挙でキリスト教社会党英語版カール・ルエーガーは、ユダヤ人を激しく攻撃する演説をおこなって人気を獲得し、市議会での投票で過半数を得た。しかしフランツ・ヨーゼフ1世はこれを承認せず、「朕の目の黒いうちは、わが帝都の市長として彼を批准することはなかろう」と拒否し続けた[75]。当時、市長は皇帝の任命する州の総督に承認されなければならなかった。そのため皇帝の同意を得られないルエーガーを総督は承認せず、ルエーガーは正式な市長になれなかったが、しかしいくら皇帝が拒否しても彼は繰り返し市長に選出された[75]。この確執は3年にもわたって続き、皇帝による市民無視との印象をウィーン市民に与えた[76]。一般市民の間では「ルエーガー万歳」の声が一段と高まり、ルエーガーは皇帝と人気を競うほどになった[76]。この頃、市民は「バデーニくたばれ」を合言葉とした。「皇帝くたばれ」と不敬なことばを吐くわけにはいかなかったので、時の首相カジミール・フェリクス・バデーニ伯爵が皇帝の身代わりとなったのである[76]

1897年、五度目の選出を受けたルエーガーに対して、フランツ・ヨーゼフ1世はついに折れて、ウィーン市長就任に同意した。しかしこの一連の流れからフランツ・ヨーゼフ1世は、帝国内のユダヤ人から「反ユダヤ主義の盾になって下さるわれらの庇護者[77]」としてますます敬愛されるようになった。

晩年[編集]

祈るフランツ・ヨーゼフ1世(1914年)
フランツ・ヨーゼフ1世の遺体
フランツ・ヨーゼフ1世の墓

フランツ・フェルディナント大公の次の皇位継承者と目されていたカール大公(後のカール1世)の妃ツィタは皇位継承者に相応しい身分の出身(パルマ公女でありスペインフランスの両ブルボン家の血を引く)であったため、フランツ・ヨーゼフ1世は大いに喜んだ[78]1911年に行われたカール大公の結婚式ではわざわざバルコニーに出て民衆に手を振るという、久しく民衆と触れ合うことのなかった老帝としては珍しいサービスを行うほど上機嫌であった。カール大公夫妻の間に男児が生まれた際には随喜の涙を流し、その洗礼式の際には代父となった。皇帝にあやかって男児は「フランツ・ヨーゼフ」と名付けられた。その男児とは、のちに最後の皇太子として知られるオットー・フォン・ハプスブルクのことである。

帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、1914年サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された。熱心に平和維持を望んだフランツ・ヨーゼフ1世は、帝国共通の外務大臣レオポルト・ベルヒトルトから望まぬ戦争への署名を求められ、バート・イシュルにある夏の別荘で宣戦布告の文書に署名した[79]。オーストリアはセルビアに宣戦を布告、第一次世界大戦が勃発する。

大戦さなかの1916年11月20日の夜、「やることが多い」から明朝3時半に起こすように言いおいて、いつもより早く寝床に就いた。しかし側近が言いつけの時刻に起こしに行ったところ、すでに息を引き取っていた[80]。死因は肺炎、享年86歳だった。フランツ・ヨーゼフ1世が生涯をかけて守ろうとしたハプスブルク帝国は、老帝の崩御のわずか2年後に世界地図から姿を消すことになる。

評価[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世(1910年)

戦争には負け続け、皇太子にも皇后にも先立たれ、民族問題にも悩まされた不幸な皇帝だと一般的に評価される[17][81]。数多くの過ちを繰り返したものの、その忍耐と不屈の精神、そして温厚にして誠実な人柄から、晩年には帝国内のすべての民族に慕われた[77]

神聖ローマ皇帝の由緒正しい血統、68年にもわたる最長在位記録。そして皇太子ルドルフの情死、美貌の皇妃エリーザベトの暗殺事件といった帝室の悲劇。これらの要素は、フランツ・ヨーゼフ1世をよりいっそう皇帝らしく見せ、オーストリア国民の理想の君主像に限りなく近づけた[82]。幼年学校や将校クラブはもちろん、安宿や娼家にも皇帝の肖像が飾られていた[83]。オーストリア各地のみやげもの屋には皇帝の似顔絵入りの絵はがきコーヒーカップが並び、皇帝のプロマイドが人気を呼んでいた[83]。今なおウィーンの街ではフランツ・ヨーゼフ1世の銅像やポスターを至るところで見ることができる[81]。これはホーエンツォレルン家の王都だったベルリンでは見られぬ光景である[81]

69年の治世の中で、政治的には数々の難題に直面したが、オーストリアの文化・経済は大きな発展をみた。それすら沈みゆく帝国の最後の光芒であったが、この文化発展への貢献、とりわけ19世紀末にウィーンを文化メトロポーレに変貌させたことこそがフランツ・ヨーゼフ1世の最大の功績だといえる[77][84]

人物[編集]

狩りに興じる際の恰好。
  • 王権神授説を信じる絶対主義的な君主であり、かつ貴賤結婚を断固として認めない古いタイプの君主であった。実際にフランツ・ヨーゼフ1世も自らを「旧時代の最後の君主」であると認めており[85]1910年にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトと会談した際にも「もしマクシミリアン1世が最後の騎士とするなら、フランツ・ヨーゼフは最後の君主である」と自ら語っている[27]。王朝と国家は、彼の心の中では同一の概念であった。そのわりには質素な生活ぶりであったが、その代わりに宮廷の儀礼や儀式の厳守を強く主張した[86]
  • 帝国を分裂させないことが第一の目標であったため、国内秩序を破壊するかもしれない何らかの変化を受け入れることを躊躇した。そのため、積極的あるいは膨張主義的な外交政策を支持しなかった[86]
  • 非常に勤勉で時間に正確で、判で押したような規則正しい生活を送った。皇帝になって以後は死の直前まで、日々3時間睡眠で激務に当たったという。君主や政治家というよりは、軍人ないし官僚のような人物であった。そのためか、正反対な性格のイギリス国王エドワード7世とは仲が悪かったというが、その母親であるヴィクトリア女王には敬意を抱いていたようである。
  • 新しいもの、すなわち「文明の利器」である機械にアレルギーを示し、自動車電話は決して用いようとしなかった。自動車については77歳の時に、エドワード7世の求めに応じて一度だけ彼と同乗したことがある[87]が、電話については一度も使ったことがなかった[88]。ただし、電信機だけはよく利用した。どのようなことも電報で通信し、シェーンブルン宮殿の他の部屋への連絡にも用いた[89]
  • 皇后エリーザベトは、政務に忙殺される夫との心のすれ違い、姑のゾフィー大公妃との確執などもあって、窮屈な宮廷生活を嫌い、ウィーンに留まることなく放浪にも似た旅を続けた。その淋しさを紛らわすため、エリーザベトから紹介された舞台女優カタリーナ・シュラットと親しくなり、しばしば会話を楽しむようになった。なお、エリーザベトを終生心から愛していたことに変わりはなく、旅に明け暮れる彼女をしばしば滞在先に訪ねている[74]
  • 狩猟が少年期からの趣味であり、バート・イシュルに狩りのための別荘をいくつか建てている。保養に出かけた際にはよく狩りを楽しんだ。
  • 芝居は好んだが音楽にはほとんど関心を示さず、芝居を見に行った際に聴衆が一斉に起立しているのを見るまでは、皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』を知らなかったという[90]
  • 宮廷舞踏会の指揮者となったシュトラウス2世とはたびたび顔を合わせる機会があったが、1848年革命に参加した彼に対していい感情を抱いていなかったので、当初フランツ・ヨーゼフ1世は「こんにちは、機嫌はどうだね?(Grüss Gott, wie geht's?)」と問いかけるだけだったという[91]。しかしシュトラウス2世の音楽に親しむにつれ、しだいに彼への反感をやわらげていった。後年には彼の手掛けた『ジプシー男爵』を見て大いに気に入り、劇場の皇帝席にシュトラウス2世を呼び寄せて褒めちぎった[91]

子女[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世と家族(1861年)

皇后エリーザベトとの間に一男三女を儲けた。

なお、幾人かの落胤がいたとされる。そのうちの一人は、愛人のアンナ・ナホフスキーに産ませた娘で、新ウィーン楽派の中心人物となったアルバン・ベルクの妻になった[92]。また、あくまで噂の域を出ないが、指揮者クレメンス・クラウスもフランツ・ヨーゼフ1世の落胤だという話がある[92]

関連作品[編集]

映画[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世を演じた主な俳優は以下の通りである。

ミュージカル[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 江村(1995) p.17
  2. ^ a b ベラー(2001) p.42
  3. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.40
  4. ^ a b c ベラー(2001) p.45
  5. ^ a b ベラー(2001) p.44
  6. ^ a b c d e ベラー(2001) p.43
  7. ^ a b c d e f 江村(1994) p.20
  8. ^ a b 江村(1994) p.26
  9. ^ a b 江村(1994) p.29
  10. ^ a b 江村(1994) p.30
  11. ^ 江村(1994) p.31-32
  12. ^ a b c d 江村(1994) p.33
  13. ^ a b 江村(1994) p.55
  14. ^ a b c 江村(1994) p.36
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  16. ^ a b c ベラー(2001) p.64
  17. ^ a b リケット(1995) p.94
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  19. ^ 小宮(2000) p.62
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  21. ^ a b 渡辺(1997) p.154
  22. ^ a b ベラー(2001) p.65
  23. ^ ベラー(2001) p.73
  24. ^ 江村(1994) p.48
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  26. ^ a b 江村(1994) p.49
  27. ^ a b c リケット(1995) p.94-95
  28. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.47
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  30. ^ a b 江村(1994) p.43
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  39. ^ a b c d e f 平田(1996) p.64
  40. ^ 『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.123
  41. ^ a b c 江村(1994) p.54
  42. ^ a b 小宮(2000) p.77
  43. ^ a b c 『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.124
  44. ^ 倉田(2006) p.199
  45. ^ 江村(1994) p.56
  46. ^ a b c d e 江村(1994) p.57
  47. ^ a b 江村(1994) p.58
  48. ^ a b 江村(1994) p.60
  49. ^ a b 江村(1994) p.64
  50. ^ a b c 倉田(2006) p.201
  51. ^ a b 江村(1994) p.72
  52. ^ 江村(1994) p.81
  53. ^ a b 平田(1996) p.60
  54. ^ a b c 平田(1996) p.62
  55. ^ 平田(1996) p.66
  56. ^ a b 『ウィーン 他民族文化のフーガ』 p.291
  57. ^ a b c 平田(1996) p.67
  58. ^ 平田(1996) p.68
  59. ^ ベラー(2001) p.78
  60. ^ a b ジェラヴィッチ(1994) p.57
  61. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.59
  62. ^ a b 江村(1994) p.134
  63. ^ a b 江村(1994) p.136
  64. ^ a b ベラー(2001) p.113
  65. ^ ベラー(2001) p.112
  66. ^ 平田(1996) p.281
  67. ^ ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2013曲目解説〈メロディー・カドリーユ〉を参照。
  68. ^ ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2012曲目解説〈騎手〉を参照。
  69. ^ 小宮(2000) p.97
  70. ^ a b c リケット(1995) p.116-117
  71. ^ 江村(1994) p.224
  72. ^ a b リケット(1995) p.108-109
  73. ^ 馬場(2006) p.23
  74. ^ a b 『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.126
  75. ^ a b 平田(1996) p.113
  76. ^ a b c 平田(1996) p.114
  77. ^ a b c 『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.122
  78. ^ 江村(1994) p.366
  79. ^ リケット(1995) p.121
  80. ^ リケット(1995) p.123
  81. ^ a b c 『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』 p.127
  82. ^ 平田(1996) p.277
  83. ^ a b 平田(1996) p.278
  84. ^ 平田(1996) p.280
  85. ^ 江村(1994) p.218
  86. ^ a b ジェラヴィッチ(1994) p.46
  87. ^ リケット(1995) p.116
  88. ^ スナイダー(2014) p.130
  89. ^ 江村(1994) p.217
  90. ^ 江村(1994) p.296
  91. ^ a b 渡辺(1997) p.156
  92. ^ a b 『ウィーン 他民族文化のフーガ』 p.173

関連項目[編集]