フランツ・ヨーゼフ1世

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フランツ・ヨーゼフ1世
Franz Joseph I.
オーストリア皇帝ハンガリー国王
Franz-Joseph-Österreich-1885.jpg
フランツ・ヨーゼフ1世(1885年)
在位 1848年12月2日1916年11月18日
戴冠 1867年6月8日、於マーチャーシュ聖堂(ハンガリー国王)
全名 Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen
フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
出生 1830年8月18日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーンシェーンブルン宮殿
死去 1916年11月21日(満86歳没)
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンシェーンブルン宮殿
埋葬 Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者 エリーザベト・イン・バイエルン
子女
王家 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 フランツ・カール・フォン・エスターライヒ
母親 ゾフィー・フォン・バイエルン
宗教 キリスト教カトリック教会
サイン Franz joseph signature.png
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フランツ・ヨーゼフ1世ドイツ語: Franz Joseph I.1830年8月18日 - 1916年11月21日)は、オーストリア帝国、のちオーストリア=ハンガリー帝国オーストリア皇帝およびハンガリー国王(在位:1848年 - 1916年)。全名はフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語:Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)。ハンガリー国王としてはフェレンツ・ヨージェフ1世ハンガリー語: I. Ferenc József [ˈɛlʃøːˈfɛrɛnʦˌjoːʒɛf])、オーストリア帝国内のベーメン国王としてはフランティシェク・ヨゼフ1世チェコ語: František Josef I.)である。68年に及ぶ長い在位と、国民からの絶大な敬愛から晩年はオーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の「国父」とも称された。晩年は「不死鳥」とも呼ばれ、オーストリアの象徴的存在でもあった。しばしばオーストリア帝国の実質的な「最後の」皇帝と呼ばれる。皇后は美貌で知られるエリーザベトである。

生涯[編集]

即位[編集]

母ゾフィーに抱かれたフランツ・ヨーゼフ・カール皇子
フランツ・ヨーゼフ1世(1865年)
フランツ・ヨーゼフ1世(1910年)

オーストリア皇帝フランツ1世の三男フランツ・カール大公とバイエルン王女であるゾフィー大公妃の長男として生まれる。ゾフィーは凡庸な夫よりも愛息の養育に心血を注ぎ、皇位を一足飛びにフランツ・ヨーゼフに継承させることを狙っていた。3月革命によって、伯父のオーストリア皇帝フェルディナント1世が退位したため、1848年に18歳の若さで即位する。

治世当初は首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵に補佐され、イタリアハンガリーの独立運動を抑圧、革命を鎮圧した。フランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じて疑わない人物であり、自由主義国民主義の動きを抑圧し、「新絶対主義」(ネオアプゾルーティスムス)と称する絶対主義的統治の維持を図った。

即位から5年後の1853年2月18日、副官一人を連れてブルク稜堡を散歩中に、ハンガリー人の仕立物師ヤーノシュ・リーベニに襲われ、後頭部を刺される。フランツ・ヨーゼフ1世は辛うじて一命を取り留めたが、この事件をきっかけに首都改造論が勢いづいた。フランツ・ヨーゼフ1世の命でそれまでウィーン市内を囲んでいた城壁は撤去され、リングと呼ばれる環状線が引かれ、歴史主義的な建造物による都市計画が行われた。

成婚[編集]

皇帝にとって1853年は、襲撃事件があった不幸な年であったが、また妃が決まった喜びの年でもあった。先頭に立って妃選びにあたった母ゾフィー大公妃がまず候補に挙げたのは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪にあたるアンナ公女であったが、プロテスタントのホーエンツォレルン家とカトリックのハプスブルク家では宗旨が異なるとの理由で断られる。次に母が目をつけたのは、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の公女で、皇帝にとっては母方の従妹にあたるヘレーネだった。イシュルの地でお見合いが行われたが、皇帝が選んだのはヘレーネではなく、一緒についてきたその妹エリーザベトであった。1854年、母の反対を押し切ってエリーザベトと結婚した。

外交政策[編集]

イタリア統一戦争に敗北し、北イタリアの帝国領ロンバルディア1859年に、ヴェネト1866年に相次いで失う。さらに、ドイツ統一に燃えるプロイセン王国首相のビスマルクの罠にかかり、1866年普墺戦争では、消極的な自軍指揮官に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。このような対外的な動きに押される形で、国内では1861年、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。

1864年ナポレオン3世の誘いに応じて弟マクシミリアン大公をメキシコ皇帝として送り出す。マクシミリアンはメキシコ共和国のベニート・フアレスに逮捕されて銃殺されることになるが、これをフランツ・ヨーゼフ1世は大いに悲しんだという。

1867年ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、オーストリア=ハンガリー二重君主国が成立した。これにより、ハプスブルク帝国オーストリア帝国領ハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。しかし、この後も民族問題は先鋭化の一途をたどり、1908年ボスニアヘルツェゴヴィナを併合したことは、汎スラヴ主義の先頭に立つセルビア王国との関係を悪化させ、さらに民族問題を複雑化させることに繋がった。

普墺戦争後は、普仏戦争で中立を守り、ビスマルクおよびドイツ帝国と接近・協調していった(パン=ゲルマン主義)。1873年にはドイツ、ロシア三帝同盟を、1882年にはドイツ、イタリア三国同盟を結ぶ。

後継者との対立[編集]

聡明で将来を嘱望された長男ルドルフ皇太子は、保守的な父帝と対立、1889年マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とマイヤーリンクで謎の心中を遂げた(暗殺説もある)。息子ルドルフに代わる皇位継承者とした甥のフランツ・フェルディナント大公とも政治的対立が見られた。オーストリア=ハンガリー帝国の成立に見られる、皇帝のハンガリーの政治的独立を半ば認め、帝国内の民族融和を図る政策に対し、フランツ・フェルディナント大公はドイツ人の優位の上で、スラブ人の「保護」を主張したためである。

またフランツ・フェルディナント大公はゾフィー・ホテク伯爵令嬢との貴賎結婚を成しており、この結婚をめぐっても結婚式に出席を拒否し、その子供たちの相続権も認めなかった。フランツ・ヨーゼフ1世はシェーンブルン宮殿に好んで住み、またフランツ・フェルディナント大公はベルヴェデーレ宮殿に居を構えていたため、この対立はさながらシェーンブルン対ベルヴェデーレの様相を呈していた。

晩年[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世の遺体
フランツ・ヨーゼフ1世の墓

フランツ・フェルディナント大公夫妻の結婚に対し、その次の皇位継承者と目されていたカール大公(後のカール1世)の妃ツィタは皇位継承者に相応しい身分の出身(パルマ公女でありスペインフランスの両ブルボン家の血を引く)であったため、フランツ・ヨーゼフ1世は大いに喜んだ。1911年に行われたカール大公の結婚式ではわざわざバルコニーに出て民衆に手を振るという、久しく民衆と触れ合うことのなかった老帝としては珍しいサービスを行うほど上機嫌であった。カール夫妻の間に男児が生まれた際には随喜の涙を流し、みずから名付け親となって「フランツ・ヨーゼフ」と名付けた。その男児とは、のちに最後の皇太子として知られるオットー・フォン・ハプスブルクのことである。

帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、1914年サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺され、オーストリアはセルビアに宣戦を布告、第一次世界大戦が勃発する。戦争中の1916年、肺炎のためウィーンにて86歳で崩御した。

戦争には負け続け、皇太子にも皇后にも先立たれ、民族問題にも悩まされた不幸な皇帝だと一般的に評価されるが、その温厚にして誠実な人柄から、晩年には帝国内のすべての民族に慕われた。特にユダヤ人からは、「皇帝こそ反ユダヤ主義の盾になって下さるわれらの庇護者」として敬愛された。69年の治世の中で、政治的には数々の難題に直面したが、オーストリアの文化・経済は大きな発展をみた。しかしそれは沈みゆく帝国の最後の光芒であり、フランツ・ヨーゼフ1世が生涯をかけて守ろうとしたハプスブルク帝国は、老帝の死のわずか2年後に世界地図から姿を消すことになる。

人物[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世と兄弟(1863年)
フランツ・ヨーゼフ1世と家族(1861年)

先述のように、王権神授説を信じる絶対主義的な君主であり、かつ貴賤結婚を断固として認めない古いタイプの君主であった。王朝と国家は、彼の心の中では同一の概念であった。個人的には質素な生活を送ったが、その代わりに宮廷の儀礼や儀式の厳守を強く主張した。

帝国を分裂させないことが第一の目標であったため、国内秩序を破壊するかもしれない何らかの変化を受け入れることを躊躇した。そのため、積極的あるいは膨張主義的な外交政策を支持しなかった。

非常に勤勉で時間に正確で、判で押したような規則正しい生活を送った。皇帝になって以後は死の直前まで、日々3時間睡眠で激務に当たったという。しかし、母であるゾフィー大公妃の尽力により皇帝に即位したため、母親に頭が上がらない部分もあった。君主や政治家というよりは、軍人ないし官僚のような人物であった。そのためか、正反対な性格のイギリス国王エドワード7世とは仲が悪かったというが、その母親であるヴィクトリア女王には敬意を抱いていたようである。

皇后エリーザベトは、政務に忙殺される夫との心のすれ違い、姑のゾフィー大公妃との確執などもあって、窮屈な宮廷生活を嫌い、ウィーンに留まることなく放浪にも似た旅を続けた。その淋しさを紛らわすため、エリーザベトから紹介された舞台女優カタリーナ・シュラットと親しくなり、しばしば会話を楽しむようになった。なお、エリーザベトを終生心から愛していたことに変わりはなく、旅に明け暮れる彼女をしばしば滞在先に訪ねている。1898年、エリーザベトが旅先のジュネーブでイタリア人無政府主義ルイジ・ルキーニに暗殺されたことは、皇帝に大きな衝撃を与えた。その突然の訃報に接した際、悲嘆のあまり「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と泣き崩れたと伝えられている。

家族[編集]

皇后エリーザベトとの間に一男三女を儲けた。

関連作品[編集]

映画[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世を演じた主な俳優は以下の通りである。

ミュージカル[編集]

参考文献[編集]

  • スティーヴン・ベラー著/坂井榮八郎監訳・川瀬美保訳『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』刀水書房
  • バーバラ・ジェラヴィッチ著/矢田俊隆訳『近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国』(山川出版社、1994年)

関連項目[編集]