プファルツ=ズルツバッハ
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- プファルツ=ズルツバッハ
- Pfalz-Sulzbach
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← 1569年 - 1604年
1614年 - 1742年→ (国章) -
公用語 ドイツ語 首都 ズルツバッハ - 公
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1569年 - 1604年 オットー・ハインリヒ 1614年 - 1632年 アウグスト 1733年 - 1742年 カール・テオドール - 変遷
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プファルツ=ツヴァイブリュッケンから分割し成立 1569年 プファルツ=ノイブルクに統合 1604年 プファルツ=ノイブルクから分離 1614年 プファルツ選帝侯領に統合 1742年
プファルツ=ズルツバッハ(Pfalz-Sulzbach)は、かつて存在した神聖ローマ帝国の領邦の一つ。現在のドイツ、バイエルン州アンベルク=ズルツバッハ郡を中心とする一帯に存在し、プファルツ系ヴィッテルスバッハ家の支族が治めた。
1569年から1604年まで
[編集]プファルツ=ズルツバッハは、1569年のプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヴォルフガングの死により、プファルツ=ツヴァイブリュッケンより生じた。彼の地はヴォルフガングの息子オットー・ハインリヒが統治した。1604年にオットー・ハインリヒが後継ぎを残さずして死ぬと、プファルツ=ズルツバッハは兄のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒの所領へ編入された。
- プファルツ=ズルツバッハ公
- オットー・ハインリヒ(1569年 - 1604年)
1614年から1742年まで
[編集]1614年のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒの死により、その息子アウグストが新たにプファルツ=ズルツバッハを興した[1]。その領地はバイエルン選帝侯領をはさんで2つに分かれていた。西方は帝国都市ニュルンベルクに接し、東方はボヘミア王国に接した[2]。
アウグストの跡を継いだクリスティアン・アウグストは寛容な君主で、個々の宗教の信仰を認めたり、シムルタネウムを導入したり、1666年にユダヤ人が定住するのを認め、印刷業を設立した[3]。プファルツ選帝侯カール3世フィリップの死後、クリスティアン・アウグストの後継者のプファルツ=ズルツバッハ公が選帝侯位を継承するのは明白であった。しかし、それが実現したのは1742年、カール・テオドールの代であった[2]。
- プファルツ=ズルツバッハ公
- アウグスト(1614年 - 1632年)
- クリスティアン・アウグスト(1632年 - 1708年)
- テオドール・オイスタッハ(1708年 - 1732年)
- ヨハン・クリスティアン(1732年 - 1733年)
- カール・テオドール(1733年 - 1742年) - 後にプファルツ選帝侯(1743年 - 1777年)、バイエルン選帝侯(1777年 - 1799年)
脚注
[編集]- ^ “Pfälzische Teilungen”. Historisches Lexikon Bayerns. 2023-5-58閲覧。
- ^ a b “Pfalz-Sulzbach, Fürstentum”. Historisches Lexikon Bayerns. 2023-5-58閲覧。
- ^ “Pfalz-Sulzbach, Fürstentum”. Historisches Lexikon Bayerns. 2023年5月18日閲覧。