日本の漫画の歴史

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日本の漫画の歴史(にほんのまんがのれきし)では、日本の漫画の歴史について述べる。

中世から江戸時代まで

「漫画」の語源については「日本の漫画#語源」を参照

『鳥獣人物戯画』(甲巻、部分)

滑稽な絵という意味での「漫画」は、平安時代絵巻物・『鳥獣人物戯画(鳥獣戯画)』が日本最古であると言われている。[1][2] 他にも絵巻物には漫画的な表現がみられる。『福富草子』という主人公が屁芸で成功する話では、直接台詞が人物の横に書かれ[3]、フキダシに近いものがある。また『信貴山縁起絵巻』では一枚絵で場面転換をしており、絵巻物の文化自体が「現代の漫画」に似た要素を含んでいる。

『信貴山縁起』山崎長者の巻(部分)

その後18世紀初頭には商品としての戯画が流通するようになり、19世紀には戯画的な浮世絵も生まれた。背景には印刷技術の発達と町人文化の興隆がある。

葛飾北斎『北斎漫画』

ヨーロッパにも影響を与えた葛飾北斎の『北斎漫画』は特に有名である。この中には鼻息を表す線が描かれるなど、現代で言う「漫符」の古い形が既に見られる。だがこれ自体は葛飾派の弟子達の絵手本として描かれた物の為、江戸の漫画というのには誤解がある。

また、歌川広重、幕末の歌川国芳ら多くの浮世絵師達が戯画を描いた。それらの戯画の中に風刺的なものがあるが、その絵を役人に誉められて喜んだという話もあり、本格的な風刺ではなくあくまで娯楽の部分が強い。

絵に文が添えられた滑稽な読み物としては、江戸時代草双紙の内「黄表紙」と呼ばれたものがある。例えば『金々先生栄花夢』での夢を見るシーンで使われている、いわゆる「フキダシ」などは現代の漫画にも通じる技法である。

また、十返舎一九は当初一人で絵と話を作っていたが、次第に原作者に専念するなど、現代漫画における原作者と作画家においての関係に近いものがあった。

これらは、鳥羽僧正の名にちなんで「鳥羽絵」(主に手足の細長いデフォルメされた人物を描く)、または「大津絵」「狂画」などと呼ばれており、それらの呼称は近代に入っても引き続き使われた。

幕末から第二次世界大戦まで

幕末から明治憲法発布まで

THE JAPAN PUNCH
1878年7月号表紙)

幕末1862年には、日本初の外字雑誌にして漫画雑誌の『ジャパン・パンチ』がイギリスチャールズ・ワーグマンによって横浜居留地で発行された。彫師・摺師は日本人で、和紙に印刷された和綴じの本であった。イギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』が語源であるという別の説もあるが、どちらにしろこれにより「ポンチ絵」という風刺または寓話的漫画を意味する語が生まれた。[4]現代では漫画全般をさす意となっている。

1874年には河鍋暁斎仮名垣魯文がこれを参考に『絵新聞日本地』という雑誌を刊行。後に続き『寄笑新聞』が、さらに1877年には明治時代を代表する漫画誌『團團珍聞(まるまるちんぶん)』が野村文夫によって創刊された。日本で最初の連載漫画は、『團團珍聞』に連載された田口米作の『江の島鎌倉長短旅行』(1896年)である。「長」と「短」と名付けられた主人公二人組による観光旅行を描いたこの作品は、特定のキャラクターによる一貫したストーリーを描いた最初の漫画であった。

上記の河鍋暁斎田口米作、そして小林清親などの明治初期の主要な漫画家は、浮世絵師から転身した作家達であった。

明治憲法発布から第二次世界大戦まで

北沢楽天『田吾作と杢兵衛の東京見物』

北澤楽天福澤諭吉に見出され、その紹介により週刊英字新聞で活躍していたオーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベルに師事した。1899年に福澤の招きにより時事新報に入社し、『田吾作と杢兵衛』や『灰殻木戸郎』などの風刺漫画の傑作を次々と生み出した。更に1905年には『東京パック』を創刊するなど、日本における風刺漫画の発展に大きく貢献した。又、1921年には日本最初の新聞日曜版漫画である『時事新報日曜付録・時事漫画』を創刊した。これらの新聞や雑誌で連載された楽天の風刺漫画は、ダークスアウトコールトオッパーなどの同時代のアメリカ合衆国のコミック・ストリップ作家達から、強い影響を受けていた。[要出典]楽天が1928年から『時事漫画』で連載した『とんだはね子』は、日本で最初の少女を主人公とした連載漫画であり、少女漫画の先駆的作品である。

岡本一平は、1915年に日本初の漫画家団体である東京漫画会(後の日本漫画会)を設立した。翌年に創刊された同会の同人誌『トバエ』により、ドイツの漫画誌『シンプリチシムス』などに触発された簡素な描線やデフォルメされた画風が日本漫画に取り入れられた。[要出典]また、岡本は東京朝日新聞において『人の一生』(1921年)などの漫画漫文を連載し、後の日本におけるストーリー漫画の原型を作り上げた。それまでは専ら風刺の手段と見なされていた漫画が、大衆娯楽として認識されていく過程において、岡本の活動は大きな役割を果たした。

1923年に執筆された織田小星作・樺島勝一画の『正チャンの冒険』や、麻生豊の『ノンキナトウサン』以降から、現代の漫画に通じるコマ割りやフキダシといった表現手法が定着し始める。

1932年には、近藤日出造横山隆一杉浦幸雄ら20代の若手漫画家により、新漫画派集団が結成された。新漫画派集団の作家達は毛筆ではなくペンによる描画をその特徴とし、欧米のナンセンス漫画に触発された日本独自のナンセンス漫画を主要な作風としていた。[要出典]新漫画派集団は楽天や一平、その弟子達を凌駕する人気を獲得し、新漫画派集団の作家達は、後に第二次世界大戦後の漫画界の中核を成す存在となっていった。

1930年代には、講談社の『少年倶楽部』他の子供雑誌で連載された『のらくろ』『タンクタンクロー』『冒険ダン吉』などの子供向けの人気漫画が単行本化され、ベストセラーとなった。芳賀まさを阪本牙城らもいた。しかし、一般の子供達には、高価すぎて近づきがたいものだった。彼らの関心の中心は、関東大震災以後に普及した紙芝居であり、手書きものだけでなく、印刷ものまで、全国配給ルートが確立されていた。

第二次世界大戦後

連合国軍占領下の日本

第二次世界大戦後に飛躍的に発達した漫画は、第二次世界大戦までの漫画とは系譜的に断絶している。実際、戦前の漫画家で、戦後の漫画家になった例は、非常に少ない。戦後、特に米軍占領時代の漫画は、むしろ戦前の紙芝居に因る所が大きい。即ち、紙芝居は、戦災でほとんどのコンテンツ資産を失いながらも、戦後に急速に再生する。ここにおいて、また、『黄金バット』などの紙芝居を元にした絵物語が、戦前からの廉価な赤本(表紙に赤色が多い、本来は活字小説が主)のシリーズにも入れられるようになり、書店ではなく、駄菓子屋や紙芝居屋によって販売される。また、小学館系の集英社で児童向けの月刊誌が発刊され、山川惣治の『少年王者』のような絵物語が連載されるようになる。

活字ものを含め、赤本や月刊誌は、それでもまだ高価であったため、貸本屋が普及し、1953年頃から貸本漫画が出始め漫画もこれと共に成長する。ここにおいて、手塚治虫は、赤本漫画において、まとまったストーリーを展開する方法を確立し、また、若手が手作りの一点ものを貸本屋に売って、漫画が、紙芝居と並んで、子供文化の中心となる。このために、絵物語中心だった月刊誌が、1951年頃から漫画へ軸足を移すことになる。この頃、物価上昇の影響などから赤本漫画が終焉を迎え貸本漫画へ需要が移るようになる。貸本漫画の作家は、戦前からの作家、赤本や紙芝居からの転身、貸本からデビューした者(水木しげる白土三平)など様々である。

高度経済成長前夜

この頃、紙芝居屋は全国に5万人を数えていたが、週間単位のテレビの普及と共に、週刊誌が次々と出され、1959年には、講談社から『少年マガジン』が、小学館から『少年サンデー』などの週刊漫画雑誌が子供向けの週刊誌として登場する。しかし、当初は、子供のこづかいで買える価格ではなく、経営的に安定しない。また、赤本・貸本において、すでにまとまったストーリーの漫画が登場していたにもかかわらず、この週刊漫画雑誌において、紙芝居的な連載形式へ逆行する。すなわち、それは週10枚程度の話を、人気に応じて無限に続けなければならないものであり、逆に人気が無くなればすぐに打ち切りとなる。したがって、その物語は、当時のラジオのソープオペラと呼ばれる形式に似たものとなり、主人公を軸にいろいろ事件が起こるが、常に元に戻る、伏線の蓄積のほとんどない物語形式が主流となった。

ストーリーは、描いて載ってから先を考えるのであり、気づかずに伏線が生じてしまった場合、編集者と二人三脚で、つじつまを合わせに腐心することになる。物語としては、戦前の膨大な『黄金バット』作品群(話の日本社以外によるものを含む)から派生したヒーローものやロボットもの、『ハカバキタロー』や『猫娘』などの因果ものから借用した『ゲゲゲの鬼太郎』、そして、戦前の兵隊ものに代わって戦後のスポーツものなどが主軸となった。時代劇ものやチャンバラものは、GHQの規制もあって本格的な復活は占領終了後となり、『赤胴鈴之助』などが人気作となった。

週刊漫画誌の人気が過熱する一方で、貸本漫画は大手出版社による『週刊少年サンデー』・『週刊少年マガジン』などの週刊漫画誌が相次いで創刊されると徐々にシェアを奪われ、1969年末に貸本漫画は事実上の終焉を迎えた。

漫画が普及する一方、1955年、「日本子どもを守る会」「母の会連合会」「PTA」による「悪書追放運動」が起こり、手塚治虫の代表作である『鉄腕アトム』を含む漫画を校庭に集めて「焚書」にする運動が起こった[5]

高度経済成長期

戦後の漫画の先頭を切る手塚治虫は、テレビ放送開始当初からテレビ進出を模索していたが、1963年、彼が海外輸出を前提としたテレビアニメを始めると、紙芝居に代わってテレビアニメと雑誌が連携するようになる。すなわち、テレビアニメの原作としての漫画、ないし、テレビアニメを連載した漫画が増えてくる。

これと前後して、1962年には、講談社が週刊『少年マガジン』と月刊『なかよし』から、漫画雑誌の週刊『少女フレンド』( - 1996年)を発刊、翌1963年には、月刊『りぼん』を出していた集英社が、これを総合雑誌週刊『マーガレット』で追う。これによって、少女誌も週刊時代に突入するが、少年誌同様のベテラン漫画家だけでなく、読者の感覚に近い若手を積極的にスポ根(スポーツ根性)物などに登用し、テレビアニメ路線を拡大した。この流れは、少年誌にも波及する。

1964年には日本初の青年漫画誌『月刊漫画ガロ』が青林堂から創刊される。『ガロ』はスケールの大きさから連載する場所が無かった白土三平の劇画『カムイ伝』を連載するために創刊された雑誌であった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。「カムイ伝」による既存体制への反発といった内容が全共闘時代の大学生のバイブルとして強く支持され一世を風靡、「漫画は子供が読むもの」という既成概念を覆して漫画文化の新時代を築き漫画界の異才を数多輩出した。

『ガロ』の表現性に大きな衝撃を受けた手塚治虫は後発雑誌『COM』を虫プロ商事から創刊した。『ガロ』『COM』は商業性よりも作品を重視、オリジナリティを遵守したため、編集者の干渉が比較的少なく、作家側にすれば自由に作品を発表出来たため、新人発掘の場として独創的な作品を積極的に掲載した。このことは、それまで漫画という表現を選択することのなかったアーティストたちにも門戸を開放する結果となり、ユニークな新人が続々と輩出されるようになった。特に、つげ義春が1968年に発表した『ねじ式』は、そのシュールな作風と常軌を逸した不条理な展開から漫画が初めて表現の領域を超越した斬新な作品と評され、後続の作家たちにも絶大な影響を与えることになった。彼等の作風は海外のアンダーグラウンド・コミックオルタナティヴ・コミックとの親和性も高い。

1968年には、集英社が『少年ジャンプ』を創刊し、後発ゆえに人気作家を確保出来ない逆境を逆手に取り、『マーガレット』同様若手の積極的な登用と、徹底した読者アンケートによる生き残り方式で順調に部数を伸ばした。永井豪本宮ひろ志などの多くの戦後第二世代の人気漫画家を輩出した。中でも、原爆の悲惨さを描いた『はだしのゲン』やお色気漫画の先駆的作品『ハレンチ学園』は異色作だった。

1970年代後半

1960年代以降、日本の漫画界は一部の実験的な漫画誌(『ガロ』『COM』など)を除いて、「少年漫画」「少女漫画」「劇画」「大人漫画」(「大人漫画」は1970年代に衰退)の4つのジャンルにはっきりと別れていた。

1975年、第一次オイルショックの影響は尚も残っていた。景気は低迷し、新規採用を中止する大企業が相次いだ。出版業界は実売金額で前年比15%の伸びを記録する一方、8月の返本率が40%を超え、「出版不況」がマスコミに取り上げられた。ただし漫画は単行本・雑誌ともに好調で、少年週刊誌は発行部数2億9133万部と、3億部を目前にしていた。また後に漫画界最大のイベントに成長するコミケ(コミックマーケット)がこの年始まった。当初は参加人数は700人程度だったが、現在では55万人が参加(2007年夏)する世界最大の同人誌即売会となっている。高橋留美子を初めとしてプロの漫画家予備軍も初期のコミケから参加している。

1977年、劇場アニメ『宇宙戦艦ヤマト』が8月6日-10月28日の上映期間に270万人を動員し、興行収入21億円という空前のヒットを記録した。これにより漫画・アニメ・映画を中心とするメディアミックスの可能性が拡大、それぞれの関係もより複雑なものになった。

1978年、漫画単行本・雑誌の総販売金額は1836億円、出版物全体の15%を占めるまでに拡大した。漫画の消費速度が上がり、次々に読み捨てられていくようになっていった。こうした風潮に対し、東京に漫画の収集・保存を目的とする「現代マンガ図書館」が創設された。

1979年、松本零士の『銀河鉄道999』のアニメ映画の公開に合わせ、国鉄によりイベント列車が運行された。切符の競争率が70-80倍にも及び、漫画の影響力の大きさを知らしめることになった。これをきっかけとして漫画とタイアップした企画が催されるようになり、漫画家の活躍の場が広がった。また同年、青年向け漫画雑誌の週刊『ヤングジャンプ』が創刊され、創刊号がたちまち売り切れたことが話題となった。

なお第一次オイルショックの頃までは、雑誌に連載された漫画が単行本(コミックス)になることは少なかった。現在ではほとんど当然のように行われる漫画の単行本化だが、当時は特に人気のある作品に限られていた。「一度雑誌で読んだ漫画をわざわざ買い直す読者などいまい」という考えが、出版社では主流だったのだ(そのせいもあり雑誌掲載済みの漫画の原稿は、使用済みと見なされて読者プレゼント等で散逸してしまった作品もある)。しかし出版社は、オイルショックによる不況の部数減や雑誌の広告収入が落ち込みの中で、依然順調な伸びを記録する漫画に注目、二次使用に積極的になっていく。ここから小説では普通だった「雑誌連載→単行本化」という図式が、漫画においても定着していくようになる。これには漫画を雑誌の連載で読まず単行本まで待つ読者層の登場や、国民全体が豊かになり子供の小遣いでも気軽に単行本が買えるようになった事も単行本化の進む一因であったろう。この頃から書店にも当然のように漫画コーナーが作られるようになった。1977年、『週刊少年ジャンプ』と『週刊少年チャンピオン』は発行部数200万部、週刊少年誌の推定発行金額は500億円を突破した。これが1976-1980年の第三次漫画ブームである。漫画の人気は定着し、漫画の二次・三次利用という「ワンコンテンツ・マルチユース」の基本構造が出来上がった。更にこれ以後アニメ化・映画化を踏まえた作品や、メディアの垣根を越えた複合的な作品造りを行う、いわゆるメディアミックス戦略も本格的になっていく。この時期漫画産業はまさに絶好調、右肩上がりの成長を続けた。

その一方、70年代末に漫画マニア向けの新興誌『劇画アリス』『マンガ奇想天外』『Peke』『JUNE』『漫金超』といった非商業的なマイナー誌が相次いで創刊され、青年漫画界を中心に、既存の漫画の枠組みを乗り越えるような「ニューウェーブ」が起こる。紙面は強い個性を持つ既成作家や同人作家を集めて構成された。具体的には、青年誌で活動していた大友克洋吾妻ひでおいしかわじゅん、同人誌出身の高野文子さべあのま柴門ふみ、少年誌出身の諸星大二郎星野之宣高橋葉介、『COM』出身の坂口尚、三流劇画誌出身のひさうちみちお宮西計三など、彼らは個々の異色さゆえに既成のジャンルを乗り越える作家たちと認知されていた。このようなニューウェーブの動きは、上記の漫画誌の相次ぐ休刊と、新たに創刊された『週刊ヤングマガジン』『ビッグコミックスピリッツ』などの各青年誌に作家が移ったことにより終息していった。

この時期に連載を開始した漫画-『はいからさんが通る』『キャンディ・キャンディ』(1975年)、『俺の空』『ガラスの仮面』『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(1976年)、『銀河鉄道999』『地球へ…』(1977年)、『あさりちゃん』『うる星やつら』(1978年)、『キン肉マン』『釣りバカ日誌』『あさきゆめみし』(1979年)

1980年代前半

1980年には第三次漫画ブームは続いていて、少年週刊誌の売り上げも好調だった。『週刊少年ジャンプ』が300万部を突破した一方で、『週刊少年チャンピオン』は売り上げを大きく落とす。1971年から連載していた『ドカベン』の終了が大きく影響したのである。また『週刊ヤングマガジン』・『ビッグコミックスピリッツ』・『グッドコミック』などの青年向け漫画雑誌や、『ビッグコミックフォアレディ』など若い女性向けのレディースコミック誌(レディコミ)が登場した。同時に幼年誌・学年誌の売り上げは落ち込み、子供にとっての漫画への入り口が漫画雑誌からテレビアニメへと移っていく。

1981年、第三次漫画ブームは次第に下火になり、少年週刊誌の発行部数は前年比-8.6%、少女週刊誌も-7.1%、といずれも部数を落とした。特に『ブラック・ジャック』が連載を終えたことで『週刊少年チャンピオン』の部数減にさらに拍車がかかった。そんな中ヒットしたのが『タッチ』と『Dr.スランプ』である。『タッチ』は少年・少女の両方から支持され、またアニメ主題歌が未だに高校野球でのヒッティングマーチとして使用されることは特筆に値する。4月に放送が開始された『Dr.スランプ アラレちゃん』は大ヒットし、「んちゃ」「ほよよ」といった<アラレ語>は社会現象にもなった。単行本も増刷を重ね、ついに第6巻は、日本のコミック単行本初の初版で200万部を記録した。また1974年にセブン-イレブンの1号店ができて以来、コンビニ(コンビニエンスストア)は着実に店舗数を増やした。1981年には全国の総店舗数が15000軒を超え、漫画雑誌の供給源として無視できない存在になった。

1982年になると、あだち充・高橋留美子らの影響でラブコメディ(ラブコメ)が隆盛を極め、ラブコメが主力の『少年サンデー』は最盛期を迎える。一方で長年少年漫画の一ジャンルを築いてきたスポ根物はすっかり下火となった。この時期は、1960年代後半生まれが中高生になり、1970年代前半生まれが小学生になった時期でもあり、子供人口が増え始めた時期でもある。

青年漫画は好調であり、小学館の『ビッグコミック』の独走を許していた講談社が、『コミックモーニング』を創刊したのもこの年である。深刻な部数低迷が続いていた老鋪の少年誌週刊『少年キング』はついに休刊に追い込まれ、長い歴史に幕を閉じた。

1983年、『キャプテン翼』などのアニメと提携路線をとる『ジャンプ』、ラブコメ路線の『サンデー』、ツッパリ路線の『マガジン』という、それぞれの方向性の違いが明確になって来た。少女漫画雑誌は『ときめきトゥナイト』のヒットで『りぼん』が発行部数180万部を突破した。また7月15日には、漫画のライバルと同時にパートナーとなる家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売された。

1984年、ついに漫画雑誌の総発行部数が10億部、単行本の販売金額が1000億円の大台を突破した。特に『週刊少年ジャンプ』は人気作に恵まれた。『キャプテン翼』『キン肉マン』『北斗の拳』を連載、同年12月からは『ドラゴンボール』の連載が始まり、年末最終号は400万部を超えた。

この時期に連載を開始した漫画-『童夢』『Dr.スランプ』『日出処の天子』『みゆき』『めぞん一刻』(1980年)、『キャプテン翼』『タッチ』『六三四の剣』(1981年)、『湘南爆走族』『ときめきトゥナイト』『AKIRA』(1982年)、『課長島耕作』『北斗の拳』『美味しんぼ』(1983年)、『がんばれ!キッカーズ』『ドラゴンボール』(1984年)

1980年代後半

1970年代前半生まれが中高生になり、1970年代後半生まれが小学生になった1980年代後半には、子供人口の増加も手伝って、漫画産業は再び活気を取り戻した。漫画の市場規模は3260億円に達し、特にレディースコミックが急成長を遂げた。『りぼん』は200万部雑誌となり、『週刊少年ジャンプ』は平常号が400万部、実売率97%という数字を叩き出した。

1986年、講談社集英社小学館の三社が占める漫画雑誌市場シェアが71.4%に達し、漫画産業の寡占化が深刻になった。特に寡占の激しい少年週刊誌は『週刊少年ジャンプ』の一人勝ちとなっていた。これは『キン肉マン』(1979-1987年連載)・『キャプテン翼』(1981-1986年)から『北斗の拳』(1983-1988年)・『ドラゴンボール』(1984-1995年)・『聖闘士星矢』(1986-1990年)への人気作品の交代と、これらのアニメ化が成功したことが大きい。また日本経済新聞社による『マンガ日本経済入門』は200万部を超えるベストセラーとなり、漫画の持つ力が娯楽の分野だけにとどまらないことを広く印象づけた。

1987年、小学館は『みゆき』の連載が終わったことで人気に陰りが見えた『少年ビッグコミック』をリニューアル、『週刊ヤングサンデー』として創刊した。そして7月には『ビッグコミックスペリオール』を創刊、漫画読者全ての年代をカバーするラインナップを完成させた(すなわち下から『月刊コロコロコミック』『週刊少年サンデー』『週刊ヤングサンデー』『ビッグコミックスピリッツ』『ビッグコミックスペリオール』『ビッグコミックオリジナル』『ビッグコミック』)。少年誌全体では部数を落としているが、『週刊少年ジャンプ』は前年に引き続いて一人勝ちを続け、430万部を達成した。

1988年、漫画雑誌と単行本を合わせた販売金額は4500億円に達した。好調な青年漫画雑誌とレディスコミック誌の影響で少年誌少女誌は逆に部数を落とした。少年誌では『週刊少年サンデー』・『週刊少年チャンピオン』・『週刊少年マガジン』が大幅に落ち込んだ。『週刊少年ジャンプ』の一人勝ちは続き、ついに500万部という驚異的な数字に達した。

1989年、日本漫画は幼児から中年層までを対象とする多様化の道を進み、群雄割拠の時代に突入した。少年誌・少女誌は低迷を続ける一方、青年誌は前年比+24.4%と好調。漫画の販売金額も+10%と、右肩上がりの成長はなおも続くと思われた。

この時期に連載を開始した漫画-『BANANA FISH』『魁!!男塾』(1985年)、『聖闘士星矢』『おぼっちゃまくん』『ぼのぼの』『ちびまる子ちゃん』『YAWARA!』『南くんの恋人』(1986年)、『ジョジョの奇妙な冒険』『らんま1/2』『白鳥麗子でございます!』(1987年)、『動物のお医者さん』『機動警察パトレイバー』『少年アシベ』『沈黙の艦隊』(1988年)、『寄生獣』『はじめの一歩』『攻殻機動隊』『ベルセルク』(1989年)

平成時代

1995年に日本の漫画の売り上げはピークに達した。時代の変化に合わせて取り扱う漫画のジャンルも拡大し、発刊される雑誌も大幅に増え、情報雑誌と複合した漫画雑誌も生まれてきた。読者の様々な嗜好に合わせた専門漫画誌が多く創刊され、一方で性別・年齢の区分が半ばボーダレス化し、幅広い年代の男女に受け入れられるような雑誌が増えている。

メディアミックスの関係性も強くなり、人気漫画の多くがドラマ化・映画化されるようになったほか、ゲームやライトノベルとの関連も強くなっている。かつては「読み捨てられるもの」であった漫画も文化と見なされるようになり、絶版となった作品の復刻や、漫画の単行本の図書館への収蔵が盛んに行われるようになった。一方で、低年齢層の漫画離れが進み、少子化の影響もあってか1990年代後半以降は少年誌・少女誌の売り上げが大きく落ち込み、青年漫画が最も市場の大きな漫画となっている。漫画に限らず書籍界全体の出版不況の状況下にあって、休刊・廃刊する漫画雑誌も多い。

出版業界の外に目を向けると、同人誌やアンソロジー、ウェブコミックウェブ漫画、インターネット上で公開する漫画)の文化も発展し、書き手の幅も広がっている。同人誌ではいわゆる「二次創作」も広く受け入れられ、インターネット上でネタにされたことにより有名になった漫画も出てくるなど、漫画文化の多様化が著しくなっている。かつて新人のデビューの場といえば漫画雑誌であったが、現在は同人誌即売会やインターネットが新人の発掘場所になっている。商業誌に作品を発表しながら、同人活動を続ける作家も多い。

昔からアジア圏での日本漫画の出版(主に無許可の海賊版)は多かったが、近年はアニメブームとの相乗効果もあり、全世界規模で日本漫画の翻訳・出版が急速に伸びて来た。かつて欧米では翻訳して出版する際、漫画を左右反転させて左開きにして出すのが一般的だったが、近年では作品を尊重して、日本と同じ右開きのまま出されるケースが増えてきている。2000年代からは各国で『少年ジャンプ』などの漫画雑誌も現地向けに編集・翻訳されて発行されるようになった。

脚注

  1. ^ 日本漫画の源流をたずねて第2回” (PDF). 京都国際マンガフォーラム. 2007年7月23日閲覧。
  2. ^ 明治の息吹 -漫画・諷刺画から-”. 国立国会図書館. 2007年7月23日閲覧。
  3. ^ 貴重書画像データベース 福富草子”. 白百合女子大学図書館. 2007年7月23日閲覧。
  4. ^ 美鈴, 窪田. “視覚伝達メディアとしての尾竹国観の「ポンチ」” (PDF). 「表現文化研究」第2巻第1号2002年度. 神戸大学表現文化研究会. pp. 11-30. 2007年7月23日閲覧。
  5. ^ 山本夜羽. “日本でのマンガ表現規制略史(1938~2002)”. 2009年9月15日閲覧。

参考文献

外部リンク