内大臣
内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制において太政官に置かれた令外官の一つ。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。
沿革
令外官となっているが、もともと令が成立する以前にも除目(じもく)された記録がある。大化元年(645年)より孝徳・斉明・天智の3代において内臣に任じられた中臣鎌足(藤原鎌足)が死の直前に内大臣に任じられたのが嚆矢とされている。
以後、特殊の事情によって内大臣が設置される例が複数回あった[1]が、常置の官としての内大臣は、平安中期の藤原道隆以後と考えられている[2]。以後、内大臣には主として、
- 摂関家の若手公卿に摂政・関白就任資格を付与するための任命
- 宿老もしくは功績多大な公卿[3]に対する礼遇のための任命
- 単に筆頭大納言に相当する公卿への待遇が「3番目の大臣(太政大臣を除く)」に改められた任命
- 武家政権の長あるいはそれに次ぐ地位の者に対して与えられる任命[4]
の4つに分けられるようになる。
内大臣は左右両大臣が不在の際に代行して上卿として政務や儀式を主宰するものであり、あるいは左右両大臣と分担して職務を行う場合があった[5]。太政官の実質的な首班であった一上に任ぜられたのは承保4年(1077年)の藤原信長のみであった[6]。相当位階は平安時代には三位で任じられた例も見られるが、中世以後は二位相当に固定された[7]。内大臣の封禄は左右大臣と大納言の中間的な待遇を受けている。『拾芥抄』によれば内大臣は年給が諸国目1人1分2人封戸800戸職田なしとされている[8]また、平安時代の左右大臣にはよく見られた牛車宣旨を内大臣(摂政・関白を兼ねる例は除く)が受けた例は見られないなど左右大臣との待遇差が存在していた。
安土桃山時代の豊臣政権下、五大老筆頭で最大の大名であった徳川家康も叙任された。以後も徳川家光等の歴代将軍が任命されている。江戸時代に入ると禁中並公家諸法度によって内大臣は三公には含まれないものとされ、宮中座次も三公、宮家親王、三公経験者の下に置かれた。更に摂家の公卿の昇進が優先された結果、摂家が大臣職を独占する時期が長期化したため、清華家の公卿と言えども任官されることが困難となり、摂家の内大臣の交替の合間に数日から数ヶ月間、非摂家の長老もしくは功労者・外戚などなどの特殊な立場にあった者が交替で任官される場合もあるなど、その政治的権威は降下していった[9]。明治維新に際して廃止された。
内大臣の一覧
贈内大臣の一覧
没後、内大臣を追贈された人物。
- この一覧は未完成です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
- 源義朝[16]?
- 正親町三条公雅 - 永享5年8月6日(1433年9月19日)追贈
- 日野家秀 - 康正2年5月30日(1456年7月2日)追贈
- 烏丸豊光 - 寛正2年2月18日(1461年3月29日)追贈
- 広橋兼宣 - 寛正2年8月19日(1461年9月23日)追贈
- 日野重政 - 文明2年12月(1471年1月)追贈
- 広橋綱光 - 文明9年2月14日(1477年3月28日)追贈
- 庭田長賢 - 追贈年不明
- 広橋守光 - 天文7年4月1日[17](1538年4月29日)追贈
- (中院通為[14]) - 永禄10年9月(1567年10月)追贈
- 勧修寺晴右 - 天正14年12月(1587年1月)追贈
- 三条実綱 - 慶長8年2月7日(1603年3月19日)追贈
- 勧修寺晴豊 - 慶長19年12月8日(1615年1月7日)追贈
- 広橋国光 - 元和3年11月12日(1617年12月9日)追贈
- 勧修寺光豊 - 元和4年10月27日(1618年12月13日)追贈
- 徳川家基 - 安永9年11月10日(1780年12月5日)追贈
- 徳川治済 - 文政11年1月20日(1828年3月5日)追贈
- 勧修寺経逸 - 天保15年2月27日(1844年4月14日)追贈
脚注
- ^ 藤原良継・魚名の例は位階序列が上位の先任の大臣(右大臣大中臣清麻呂)と実際の太政官首班との地位のバランスを取るための措置、藤原高藤は危篤となった天皇の外祖父である大納言への礼遇措置、藤原兼通は序列下位の公卿(当時兼通は権中納言)が次期関白に内定したために大臣に就任して関白就任資格を整えるための措置であり、いずれも律令制が想定する規定から外れた大臣任官を実現させるための臨時の措置であり、事態が解消すれば廃止される性質のものであった(実際に、魚名は左大臣、兼通は太政大臣就任に伴い、良継・高藤は病死によって廃止されている)。
- ^ 当時の摂政藤原兼家は、自分の没後に自分の子弟が摂政関白を継承できなくなることを憂慮して、万が一に備えて長男道隆を大臣に任じようとしたが、太政大臣藤原頼忠・左大臣源雅信・右大臣藤原為光がいずれも健在であった。そのため、道隆を内大臣に据えようとしたのである。これに対して円融法皇(一条天皇実父)は、律令に定められた大臣定員3名を無視するものとして強く反対したため、兼家が法皇に奏上を行って漸く許可されている(『小右記』永祚元年2月5日条)。道隆は関白就任後に内大臣を辞任したが、そのまま弟の道兼、次いで道隆嫡男の伊周が内大臣に任命され、これを先例としてそれ以後も断続的に後任の内大臣が任命された。
- ^ この場合の「功績」には天皇や院の外戚や側近の権臣も含まれる。
- ^ 内大臣廃止後に左大臣となった島津久光を例外とすれば、武家の大臣任官者は全て最初は内大臣に任じられている(ただし、平重盛・宗盛は、高倉天皇中宮平徳子の兄弟であり、外戚としての側面も有する)。
- ^ 寛治4年(1090年)の例では、正月の節会内弁のうち、元日節会を左大臣、白馬節会を右大臣、踏歌節会を内大臣が分担した例がある(松本、1994年、P186)。
- ^ これは、太政大臣と右大臣が空席で、左大臣(藤原師実)が関白を兼ねていて一上の資格がなかったことによる。
- ^ これは右大臣が正二位以上でないと任じられなくなったことに対応していると考えられている(松本、1994年、P184-185)
- ^ これに対して左右両大臣は年給は内大臣と同じであるが封戸1500戸職田30町であり、大納言は年給が諸国目1人1分1人年給600戸職田20町とされている。
- ^ 李元雨 『幕末の公家社会』 吉川弘文館、2005年、P128-131 ISBN 978-4-642-03402-9
- ^ 内大臣には、天智天皇8年10月15日(669年11月13日)就任。
- ^ 内大臣には、宝亀8年1月3日(777年2月15日)就任。
- ^ 内大臣には、宝亀10年1月10日(779年1月31日)就任。
- ^ 三条実忠の退任に当たって、足利尊氏(室町幕府初代将軍)を内大臣に任じようとする気運のあったことが『園太暦』に見える。
- ^ a b 『諸家伝』によれば、権大納言中院通為は永禄8年(1565年)8月「所労危急」のため書状で大臣昇任を嘆願し、天皇の勅許を得たが、9月3日在国の加賀で薨去したので、後日、朝廷にて薨日付の大臣宣下が行われたという。しかし、このような任官は極めて異例であり、中には贈官として記載する史料もある(広橋本『公卿補任』)。
- ^ 『続本朝通鑑』は慶長11年9月1日(1606年10月2日)とし、『歴朝要紀』は同年9月17日(1606年10月18日)とする。
- ^ 『平家物語』巻12「紺掻之沙汰」。ただし、この贈官のことは他書に一切見えない。
- ^ 『公卿補任』『諸家伝』は3月30日とするが、当月は小の月であるために30日が存在しない。本項では仮に守光の十三年忌に当たる4月1日を追贈日と見ておく。
参考文献
- 倉本一宏 「内大臣沿革考」(『摂関政治と王朝貴族』 吉川弘文館、2000年 ISBN 978-4-642-02349-8)
- 松本裕之 「平安時代の内大臣について」(渡辺直彦編 『古代史論叢』 続群書類従完成会、1994年 ISBN 978-4-797-10655-8)