三条公忠

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三条公忠
時代 南北朝時代
生誕 元亨4年8月16日1324年9月5日
死没 永徳3年/弘和3年12月24日1384年1月17日
別名 後押小路内大臣
官位 従一位内大臣
主君 後醍醐天皇光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族 藤原北家閑院流三条家
父母 父:三条実忠、母:左中将藤原公直の娘
兄弟 公忠公音、女子(今出川実尹室)、女子(九条経教室)
実冬藤原(三条)厳子(通陽門院)、実円、実禅
特記
事項
後小松天皇の外祖父。
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三条 公忠(さんじょう きんただ)は、南北朝時代の公卿。従一位内大臣後押小路内大臣と号す。父は内大臣三条実忠、母は左中将藤原公直の娘。 子には太政大臣に至った実冬藤原(三条)厳子(通陽門院)、実円、実禅がいる。

経歴[編集]

清華家である三条家の嫡流に生まれた[1]嘉暦3年 (1328年)に元服[2]。元弘3年 (1333年)には左近衛中将に任じられ、建武4年 (1337年)には従三位に叙された[3]。康永2年 (1343年) には権中納言、貞和3年に権大納言、延文5年 (1360年)には内大臣に任じられた[3]

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

日記『後愚昧記』の記者[編集]

公忠の日記として『後愚昧記』が知られている[7]

後小松天皇の外祖父[編集]

娘の藤原(三条)厳子(通陽門院)は後円融天皇の後宮に入り後小松天皇の生母となったため、公忠は後小松天皇の外祖父である。しかし、厳子が薨去の折、足利義満が後小松天皇准父として上皇の礼遇を得るため諒闇を避けようとする計略を三条家は受けてしまうのである[8]

系譜[編集]

子息は、通陽門院厳子や実冬のほか、複数の人物が確認されている。多くの男子は出家しており、他家から公忠の猶子となった者もいた[注釈 1]

  • 父:三条実忠(1304-1347)
  • 母:左中将藤原公直の娘
  • 妻:大宮季衡女
    • 女子:三条厳子(1351-1407) - 通陽門院
    • 男子:三条実冬(1354-1411)
    • 男子:実円
    • 男子:実禅
    • 男子:乗通(久我具通のもとで子息の儀をうけた)
    • 男子:義韶
    • 男子:千夜叉丸
    • 男子:尊竹丸
    • 男子:実顕禅師(公忠の「為子」とされた人物)
    • 女子:栄宗(賀茂瓦屋比丘尼)

脚注[編集]

  1. ^ 以下の子息らについては『大日本古記録 後愚昧記』の「解題」[9]を参照した。

出典[編集]

  1. ^ 菅原昭英「大日本古記録「後愚昧記」一」『東京大学史料編纂所報』第16号、東京大学史料編纂所、1981年。 
  2. ^ 東京大学史料編纂所 編「解題」『大日本古記録 後愚昧記4』岩波書店、1992年、239頁。ISBN 9784000095891 
  3. ^ a b 東京大学史料編纂所 1992, p. 239.
  4. ^ 後醍醐天皇が隠岐から戻り、光厳天皇時代の任官を否定したため。
  5. ^ 仰せにより饗禄について沙汰に及ばなかった。また、客座を設えなかったなど。
  6. ^ 任大臣節会により、陣において従一位宣下があった。
  7. ^ 菅原昭英 1981.
  8. ^ 今谷 明、『室町の王権』。
  9. ^ 東京大学史料編纂所 1992, pp. 246–250.

参考文献[編集]

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 今谷 明、『室町の王権 ー 足利義満の王権簒奪計画』、中公新書