インディペンデンス (CVL-22)
艦歴 | |
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起工 | 1941年5月1日 |
進水 | 1942年8月22日 |
就役 | 1943年1月14日 |
退役 | 1946年8月28日 |
その後 | 核実験の後、1951年に標的艦として沈められる。 |
性能諸元 | |
排水量 | 11,000トン |
全長 | 190 m |
艦幅 | 21.8 m |
全幅 | 33.3 m |
吃水 | 7.4 m |
最大速 | 31ノット |
乗員 | 士官、兵員1,569名 |
兵装 | 40ミリ機関砲26基 |
搭載機 | 30機:急降下爆撃機9機、雷撃機9機、戦闘機12機(竣工時) 27機:F6F - 5N 14機、F6F 5機、TBF アヴェンジャー8機(1944年8月)[1] |
インディペンデンス (USS Independence, CV/CVL-22) は、アメリカ海軍が太平洋戦争で運用した航空母艦[2]。インディペンデンス級航空母艦のネームシップ。インディペンデンスの名を持つ艦としては4隻目。大型軽巡洋艦を建造中に艦種変更し[3]、軽空母として完成した[4]。
艦歴
インディペンデンスは、クリーブランド級軽巡洋艦 (Cleveland-class light cruiser) アムステルダム (USS Amsterdam, CL-59) として1941年(昭和16年)5月1日に起工された。1942年(昭和17年)8月22日にはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所でCV-22としてローリー・ワーナー夫人によって進水され、1943年(昭和18年)1月14日に初代艦長G・R・フェアラム・ジュニア大佐の指揮下就役する。
初陣
アメリカ海軍にとってインディペンデンスは、巡洋艦から空母へ設計変更された最初の軍艦であった[注釈 1][注釈 2]。 インディペンデンスは慣熟訓練をカリブ海で行う。その後太平洋艦隊 (United States Pacific Fleet) に加わるためパナマ運河を通過し、1943年(昭和18年)7月3日にサンフランシスコに到着。7月14日に真珠湾に向けて出航し、到着後はエセックス級航空母艦のエセックス (USS Essex, CV-9) 、ヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) と第15任務部隊(チャールズ・A・パウナル少将)を編成して、南鳥島攻撃のための二週間に及ぶ訓練演習を共に行った。その間の7月15日付で、インディペンデンス級航空母艦は艦種が軽空母(CVL)に変更され、インディペンデンスのハルナンバーは CVL-22に変更された。
第15任務部隊による南鳥島攻撃は9月1日に行われ[注釈 3]、島の施設は大打撃を受けた[10]。アメリカ側の被害は、戦闘機3と雷撃機1喪失であった[11][注釈 4]。
このあとインディペンデンスは第14任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)に編入された[注釈 5]。 第14任務部隊の作戦は10月5日(日本時間10月6日)と[13]、7日のウェーク島攻撃であり[14]、艦載機による攻撃と重巡洋艦の艦砲射撃でウェーク島の日本軍施設は大打撃を蒙った(ウェーク島空襲)[15]。 タロア島からウェーク島救出部隊(零式艦上戦闘機7、一式陸上攻撃機7)が出動したが、ウェーク島近海で米軍機動部隊のF6Fに撃退されている[16]。一連の作戦は、アメリカ海軍での機動部隊運用に関する新戦術の試験運用として行われたが[17]、パウナル少将の臆病の極みを見せた指揮ぶりが問題視された[18]。それでも、第14任務部隊は反撃らしい反撃を受けることなく真珠湾に帰投した。
ラバウルおよびギルバートへの攻撃
インディペンデンスは10月21日、エスピリトゥサント島に向けて真珠湾を出撃した。この頃、ブーゲンビル島の戦いが始まりつつあり、ウィリアム・ハルゼー大将が率いる第3艦隊 (U.S. Third Fleet) は空母機動部隊でブーゲンビル島への上陸を援護していた。折りしも、第二艦隊司令長官栗田健男中将が率いる日本艦隊の動向が、連合国軍の注目を集めていた。ハルゼー大将は麾下の機動部隊に、トラック泊地からニューブリテン島ラバウルに移動した栗田艦隊(遊撃部隊)を攻撃するよう命じた。11月5日に大型空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) および軽空母プリンストン (USS Princeton, CVL-23) の第38任務部隊(フレデリック・C・シャーマン少将)を使って最初のラバウル空襲を行う[19]。ラバウルに進出したばかりの栗田艦隊は大被害を受け[20]、呆気なくトラック泊地へ逃げ帰った[21]。ハルゼー大将は上陸支援のためダメ押しの攻撃を命じ、第38任務部隊に加えてガルヴァニック作戦が迫っていた第5艦隊からも部隊を借りることとした[22]。
インディペンデンスは、空母エセックス (USS Essex, CV-9) およびバンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CV-17) とともに、その借りてきた部隊である第50.3任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)に属していた。第50.3任務部隊は11月5日にエスピリトゥサント島に到着した後、整備と補給の後11月8日に出撃した[23]。11月11日、両任務部隊はラバウルを挟み撃ちする形で空襲を行い、ラバウル港内にいた駆逐艦涼波を撃沈、軽巡阿賀野や駆逐艦長波などに相当のダメージを与えるなど[20]、第二水雷戦隊と第十戦隊の各艦に打撃を与えた[24]。 日本軍は反撃のためラバウル航空隊の航空機と、第一航空戦隊の艦上機を繰り出してきたが[注釈 6]、大戦果報告とは裏腹に、特筆すべき戦果もなく撃退された[26](第三次ブーゲンビル島沖航空戦)。さらに艦上機に大損害を受けたことで、後述するアメリカ軍のタラワ攻略作戦がはじまった時に、空母機動部隊による有効な反撃をおこなえなかった[27]。インディペンデンスの砲手は6機の日本軍機を撃墜した。第50.3任務部隊はこの後エスピリトゥサント島に帰投して燃料を補給し、ギルバート諸島に向かった。
11月18日以降、アメリカ軍機動部隊はタラワ攻略とマキン攻略に先駆けて、ギルバート諸島に対する空襲を開始する[28][注釈 7]。つづいてタラワに対する空襲や艦砲射撃がおこなわれ[31]、11月20日[32](日本時間21日)にはタラワ上陸作戦が始まった[33][注釈 8]。 同日夕刻、ルオット島から飛来した第七五五海軍航空隊の一式陸上攻撃機14機が、第50.3任務部隊を襲った[注釈 9][注釈 10]。インディペンデンスは6機の日本軍機の撃墜を記録したが、5本の雷撃を受けそのうち1本が右舷に命中した(第一次ギルバート諸島沖航空戦)。薄暮攻撃を敢行した一式陸攻は7機が未帰還となった[39][注釈 11][注釈 12]。 船体を破損したインディペンデンスは、重巡洋艦ペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) などの護衛を受け、11月23日にエリス諸島のフナフティ島に向かった。同地で工作艦ヴェスタル (USS Vestal, AR-4) の世話になり、応急修理を受けた。インディペンデンスは本格的修理のためにアメリカ本土にむかい、1944年(昭和19年)1月2日サンフランシスコに帰投した。インディペンデンスは修理でカタパルトが増設され、修理完了後7月3日に真珠湾に戻った。この間、マーシャル諸島、トラック泊地、サイパン島などから日本軍の兵力がほぼ一掃され[42]、日本海軍の空母機動部隊は再起不能となっていた[43]。
夜間機空母
この頃、夜間戦闘機バージョンのF6F ヘルキャットであるF6F-5Nが登場し、夜間戦闘機だけで構成された飛行隊も開設された。しかし、これら夜間飛行隊は定数も少なく、また昼間の戦闘に駆り出されることも多かったので、有効的な活用が難しく邪魔者扱いされることもあった[44]。そこで、「1隻の空母の搭載機を全て夜間戦闘機だけにしてはどうか」という構想が出された。構想は採用され、搭載機のほとんどを夜間戦闘機にする専用空母として白羽の矢が立ったのが、修理を終えたばかりのインディペンデンスだった[1]。
ハワイ水域に到着すると、インディペンデンスは新編成の第41夜間軽空母飛行群を乗せ、夜間発着訓練を開始する。先導的訓練をエニウェトク環礁で8月24日から29日まで継続し、第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に編入されたインディペンデンスは、パラオ攻略戦参加のため8月29日に出撃し、次いでフィリピン攻略のための作戦活動を行う。インディペンデンスの夜間飛行群は構想どおり、夜間偵察および夜間戦闘警戒飛行を中心に行ったが、肝心の夜間の出番は少なく、しかも夜間戦闘用のレーダーも敵手に渡るのを防ぐために撤去されたため、飛行群のパイロットからは不満が出た[45]。
フィリピン戦線
9月に第38任務部隊はフィリピン侵攻に向けて連日の攻撃を行った。インディペンデンス搭載の第41夜間軽空母飛行群は、9月12日の夜にサマール島上空で一〇〇式司令部偵察機を撃墜して、初めての夜間戦闘の戦果を挙げた[46]。この期間に日本軍の本格的な反撃はなかったため、インディペンデンスは夜間の作戦活動から昼間作戦活動も行うようになり、ルソン島の日本軍拠点を攻撃した。第38任務部隊は10月初旬にウルシー泊地で補給を受けた後、10月6日に沖縄攻撃に向けて出撃した。第38任務部隊は沖縄、台湾、フィリピンに対して攻撃を行った。日本軍の航空反撃はインディペンデンスの艦載機等による昼間攻撃および夜間偵察、攻撃によって撃退された[47]。特に、夜間での戦果は夜間戦闘機に対する評価を高める結果となった[48]。
アメリカ軍空母機動部隊は10月23日にフィリピンから東に向けて出航した。後にロバート・カーニー提督が「壮大な規模の何かが進行中だった」と回想したように、アメリカ軍の攻勢は明白な物であった。ジェラルド・F・ボーガン少将指揮下の第38.2任務群に属するインディペンデンスの飛行群は10月24日のシブヤン海海戦で、栗田艦隊に対して攻撃を開始する[注釈 13]。ハルゼー部隊の攻撃隊は戦艦武蔵を撃沈し、重巡妙高が落伍して反転、ほかに数隻に損害を与えた。栗田艦隊は進撃をやめて、西方に退却した[49]。 ハルゼー部隊のパイロットは過大な戦果報告をおこない、ハルゼー大将は「栗田艦隊は無力化された」と判断した[50]。そこで当面の撃破目標を、北に発見した第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将が率いる第三艦隊と定め、高速戦艦や巡洋艦、駆逐艦で構成された特別編成の第34任務部隊(ウィリス・A・リー中将)および3個任務群を小沢機動部隊撃滅に急行させて、サンベルナルジノ海峡をがら空きにした[51]。この時、インディペンデンスの夜間探索機は再び東航する栗田艦隊を発見し、さらにここ数日間点灯していなかったサンベルナルジノ海峡の灯台が煌々と点灯されているのを発見[52]。報告を受けたボーガン少将はハルゼー大将に報告しようとしたが、ハルゼー大将の幕僚もこの報告を受信しており、幕僚はボーガン少将に「もう知っている」と返事した[52]。
一方、インディペンデンスの夜間索敵機(アヴェンジャー)は小沢機動部隊に触接し続けた[53]。第38任務部隊は25日朝から小沢機動部隊に対する攻撃を繰り返し、小沢機動部隊の空母4隻を全て撃沈した[54](両軍戦闘序列)。しかし、その間隙を突いた栗田艦隊がサンベルナルジノ海峡を突破してサマール島近海でクリフトン・スプレイグ少将率いる護衛空母と艦隊型駆逐艦、護衛駆逐艦からなる第77.4.3任務群(通称「タフィ3」)を攻撃する[55]。レイテ湾方面の敵勢力は第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)指揮下の砲撃部隊で対処できると考えていたハルゼー大将だったが、キンケイド中将の泣き言に加え太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からの「第34任務部隊はどこにいるか、世界が訝っている」の電文を受けショックを受け[56]、空母部隊のうち1個任務群と第34任務部隊のうち高速戦艦と軽巡洋艦、駆逐艦を南下させ、大急ぎで栗田艦隊攻撃を行った。レイテ沖海戦でアメリカ艦隊は多大な戦果を挙げ、激戦の終了は同時に日本海軍の終焉も意味していた[57]。インディペンデンスは航空偵察と、フィリピン攻撃を行う第38任務部隊への夜間航空援護を継続した。これらの作戦活動でインディペンデンスは空母部隊の前進に大きく寄与した。
インディペンデンスはウルシー泊地に帰投し、11月9日から14日までの間、遅れた休暇と補給を取る。しかしながらすぐにフィリピン沖での夜間攻撃と防衛作戦任務に就く。作戦活動は1944年12月30日まで継続し、この間コブラ台風に遭遇。艦自体に大した被害はなかったものの、何名かの乗組員が激浪にさらわれて行方不明となった[58]。その後ウルシー泊地で休養の後、この当時は夜間戦闘機専用空母となっていたエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) [59] と夜間戦闘機空母部隊を組んで出撃した。1945年(昭和20年)1月3日から9日までルソン島のリンガエン湾上陸を支援した。つづいてカムラン湾に潜むとみられた航空戦艦2隻(日向、伊勢)を始末するため、ハルゼー大将は空母機動部隊を南シナ海に向ける(グラティテュード作戦)。インディペンデンスとエンタープライズの夜間偵察機も航空戦艦2隻の捜索に参加した[60]。しかし、第四航空戦隊と第二水雷戦隊はリンガ泊地に移動した後で、第38任務部隊は台湾、インドシナ、中国本土の日本軍基地を攻撃し、軽巡洋艦香椎率いるヒ86船団を全滅させ、ヒ87船団に大打撃を与えた。フィリピンの戦いをめぐるこれらの支援作戦は、この方面での空母の夜間活動の終了を示すこととなった。南シナ海での作戦を終えたインディペンデンスは1945年(昭和20年)1月30日に修理のため真珠湾へ向かった。
沖縄戦・日本本土攻撃
1945年3月13日、修理を終えたインディペンデンスはウルシー環礁に戻り、翌日には沖縄に向けて出撃する(第58任務部隊、戦闘序列)。3月30日、31日には侵攻前の空爆を行い、沖縄戦第一日目の4月1日の攻撃では補給施設と航空機を破壊した。日本軍の絶望的な抵抗に対し、インディペンデンスの艦載機部隊は多数の敵機を撃墜した。インディペンデンスは6月10日まで沖縄水域に留まり、その後レイテ島に帰投した。
1945年7月1日、インディペンデンスはアーサー・W・ラドフォード少将指揮下の第38.4任務群に加わり、日本本土に対する最終攻撃のため出撃した。第38任務部隊は8月まで日本各地を攻撃し、インディペンデンスの艦載機は空中哨戒を行う一方、谷田部[61]、浦河[62]、室蘭[63] などを攻撃し、7月24日と28日の呉軍港空襲では軽巡洋艦大淀と重巡洋艦利根、戦艦榛名に損害を与えたと判定された[64]。
8月15日の日本降伏後は、艦載機による捕虜収容所の捜索飛行を継続し、上陸部隊への航空支援を行った。インディペンデンスは9月22日に東京湾を出港し、サイパン島とグアム経由で10月31日にサンフランシスコに到着した。
戦後
インディペンデンスはマジック・カーペット作戦に参加し、1945年11月15日から復員兵輸送に従事する。1946年(昭和21年)1月28日にサンフランシスコに到着、その後ビキニ環礁での原爆実験、クロスロード作戦の目標艦に指定された。7月1日の爆発実験エイブル(ABLE)では爆心地から1.5マイルの地点に係留され、艦には爆風で生じた皺が生じ、漏水も発生したが沈没しなかった。7月25日の爆発実験ベーカー(BAKER)にも供用された後、インディペンデンスはクェゼリン環礁に係留され、8月28日に退役した。その後、放射能に汚染されたインディペンデンスの船体は真珠湾、サンフランシスコに曳航され調査された。船体は1951年(昭和26年)1月29日にカリフォルニアの沖合で兵器実験に供用され沈没した。この際、インディペンデンスは放射性廃棄物を乗せたまま沈没し、ファラロン諸島近海の漁業に影響が出たという抗議があった。
現在
2015年4月に米海洋大気局の調査によって、カリフォルニア沖合約48キロ・水深約790メートルの海底にやや右舷側に傾きながらほぼ原形をとどめて沈んでいるインディペンデンスの姿が確認された[65]。
インディペンデンスは第二次世界大戦での戦功により8つの従軍星章を受章した[66]。
脚注
注釈
- ^ 世界で最初に巡洋艦を空母に改造したのはイギリス海軍で、ホーキンス級巡洋艦(ローリィ級巡洋艦)のキャベンディッシュが[5]、空母ヴィンディクティヴ (HMS Vindictive) として就役した[6]。
- ^ アメリカ海軍は護衛空母ロングアイランド (USS Long Island, ACV-1) を原型に[7]、ボーグ級航空母艦やカサブランカ級航空母艦などを建造中であった[8]。
- ^ 第15任務部隊 (Task Force 15) :空母3隻(エセックス、ヨークタウン、インディペンデンス)、戦艦インディアナ (USS Indiana, BB-58) 、軽巡2隻(ナッシュビル、モービル)、護衛の駆逐艦部隊[9]。
- ^ 監視艇の昭栄丸が、米軍搭乗員3名を救助している[12]。
- ^ 第14任務部隊 (Task Force 14) :大型空母3隻(エセックス、ヨークタウン、レキシントン)、軽空母3隻(インディペンデンス、カウペンス、ベローウッド)[13]、重巡2隻(ニューオーリンズ、サンフランシスコ)、軽巡4隻(バーミングハム、ナッシュビル、サンタフェ、モービル)、駆逐艦部隊。
- ^ 一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)からラバウルに派遣されていた飛行機隊で、ラバウル航空部隊(南東方面艦隊/第十一航空艦隊司令長官草鹿任一中将)と共同でブーゲンビル島方面に対するろ号作戦に従事していた[25]。
- ^ すでにB-24による空襲が始まっており[29]、艦上機が加わることで一層攻撃が激しくなった[30]。
- ^ タラワ上陸作戦と並行して、マキン上陸作戦[34](マキンの戦い)[35]、アパママ環礁の攻略がおこなわれた[36][37]。
- ^ 触接(索敵)の陸攻2、雷装の陸攻14、攻撃隊指揮官は宮前信己大尉(海兵63期)[38]。
- ^ 空母3隻(エセックス、バンカーヒル、インディペンデンス)、巡洋艦4隻(ペンサコーラ、ソルトレイクシティ、チェスター、オークランド)、護衛の駆逐艦部隊(ギルバート諸島攻略部隊、戦闘序列)。
- ^ (昭和18年11月21日)[40]〔 18-11|21| |22Sf司令官ハ雷装ノflo×14及触接(飛行機)flo×0ニテ「タラワ」附近敵艦船薄暮攻撃 本部隊ハ1530「タラワ」ノNW20′ニテA(大)×1 A(小)×2 B×2~4 C、d各2-3ヲ発見攻撃|南洋 755fg/22Sf|戦果 A×2大傾斜(沈没ト認ム) A×1中破 B×1(又ハC)炎上 d×1 撃墜 fc×2撃墜 被害 自爆 未帰還計7 〕
- ^ 大本営発表では「空母2および駆逐艦1隻轟沈、空母1、戦艦または巡洋艦1および輸送船1撃破」となっている[41]。
- ^ 第二艦隊司令長官栗田健男中将を指揮官とする第一遊撃部隊第1部隊と、第三戦隊司令官鈴木義尾中将を指揮官とする第一遊撃部隊第2部隊、総称して栗田艦隊。連合軍側は「中央艦隊」や「中央部隊」と呼称する。
出典
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- ^ #米超弩級戦艦進水 p.1〔 米海軍省発表=米海軍でも今日までには一隻もなかった超弩級戦艦一隻が米東岸の海軍造船所で今週進水する予定である。(中略)又元来巡洋艦として建造中として建造中であった航空母艦一隻が東岸の某造船所で進水した 〕
- ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 22.
- ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 60◇ヴィンディクティヴ(Vindictive)
- ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 114.
- ^ #米国内○軍事問題 p.1〔 六.軍事問題◎巡洋艦、商船ヲ航母ニ改造(サクラメント・三月十日二十三時十五分)・・軍事消息通ハ今年末頃マデ米国ハ恐ラク世界最強ノ海軍航空隊ヲ有スルコトニナラウト観テヰル、巡洋艦ヲ改造シタ航空母艦九隻ガ近ク就役スルガ外に商船ヲ輸送船団用空母トシテ多数改装中デアルト・・ 〕
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 389a米機動部隊機の来襲
- ^ 「昭和18.8.15~昭和18.12.31太平洋戦争経過概要その6(防衛省防衛研究所)18年9月1月~18年9月14日 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C16120636800 (昭和18年9月1日)〔 1|0340|南鳥島ニ五回ニ亘リ延167機ノ爆撃ヲ受ク(南鳥島kg 横須賀派遣隊|南洋|f×12(内5不確実)撃墜 被害flo×6炎上 格納庫燃料ノ大部分焼失 敵ノ来襲ハ電探ニテ38kmノ距離ニ敵fヲ発見五分ノ余裕アリタリ 〕
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 389b.
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参考文献
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- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
- 佐藤暢彦「第十三章 ワレ、絶海ノ空ニアリ ― 中部太平洋の落日」『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』光人社〈光人社NF文庫〉、2019年1月(原著2015年)。ISBN 978-4-7698-3103-7。
- ヘンリー・I・ショー(著)、宇都宮直賢(訳)『タラワ Tarawa 米海兵隊と恐怖の島』光人社〈光人社NF文庫〉、1998年10月(原著1971年)。ISBN 4-7698-2210-3。
- 谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 978-4054009820
- 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『新装版 福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第三巻 世界空母物語』光人社、2008年8月。ISBN 978-4-7698-1393-4。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。
- E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
- C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾共訳『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
- ドナルド・マッキンタイヤー 著、寺井義守 訳「7 落日の日本海軍」『空母 日米機動部隊の激突』株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫23〉、1985年10月。ISBN 4-383-02415-7。
- 渡辺洋二「夜のヘルキャット」『大空の攻防戦』朝日ソノラマ、1992年、ISBN 4-257-17248-7
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『各種情報資料・外国宣伝情報(国立公文書館)/米超弩級戦艦進水 米海軍省発表』。Ref.A03024845200。
- 『各種情報資料・米国内放送傍受情報(国立公文書館)/米国内○軍事問題 巡洋艦、商船ヲ航母ニ改造』。Ref.A03024958800。
- 『軍令部秘報 昭和15.10.15/I米国』。Ref.C14121189800。
関連項目
外部リンク
- NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive USS INDEPENDENCE(CVL-22)
- USS Independence CVL-22 Reunion Group homepage
- Navy photographs of Independence (CVL-22)
- USS Independence CVL-22 Reunion Group, Inc. Veteran's Website
- USS Independence at Nine Sisters Light Carrier Historical Documentary Project
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。