MORAL

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Muneco (会話 | 投稿記録) による 2022年4月24日 (日) 09:47個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (cl)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

MORAL
BOØWYスタジオ・アルバム
リリース
録音 1981年
スターシップスタジオ
スタジオバードマン
ジャンル ロック
パンク・ロック
ニュー・ウェイヴ
時間
レーベル ビクターInvitation
プロデュース 渡辺モリオ(マライア
チャート最高順位

MORAL

MORAL+3

  • 週間1位(オリコン)
BOØWY アルバム 年表
MORAL
1982年
INSTANT LOVE
1983年
EANコード
テンプレートを表示

MORAL』(モラル)は、日本のロックバンドであるBOØWYの1枚目のオリジナル・アルバム

1982年3月21日ビクター音楽産業Invitationレーベルからリリースされたデビュー作品である[1]ヤマハ主催のアマチュアロックバンドコンテスト「EAST WEST'79」にて決勝を争った2つのバンドにそれぞれ所属していた氷室狂介布袋寅泰を中心に結成されたBOØWYのファーストアルバムであり、作詞は氷室および深沢和明、作曲は氷室および布袋、プロデュースはマライア所属の渡辺モリオが担当している。

レコーディングは1981年に日本国内にて行われ、氷室の旧友であった松井恒松および諸星アツシ、布袋の旧友であった深沢の他に氷室がBOØWY結成以前に在籍していたスピニッヂ・パワー所属の木村マモルによって進められたが、後に木村の代わりに新たなドラマーとして高橋まことが参加している。パンク・ロックを思わせる過激な歌詞やサウンドで構成されているが、ニュー・ウェイヴの影響を受けたアレンジが施されている点が特徴である。

本作の曲は1曲もシングルカットされていない。また、後に未発表曲を加えた『MORAL+3』(1988年)や全曲トランスアレンジが加えられたリミックス・アルバム『MORAL-TRANCE MIX』(2002年)がリリースされた(後述)。本作はリリース当時にオリコンチャートで最高位80位という結果となったが、後にリリースされた『MORAL+3』は最高位1位を獲得した。

背景

1979年、ヤマハ主催のアマチュアロックバンドコンテスト「EAST WEST'79」にて、氷室狂介松井恒松らと結成したバンド「デスペナルティ」が関東・甲信越大会にて優勝し、中野サンプラザで開催される全国大会に出場するため上京する[2]。同時期に、楽器店主催のコンテスト「A・ROCK」にて、布袋寅泰が後にBOØWYのマネージャーとなる土屋浩と共に結成したバンド「BLUE FILM」[注釈 1]で優勝し、日本青年館で開催される全国大会に出場するため上京する[3][4]。この当時、氷室と布袋はお互いに面識はあったものの、直接の交流はあまりなかった[5]

その後、全国大会にて入賞を果たした氷室は音楽事務所ビーイングと契約[6]1980年にデスペナルティのメンバーと共に氷室は再度上京、レコード会社との間で氷室のソロデビューの話が進んだ[7]。演奏は氷室および松井、ドラマーの小沼俊昭[注釈 2]によって行われたが、あまり評判を得られなかったためプロによる編曲とスタジオミュージシャンによる演奏に差し替えられたがリリースはされなかった[8]。その後バンドとしての活動は中止となり[注釈 3]、氷室は事務所の意向により1年間限定という形で既に活動していたバンド「スピニッヂ・パワー」にボーカリストとしての参加を余儀なくされ、また松井は「織田哲郎&9th IMAGE」へ参加することとなった[9]。同年9月5日にスピニッヂ・パワーはシングル「HOT SUMMER RAIN」をリリース、 TBS系歌謡バラエティ番組『11時に歌いましょう』や日本テレビ系歌謡番組『NTV紅白歌のベストテン』(1969年 - 1981年)にテレビ出演を果たすなどプロとしての活動を行っていたが、記録的な冷夏の影響もありヒットに至らなかった。

その後、スピニッヂ・パワーから脱退し地元である群馬への帰省を考えていた氷室であったが、当時交際していた女性からチケットを渡されたことを切っ掛けに、1980年7月5日RCサクセションによる日比谷野外音楽堂公演を観賞した[10][11]。同公演を観賞して感銘を受けた氷室は、再度自身のバンドを結成する意志を固め、布袋に連絡した[12][11]六本木のアマンドで会った氷室と布袋であった[注釈 4]が、双方の音楽的嗜好が近いことなどから意気投合し、布袋も自身のバンドが空中分解し宙ぶらりんの状態であったためにバンド結成に同意、また氷室は布袋を連れてビーイングの事務所へ赴きスピニッヂ・パワーからの脱退と新たなバンドを結成する意志を事務所社長である長戸大幸に伝えた[13]。長戸は氷室に対しバンド結成の許可を出したが、メンバーは自分で選定するよう要求した。その後、オーディションを行うもメンバーとして相応しい人材が見つからなかったが、かつてのバンド仲間であり9月に「織田哲郎&9th IMAGE」のメンバーとしてデビューしていた松井からバンドへの加入希望の連絡があり参加することが決定した[14][11]。その後氷室が所属していたスピニッヂ・パワーは解散し、ドラマーであった木村マモルが氷室の元を訪れた際に氷室はバンドへの参加を求め、木村はあくまでプロデューサーとしての参加を主張しながらもドラマーとして参加することが決定した[15]。また布袋の提案によりサックスとして深沢和明、氷室の提案によりギターとして諸星アツシの参加が決定した[16]

事務所から自身の計画を音で示すよう指示されていた氷室は、リハーサルを繰り返していた中でデモテープを作成し事務所側に渡した[17]。デモテープは事務所内で評判となり、長戸からイギリスのハードロックバンド「ガール英語版」に対抗して「ボーイ」というバンド名を提案される[18]。その後さらに長戸から横浜銀蝿の人気にあやかった「群馬暴威」というバンド名を提案されるもメンバーはこれを拒否、最終的には妥協案として「暴威」と命名された[19][20]。その後原宿のクロコダイルにて初ライブを行い、数本のライブ実施後にメンバーからバンド名に関する不満が噴出したため改名された[21]。改名に際して副社長であった月光恵亮からデヴィッド・ボウイの「BOWIE」を捩った「BOOWY」が提案され、そのままでは「ブーイ」と読まれてしまうことから「O」を1つ消す意味でスラッシュの入った「Ø」を入れ、改めて「BOØWY」へと変更された[注釈 5][22]

録音、制作

アマチュアのミュージシャンがスタジオで練習しているのをそのまま録ったようなアルバム。プロデューサーの渡辺モリオさんが俺らのやんちゃ坊主的パワーを気に入ってくれて、そのままのスタイルでやった。みんな手探りの状態の中でやってたから、俺もとりあえず初めから最後まで間違えなきゃいいというノリでプレイしていたね。
布袋寅泰,
ギターマガジン 1987年1月号[23]

当初の曲作りは氷室の自宅にて布袋との2人作業でカセットデッキで行われた[24]。初めに「IMAGE DOWN」が制作され、続けて「NO N.Y.」、[GUERRILLA」、「GIVE IT TO ME」などの曲が制作された[25]。1980年10月中旬には本作収録曲の内、「INTRODUCTION」と「ENDLESS」を除く全曲の作曲が終了していた[26]。リハーサルが進む中で、木村は氷室をプロデュースする視点で活動していたため、布袋の制作する楽曲のスタイルやギターが氷室の歌に合っていないとして氷室に疑問を投げかけ、布袋は木村のドラムが布袋の目指す音楽スタイルと合っていないとして、氷室にその点を指摘した[27]。その後木村はプロデューサーとして様々なレコード会社へ音源を持ち込むも、事務所との連携不足や金銭面の問題で拒否されることがほとんどであった[28]。月光も後年「理解してもらえなくてリリースまでなかなかこぎつけなかった」と述べている[29]。同年の冬に氷室は制作したデモテープを長戸の元へ届け、正式なレコーディングの許可を得た[30]

1981年に入り、スターシップスタジオとスタジオバードマンにてレコーディング作業が開始された。プロデュースは「マライア」で活動していた渡辺モリオが担当した。腕利きのミュージシャンによって結成された フュージョン系のグループであるマライアは、当時ビーイングに所属しておりビーイング系サウンドのスタジオサポートも行っていた。マライアのアルバム『YEN TRICKS』でデビューしていた渡辺は、当時パンク・ロックに傾倒していたため、BOØWYのアルバムプロデュースを任された[29]。レコーディングに関する技術的なことをBOØWYメンバーが認識できていなかったため、レコーディング作業は困難を極めた[29]。当時陣内孝則率いる「ザ・ロッカーズ」が寺院で一発録りでレコーディングしたことが話題となるなど一発録りが流行していたこともあり、本作も楽曲はほとんどが一発録りで行われ、歌入れも同時に行われた。布袋は後に「アマチュアのミュージシャンがスタジオで練習しているのをそのまま録ったようなアルバム」と評し、「俺もとりあえず初めから最後まで間違えなきゃいいというノリでプレイしていた」と述べている[23]

レコーディングが進むにつれ、木村のドラムと他メンバーとのリズム感の違いが明確となり、木村はドラマーのオーディションを提案[31]。このオーディションによって新たなドラマーとして高橋まことが加入する事となり、木村は6月を以って脱退となった[11]。高橋はかつてノーランズの前座としてツアーを行っている時に知り合ったギタリストの山田淳から促される形で同年5月11日に新宿ロフトでのBOØWYの初ライブを観賞[32]。その際に連絡先を交換した氷室と高橋であったが後日氷室からスタジオリハーサルへの参加を打診され、「IMAGE DOWN」を演奏する際に高橋が大声でカウントを取ったことから松井が笑いだしてベースが弾けなくなる事態となった[33][34]。しかしリハーサル後に氷室から正式にバンド加入の誘いを受けた高橋はこれを快諾した[35]。本アルバムの大半の曲のドラムは木村が叩いており、「MASS AGE」と「MORAL」の2曲のみ高橋が演奏しているバージョンに差し替えられている[36]。ライブにおいては「IMAGE DOWN」のイントロにサックスが加味されるなど深沢は全曲で演奏しているが、レコーディングでのサックス演奏は「MASS AGE」のみとなっている(コーラスとしては多数の曲に参加)。

また本作リリース後にビクター側から次作の打診があったため、「OUT!!」「DAKARA」「LET'S THINK」の3曲がビクタースタジオにてレコーディングされた[34]。高橋によれば次作としてパンク路線のアルバムを制作予定であったという[34]。しかし、レコード会社も事務所もこの3曲に関して全く興味を示さなかったためお蔵入りとなった[37]。この音源は後に『MORAL+3』としてリリースされた[37]

音楽性と歌詞

このアルバムの歌詞がメッセージ性が強いのは、当時のムーブメントの影響もあるけれど、スピニッヂ・パワーやってた時の氷室の不満が積もり積もって言葉に出てきてるんだと思う。彼の書く言葉は群馬弁とかも入ったままなんだけど、リアリティーがあってそれも逆に面白いんじゃないかって、ほとんど手直しをしなかった。
月光恵亮,
BOØWY B to Y[23]

松井は自著『記憶』において、布袋が当初制作していたデモテープではニュー・ウェイヴアート・ロック、パンクなどが混在していたが、バンドのプレイスタイルの基本としてパンクから始めるとの方向性によって本作の音楽性が決定されたと述べている[38]

本作の音楽性について音楽誌『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』においてライターの根本桃GO!は、パンクおよびニューウェイヴを意識した内容ではあるが「安全」な音になっており、「いまひとつ過激になりきれない、そしてベタにならざるを得ない根っからの大衆性」があると指摘した[39]。また『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』において音楽評論家の市川哲史は本作が氷室の「初期衝動の塊」であると位置付け、当時のヤンキー文化の影響を受けたロックバンドと異なっていた部分は「スタイリッシュな香りが漂っていた点」ではないかと指摘、「NO N.Y.」は「下世話だけどロマンティック」であると述べ、氷室のボーカルは「日本独自の正統派」である艶っぽさを持ち矢沢永吉を思わせると指摘、さらに布袋によるスマートなアレンジはイギリスのニュー・ウェイヴに対する「真摯な愛情」に満ちていると表現した[40]

音楽情報サイト『CDジャーナル』では、サウンドがニュー・ウェイヴ仕様であり後のハイブリッド・ポップの範疇に入る内容であるとした他、氷室と布袋が本作の時点でメロディ重視で楽曲制作していた点を指摘[41]、『ローチケHMV』では、ジャケットに写るメンバーの写真に関して「完全にパンクバンド」とした他、「ギラついたパンクサウンド」であり「過激な歌詞が詰まったパンクサウンドが展開される」と表現した[42]

月光は歌詞に関して、メッセージ性の強さは当時のムーブメントの影響以外にも、スピニッヂ・パワー所属時の氷室の不満が鬱積した結果が言葉に出ていると推測し、また氷室の歌詞は群馬弁も使用されているが「リアリティーがあってそれも面白いんじゃないかって、ほとんど手直しをしなかった」と述べている[23]

リリース

本作は当初日本フォノグラムからリリースされる予定であったが、歌詞やファッションなどがレコード会社から問題視された[37]。パンク・ロック色が強く、歌詞のイメージが汚いとレコード会社側がリリースをためらっていたため、1981年の夏に全てのレコーディングが終了しているにも関わらず、同年に本作はリリースされなかった[43]。高橋の自著『スネア』によれば、「IMAGE DOWN」の歌詞が特に問題視され、様々なレコード会社からリリースを断られたと記されている[36]。結果として「IMAGE DOWN」は歌詞の書き直しが行われたが、それでもレコード会社の了承は得られなかった[34]。最終的にはビクター音楽産業からリリースされることが決定し、その間に2曲だけドラムを高橋が演奏した音源に差し替えるためにレコーディングが行われた[37]。そして1982年3月21日正式にビクターのInvitationレーベルからLPでリリースされた。

後に1985年9月5日にLPで再リリースされた他、1986年2月5日に初CD化され、以後1989年2月21日にはCDおよびカセットテープで、1990年4月21日にはCDのみ再リリースされた。またボックス・セットである『BOØWY COMPLETE』に収録される形で1991年12月24日1993年3月3日2002年3月29日の計3回リリースされ、2002年版では初めてデジタルリマスター版が収録された[44]2004年9月22日にはデジタルリマスター版が単体でリリース、解散宣言から20年となる2007年12月24日にはデジタルリマスターの紙ジャケット仕様でリリースされた[45]。その後もデビューから30周年となる2012年12月24日にはSHM-CDでリリース[46][47]2017年3月8日にはK2HD PROマスタリングの紙ジャケット仕様、完全限定生産盤としてリリースされた。

1987年12月24日渋谷公会堂公演での解散宣言後となる1988年2月3日には、ジャケットがリニューアルされた上にビーイングが所有していた当時の未発表曲3曲が追加された『MORAL+3』がリリースされ、同日には未発表曲3曲のみを収録したシングル「DAKARA」がリリースされた[48]2002年1月23日には全曲トランスアレンジが施されたリミックス・アルバム『MORAL-TRANCE MIX』がリリースされ、初回限定盤付属として『MORAL+3』のデジタルリマスタリング盤が収録された。2003年12月25日には『MORAL+3』が単体としてリリースされ、2004年1月21日にはDVD-Audioとしてもリリースされた。

プロモーション

リリース時にジャケットの帯に「エアロスミスアナーキーサザンを足して3で割ったバンド」、「ラスト・パンク・ヒーロー」というキャッチコピーが記載され、レコード会社側はBOØWYを当時流行していたパンク・ロックバンドの一つとして売り出そうとしていたが、メンバーは本格的なパンクを目指しているわけではなく、またアルバムがリリースされるまでの半年間で音楽性が変化していたこともあり、精神的に落胆することとなった[49][50]。しかし松井は後年、「そんな宣伝文句、本当にあったとは思えない」、「誰かが言ったことに、枝葉が付いて広まっている」としてこのキャッチコピーの存在を否定している[51]

氷室は後に自身を含めたメンバーのコンタクトの取り方が悪かった面もあると認めた上で、レコード会社とのコミュニケーションが全く機能していなかったと述べた他、「ラスト・パンク・ヒーロー」というキャッチコピーによって誤解したまま集客された観客に対して責任を取らなければならないことや、本来であれば氷室も布袋もウルトラヴォックスのような「物憂いマイナー・メロディアス」の方向性を望んでいたことなどから後に音楽性を変更した[23]

また、本作リリースと同年の9月24日日本テレビ系テレビドラマ『太陽にほえろ!』(1975年 - 1986年)の第524話「ラガーのラブレター」にて、新宿ロフトでのBOØWYのライブシーンが数秒間だけ放送され、BOØWYとしては初のテレビ出演となった[52][20]。また同回ではその後の喫茶店でのシーンにてリリース前の「FUNNY BOY」が店内BGMとして使用された。

批評

専門評論家によるレビュー
レビュー・スコア
出典評価
CDジャーナルサウンド: 否定的
存在価値: 肯定的[53]
音楽誌が書かないJポップ批評18サウンド: 肯定的
存在価値: 肯定的[39]
音楽誌が書かないJポップ批評43サウンド: 肯定的
完成度: 否定的[40]

批評家達からの本作のサウンド面に対する評価は賛否両論となっており、音楽誌『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』においての根本桃GO!は、本作の音楽性や歌詞が「いまひとつ過激になりきれない、そしてベタにならざるを得ない根っからの大衆性」と持っていると述べ、本作のベタな要素は確信犯的ではなく無意識の産物であったとした上で、「BOØWYの凄みは、"ベタ"の臨界点を超え、孤高の世界にまで突き抜けてしまったところにある」と肯定的に評価[39]、『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』において市川哲史は、「NO N.Y.」に関して「下世話だけどロマンティックな世界観」、氷室のボーカルに関して「『日本独自の正統派』ボーカルの艶っぽさ」、布袋のアレンジに関しては「英国ニューウェイヴへの『真摯な愛情』に満ちたスマートなアレンジ」と述べた上で、全てが日本のパンク・ロック史上初であり「決して粗野なだけではない『文系』感を持った」作品であったと肯定的に評価[40]したが、音楽情報サイト『CDジャーナル』では『MORAL+3』のレビューとして「音の方はスカスカのアレンジとミックス」と否定的に評価した[53]

また本作の完成度や存在価値に関しても賛否両論となっており、『CDジャーナル』では氷室によるボーカルが「思っきり皮肉で投げやりかつ粗暴」であるとしながらも全体をリードしていると主張した上で「原石の魅力」がある[53]とし、『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』において根本は「彼らの天賦の資質が、加工されていない生の状態で凝縮されている」[39]として両者とも同様に本作を肯定的に評価したが、『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』において市川は本作の完成度に関して「あまりに幼すぎた、青かった」として否定的な評価を下した[40]

チャート成績

オリコンチャートでは最高位80位の登場回数3回で売り上げ枚数は0.2万枚となった。布袋は自著『秘密』にて本作は全く売れなかったと述べた他、初回プレスは数千枚であり、そのほとんどが後に返品されたとも述べている[54]

後に同チャートにおいて1988年にリリースされた『MORAL+3』が最高位1位の登場回数19回で売り上げ枚数は37.9万枚となり、ビーイングが制作に関与した作品としては初の1位獲得となった。その後『MORAL』としての再リリース盤は、1989年版は最高位2位を獲得、1990年版は最高位88位、2012年版は最高位92位となった。『MORAL+3』はBOØWYのアルバム売上ランキングにおいて7位となったほか[55]、1989年版は15位[56]、1990年版は25位[57]、2012年版は40位となっている[58]2021年に実施されたねとらぼ調査隊によるBOØWYのアルバム人気ランキングでは6位となった[59]

収録曲

MORAL

全編曲: 布袋寅泰

SIDE 1
#タイトル作詞作曲時間
1.INTRODUCTION(イントロダクション) 布袋寅泰
2.IMAGE DOWN(イメージ・ダウン)氷室狂介布袋寅泰
3.SCHOOL OUT(スクール・アウト)氷室狂介氷室狂介
4.ÉLITE(エリート)氷室狂介氷室狂介
5.GIVE IT TO ME(ギヴ・イット・トゥー・ミー)氷室狂介氷室狂介
6.NO N.Y.(ノー・ニューヨーク)深沢和明布袋寅泰
合計時間:
SIDE 2
#タイトル作詞作曲時間
7.MASS AGE(マス・エージ)氷室狂介布袋寅泰
8.WATCH YOUR BOY(ワッチ・ユア・ボーイ)深沢和明布袋寅泰
9.RATS(ラッツ)氷室狂介氷室狂介
10.MORAL(モラル)氷室狂介氷室狂介
11.GUERRILLA(ゲリラ)BOØWY布袋寅泰
12.ON MY BEAT(オン・マイ・ビート)氷室狂介布袋寅泰
13.ENDLESS(エンドレス)MOONLIGHT布袋寅泰
合計時間:

MORAL+3

全編曲: 布袋寅泰。

  • 太字は追加楽曲。
A面
#タイトル作詞作曲時間
1.「INTRODUCTION」 布袋寅泰
2.「IMAGE DOWN」氷室狂介布袋寅泰
3.「SCHOOL OUT」氷室狂介氷室狂介
4.「ÉLITE」氷室狂介氷室狂介
5.「GIVE IT TO ME」氷室狂介氷室狂介
6.「NO N.Y.」深沢和明布袋寅泰
7.OUT!!氷室狂介氷室狂介
8.LET'S THINK氷室狂介布袋寅泰
合計時間:
B面
#タイトル作詞作曲時間
9.「MASS AGE」氷室狂介布袋寅泰
10.「WATCH YOUR BOY」深沢和明布袋寅泰
11.「RATS」氷室狂介氷室狂介
12.「MORAL」氷室狂介氷室狂介
13.「GUERRILLA」BOØWY布袋寅泰
14.「ON MY BEAT」氷室狂介布袋寅泰
15.「ENDLESS」MOONLIGHT布袋寅泰
16.DAKARA氷室狂介氷室狂介
合計時間:

曲解説

  1. INTRODUCTION」(イントロダクション)
    インストゥルメンタル曲であり、布袋の意向により最後に作られた曲[60]。月光は「布袋はBOØWYを尊重する曲を作りたかったのではないか」と述べている[60]。6人編成時代のライブで登場テーマとして使用され、初期のライブでは生演奏されていた[61]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にてライターの安部薫は本曲がアヴァン・ポップである事からも本アルバムが純粋なパンクを目指していた訳ではない事や、宅録風の重ね録りからすでに布袋がプロデューサーとしての才を持っていたと主張している[62]
  2. 「IMAGE DOWN」(イメージ・ダウン)
    詳細は「IMAGE DOWN」の項を参照。
  3. SCHOOL OUT
    タイトル通り、退学を示唆する楽曲。氷室から歌詞を提示され「何か一言で言える言葉はない?」と聞かれた月光がタイトルを決定した[60]。月光はアリス・クーパーによる同名曲「スクールズ・アウト」(1972年)がかつてヒットした事も指摘している[60]。この曲の影響によりライブハウスなどで実際に退学を報告に来た若者がおり、疑問を感じた氷室が一時期ライブでの演奏を封印していた[61]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にてライターの宮城正樹は「初期サザンオールスターズの猥雑感とキャロル系ストレート・ロックの2面を併せ持ったような快曲」と述べ、クールス横浜銀蝿などの革ジャン・ロックにも類する曲であると述べている[63]
  4. 「ÉLITE」(エリート)
    ライブでの演奏時には、「イカれた、だらしねえ会社員に贈るぜ!」というMCが行われていた[61]。歌詞の内容に関して『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』では、デスペナルティを解散させられスピニッヂ・パワーでディスコ調の曲を歌わされていた氷室の嘆息ではないかと推測している[61]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にてライターの安部薫は「ソリッドなパンクナンバーで、反エリート主義を高らかに宣言」と述べている[64]
  5. 「GIVE IT TO ME」(ギヴ・イット・トゥー・ミー)
    原題は「PLEASE TELL ME」。アマチュア時代に演奏していた「男の言い草」がモチーフ。曲調は月光のアドバイスを受けている[60]。ライブでは「女の子だけに贈る歌です!」と氷室によってMCされていた[61]。また、初期のライブでは早急とも言えるテンポの8ビートにアレンジされ、アルバムのように演奏されることは少なかった。8ビートですらなくなった最終アレンジ版は、3枚目のシングル「わがままジュリエット」(1986年)のB面に収録されている。1986年頃までセットリストに残った。
  6. 「NO N.Y.」(ノー・ニューヨーク)
    詳細は「NO. NEW YORK」の項を参照。
  7. 「MASS AGE」(マス・エージ)
    6人編成時代の代表的なオープニングナンバー[61]。タイトルはスペルが違うので「メッセージ」ではなく、「マスターベーション・エイジ」の意味であり氷室が命名した[65]。月光は氷室に関して「世の中を斜めに見させたら天下一品だと思ってます」と述べている[65]
  8. 「WATCH YOUR BOY」(ワッチ・ユア・ボーイ)
    神奈川金属バット両親殺害事件を題材とした曲[61]。歌詞の内容に関して『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』では、「家庭内暴力などの世相に対して、かなり偽悪的で挑発的な言葉が並ぶ」と記されている[61]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にてライターの宮城正樹は本曲を「一発録り的な瞬発力を持ったストレートな革ジャン・ロック」としながらも、間奏に笑い声が挿入されている事やアウトロでダブの要素がある事など実験的要素が強い曲でもあると主張した[66]
  9. 「RATS」(ラッツ)
    アイルランドのバンドであるブームタウン・ラッツの影響を受けて作られた曲[65]。ライブハウス時代の後期までアレンジを変更しながらセットリストに残り続けた[61]
  10. 「MORAL」(モラル)
    人間の二面性をテーマにした曲。氷室による「人は歪んでるから本音という大義名分の裏側にもう1つの本音がある」という考え方が反映された曲であり、氷室自身は歌詞とは逆の人間になりたいという欲求を持っていたという[65]。歌詞は氷室の同級生であった山田かまちの死を題材としている[61]。また、山田の感性の鋭さは氷室にも影響を与えたと言われている[61]
  11. 「GUERRILLA」(ゲリラ)
    サラリーマンに対するアンチテーゼを表した曲。途中に布袋の「僕、今けっこう幸せだな」というMCが挿入されている。もう一つのMC「夕べ、徹マンでまだ眠いんだがね」は松井によるもの。『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』では、「畳みかける言葉の洪水でサラリーマンの悲哀を描く」と記され、ライブハウス時代にはアンコール前に近い曲順で演奏されていた[61]。『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にて社会学研究家の木島由晶はサラリーマンの悲哀を描いた歌詞がUNICORNのようであり、スカコア風のサウンドはレピッシュのようであると主張した[62]。1986年頃までセットリストに残った。
  12. 「ON MY BEAT」(オン・マイ・ビート)
    BOØWYの信条を表した曲。ライブにおいても「BOØWYの歴史に欠かせない曲」とMCで言われている。1981年5月の新宿ロフトライブで演奏され、「キレた演奏がいい」と評判になった[61]。初期のライブでは必ずアンコール前後に演奏され、メンバーやファンが完全燃焼するための曲となっていた[61]コブクロによるカバーがアルバム『ALL COVERS BEST』(2010年)に収録されている。
  13. 「ENDLESS」(エンドレス)
    作詞にクレジットされている「MOONLIGHT」とは、当時のスタッフであった月光恵亮のことであり、氷室からの依頼により歌詞の内容を英語に訳詞した[65]。英詞の意味は、「いくつの列車に乗り継いで、旅を続けなければいけないのか」という意味[65]。初期のライブではアンコール終了後のSEとして流される事が多かったが、「暴威」時代には超高速テンポで演奏される事もあった[61]。『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』では、「統一感のないアルバムの最後を飾るに相応しい静かなエンディングナンバー」と記された他、「当時の彼らの中途半端さが同居している印象」とも記されている[61]。後にリリースされたシングル「わがままジュリエット」のカップリング曲であった「BEGINNING FROM ENDLESS」の原曲となった[61]

スタッフ・クレジット

BOØWY

スタッフ

  • 月光恵亮 & MOONSHINE PROJECT - アートディレクション
  • 月光恵亮 - デザイン
  • 居坂和典 - 写真撮影
  • TAMA CHAN - メイクアップ
  • 木村マモル - スペシャル・サンクス
  • ELK. - スペシャル・サンクス

リリース履歴

MORAL

No. 日付 レーベル 規格 規格品番 最高順位 備考
1 1982年3月21日 ビクターInvitation LP VIH-28076 80位
2 1985年9月5日 ビクター/Invitation LP VIH-6077 -
3 1986年2月5日 ビクター/Invitation CD VDR-1149 -
4 1989年2月21日 ビクター/Invitation CD
CT
VDR-5281
VCF-1617
2位
5 1990年4月21日 ビクター/Invitation CD VICL-2011 88位
6 1991年12月24日 東芝EMI/イーストワールド CD TOCT-6390 2位 CD-BOXBOØWY COMPLETE LIMITED EDITION』収録
7 1993年3月3日 東芝EMI/イーストワールド CD TOCT-6390 3位 CD-BOX『BOØWY COMPLETE REQUIRED EDITION』収録
8 2002年3月29日 東芝EMI/イーストワールド CD TOCT-24790 14位 CD-BOX『BOØWY COMPLETE 21st CENTURY 20th ANNIVERSARY EDITION』収録
デジタルリマスター
9 2004年9月22日 ビクター/Invitation CD VICL-41147 - デジタルリマスター盤
10 2007年12月24日 ビクター/Invitation CD VICL-62670 - デジタルリマスター盤 、紙ジャケット仕様、LP盤のレーベルを再現
11 2012年12月24日 ビクター/Invitation SHM-CD VICL-70099 92位
12 2017年3月8日 ビクター/Invitation CD VICL-64747 - K2HD PROマスタリング、紙ジャケット仕様、完全生産限定盤

MORAL+3

No. 日付 レーベル 規格 規格品番 最高順位 備考
1 1988年2月3日 ビクター/Invitation LP
CD
CT
VIH-28320
VDR-1483
VCF-10347
1位
2 2002年1月23日 ビクター CD VICL-60833 13位 デジタル・リマスタリング盤
『MORAL-TRANCE MIX』の初回限定盤付属
3 2003年12月25日 ビクター CD VICL-61292 - 上記の単品リリース
4 2004年1月21日 ビクター DVD VIAL-60009 - DVD-Audio規格 24bit/192kHz

MORAL-TRANCE MIX

MORAL-TRANCE MIX
BOØWYリミックス・アルバム
リリース
録音 2001年11月
ジャンル ロック
エレクトロニック
トランス
ビッグ・ビート
ニュー・ウェイヴ
パンク・ロック
時間
レーベル ビクター
チャート最高順位
BOØWY アルバム 年表
“GIGS” CASE OF BOØWY
2001年
MORAL-TRANCE MIX
2002年
BOØWY COMPLETE 21st CENTURY 20th ANNIVERSARY EDITION』
(2002年)
EANコード
テンプレートを表示

MORAL-TRANCE MIX』(モラル トランス・ミックス)は、日本のロックバンドであるBOØWYのファーストアルバムのリミックス・アルバム

2002年1月23日ビクターエンターテインメントからリリースされた。リリース形態は通常盤と、オリジナル音源『MORAL』(初回盤のみ『MORAL+3』)のデジタルリマスター盤を付属した2枚組がある。ジャケット写真中央の「BOØWY」の色が銀色の物が初回盤(『MORAL-TRANCE MIX』、『MORAL+3』デジタルリマスター盤の2枚組)である。同じく「BOØWY」の色が金色の物が通常盤で『MORAL-TRANCE MIX』のみの1枚である。なお『MORAL+3』のデジタルリマスター盤は後日要望多数により、単品盤でリリースされた。ちなみにこの単品盤の「BOØWY」の色は白である。

オリコンチャートでは最高位13位の登場回数4回で売り上げ枚数は4.5万枚となった。この売り上げ枚数はBOØWYのアルバム売上ランキングにおいて21位となっている[57]

スタッフ・クレジット

  • 宮本茂男 - マスタリング・エンジニア (FLAIR)
  • JET MORE (12th PLANET design) - アート・ディレクション、デザイン
  • フィリップ・A・ミラー(パイロン) - ビジュアル・コーディネーション

収録曲

#タイトル作詞作曲・編曲リミックス担当時間
1.INTRODUCTION   
2.IMAGE DOWN(Joujouka)  JOUJOUKA DJ TEAM RMX
3.SCHOOL OUT(Tarro Joy)  TARRO JOY
4.ÉLITE(W.M.P)  W.M.P
5.GIVE IT TO ME(Nick Taylor)  ニック・テーラー
6.NO N.Y.(Joujouka)  JOUJOUKA DJ TEAM RMX
7.MASS AGE(Joujouka)  JOUJOUKA DJ TEAM RMX
8.WATCH YOUR BOY(Tarro Joy)  TARRO JOY
9.RATS(Jet More)  JET MORE
10.MORAL(Joujouka)  JOUJOUKA DJ TEAM RMX
11.GUERRILLA(Electric Tease)  エレクトリック・ティーズ
12.ON MY BEAT(Raijin/W.M.P)  RAIJIN、W.M.P
13.ENDLESS(W.M.P)  W.M.P
合計時間:

脚注

注釈

  1. ^ 後に「FLY AWAY」に改名。
  2. ^ 後にBARBEE BOYSに加入。
  3. ^ 一説では事務所から実力不足であるとの通達を受けたことで「デスペナルティ」としてのバンド活動が休止となったとされるが、松井はこの件を明確に否定している[8]
  4. ^ 布袋は地元の時は硬派であった氷室が髪の毛を降ろしうっすら茶髪に、うっすらメイクしている姿に驚いた[要出典]
  5. ^ 正式にBOØWYと明記されたのは1982年4月21日に発行されたロフトプロジェクト発行のフリーペーパーRooftop』以降[11]
  6. ^ 松井の自著『記憶』によれば当初はベース担当であったが、松井の加入によりサックスに転向したと記載されている[67]

出典

  1. ^ BSフジ「輝き続けるBOOWY」12日放送 秘蔵映像満載”. 産経ニュース. 産経デジタル (2022年2月4日). 2022年2月5日閲覧。
  2. ^ 紺待人 1986, p. 69- 「ACT1 氷室京介」より
  3. ^ 紺待人 1986, p. 199- 「ACT4 布袋寅泰」より
  4. ^ BOØWY COMPLETE (本、CD-BOX) (Media notes). 東芝EMI. 1991年. {{cite AV media notes2}}: |format=を指定する場合、|url=も指定してください。 (説明); 不明な引数|albumlink=は無視されます。 (説明); 不明な引数|artist=は無視されます。(もしかして:|others=) (説明); 不明な引数|notestitle=が空白で指定されています。 (説明); 不明な引数|publisherid=は無視されます。 (説明)
  5. ^ 紺待人 1986, p. 68- 「ACT1 氷室京介」より
  6. ^ 紺待人 1986, p. 70- 「ACT1 氷室京介」より
  7. ^ 松井常松 2009, p. 42- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より
  8. ^ a b 松井常松 2009, p. 44- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より
  9. ^ 紺待人 1986, p. 71- 「ACT1 氷室京介」より
  10. ^ 紺待人 1986, pp. 209–210- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  11. ^ a b c d e 別冊宝島 2002, p. 137- 高篠友一「LONGER THAN FOREVER! BOØWYカルト年表」より
  12. ^ 紺待人 1986, pp. 215–216- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  13. ^ 紺待人 1986, p. 223- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  14. ^ 紺待人 1986, p. 246- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  15. ^ 紺待人 1986, p. 252- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  16. ^ 紺待人 1986, p. 259- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  17. ^ 布袋寅泰 2006, p. 108- 「第二楽章 東京」より
  18. ^ 鈴木大介アンダウン編集部) (2002年). complete of T-BOLAN at the BEING studio (ブックレット、CD) (Media notes). B-Gram RECORDS. p. 3. {{cite AV media notes2}}: |format=を指定する場合、|url=も指定してください。 (説明); 不明な引数|albumlink=は無視されます。 (説明); 不明な引数|artist=は無視されます。(もしかして:|others=) (説明); 不明な引数|notestitle=は無視されます。 (説明); 不明な引数|publisherid=は無視されます。 (説明)
  19. ^ 布袋寅泰 2006, pp. 108–109- 「第二楽章 東京」より
  20. ^ a b 別冊宝島 2006, p. 84- 山口大介「知られざるカリスマロックバンドの素顔―BOØWYトリビア」より
  21. ^ 布袋寅泰 2006, p. 109- 「第二楽章 東京」より
  22. ^ B to Y 2004, p. 116- 「HISTORY」より
  23. ^ a b c d e B to Y 2004, p. 119- 「HISTORY」より
  24. ^ 紺待人 1986, p. 226- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  25. ^ 紺待人 1986, pp. 227–231- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  26. ^ 紺待人 1986, p. 234- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  27. ^ 紺待人, 1986 & pp255 - 256- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  28. ^ 紺待人 1986, p. 262- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  29. ^ a b c B to Y 2004, p. 117- 「HISTORY」より
  30. ^ 紺待人 1986, pp. 267–268- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  31. ^ 紺待人 1986, p. 271- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  32. ^ 高橋まこと 2017, p. 105- 「2章 夜明け前(1974年~1981年)」より
  33. ^ 高橋まこと 2017, pp. 108–109- 「2章 夜明け前(1974年~1981年)」より
  34. ^ a b c d 東條祥恵 (2013年3月27日). “【対談】高橋まこと(ex BOΦWY)×森山朝雄(ex BOΦWY PA)「こんなに想い続けてもらえるって不思議。変なバンドだね」”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク. 2021年7月23日閲覧。
  35. ^ 高橋まこと 2017, pp. 110–111- 「2章 夜明け前(1974年~1981年)」より
  36. ^ a b 高橋まこと 2017, p. 131- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  37. ^ a b c d B to Y 2004, p. 39- 「PROFILING」より
  38. ^ 松井常松 2009, pp. 52–53- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より
  39. ^ a b c d 別冊宝島 2002, p. 110- 根本桃GO!「アルバムひとくちレビュー 『BOØWY COMPLETE』をコンプリートに聴く」より
  40. ^ a b c d 別冊宝島 2006, pp. 92–93- 市川哲史「アルバム・レヴュー 1st Album『MORAL』(1982)」より
  41. ^ BOφWY / モラル [SHM-CD]”. CDジャーナル. 音楽出版. 2017年1月8日閲覧。
  42. ^ MORAL : BOOWY”. ローチケHMV. ローソンHMVエンタテイメント. 2017年1月8日閲覧。
  43. ^ RENDEZ-VOUS 1989, p. 164- 「ALL OF ALL」より
  44. ^ BOOWY CD10枚組ボックスセットをリマスター再発”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード (2002年2月18日). 2021年5月3日閲覧。
  45. ^ BOΦWY、12月24日の「解散宣言」日に貴重なアイテム発売”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク (2007年10月12日). 2021年5月3日閲覧。
  46. ^ デビュー30周年!BOOWY未発表映像&音源含むリリース企画”. 音楽ナタリー. ナターシャ (2012年10月4日). 2021年5月3日閲覧。
  47. ^ BOΦWY、未発表映像収録したBD BOX発売”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード (2012年10月26日). 2021年5月3日閲覧。
  48. ^ B to Y 2004, p. 141- 「HISTORY」より
  49. ^ RENDEZ-VOUS 1989, p. 166- 「ALL OF ALL」より
  50. ^ 高橋まこと 2017, p. 132- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  51. ^ 松井常松 2009, p. 57- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より
  52. ^ 布袋寅泰 2006, p. 124- 「第三楽章 BOØWY」より
  53. ^ a b c BOφWY / MORAL[+3] [再発][廃盤]”. CDジャーナル. 音楽出版. 2021年6月26日閲覧。
  54. ^ 布袋寅泰 2006, p. 111- 「第二楽章 東京」より
  55. ^ BOΦWYのアルバム売上ランキング”. オリコンニュース. オリコン. 2022年3月6日閲覧。
  56. ^ BOΦWYのアルバム売上ランキング”. オリコンニュース. オリコン. 2022年3月6日閲覧。
  57. ^ a b BOΦWYのアルバム売上ランキング”. オリコンニュース. オリコン. 2022年3月6日閲覧。
  58. ^ BOΦWYのアルバム売上ランキング”. オリコンニュース. オリコン. 2022年3月6日閲覧。
  59. ^ 「BOØWY」人気アルバムランキングTOP6! 2位の「BEAT EMOTION」を僅差で上回った1位は?”. ねとらぼ調査隊. アイティメディア (2021年10月7日). 2022年3月6日閲覧。
  60. ^ a b c d e B to Y 2004, p. 67- 「WORKS」より
  61. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 別冊宝島 2002, p. 113- 不二雄、江口崇、編集部「『BOØWY COMPLETE』全114曲完全楽曲解説!」より
  62. ^ a b 別冊宝島 2006, p. 116- 「BOØWY 全79曲 勝手にライナーノーツ」より
  63. ^ 別冊宝島 2006, p. 118- 「BOØWY 全79曲 勝手にライナーノーツ」より
  64. ^ 別冊宝島 2006, p. 115- 「BOØWY 全79曲 勝手にライナーノーツ」より
  65. ^ a b c d e f B to Y 2004, p. 68- 「WORKS」より
  66. ^ 別冊宝島 2006, p. 119- 「BOØWY 全79曲 勝手にライナーノーツ」より
  67. ^ 松井常松 2009, pp. 46–47- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より

参考文献

外部リンク