ローテンブルク・オプ・デア・タウバー
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| 紋章 | 地図 (郡の位置) |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 連邦州: | バイエルン州 |
| 行政管区: | ミッテルフランケン行政管区 |
| 郡: | アンスバッハ郡 |
| 緯度経度: | 北緯49度23分東経10度11分 |
| 標高: | 海抜 430 m |
| 面積: | 41.45 km² |
| 人口: | 11,199人 (2007年12月31日現在) |
| 人口密度: | 270 人/km² |
| 郵便番号: | 91541 |
| 市外局番: | 09861 |
| ナンバープレート: | AN |
| 自治体コード: | 09 5 71 193 |
| 市の構成: | 38 市区 |
| 市庁舎の住所: | Marktplatz 1 91541 Rothenburg o.d.T |
| ウェブサイト: | www.rothenburg.de |
| 上級市長: | ヴァルター・ハートル (Walter Hartl) |
| 郡内の位置 | |
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー (Rothenburg ob der Tauber
サウンド) はドイツ南部のバイエルン州ミッテルフランケンのアンスバッハ郡にある大規模郡都市。
目次 |
[編集] 地理
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、タウバー川沿いのフランケンヘーエ自然公園周縁部に位置している。
[編集] 隣接市町村
(南から時計回り)
[編集] 歴史
ローテンブルクの起源は、現在は一市区となっているデトヴァンクにあった。この小教区は、970年頃にライニガーという名の東フランケン地方の貴族によって創設された。この貴族はついでコムブルク(現在はシュヴェービッシュ・ハル市の一部)を創設した。この貴族が、タウバー川を望む丘の上に (oberhalb der Tauber) 城を建てたことが、現在の地名である "ob der Tauber " の由来である。
このコムブルク=ローテンブルク伯が断絶する1108年までには、皇帝の城(1356年のバーゼル地震で破壊された)が築かれていた。この伯家の最後の当主となったハインリヒ・フォン・ローテンブルクは、城をコムブルク修道院に遺贈した。
しかし、皇帝ハインリヒ5世は、この遺贈を認めず、甥のコンラート3世にレーエンとしてこの所領を与えた。彼は1137年に王位を獲得するとローテンブルクに宮廷を置き、帝国の城を築いた。彼の息子のフリードリヒ・フォン・ローテンブルクは、従兄弟のフリードリヒ1世の後見下に置かれ(父親が亡くなったとき、この息子はまだ成人前であった)、1157年に「ローテンブルク公」という称号で刀礼を受けた。フリードリヒ1世により、フリードリヒ・フォン・ローテンブルクにはエーガーラント地方も与えられた。
帝国自由都市への昇格は、1170年から1240年の間になされた。中世のこの町で最も有名な人物は、エネルギッシュな政策で知られた市長ハインリヒ・トップラー(1340年頃 - 1408年)であろう。
三十年戦争の時代、1631年にティリー伯ヨハン・セルクラエスの軍勢がこの町を占拠した。この成り行きは、現在も毎年開催される街の祝祭劇『マイスタートルンク』の話の元になっている。
1650年に最後の兵士が街を去ると、この街は長い眠りに就く。発展は停滞し、街はその重要性を失っていった。これは、街が中世のままの状態で保存された理由でもある。
1803年の帝国代表者会議主要決議以降、この街はバイエルン領となった。次の世紀の変わり目にはすでに、ローテンブルクは、イギリスやフランスからの人気の観光地となっていた。第一次世界大戦前には、現在も存在しているホテル・アイゼンフートに滞在するバスツアーまであった。
ヴァイマール共和国時代、この都市とその周辺の選挙区は、NSDAP支持者の多い地区となり、1933年の選挙でこの政党は80%もの票を獲得した。
第二次世界大戦の終戦直前、1945年3月31日にローテンブルクは、アメリカ空軍の爆撃を受け、保存されていた建造物の約40%が損傷または破壊された[1]。この爆撃作戦の本来の目標は、オーバーフランケンのエーブラハであったが、霧に覆われていたため攻撃できず、このため代理の目標として、軍事的な意義などないにもかかわらず、ローテンブルクが攻撃されたのであった。損害の大部分は、旧市街でも比較的新しい地域であったため、最も重要な記念建造物は、被害を免れた。戦後、街は旧態に忠実に再建された。後に質問されたパイロットは、自分たちが文化遺産都市を爆撃していることにまったく気づいていなかったと答えている。終戦後、アメリカは多額の再建資金援助を行っている。この時の寄付者の名前は、市壁の内側通路に掲示されている。
1945年4月17日、ドイツが降伏する3週間前に、ローテンブルクでの戦闘は終わった。かつての米軍司令官ジョン・ジェイ・マックロイは、文書で以下の証言を行った。ローテンブルクへの進軍に際して、デーヴァー将軍の部隊による砲兵攻撃が計画されたのだが、これを阻止したというのである。彼は、戦前にこの街を訪れ、この中世都市に魅了された母親の話で、この街を知っていたのだという。
1972年まで、この街はローテンブルク郡の郡庁所在地であった。バイエルン州の市町村再編により、この街とその郡はアンスバッハ郡に編入されることとなった。この都市は、大規模郡都市の地位を保持した。
[編集] 行政
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー郡が廃止された後でも大規模郡都市の状態にあるローテンブルクでは、上級市長の選挙が行われる。2006年の選挙では、選挙グループ"Für Rothenburg"のヴァルター・ハートルが、決選投票でSPDの候補を破って選出された。ハートルは、2006年5月2日に着任した。
市議会は、24議席からなり、その中から市長が選出される。選挙は6年ごとに行われる。
[編集] 紋章
銀地に、赤い2本の胸壁のある塔のある城。塔の間には三角屋根の小楼。
[編集] 友好都市
[編集] 経済と社会資本
ローテンブルクでは、観光産業が大きなウェイトを占めている。しかしこの他にも、大手家具製造業者の工場が一つ、大手建設機械製造業者の工場が一つ、中小の機械製造業者がいくつか、それにヨーロッパで2番目に大きな焼き菓子の生産工場がある。
[編集] 交通
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、アウトバーンA7号線沿いに位置し、市街からわずかな距離にローテンブルク・オプ・デア・タウバー・インターチェンジがある。旧連邦道B25号線がローテンブルクを南北に縦断して走っており、東西に走る古城街道と市内で交差する。
この街は、幹線鉄道ヴュルツブルク - アンスバッハ線とシュタイナハから分岐する形で1873年11月1日に開業した、鉄道路線の終着点である。現在この路線は、ニュルンベルク広域鉄道網の一つ、近郊鉄道R82として運営されている。1905年から1971年までの間はシリングスフュルストを経由してドムビュールで幹線アンスバッハ - クライルスハイム線に接続する路線もあった。
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーには多くのサイクリングロードが通っている。
市街の約1km東に、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー・スポーツ飛行場(荷重5,700kg、滑走路600m)がある。ここでは、時折、メルセデス・ベンツ・ツーリングカー・レーシング・チームがテスト走行を行っている。
[編集] 観光
ローテンブルクは、入り組んだ路地や小さな公園それを取り巻く木組み住宅といった中世さながらのよく保存された旧市街で知られている。この旧市街は、ドイツの街のプロトタイプとして、世界中の観光客の目的地となっている。特に日本からの観光客は、ヨーロッパ・ツアーの一環としてこの街で宿泊する。この街には、ホテルや民宿の他に、キャンプ場やオートキャンプ場、ユースホステルなどがある。ユースホステルは、かつて馬を動力とした街の粉挽き場として使われていたものである。
ローテンブルクのよく保存された旧市街は、様々な映画の舞台装置としても利用されている(例『カスパー・ハウザー』)。また、日本のアニメ作品『ちっちゃな雪使いシュガー』の舞台である架空の街「ミューレンブルク」のモデルともなっている。
[編集] 地元企業
- AEG-Electrolux(レンジ、調理容器)
- Ebalta(プラスチック、鋳造プラスチック、接着剤)
- Erhard Sport International(スポーツ用品)
- Käthe Wohlfahrt(クリスマスの飾り付け)
- Lechner(焼き菓子製造)
- ROTABENE Medienhaus(出版『Fränkischer Anzeiger』(フランケン新聞)や『 Evangelisches Sonntagsblatt aus Bayern』(バイエルン福音派日曜紙))
- Schaeff-Terex(パワーショベル、建設機械)
- Neuberger(建設オートメーション)
[編集] 文化と見所
[編集] 音楽グループ
- ローテンブルク・オプ・デア・タウバー市立青少年ブラス・オーケストラ
- 聖ヨハネ教会合唱団
- ProChor
[編集] 博物館
- 帝国都市博物館
- 中世犯罪博物館:拷問や処刑の様子や道具が展示されているが、より重要なのは、法制史に関する書類のコレクションである。
- 人形とおもちゃの博物館
- 羊飼いの踊り博物館
- クリスマス博物館
- 職人の家
[編集] 建造物
旧市街全体が見応えのある建造物で造られていると言っても過言ではない。夜の旧市街をまわる、ナイトウォッチマンツアー(夜警ツアー)もある。
- マルクト広場に面して建つ歴史的な市庁舎とマイスタートランクのからくり時計がある市参事会酒宴館
- 聖ヤーコプス教会:ティルマン・リーメンシュナイダー作の聖血の祭壇がある。ローテンブルク郊外のデトヴァンクの教会にもリーメンシュナイダー作の祭壇(聖十字架祭壇)がある。
- 市壁、市門(北から時計回りに、クリンゲン門、ヴュルツブルク門、レーダー門、シュピタール門、コーボルツェラー門)
- プレーンライン
- ブルク門、マルクス塔・レーダーアーチ、ヴァイサー塔:現在のものより古い時代、12世紀の市壁に設けられた門。
- シュピタール堡塁
- クリンゲン門に近いヴォルフガング教会(自衛教会)
- ブラジウス礼拝堂
- 二重橋:タウバー川に架かる上下二層の橋
- ヴィルトバート・ローテンブルク:1898年から1903年にフリードリヒ・ヘッシンクにより温泉ホテルとして建設された。1982年以降は、プロテスタントの集会場として用いられている。
[編集] 催し物
- マイスタートランク:毎年、聖霊降誕祭で、三十年戦争のローテンブルクを舞台とした芝居が上演される。また、帝国自由都市祭や秋の収穫祭に合わせて演じられることも多い。この芝居は、以下のようなアダム・ヘルバーの歴史劇である。この街を攻略したティリー伯は、参事会員らの罪を断じ、街を焼き払うと宣言した。参事らは困惑しながら、歓迎のワインを供した。それは3.25リットルのガラスコップに注がれていた。ティリー伯は少し穏やかな気持ちを取り直し、誰かこれを一気に飲み干す者があれば、街に危害を加えるのを中止しようと言った。老市長ヌッシュが進み出ると、一気にコップを空にして皆を驚かせた。ティリー伯は、これに感銘を受け、街に手出しするのを止めたという。ただし、実際には、ティリー伯自身がこの街に足を踏み入れたという記録はない。
- ローテンブルク・オプ・デア・タウバーの貨幣鋳造
- 帝国自由都市祭:9月初め。
- タウバータール・フェスティバル:野外ロック・コンサート
- クリスマス市「ライターレスマルクト」:11月下旬から12月22日まで。
- 羊飼いの踊り:4月から10月までの間に数回、マルクト広場で開かれる。
- タウバータール・オープンエア
[編集] 人物
- マイアー・フォン・ローテンブルク(1215年 - 1293年)有名なユダヤ教のラビ、タールムート教師
- ハインリヒ・トップラー(1408年没)市長
- ヨハン・ハラー(1463年 - 1525年)出版者
- ペトレイウス・アペルバックス(1480年頃 - 1531年)人文主義者
- ファレンティン・イッケルザマー(1500年頃 - 1537年)教育者
- アンドレアス・リバフィウス(1555年 - 1616年)化学者、大学教師
- ヨハン・ゲオルク・ヨッホ(1676年 - 1731年)プロテスタントの神学者
- カール・ゲオルク・クリシュティアン・フォン・シュタウト(1798年 - 1867年)数学者
- フランツ・フォン・レイディヒ(1821年 - 1908年)動物学者
- ハンノ・ベルンハイム(1824年 - 1862年)哲学者
- リーヌス・メンメル(1914年 - 2004年)政治家 (CSU)
- ハンス・カール・アダム(1915年 - 2002年)料理人
- クラウス・ヘルプスト(1937年 - )中東学者
- クリストフ・シュテーリン(1942年 - )作家、歌手、エンターテイナー
[編集] ローテンブルクにちなんで
よく保存された中世都市を代表するシンボルとして「ローテンブルク」の名はフランケン地方の外でも転用されている(日本で「小京都」が多くあるようなもの)。オーバーバイエルン地方のランツベルク・アム・レヒは、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー同様に保存状態のよい中世建造物群から『バイエルンのローテンブルク』と呼ばれる。モーゼル川に面したバイルシュタインは「小ローテンブルク」と称している。1945年に甚大な被害を受け、ドイツの帰属から離れるまで、プジッツェ (Pyrzyce) やパスウェンク (Pasłęk) は、それぞれ「ポンメルンの」あるいは「東プロイセンの」ローテンブルクと呼ばれていた。
バンド、ブラックモアズ・ナイトのアルバム『ウィンター・キャロルズ』のカバーにはプレーンラインの風景が使われている。
[編集] 引用
[編集] 外部リンク
- 紋章について(ドイツ語)
- ローテンブルク オプ デア タウバーの写真と案内
- 歴史劇『マイスタートランク』(ドイツ語、英語)
[編集] 日本語版参考図書
- 紅山雪夫『ドイツものしり紀行』(新潮文庫、ISBN 4101043256)2005年
- 阿部謹也、若月伸一、沖島博美『ドイツ~チェコ古城街道』(新潮社、ISBN 4106020610)1997年
- 小谷明、阿部謹也、坂田史男 他『ドイツ・ロマンティック街道』(新潮社、ISBN 4106019485)1987年
- ロンリープラネットの自由旅行ガイド『ドイツ』(メディアファクトリー、ISBN 4840111839) 2004年
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