シャトー・ディフ
シャトー・ディフ(Château d'If)は、フランス・マルセイユ沖に位置するイフ島に造られた牢獄。アレクサンドル・デュマ・ペールの小説『モンテ・クリスト伯』の舞台として知られる。イフ城とも訳される。
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[編集] 飼育小屋
1513年、インド・グジャラート州のスルターンから、ポルトガル王マヌエル1世にインドサイが送られた。1516年、このサイをローマ教皇のレオ10世に送る途中、船をイフ島に停泊させ、飼育小屋を造った。サイの物珍しさから人々を集め、フランソワ1世もマリニャーノの戦い(Battle of Marignano) の帰途に立ち寄っている。アルブレヒト・デューラーは、友人からこのサイの噂を聞いて木版画『サイ』を作っている。
出港したのち、サイを乗せた船は嵐のためジェノヴァ湾で遭難した。沿岸で見つかったサイの死体は剥製にしてローマに届けられた。
[編集] 要塞
シャトー・ディフは海からの防御拠点とするために、フランソワ1世の命令により、1524年から1531年にかけて建設された。1481年にマルセイユがフランスに占拠されたこともあり、市民への監視にも利用された。
シャトー・ディフの軍事的役割は防御ではなく、抑止であった。1531年7月、カール5世はマルセイユを攻撃しようとしたが、シャトー・ディフを見て中止したとされる。
1701年、軍事技術者のヴォーバンはシャトー・ディフの要塞としての弱点を指摘した。
[編集] 牢獄
シャトー・ディフはその孤島という立地と付近の海流から脱獄が困難であるため、政治犯や宗教的犯罪者を収容する牢獄として利用されるようになった。この間3500人以上のユグノーがここに送られたほか、パリ・コミューンのリーダーであるガストン・クレミュが収監された後1871年に銃殺された。またこの島は、1844年に出版されたアレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の中で主人公のエドモン・ダンテスが収監された場所として、広くその名を知られることとなった。
なお当時の牢獄では身分や財産によって囚人の中でも扱われ方が異なっていた。貧しい囚人は窓もない地下牢に収容されたが、裕福な囚人は資金を出すことによって簡易トイレや暖炉のついた個室に入ることができた。
[編集] 主な収容者
[編集] 観光地
その後牢獄としての役割を終え、1890年9月23日から一般公開が始まった。1926年、歴史的建造物に指定された。現在マルセイユの旧港から観光船が運航している。
[編集] トリビア
1800年にカイロで暗殺されたジャン=バティスト・クレベールの遺体は一度フランス本土へ送られたが、彼の墓が共和制の象徴となるのを恐れたナポレオンは、遺体をシャトー・ディフに置くように命じた。これはルイ18世がストラスブールへの埋葬を許可するまでの18年間続いた。