「松平家忠 (東条松平家)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
 
1行目: 1行目:
{{otheruses|[[東条松平家]]3代当主|[[形原松平家]]5代当主|松平家忠 (形原松平家)|[[深溝松平家]]4代当主|松平家忠}}
{{基礎情報 武士
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 松平家忠
| 氏名 = 松平家忠
9行目: 8行目:
| 死没 = [[天正]]9年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]([[1581年]][[11月26日]])
| 死没 = [[天正]]9年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]([[1581年]][[11月26日]])
| 改名 = 亀千代(幼名)→家忠
| 改名 = 亀千代(幼名)→家忠
| 別名 = 家次、通称:甚太郎
| 別名 = 家次、[[仮名 (通称)|通称]]:甚太郎
| 諡号 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 神号 =
27行目: 26行目:
}}
}}


'''松平 家忠'''(まつだいら いえただ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。通称は甚太郎。別名家次。[[東条松平家]]3代当主。[[三河国]][[東条城]]主。
'''松平 家忠'''(まつだいら いえただ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[仮名 (通称)|通称]]は甚太郎。別名家次。[[東条松平家]]3代当主。[[三河国]][[東条城]]主。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[松平忠茂]]の子として誕生。母は[[松井忠直]]の娘([[松平康親]]の妹)。幼名は亀千代。
[[松平忠茂]]の子として誕生した。母は[[松井忠直]]の娘([[松平康親]]の妹)。幼名は亀千代。


父・忠茂の戦死に伴い、[[徳川家康|松平家康]]に家督相続・所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばかりだったため、伯父である家臣の松井忠次(松平康親)が後見となり、元服後もその補佐を受けて活動した。[[吉良氏|東条吉良氏]]との戦いでは忠次と共に功績をあげ、東条城を領した。親戚である[[深溝松平家]]の[[松平家忠]](主殿助)とは年齢も居城も近く、甚太郎家忠は主殿助家忠の妹を嫁に迎えて親交が深かった。その後も[[姉川の戦い]]や[[長篠の戦い]]など、各地の戦いに参加したが病弱であり、[[天正]]9年([[1581年]])に病のため東条城で没した。
父・忠茂の戦死に伴い、[[徳川家康|松平家康]]に家督相続・所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばかりだったため、伯父である家臣の松井忠次(松平康親)が後見となり、[[元服]]後もその補佐を受けて活動した。[[吉良氏|東条吉良氏]]との戦いでは忠次と共に功績をあげ、東条城を領した。親戚である[[深溝松平家]]の[[松平家忠]](主殿助)とは年齢も居城も近く、甚太郎家忠は主殿助家忠の妹を嫁に迎えて親交が深かった。その後も[[姉川の戦い]]や[[長篠の戦い]]など、各地の戦いに参加したが病弱であり、[[天正]]9年([[1581年]])に病のため東条城で没した。


後に家康は四男[[松平忠吉|忠吉]]に名跡を継がせている。残された妻は兄・主殿助家忠の元へ帰った。
後に家康は四男[[松平忠吉|忠吉]]に名跡を継がせている。残された妻は兄・主殿助家忠の元へ帰った。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[観泉寺]]史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館、1974年
* [[観泉寺]]史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館、1974年
* 新編岡崎市史編さん委員会編『新編岡崎市史 6 古代中世史料編 』岡崎市、1983年
* 新編岡崎市史編さん委員会編『新編岡崎市史 6 古代中世史料編』岡崎市、1983年
* 盛本昌広『[[松平家忠#家忠日記|松平家忠日記]]』(角川選書304)角川出版、 1999年、ISBN 4-04-703304-9 C0321
* 盛本昌広『[[松平家忠#家忠日記|松平家忠日記]]』(角川選書304)角川出版、 1999年、ISBN 4-04-703304-9 C0321
* 続群書類従完成会編『増補 續史料大成 19 /家忠日記』臨川書店、1994年、ISBN 4-653-00465-X C3321 P65386E
* 続群書類従完成会編『増補 續史料大成 19/家忠日記』臨川書店、1994年、ISBN 4-653-00465-X C3321 P65386E



{{松平氏歴代当主|[[東条松平家]]|1556年 - 1581年|3代}}
{{松平氏歴代当主|[[東条松平家]]|1556年 - 1581年|3代}}
49行目: 47行目:
[[Category:東条松平氏|いえたた]]
[[Category:東条松平氏|いえたた]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:16世紀生]]
[[Category:1581年没]]
[[Category:1581年没]]

2021年12月15日 (水) 16:05時点における最新版

 
松平家忠
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 弘治2年(1556年
死没 天正9年11月1日1581年11月26日
改名 亀千代(幼名)→家忠
別名 家次、通称:甚太郎
主君 徳川家康
氏族 東条松平家
父母 父:松平忠茂、母:松井忠直
松平伊忠娘・ちいは
養子:忠吉
テンプレートを表示

松平 家忠(まつだいら いえただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将通称は甚太郎。別名に家次。東条松平家3代当主。三河国東条城主。

略歴[編集]

松平忠茂の子として誕生した。母は松井忠直の娘(松平康親の妹)。幼名は亀千代。

父・忠茂の戦死に伴い、松平家康に家督相続・所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばかりだったため、伯父である家臣の松井忠次(松平康親)が後見となり、元服後もその補佐を受けて活動した。東条吉良氏との戦いでは忠次と共に功績をあげ、東条城を領した。親戚である深溝松平家松平家忠(主殿助)とは年齢も居城も近く、甚太郎家忠は主殿助家忠の妹を嫁に迎えて親交が深かった。その後も姉川の戦い長篠の戦いなど、各地の戦いに参加したが病弱であり、天正9年(1581年)に病のため東条城で没した。

後に家康は四男の忠吉に名跡を継がせている。残された妻は兄・主殿助家忠の元へ帰った。

参考文献[編集]

  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館、1974年
  • 新編岡崎市史編さん委員会編『新編岡崎市史 6 古代中世史料編』岡崎市、1983年
  • 盛本昌広『松平家忠日記』(角川選書304)角川出版、 1999年、ISBN 4-04-703304-9 C0321
  • 続群書類従完成会編『増補 續史料大成 19/家忠日記』臨川書店、1994年、ISBN 4-653-00465-X C3321 P65386E