リングス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
RINGSから転送)
株式会社リングス
Rings Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
150-0043
東京都渋谷区道玄坂1-22-7
道玄坂ピア5階
設立 1991年3月14日
業種 サービス業
法人番号 5020001040154 ウィキデータを編集
事業内容 総合格闘技興行
関連企画の運営
代表者 最高経営責任者 前田日明
関係する人物 前田日明(創業者)
外部リンク リングス公式サイト
テンプレートを表示

リングスは、日本総合格闘技団体。正式名称はファイティング・ネットワーク・リングス。キャッチコピーは「世界最強はリングスが決める」。

概要[編集]

旗揚げ当初は前身である第2次UWFの延長線上にあるようなスタイルからスタートしたが時代の変化にともない徐々に総合格闘技色を強めていった。審議委員制度やランキング制度を導入するなどスポーツ性も重視している。

歴史[編集]

第1次[編集]

設立までの経緯[編集]

1988年、活動再開した第2次UWFは当時のプロレスとしては画期的な格闘技路線を打ち出して高い評価と支持を得ていた。

1990年、経営方式を巡って前田日明や所属選手とフロントが対立するようになり前田は造反のペナルティで出場停止処分を受けたのを契機に新たなプロレス団体の設立を模索し始めた。最終的に会社は所属選手全員の解雇を決定して興行の活動停止。

1991年1月、前田は主力選手を集めて新たなプロレス団体を設立しての再始動を呼びかけたが安生洋二宮戸優光など一部の選手から賛同を得られなかった。選手全員の結束を条件としていた前田の思惑は崩れてUWFが解散。その後、選手は前田を残して早々に新たなプロレス団体の設立に動いてプロフェッショナルレスリング藤原組UWFインターナショナルの2派に分裂した。

旗揚げ[編集]

当時、開局間近だった衛星放送有料テレビ局WOWOWはコンテンツの目玉としてUWFと契約する予定でいたがUWFの解散により契約は宙に浮いていた。そこでネームバリューのある前田をバックアップすることになり意気消沈していた前田は本来の受け皿となる筈だった新たな格闘技団体をリングスと名付けて所属選手は自身1人のみという異常事態で設立。リングスはWOWOWと放映契約を締結したことで他派と比べて潤沢な資金での運用が可能となった。次いで新日本プロレスと契約寸前だったUWF時代の盟友であるクリス・ドールマンを説き伏せて外国人選手参加の陣容を整えた。

設立にあたり前田は「格闘技ネットワーク構想」を打ち立てた。格闘技の盛んな主要各国に道場を設立し選手を育成して日本で戦わせてノウハウを吸収させ、加盟各国で自主興行を展開させる独立採算方式を確立させた。1991年に設立したリングス・オランダを皮切りに活動停止まで加盟は10ヶ国に上った。当初の加盟国はオランダのみで日本マット界に馴染みの深い北米の選手を招聘しようにもコストや契約面のハードルが高いため他の方法を模索していた。以前、新日本プロレスペレストロイカ後のソビエト連邦からショータ・チョチョシビリを招聘していた事がヒントになり、前田も「その手があったのか」と構想していて東ヨーロッパ各国との提携に繋がったと述べている。

ネットワーク構築により外国人選手の招聘に困ることはなかったがエースであった前田以外の日本人選手は慢性的に不足していた[注 1]。この窮地を救ったのが正道会館との業務提携である。業務提携していた1991年から1993年まで佐竹雅昭を筆頭に正道会館勢がリングスマットで活躍。この業務提携は第2次UWFからリングスまでの間に築き上げた興行ノウハウを正道会館が吸収する結果となり後に正道会館が母体となって立ち上げたK-1が誕生する一因ともなっている。

リングスを辞めた社員で格闘技関係のブッカーや他団体、競技の運営者として活躍している人物としては川崎浩市若林太郎上原譲内田統子、治郎丸明穂などがいる。

こうした取り組みは年月を重ねるにつれて実を結び、日本人選手はヒクソン・グレイシーとの対戦が語り草となる山本宜久、「世界のTK」の異名を手にする高阪剛などの生え抜き世代に加え、田村潔司金原弘光などが移籍した事で前田に続く次期エース候補が揃い、外国人選手は主にオランダとロシアを中心にヴォルク・ハンディック・フライハンス・ナイマンアンドレイ・コピィロフなどが活躍。若手時代のエメリヤーエンコ・ヒョードルもリングス・ロシアで育成指導を受け、プロ格闘家としてのキャリアをスタートさせるなど、リングスの存在は当時の格闘技界のみならず、後の総合格闘技にも多大な影響を与える事になった。

団体のビッグタイトルは1992年から1998年まで、年を跨いで開催される「メガバトルトーナメント」が恒例となっていたが、1997年に「トーナメント21」と称した軽量級ベルトが設立され、トーナメント戦を優勝した成瀬昌由が初代王者に君臨。1997年から1998年にかけて開催された「WORLE MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1997」では、優勝者を「リングス無差別級王座」に認定するものとし、準決勝で日本人所属選手として初めて前田超えを達成した田村がトーナメントを制して初代王者となるなど、階級ごとの王座ベルトも次々に創られた。

前田日明の引退 - KOKルール導入 - 活動停止[編集]

1999年2月21日、エースの前田が引退。この頃から新興の競合団体『PRIDE』に押され人気が停滞する。同年、総合格闘技色を強めた「リングスKOKルール」を導入し対抗するも、リングス無差別級王者で専属契約中であったギルバート・アイブルをはじめ国内外の選手とスタッフが『PRIDE』へ引き抜かれて離脱[注 2][注 3]2002年、WOWOWがアメリカの元祖総合格闘技とも言えるUFCと新規に契約してリングス中継を終了してリングスも活動停止。

以上の経緯で日本国内では活動停止したリングスだが、海外ではリトアニアなどリングス・ネットワークの手により大会は継続されており、日本国内でもリングス出身スタッフが運営する「KOKルール」を採用したZSTが開催されるなどリングスの系譜は受け継がれている。

復活へ - THE OUTSIDERを開催[編集]

リングス活動停止後に前田はHERO'Sスーパーバイザーを務めたがHERO'S活動終了後にリングス復活へ向けて動き出した。

2008年3月30日ディファ有明でリングス主催のアマチュア大会「THE OUTSIDER」の旗揚げ戦を開催。

2010年4月3日、THE OUTSIDERディファ有明大会で前田は10月11日横浜文化体育館で復活興行を開催すると宣言[1]。THE OUTSIDERとZST在日米軍の対抗戦として開催した興行は正式な復活大会とはならなかったがリングスの復活への足がかりになった。

2011年6月20日、前田が記者会見でリングスを再始動すると発表[2]。新生リングスにはTHE OUTSIDER出身プロ及びZST選手を中心に他団体やフリーにも参戦を呼びかける一方THE OUTSIDERはリングスのアマチュア部門として継続する。

リングスの再始動に先立ち2012年1月22日に選抜大会「バトルジェネシス」も復活させることも発表[3]。さらに2011年11月23日のZSTで新リングスルールが採用される。再始動を目前に控えてリングスと同時期に活動停止した日本コマンドサンボ連盟の復活も発表。

第2次[編集]

2012年3月9日後楽園ホールで再始動興行を開催[4]12月16日横浜文化体育館ヴォルク・ハンの引退試合が行なわれた。

リングスとしての興行は2012年12月16日以降開催していない。

ルール[編集]

第1次[編集]

初期から前田日明が引退するまでリングスでは前身である第2次UWFルールを主に踏襲していた。グローブなし、ロープエスケープあり、顔面パンチ禁止(掌底はOK)、グラウンドでの打撃は禁止。1エスケープで1ロストポイント、3ロストポイントで1ダウン。5ダウン、15ロストポイント、タップアウト、ダウン後10カウントで敗北。そして時代の変遷にともない以下のポイントルールに厳格化していった。

  • 3ロストポイント→2ロストポイント→1ロストポイントで1ダウン。
  • 15ロストポイント→10ロストポイント→5ロストポイント→3ロストポイントで敗北。
  • 5ダウン→3ダウンで敗北。

その後UFCの登場により、バーリトゥードが話題を集めていった。前田はバーリトゥードには否定的であったが修斗パンクラスPRIDEなどが追随する中でリングスも対応を迫られ、1999年にはオープンフィンガーグローブを使用しつつもバーリトゥードから危険な要素を省いた「KOKルール」と呼ばれる1990年代初期の修斗(シューティング)ルールに酷似したルールが採用された[注 4]

第2次[編集]

2012年、再旗揚げでは新リングスルールが採用されてパウンドが可となった。

かつてはグラウンドでの顔面パンチ(パウンド)を禁じた「KOKルール」を採用していたリングスだが再開に際し採用される新リングスルールはパウンドを認めたものとなる。これにより日本を含め世界中で使用されているMMAの標準的なルールをリングスもようやく採用することになった。

しかし前田日明は「総合を見ていて選手たちのダメージが大きかったり壊れ方が早いのが気に掛かる。総合のルールはまだまだ問題があるし、大会主催者は選手の引退後の生活を奪わないよう配慮しないといけない」とコメントして踏みつけやサッカーボールキックは禁止。「総合を時代のあだ花にしたくない。スポーツの1つのジャンルとして定着させたい。バイオレンスではなく選手のスピリットや技能を見せるものとしてやっていく」と危険な攻撃を禁止にしている[5]

階級、王座[編集]

階級 重量区分 歴代 王者
ヘビー級 93kg以上 初代 エメリヤーエンコ・ヒョードル
ライトヘビー級 93kg以下
ミドル級 83.9kg以下 初代 ヒカルド・アローナ
ウェルター級 77.1kg以下
ライト級 70.3kg以下
フェザー級 65.8kg以下
バンタム級 61.2kg以下

第1次所属選手[編集]

リングス・ジャパン[編集]

設立当初、選手団体としてのリングス・ジャパンに所属していたのは前田とUWFインターナショナルから移籍した練習生の長井の2人だけであった。1992年、成瀬、山本(宜)、武南がデビュー。1994年、高阪、坂田がデビュー。1996年、田村がUインターから移籍。1998年、元Uインターの金原、山本(健)が入団。同年滑川がデビュー。所属選手は神奈川県横浜市に構えられた前田道場で練習に励み徐々に陣容を整えていった。既に選手としての盛りを過ぎていた前田に代わり後継者として期待された生え抜き選手の山本(宜)は伸び悩み移籍組の田村が日本人エースとして重責を担った。さらに田村が離脱した末期は金原が「リングス最後のエース」と呼ばれ孤軍奮闘。

リングス・オランダ[編集]

特別招聘選手

リングス・ロシア[編集]

特別招聘選手

リングス・グルジア[編集]

特別招聘選手

リングス・ブルガリア[編集]

リングス・オーストラリア[編集]

リングス・USA[編集]

リングス・イギリス[編集]

リングス・ブラジル[編集]

リングス・リトアニア[編集]

その他[編集]

USA
フィンランド
ブラジル

第2次参戦選手[編集]

バンタム級
フェザー級
ライト級
ウェルター級
ミドル級
ライトヘビー級

スタッフ[編集]

レフェリー[編集]

リングアナウンサー[編集]

メディカルアドバイザー[編集]

審議委員[編集]

公式記録員[編集]

第2次大会一覧[編集]

大会名 開催年月日 会場 開催地
RINGS/THE OUTSIDER 合同大会〜ヴォルク・ハン引退記念興行〜 2012年12月16日 横浜文化体育館 神奈川県横浜市
RINGS VOL.2〜CONQUISITO 探索〜 2012年9月23日 後楽園ホール 東京都文京区
RINGS VOL.1〜REINCARNATION 再臨〜 2012年3月9日 後楽園ホール 東京都文京区

備考[編集]

アメリカチーム・クエストに所属するランディ・クートゥアダン・ヘンダーソンブラジルブラジリアン・トップチームに所属するアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラヒカルド・アローナオランダドージョー・チャクリキに在籍したピーター・アーツらの初来日はリングスである。またリングス・ロシアやリングス・オランダなどしっかりとした組織があり海外でも大会を開いている。海外ではすでに活躍していたが日本ではまだ無名であった彼らを招聘して日本での活躍の活路を開いた。「世界最強はRINGSが決める」のキャッチコピー通りエメリヤーエンコ・ヒョードルは誰もが認める世界最強の男になった。

K-1を主催するFEGが開催していたHERO'Sは当初、ビッグマウスとの協賛で行なわれており当時、ビッグマウス・ラウドスーパーバイザーであった前田日明もHERO'Sスーパーバイザーに就任。FEGが複数契約したヒース・ヒーリングがリングス・USA、ラモン・デッカーがリングス・オランダ、キム・ミンスがリングス・コリア、アラン・カラエフがリングス・ロシア、イアン・シャファーがリングス・オーストラリアの所属を名乗っている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 原因として試合の質を高く維持しようと受験生に求めたプロテスト合格とデビュー基準が、あまりに厳しすぎて合格者無しや下積み中に脱走者が続出していた。
  2. ^ この点について前田日明は桁違いのファイトマネーを提示されればどんな選手でも動くと述懐している。PRIDE代表の榊原信行は引き抜きではないと主張していたが間違いなく引き抜きである。[独自研究?][要出典]
  3. ^ こうした背景から前田はPRIDE陣営に強い不満を抱いており、後年にスーパーバイザーとして参加した総合格闘技イベント「HERO'S」の会見において、当時のPRIDEの主催を担っていた「PRIDE FC WORLDWIDE」日本事務所が前日に解散した事について問われると、「『ざまあみろ!』と。」、「因果応報ですね。『天網恢恢疎にして漏らさず』と言う老師の言葉があったけど、その通りじゃない。」と一蹴。谷川貞治代表が公式サイトで前田の発言について謝罪を行っている。皮肉にも全盛期のPRIDEで統括本部長としてイベント全体を牽引していたのは、かつてのUWFの同志である髙田延彦であった。
  4. ^ 主にグラウンド状態の相手の頭部以外への打撃が認められる点が異なる。

出典[編集]

外部リンク[編集]