穂積陳重

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穂積 陳重
人物情報
別名 邑次郎
生誕 (1855-08-23) 1855年8月23日安政2年7月11日
伊予国宇和郡宇和島中ノ町(現・愛媛県宇和島市京町)
死没 (1926-04-07) 1926年4月7日(70歳没)
東京府東京市牛込区払方町9(現・東京都新宿区
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京開成学校法学科(中途海外留学)
ミドル・テンプル法曹院
ベルリン大学(聴講生)
配偶者 歌子渋沢栄一長女)
両親 重樹(父)、綱子(母)、入江左吉(養父)
子供 重遠(長男)、律之助(次男)、貞三(三男)、孝子(長女・渋沢元治妻)、光子(次女・石黒忠篤妻)、真六郎(四男)、晴子(三女・市河三喜妻)
学問
研究分野 法学法理学
研究機関 東京大学法学部帝国大学法科大学東京帝国大学法科大学
学位 法学博士(日本・1888年)
称号 東京帝国大学名誉教授(1912年)
主要な作品 『法律進化論』(1924-1927年)
学会 帝国学士院
国家学会
法学協会
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穂積 陳重

在任期間 1925年10月1日 - 1926年4月8日
天皇 大正天皇

在任期間 1925年3月31日 - 1925年10月1日

在任期間 1916年1月26日 - 1925年3月31日

選挙区勅選議員
在任期間 1890年9月29日 - 1892年2月17日
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穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1855年8月23日安政2年7月11日) - 1926年大正15年)4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人[1]東京帝国大学法学部長[2]英吉利法律学校中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。

人物

穂積家宇和島藩伊達家仙台より分家する以前からの、伊達家譜代の家臣である。饒速日命を祖に持つと言われる。祖父重麿は宇和島藩に思想としての国学を導入した人物であった。父重樹は長子として父の学問を継ぎ、明治維新後藩校に国学の教科が設けられるとその教授となり、また国学の私塾も営んだ[3]。兄の重穎(頴)第二十国立銀行頭取などを務めた、渋沢栄一に近い実業家。憲法学者穂積八束は弟。長男の穂積重遠は「日本家族法の父」といわれ、東大教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任。妻歌子(または宇多)は、渋沢栄一の長女。孫の穂積重行大東文化大学学長(専攻は近代イギリス史)。

梅謙次郎富井政章とともに現行民法典の起草にあたり、中心的な役割を果たす[4]。商法法典調査会の委員を務めた。また、英吉利法律学校中央大学の前身)の創立者の一人でもある。

学説

穂積は、イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャールズ・ダーウィン進化論ハーバート・スペンサー社会進化論などについて、幅広い研究をした。

その後、ドイツへ転学し、ハインリヒ・デルンブルヒの講義を聴講してドイツ法を研究し、サヴィニーに触発され、日本民法へのパンデクテン法体系の導入のきっかけを作った。

穂積の学説は、歴史学派・進化主義の立場に立つもので、民法典論争では、富井と共に延期派にくみし、断行派にくみする梅と対立した[5]

刑法では、ロンブローゾの生来犯罪人説を研究し、新派刑法理論を日本に紹介した。

進化論的立場から、天賦人権論を厳しく批判するとともに、日本古来の習俗も研究し、法律もまた生物や社会と同様に進化するものと考え、後掲『法律進化論』を完成させ出版することを企図していたが、未完のままに終わっている[6]

エピソード

穂積橋
穂積橋記念碑
  • 死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それでは改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川にかかる橋の名前としてその名が残っている。
  • 大正10年(1921年)に故郷宇和島町と隣接する八幡村の合併協議が頓挫した折、反対派を東京の私邸に招き、懇切丁寧に合併の必要性を説き、翻意させて合併実現に貢献した。
  • 大正11年(1922年)に皇太子の宇和島市行啓に同行し、宇和島城に於ける茶会の折、皇太子の前の席には県知事を配するという県の方針に対し英国の例を引用し「殿下には宇和島市民が敬意を表すべき」との理由から市長を配すると主張、実現した。

(出典:山村豊次郎傳)

年譜

  • 1855年8月23日(安政2年7月11日) - 伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)に宇和島藩家老で国学者の穗積重樹の次男として生まれる。
  • 1868年(明治元年) - 父の同僚・入江佐吉の幼い娘の将来の婿養子として望まれ養子縁組する。
  • 1870年(明治3年) - 貢進生として大学南校に入学[2]
  • 1874年(明治7年) - 開成学校に転学
  • 1876年(明治9年) - 養家の援助で留学しロンドン大学キングズ・カレッジ入学 / 同年中にミドル・テンプル法曹院入学。
  • 1879年(明治12年) - 同校卒業 バリスター(法廷弁護士)の資格を得る。
  • 1880年(明治13年) - ドイツに移りベルリン大学入学
  • 1881年(明治14年) - 同校卒業 帰国。東京大学法学部講師に就任。伊達宗城家令西園寺公成渋沢栄一長女との縁談を持ち込み、入江家と縁を切って翌年結婚。
  • 1882年(明治15年) - 東京大学教授兼法学部長に就任。その後、民法のみならず比較法学・法史学・法哲学等の法律学の幅広い分野で日本の先駆者、開拓者として活躍。
  • 1885年(明治18年) - 増島六一郎菊池武夫らとともに英吉利法律学校中央大学の前身)を創立。
  • 1888年(明治21年) - 日本国最初の法学博士の学位取得
  • 1890年(明治23年)9月29日 - 貴族院議員に勅選される[7](- 1892年(明治25年)2月まで)
  • 1891年(明治24年) - 大津事件において同郷の大審院長児島惟謙を激励し犯人死刑論を非難。民法典論争において延期派に与し、旧民法を停止にいたらせる。
  • 1893年(明治26年) - 富井政章、梅謙次郎とともに法典調査会主査となり、民法・戸籍法などを編纂。帝国大学法科大学長に就任。
  • 1896年(明治29年) - 民法典公布(1898年(明治31年)施行)。東京学士会院会員となる。
  • 1912年(大正元年) - 大学退職
  • 1915年(大正4年)12月1日 - 男爵叙爵[8]
  • 1916年(大正5年) - 枢密顧問官就任
  • 1917年(大正6年) - 帝国学士院院長に就任
  • 1922年(大正11年)11月20日午後、小石川植物園で開かれた学士院のアルベルト・アインシュタイン夫妻の公式歓迎会に長井長義夫妻らとともに出席。
  • 1925年(大正14年) - 枢密院議長就任。
  • 1926年(大正15年)4月8日 - 心臓麻痺のため逝去(72歳)[9]

栄典・授章・授賞

穂積陳重
梅謙次郎(中央)・富井政章(左)とともに(1895年)
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

系譜・家族

大正7年の穂積一家
晩年の妻歌子


鈴木重麿
 
 
穂積重樹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積重頴穂積陳重穂積八束
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積重遠穂積律之助穂積真六郎渋沢孝石黒光子市河晴子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積重行八十島和歌子岩佐美代子

著作

著書
訳書
編書

脚注

  1. ^ 『官報』第1454号、明治21年5月8日、p.76.「教育 博士学位授与」
  2. ^ a b 石井紫郎「学術の先人たちの連係プレー : 分野を越えて」『化学と工業』第62巻第11号、日本化学会、2009年、1159-1160頁。 
  3. ^ 長尾龍一「穂積八束」(潮見俊隆利谷信義編 『法学セミナー増刊 日本の法学者』 日本評論社、1974年)99頁。
  4. ^ 有地亨明治民法起草の方針などに関する若干の資料とその検討」(『法政研究』第37巻第1・2号、九州大学法政学会、1971年1月、NAID 110006262164)103-104頁。堅田、127頁。「民法編纂」(『法窓夜話』)。
  5. ^ 潮見俊隆、利谷信義編 『法学セミナー増刊 日本の法学者』(日本評論社、1974年)59、62頁
  6. ^ 潮見俊隆、利谷信義編 『法学セミナー増刊 日本の法学者』(日本評論社、1974年)65頁
  7. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  8. ^ 『官報』第1001号、大正4年12月2日。
  9. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)271頁
  10. ^ 『官報』第553号「賞勲叙任」1885年5月8日。
  11. ^ 『官報』第2536号「叙任及辞令」1891年12月11日。
  12. ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
  13. ^ 『官報』第7165号「叙任及辞令」1907年5月21日。
  14. ^ 『官報』第3158号「叙任及辞令」1923年2月12日。
  15. ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
  16. ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
  17. ^ 『官報』第7499号「叙任及辞令」1908年6月26日。
  18. ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
  19. ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
  20. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  21. ^ 法学者・穂積陳重と妻・歌子の物語”. 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢資料館. 2012年2月14日閲覧。
  22. ^ 銃後の日露戦争『穂積歌子日記』を読む塩崎文雄、和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007
  23. ^ 市河三喜『私の博物誌』中央公論社、1956年。 

参考文献

関連文献

外部リンク

公職
先代
浜尾新
日本の旗 枢密院議長
第14代:1925年 - 1926年
次代
倉富勇三郎
先代
一木喜徳郎
日本の旗 枢密院副議長
第8代:1925年
次代
岡野敬次郎
先代
(新設)
日本の旗 臨時法制審議会総裁
1919年 - 1925年
次代
岡野敬次郎
学職
先代
田尻稲次郎
国家学会評議員長
1906年 - 1919年
次代
阪谷芳郎
先代
浜尾新
日本の旗 帝国大学法科大学長
1893年 - 1895年
次代
富井政章
先代
服部一三
東京大学法学部長
日本の旗 東京大学法政学部長心得
1885年 - 1886年
加太邦憲と共同)
東京大学法学部長
1882年 - 1885年
次代
渡辺洪基
帝国大学法科大学長
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
穂積家初代
1915年 - 1926年
次代
穂積重遠