ハンス・ケルゼン
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人物情報 | |
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生誕 |
1881年10月11日![]() |
死没 |
1973年4月19日 (91歳) バークレー (カリフォルニア州),アメリカ合衆国 |
出身校 | ウィーン大学法学博士(Dr. iur.) |
学問 | |
学派 | 法実証主義 |
研究分野 | 法学・公法・国際法・法哲学 |
研究機関 | ウィーン大学・ケルン大学・カリフォルニア大学バークレー校 |
ハンス・ケルゼン(Hans Kelsen、1881年10月11日 - 1973年4月19日)は、オーストリア出身の法学者(公法・国際法)、法哲学者、政治哲学者。1920年のオーストリア憲法起草者でもある。1933年にナチス権力掌握後、ケルゼンの祖先がユダヤ人であったため、大学の職を追われ、ジュネーブに移り、1940年にアメリカへ亡命した。民主主義の擁護と純粋法学理論によって、米国で1940年代までに評価が確立された。法学、哲学、社会学、民主主義理論、国際関係の分野を網羅したケルゼンの業績は、法理論だけでなく、政治哲学 や社会理論にも影響が及んだ。ケルゼンは司法審査 (違憲審査)の理論、実定法の階層的・動的理論にも重要な貢献をなし、政治哲学では、法と国家の同一性理論を提唱したり、法の研究において国家と社会の分離を行った。ケルゼンの純粋法学は、法学を倫理学や政治イデオロギーに還元する自然法論やマルクス主義法学、また法の社会学的解釈を批判して、実定法の客観的認識を目指す[1]。
20世紀の最も卓越した法学者の一人[2]、または20世紀最大の法思想家とも評価される[3]。日本の法学界にも大きな影響を与えた[3]。
経歴[編集]
ケルゼン家はウクライナのブロディからチェコに移住した東欧系ユダヤ人の家系である。1881年にハンスは、プラハで、ドイツ語話者のユダヤ人家庭に生まれる。父アドルフ・ケルゼンはガリツィア出身で、母Auguste Löwyは、ボヘミア出身。ハンスは長男で、弟と妹がいる。1884年にケルゼン家はウィーンへ移った。ギムナジウム卒業後、ウィーン大学で法学を専攻し、1906年5月に法務博士号を取得した。ダンテ論を執筆していた1905年にローマカトリック教会で洗礼を受ける。1905年にダンテ・アリギエーリの国家論を執筆し、ケルゼンの政治理論の最初の著作となった[4]。これはゲラシウス1世の両剣論や、ゲルフとギベリン(教皇派と皇帝派)のローマ教会における論争に対するダンテの立場を研究したものだった[5]。
1911年に彼は公法と法哲学の分野において大学教員資格(habilitation)を得、最初の著作となる『国法学の主要問題』(原題:Hauptprobleme der Staatsrechtslehre)を書き上げた。1912年にマルガレーテ・ボンディ(Margarete Bondi)と結婚した。結婚にあたって、アウクスブルク信仰告白のルーテル教会に改宗した。2人の娘をもうけた[6]。
1919年に、彼はウィーン大学で公法・行政法の教授となった。ウィーンでは公法に関する専門誌を創刊し、自ら編集にあたった。同時期、時のオーストリア首相カール・レンナーの要請により、オーストリア連邦憲法を起草し、1920年にはこれを制定させた。今日のオーストリア憲法にも、ケルゼンの影響は強く残っている。1929年にオーストリアで全体主義が台頭し、憲法も改変された[7]。また、この頃彼はオーストリア憲法裁判所の終身判事に就任している。
1925年、彼は『一般国家学』(原題:Allgemeine Staatslehre)をベルリンで出版した。
1930年にはケルン大学へ招聘された。1933年、ナチスがドイツで権力を握ると、彼は職を辞し、1940年までジュネーヴにある研究機関(現在の国際・開発研究大学院)で国際法を教えた。また、チェコスロバキアがドイツに併合されるまでは、彼はプラハ・ドイツ大学の教授でもあった。その後、1934年には『純粋法学』(原題:Reine Rechtslehre)の第一版を出版した。一方、ジュネーヴにおいては彼の主要な関心はすでに国際法に移りつつあった。
1940年になると彼はアメリカへ亡命し、1942年にはハーバード・ロー・スクールでオリバー・ウェンデル・ホームズ記念講義を担当した。1945年、彼はカリフォルニア大学バークレー校で政治学の教授になった。この期間中、彼は国際法と国際連合のような国際組織との関係について研究した。1953年から1年間、彼はアメリカ海軍戦略大学で、客員教授として国際法を教えた。

ケルゼンの90歳の誕生日を記念して、オーストリア連邦政府は1971年にハンス・ケルゼン研究所を設立した。2006年には、フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルクにハンス・ケルゼン研究センター(Hans-Kelsen-Forschungsstelle)がMatthias Jestaedt所長のもと設立され、その後アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルクに移設された。
研究内容・業績[編集]
ケルゼンの主な業績は近代のいわゆる「ヨーロッパ型憲法モデル」の再検討である。殊にオーストリア第一共和国で採用されケルゼン自身も審理に関わった憲法裁判所の制度は多くの国の特別憲法裁判所のモデルとなり、ドイツ連邦共和国・イタリア・スペイン・ポルトガルをはじめ中欧から西欧にかけての国で採用された。このシステムにおいては、アメリカ型の違憲審査制とは大きく異なり、憲法裁判所が憲法解釈における唯一の権威者である。
ウィーン時代には、ジークムント・フロイト学派とも交流し、社会心理学の論文も書いている。
法理論[編集]
- 法実証主義を最も厳密な形で採用し、科学的正確さを追求した彼の法理論、いわゆる「純粋法学」は、根本規範 (Grundnorm)と呼ばれる理論に基づいている。これは憲法や一般法など、全ての法の上位にある原理として仮定されるものである。
- ロスコー・パウンドは1934年に、ケルゼンを「間違いなく同時代の指導的な法学者」と称賛した.
影響[編集]
ケルゼンの理論を引き継いだ公法学者は世界中にいる。彼の弟子たちは、純粋法学を広める学派を形成した。オーストリアのウィーンや、チェコスロバキアのブルノの学派が著名である。ケルゼンによって、アドルフ・メルクル、アルフレート・フェアドロスなどなどのウィーン法学派が形成された[8][1]。
ケルゼンの新カント派的な法実証主義は、ハーバート・ハートやジョセフ・ラズらの分析的法実証主義にも影響を与え、二人は、ケルゼンとは部分的には異なる理論を形成しているものの、ケルゼンの影響を強く受けた学者として知られている。
主要な論敵であったカール・シュミットは、ケルゼンから悪影響を受けている[要検証 ]。翻ってケルゼンは、国家の神聖化につながる理論は主権国家間に自然に生じた国際法に対する主権の優位性を正当化してしまう、と書いている。ケルゼンにとって、主権とは理論的な概念ではなかった。彼はこう記している。「意図して個人をその決定に服せしめる以外の何物でもない主権概念から、人間は離脱しうる」と。
日本では、横田喜三郎、宮沢俊義、鵜飼信成、碧海純一、長尾龍一らがケルゼンの影響を強く受けた[1]。
主要著作[編集]
ハンス・ケルゼン研究所、ハンス・ケルゼン研究センター(Hans-Kelsen-Forschungsstelle)、出版社Mohr Siebeckによって、現在30巻以上の全集が編集されている。
- 『法と国家』(鵜飼信成訳、東京大学出版会、1952年、UP選書1969年)
- 『一般国家学』(清宮四郎訳、岩波書店、1971年)
- 『純粋法学』(横田喜三郎訳、岩波書店、1973年/長尾龍一訳、岩波書店、2014年〔第二版〕)
- 『ダンテの国家論』(長尾龍一訳、木鐸社、1977年)
- 『法と国家の一般理論』(尾吹善人訳、木鐸社、1991年)
- 『社会学的国家概念と法学的国家概念』(法思想21研究会訳、晃洋書房、2001年)
- 『デモクラシーの本質と価値』(西島芳二訳、岩波文庫、1948年・1966年改版/長尾龍一・植田俊太郎訳、岩波文庫、2015年[※『民主主義の本質と価値』と改題されている])
親族[編集]
マルガレーテ夫人の甥(義理の甥)にピーター・ドラッカーがいる。
参考文献[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c 『純粋法学』 - コトバンク
- ^ Dreier, Horst (1993), "Hans Kelsen (1881-1973): 'Jurist des Jahrhunderts'?", in Heinrichs, Helmut; Franzki, Harald; Schmalz, Klaus et al., Deutsche Juristen jüdischer Herkunft, Munich: C. H. Beck, pp. 705–732, ISBN 3-406-36960-X.
- ^ a b 鵜飼信成・長尾龍一編『ハンス・ケルゼン』1974,東京大学出版会
- ^ Kelsen, Hans (1905), Die Staatslehre des Dante Alighieri, Vienna: Deuticke. Werke, I.134-300. なお、これは博士論文ではない。
- ^ Lepsius, Oliver (2017). “Hans Kelsen on Dante Alighieri's Political Philosophy”. European Journal of International Law 27 (4): 1153. doi:10.1093/ejil/chw060.
- ^ Métall, Rudolf Aladár (1969), Hans Kelsen: Leben und Werke, Vienna: Deuticke, pp. 1–17; but preferring Kelsen's autobiographical fragments (1927 and 1947), as well as the editorial additions, in Hans Kelsen, Werke Bd 1 (2007).
- ^ Rathkolb, Oliver (2017年12月8日). “Kelsen, der Kampf um die "Sever-Ehen" und die Folgen”. Der Standard. 2023年3月30日閲覧。
- ^ 『ウィーン法学派』 - コトバンク