井上達夫

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井上 達夫
(いのうえ たつお)
人物情報
生誕 (1954-07-30) 1954年7月30日(69歳)
日本の旗 日本大阪府
出身校 東京大学
学問
学派 リベラリズム
研究分野 法哲学
研究機関 東京大学
千葉大学
指導教員 碧海純一
特筆すべき概念 反転可能性
主要な作品 『共生の作法』(1986年)
『法という企て』(2003年)
影響を受けた人物 カール・ポパー碧海純一
影響を与えた人物 瀧川裕英大屋雄裕谷口功一安藤馨
主な受賞歴 サントリー学芸賞(1986年)
和辻哲郎文化賞受賞(2003年)
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井上 達夫(いのうえ たつお、1954年昭和29年〉7月30日 - )は、日本法哲学者東京大学名誉教授。日本を代表するリベラリストであり[1]、ハーバード留学期に交流を築いたジョン・ロールズやトーマス・スキャンロン、マイケル・サンデルといった哲学者らと議論を行い、また彼らの議論を日本に紹介した第一人者である[2]

経歴[編集]

1954年(昭和29年)生まれ。大阪府出身、東京都墨田区育ち。墨田区立吾嬬第一中学校東京都立両国高等学校を経て、東京大学法学部卒業。1970年に三島由紀夫陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した際に三島が通った東大法学部に興味を持ち、進学した[3]

東大法学部学士助手を経て、1983年に当時新設されたばかりの千葉大学法経学部助教授となる。その後、東大法学部助教授を経て、東京大学法学部、同大学院法学政治学研究科教授。2020年東大を定年退職、同名誉教授。

年譜[編集]

主張[編集]

リベラリズム[編集]

「liberalism(リベラリズム)」の定訳である「自由主義」を誤訳であるとし、自由ではなく正義こそがリベラリズムの根幹思想だとする[4]。リベラリズムは「啓蒙」と「寛容」からなり、理性によって人間を伝統慣習から解放する啓蒙的姿勢。そして、理性の限界が存在することを受け入れ、自分達の考えが必ずしも正しくない可能性に直面した上で、他者からの批判を受けて自身が変化することも許容する寛容的姿勢。この二つを合わせた規範概念がリベラリズムであるとする[5]。その結果として導かれるのは、他者との対話を通してより良い正義の実現を目指す姿勢であり、すなわち熟議を通した民主政であるとしている[6]

岩波哲学・思想事典」の「自由主義」の項の執筆者。

憲法[編集]

リベラリストとしての立場から、憲法第9条について論じており、憲法9条を削除する「9条削除論」を提唱している[7]。そして、憲法9条の議論での護憲派改憲派の双方の立場を痛烈に批判し、憲法を軽んじる欺瞞だとしている。

「9条削除論」とは、現行の戦力不保持を定めた規定である憲法9条を削除し、代わりに戦力統制規範などの戦力を持つ場合に対応した規定を入れるべきという主張である。

安全保障は絶えず国民的討議の上で批判的に再検討し、外部環境の変化に対応できるようにすべきであり、憲法によって議論を凍結することは認められないとしている[8]。そこで、文言上は非武装の絶対的平和主義を要求する憲法9条と、現実には安全保障を必要としている国際情勢の狭間で、解釈を変更せざるを得なくなり、自衛隊という憲法上は存在しない、つまり憲法にまったく制約されない強大な暴力が生まれてしまったとしている。

そして、この問題は護憲派に大きな責任を求めている[9]。なぜなら、「改憲派の九六条改変の試みや、九条解釈改憲によって」憲法が歪むという懸念がありつつも、「憲法を守ると誓っているはずの護憲派によって、無残に裏切られているから」だとする。井上は、護憲派の立場を自衛隊を違憲とする「原理主義護憲派」、自衛隊を合憲とする「修正主義護憲派」と大別した上で、その両方を批判している。

原理主義護憲派は、自衛隊は違憲であるとしているが、実質的政治運動として自衛隊を廃止しようとはしていない。つまり、原理主義護憲派の目的とは、違憲状態の固定化であり、憲法への敬意すら存在しないと批判している[10]。原理主義護憲派の、「政治的には自衛隊を認めているが、運動として違憲を主張する」態度が、憲法と憲法実態の乖離を生み出したとする。

他方で、修正主義護憲派は第2次安倍内閣下での解釈改憲を批判するが、非武装を要求する最初の解釈から、自衛隊を合憲だとする解釈に変更している同じ穴の狢だとする。これは、新しい解釈改憲から古い解釈改憲を守っているだけであり、論理的正当性の裏付けがないにもかかわらず自分達の解釈を信じろということになり、ただの権威主義エリート主義に過ぎず、パターナリズム的な知的欺瞞だとしている[11]

木村草太など、日本の護憲派の一部にある「憲法13条幸福追求権により、自衛隊の存在が認められる」との主張[12] について、井上は「戦力という最も危険な国家暴力に対する9条2項の明示的な禁止を、それについて何ら言及していない人権規定に勝手に読み込んで解除するなんて、法解釈の枠を越えた暴論であり、立憲主義の公然たる破壊行為」と強く批判しており、「13条代用論」は、護憲派にとって自爆的であると論じている[13]

正義論[編集]

井上によれば、普遍主義的正義理念(the universalistic idea of justice)の根幹は普遍化不可能(non-universalizable)な差別の排除であり、反転可能性テストはその前提である。井上は反転可能性テストにおいては、自他の身体的・社会的条件だけでなく、主観的な選好や価値観をも入れ替えることを想定しなければならないという点を強調する[14]。例えば虐待をされて喜ぶマゾヒストが他者を喜ばせるためと称して他者に虐待を与えることは(自分の主観を他者と交換せずそのまま維持する前提に立っているため)正当化されない[15]。井上は主観的な条件を含めて自他の反転をすることは困難だと認めた上で、「普遍主義的正義理念が課す自他の視点の反転可能性テストは、自我の檻からわれわれを離脱させないとしても、自我の檻の内部でのわれわれの倫理的自己変容を促す」とする[16]

天皇[編集]

天皇制廃止論」の立場を表明している。現状の天皇制とは、国民が集合的なアイデンティティ形成のために天皇を用いており、その結果として天皇の人権が極度に制限される結果となっている、いわば「民主的奴隷制」であるとしている[17]。そして、人権が制限されている現行制度から天皇を解き放ち、三島由紀夫が「」と表現した美的文化的存在として新たに位置づけなおすことを主張する。

中国[編集]

中国の発展を後発優位の観点から説明し、先端技術を陳腐化する技術革新は学問・研究・言論の自由がなければ不可能であるとする[18]。中国の強大化ではなく破綻への警戒を促し、経済的リスクとして、人口問題のほか、バブル経済、対中投資の減少、強引な手法による途上国の経済支配など、政治的リスクとして公衆衛生のほか、公害問題、戸籍差別(都市戸籍農村戸籍)、住民の強制移住などを挙げている。

ウクライナ問題[編集]

2022年ロシアのウクライナ侵攻について、ウクライナの降伏を促す言説を批判し、ロシアからウクライナへの責任転嫁であるとしている[19]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『共生の作法――会話としての正義』創文社〈現代自由学芸叢書〉、1986年7月。ISBN 978-4423730331 
  • 『他者への自由――公共性の哲学としてのリベラリズム』創文社〈創文社現代自由学芸叢書〉、1999年1月。ISBN 978-4423730911 
  • 『現代の貧困(双書・現代の哲学)』岩波書店、2001年3月7日。ISBN 978-4000265836 
  • 『普遍の再生』岩波書店、2003年7月25日。ISBN 978-4000246200 
  • 『法という企て』東京大学出版会、2003年9月1日。ISBN 978-4130311731 
  • 『公共性の法哲学』ナカニシヤ出版、2006年11月。ISBN 978-4779501142 
  • 『自由論(双書 哲学塾)』岩波書店、2008年3月25日。ISBN 978-4000281638 
  • 『世界正義論』筑摩書房筑摩選書〉、2012年11月1日。ISBN 978-4480015587 
  • 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください――井上達夫の法哲学入門』毎日新聞出版、2015年6月15日。ISBN 978-4620323091 
  • 『憲法の涙――リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください2』毎日新聞出版、2016年3月16日。ASIN B01E7IL2U2 
  • 『立憲主義という企て』東京大学出版会、2019年5月30日。ISBN 978-4130311939 
  • 『生ける世界の法と哲学――ある反時代的精神の履歴書』信山社、2020年1月31日。ISBN 978-4797298819 
  • 『規範と法命題』木鐸社、2021年11月20日。ISBN 978-4833225434 
  • 『ウクライナ戦争と向き合う――プーチンという「悪夢」の実相と教訓』信山社〈法と哲学新書〉、2022年9月29日。ISBN 978-4797281606 

共著[編集]

編集[編集]

共編[編集]

出演番組[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

門下生[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『『逞しきリベラリストとその批判者たち』』ナカニシヤ出版、2015、「はじめに」頁。 
  2. ^ 『普遍の再生』岩波現代文庫、2019年、259-269頁。 
  3. ^ 井上2020
  4. ^ 井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください--井上達夫の法哲学入門』p10
  5. ^ 同書p20
  6. ^ 井上達夫『共生の作法』
  7. ^ 「憲法9条を削除せよ」 東大教授が問い続ける改憲派のインチキ、護憲派の欺瞞 BuzzFeedNews 2018年4月29日閲覧。
  8. ^ 井上達夫『憲法の涙』p42
  9. ^ UTokyo BiblioPlaza 憲法の涙”. 東京大学. 2024年1月14日閲覧。
  10. ^ 井上達夫『憲法の涙』毎日新聞出版、2016年、p.38頁。 
  11. ^ 井上達夫『『憲法の涙』』毎日新聞出版、2016、p.31頁。 
  12. ^ 木村草太 (2016年7月2日). “いまさら聞けない「憲法9条と自衛隊」~本当に「憲法改正」は必要なのか?”. 現代ビジネス. https://gendai.media/articles/-/49041 2019年9月7日閲覧。 
  13. ^ 石川智也 (2019年9月4日). “護憲派は国民を信じていない 井上達夫インタビュー(下)立憲的改憲こそ安倍改憲への対抗策だ”. 朝日新聞. https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019083000002.html 2019年9月7日閲覧。 
  14. ^ 井上達夫(2003)『法という企て』23-24ページ
  15. ^ 井上 達夫 講演録 正義,法,そして立憲民主主義
  16. ^ 井上達夫(2017)『自由の秩序』165-167ページ
  17. ^ 井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』p66,67
  18. ^ 「世界は大きく多極化していく」井上達夫教授 退職記念インタビュー【後編】 | 東大新聞オンライン”. www.todaishimbun.org (2020年3月29日). 2022年7月3日閲覧。
  19. ^ 特集ワイド:この国はどこへ これだけは言いたい 安全保障、国民が立たなければ 法哲学者・東京大名誉教授 井上達夫さん”. 毎日新聞. 2022年7月3日閲覧。