1742年
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千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 17世紀 - 18世紀 - 19世紀 |
十年紀: | 1720年代 1730年代 1740年代 1750年代 1760年代 |
年: | 1739年 1740年 1741年 1742年 1743年 1744年 1745年 |
1742年(1742 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
他の紀年法
[編集]- 干支 : 壬戌
- 日本
- 中国
- 朝鮮
- ベトナム
- 仏滅紀元 : 2284年 - 2285年
- イスラム暦 : 1154年 - 1155年
- ユダヤ暦 : 5502年 - 5503年
- ユリウス暦 : 1741年12月21日 - 1742年12月20日
カレンダー
[編集]できごと
[編集]- スウェーデン - アンデルス・セルシウスが、スウェーデン王立科学アカデミーに投稿した論文のなかで、実用的温度計を提唱[1]。これが現在のセルシウス度の基となった。
- グレートブリテン王国
- イングランド - チャールズ・ジャーヴァスによる英訳版『ドン・キホーテ』が、ジャーヴァスの死後3年経ってから出版。出版社のミスで著者名が「Charles Jervas」ではなく「Charles Jarvis」とされたことで『ジャービス版ドン・キホーテ』と呼ばれる。史上最も原文に忠実な英語版として高く評価された。
- スコットランド -
- エディンバラで世界初のスケートクラブ、エディンバラ・スケーティング・クラブが結成。
- コリン・マクローリンが『導関数論』("Treatise on Fluxions")を出版。
- ガーンジー - ダニエル・ル・ペリーが、父であるニコラス・ル・ペリーの跡を継いでサーク領主となる。
- ロシア -
- 宮廷でロプーヒナ陰謀事件起こる。
- イルクーツクに日本航海学校創立[2]
- ロシア・スウェーデン戦争において、フィンランドを占領。フィンランド王国 (1742年)が一時的に成立。
- フランス -
- フランソワ・ブーシェが『水浴のディアナ』を完成。同年、サロン・ド・パリに出品する。
- ノルウェーの街モルデが勅許を得る。
- ドイツ -
- 教皇領 - カトリック教会が、儀式を(中国語ではなく)ラテン語で行うことを中国宣教の規則とすることを決定。
- オスマン帝国 - イルミセキザード・メフメト・サイード・パシャが、パリにオスマン帝国の大使として赴任[3]。
- 日本 -
- チベット - ダライ・ラマ7世のもとで『チベット大蔵経』、新ナルタン版テンギュルが完成[5]。
- 北アメリカ
- スペインが、フロリダ州のセントオーガスティンより南におよそ24キロに位置するマタンサス・インレットに、マタンザス要塞を築く。
- ルーテル教会の牧師・宣教師のヘンリー・ミューレンバーグがペンシルベニア植民地の信徒の求めに従いドイツから渡米、同地に赴く。これにより、彼はアメリカ合衆国におけるルーテル教会の祖となった。
1月-3月
[編集]- 1月9日 - ロバート・ウォルポールがオーフォード伯爵位を得、第一大蔵卿と財務大臣を辞す。これによってウォルポールはイギリスの首相としての任期を終えた[6]。辞職は前年の総選挙によってホイッグ党が絶対的優位を失い、政権不安定になっていたことによるもの。また、5日後に正式に首相職を退いた時点で、ウォルポールの首相在任期間は20年と314日間であった。これは、イギリスの首相の1期としては史上最長、通算在任日数としても未だ記録を破られていない。初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトン内閣が成立[要出典]。
- 1月14日 -
- エドモンド・ハレー死去。これに伴い、ジェームズ・ブラッドリーが王室天文官の後任に選ばれる。
- ジョゼフ・フランソワ・デュプレクスがフランス王国からポンディシェリ(フランス領インド)の知事に任命される[7]。
- 1月24日 - カール7世が神聖ローマ帝国皇帝位を得る[8]。
- 1月28日? - 庶民院がチッペナム選挙区での不正操作疑惑について採決[9]。これはロバート・ウォルポールに対する不信任決議となり、彼は辞任することになる[10]。
→「ロバート・ウォルポール § 退任」も参照
- 2月12日 -
- 第2代グランヴィル伯爵ジョン・カートレットが北部担当国務大臣に就任。以降、彼がカートレット内閣における指導的立場を担うことになる。
- 神聖ローマ皇帝カール7世が、フランクフルトで戴冠式を挙げる。戴冠はカールの弟でケルン大司教のクレメンス・アウグストが行った。
- 2月15日 - オーストリア継承戦争、第一次シュレージエン戦争:ディートリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ指揮下のプロイセン・ザクセン・フランス連合軍が、モラヴィアのイグラウ(現在のイフラヴァ)を占領。フランスとザクセンはこの時点で、両国のプロイセンに対する義務が履行されたことを宣言し、フランス軍は撤退した[11][12]。
- 2月16日 - 初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトンがイギリス首相(カートレット内閣)に就任。
- 2月20日(寛保2年1月16日) - 大坂で2代目市川海老蔵、『雷神不動北山櫻』の「毛抜」(歌舞伎)を初演。旧暦7月まで大入りとなった[13]。
- 2月22日 - ヘンリー・フィールディングがロンドンで、ピカレスク小説『ジョゼフ・アンドリュース』を匿名で発表。「初版……(ロンドン市内の)書店に届く[14]」
- 3月15日 -
- 3月29日 - ポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキがリトアニア大公として、リトアニアの首都ヴィリニュス在住のユダヤ人に対し、ピリエス通りとガルベス通りの両公道以外の市内の居住・転居の自由を認める布告を行う[17]。
4月-6月
[編集]- 4月 - 朝鮮で全国的に熱病が流行、死者多数[7]。
- 4月13日 - ヘンデル、オラトリオ『メサイア』をダブリン、聖パトリック大聖堂で初演。
- 5月5日(寛保2年4月1日) - 徳川吉宗のもと、法典『公事方御定書』の下巻、『御定書百箇条』が成り、『公事方御定書』が一応の完成をみる。これは、司法・警察関連法規・刑法・訴訟法を編纂したもの[13]。その後も改訂が進められ、宝暦4年(1754年)に最終的な形となった[18]。
- 5月17日 - オーストリア継承戦争、第一次シュレージエン戦争:コトゥジッツの戦い。ボヘミアのコトゥジッツで、フリードリヒ大王のプロイセン軍がオーストリア軍を破る。実質的にはこの戦いが大王が軍指揮官として経験した初めての戦いとなった[19]。
- 5月24日 - オーストリア継承戦争:ザハーイの戦い。ボヘミア南部のザハーイで、フランス軍がオーストリア軍を破る。
- 5月 - ペルー副王領でフアン・サントス・アタワルパがアタワルパ2世を名乗り、ペルー・アンデス東斜面でスペインの支配に対する抵抗を開始(~1756年)[8]。神父ドミンゴ・ガルシアは、この蜂起についての最初の報告書を同年6月2日に上申している[20][21]。
- 6月3日(寛保2年5月1日) - 九州から東北までの日本列島の広い範囲で皆既日食が観測された[22]。
- 6月7日 - クリスティアン・ゴルトバハが、レオンハルト・オイラーとの書簡のなかで「ゴールドバッハの予想」(全ての2よりも大きな偶数は2つの素数の和として表すことができる)について初めて言及する[23]。
- 6月11日 - ブレスラウ条約。オーストリアがプロイセンにシレジアを割譲[8]。
- 6月20日 - イズミルが火事で破壊[24]。
7月-9月
[編集]- 7月 - 江戸幕府によって、御触書をまとめた法令集(のちに『御触書集成』と命名)の編纂始まる[7]。
- 7月10日 - ジェンキンスの耳の戦争:ブラッディ・マーシュの戦い。ジョージア植民地で、イギリス軍がマヌエル・デ・モンティアノ率いるスペイン軍を撃退。
- 7月14日 - ウィリアム・パルトニーが初代バース伯爵に叙勲。
- 8月17日 -
- フランス兵10名を伴ったフレンチ領ルイジアナのチョクトー族がトンビグビ川を渡り、ジョージア植民地にあるチカソー族の集落を略奪する[25]。以後3日の間に、チョクトー側は50名、チカソー側は25名の犠牲を出した。この襲撃を許可したフランス領ルイジアナ総督ジャン=バティスト・ル・モワイヤン・ド・ビエンヴィユは、後日パリに召喚された。
- アイルランドの詩人で作家のジョナサン・スウィフトが、「不安定な精神と記憶力」(痴呆)とする勧告を裁判所から受ける。スウィフトは3年後の1745年に亡くなるまで、監禁状態での自宅療養を余儀なくされた[26]。
- 8月19日 -
- 8月20日 - ハット党戦争:ヘルシングフォシュ(現在のヘルシンキ)でスウェーデン軍の兵17,000人がロシア帝国に投降、これによって戦争が事実上終結[29]。
- 8月27日 - 提督ジョージ・アンソンの戦列艦センチュリオンが、船内で病気が蔓延しながらもテニアン島(現アメリカの自治領)にたどり着く。これによって、アンソン一行は世界周航を続行できた[30]。
- 8月30日 - ライプツィヒ近郊のクラインチョハー村で、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの世俗カンタータ『わしらの新しいご領主に』(通称『農民カンタータ』)が初演される。
- 8月 - イギリス、ハートフォードシャーでロイストン洞窟が再発見。
- 旧暦7月下旬 - 日本、信濃で戌の満水(千曲川の洪水)。松代・上田・小諸に被害[13]。
- 旧暦8月上旬 - 日本、寛保二年江戸洪水(暴風雨による関東地方大水害)[31]。溺死者3,800人とも[13]。
- →「ヴィトゥス・ベーリング § 2度目の探検」も参照
- 9月5日 - 大北方探検の生存者46人がペトロパブロフスク・カムチャツキーに帰還。ベーリング海峡で座礁してから10ヶ月後のことであった。彼らは同年8月21日に聖ピョートル号の残骸から新しく船を完成させていた[32]。
- 9月16日 - ロンドンで捨子養育院が着工[33]。設計はセオドア・ジェイコブセン。西棟は1745年に、東棟は1752年に完成。
10月-12月
[編集]- 10月5日 -
- 第5代フエンクララ伯爵ペドロ・セブリアン・イ・アウグスティンがベラクルスに到着、ヌエバ・エスパーニャ副王に就任する[34]。
- ペンシルベニア植民地総督のジョージ・トマスが、ランカスター郡、ならびにブルーマウンテン以西に定住することを禁止[35]。
- 旧暦9月 - 幕府が、江戸市中で富士山の加持水を薬の代替として病人に服用させることを取り締まる[36]。
- 11月13日 - デンマーク王立科学文学アカデミー創立。
- 11月18日 - カール・ペーター・ウルリヒ(のちにロシア皇帝ピョートル3世)が東方正教に改宗し、ピョートル・フョードロヴィチを名乗る[37]。
誕生
[編集]→「Category:1742年生」も参照
- 3月14日 - アーガー・モハンマド・シャー、ガージャール朝初代シャー(+ 1797年)
- 3月28日 - ヨハン・ダビット・ウィース、児童文学作家(+ 1818年)
- 4月14日 - ピウス7世、第251代ローマ教皇(+ 1823年)
- 4月24日 - ロマン・ホフシュテッター、作曲家(+ 1815年)
- 5月8日 - ヤン・クシチテル・クルンプホルツ、作曲家・ハープ奏者(+1790年)
- 5月23日(寛保2年4月19日) - 伊達重村、第7代仙台藩主(+ 1796年)
- 6月16日 - アーサー・ミドルトン、アメリカ独立宣言署名者(+ 1787年)
- 6月28日 - ウィリアム・フーパー、アメリカ独立宣言署名者(+ 1790年)
- 7月14日 - ジェイムズ・ウィルソン、アメリカ独立宣言署名者・アメリカ合衆国連邦最高裁判所陪席判事(+ 1798年)
- 8月7日 - ナサニエル・グリーン、アメリカ独立戦争における大陸軍の少将(+ 1786年)
- 9月14日 - ジェイムズ・ウィルソン、アメリカ独立宣言署名者(+ 1798年)
- 9月19日 - ロシャンブロワーズ・キュキュロン・シカール、ろう教育者(+ 1822年)
- 12月8日 - ジャン=マテュー・フィリベール・セリュリエ、フランス帝国元帥(+ 1819年)
- 12月9日 - カール・ヴィルヘルム・シェーレ、化学者(+ 1786年)
- 12月16日 - ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル、プロイセン陸軍の元帥(+ 1819年)
- 月日不明 -
死去
[編集]→「Category:1742年没」も参照
- 1月25日 - エドモンド・ハレー、天文学者、数学者、物理学者(* 1656年)
- 7月1日 - ボフスラフ・チェルノホルスキー、チェコの作曲家、オルガン教師(* 1684年)
- 7月12日 - エヴァリスト・ダッラーバコ、作曲家・ヴァイオリニスト(* 1675年)
- 12月31日 - カール3世フィリップ、プファルツ選帝侯(* 1661年)
脚注
[編集]注釈
出典
- ^ DK 2013, p. 249.
- ^ “日露交渉史関連年表 土田真紀編 ロシア宮廷美術展図録”. www.bunka.pref.mie.lg.jp. 2024年3月22日閲覧。
- ^ East encounters West by Fatma Müge Göçek p.85
- ^ 武田 2000, p. 47.
- ^ 梶山 1984, p. 4.
- ^ Williams, Hywel (2005). Cassell's Chronology of World History. London: Weidenfeld & Nicolson. p. 309. ISBN 0-304-35730-8
- ^ a b c 歴史学研究会 2017, p. 196.
- ^ a b c 歴史学研究会 2017, p. 197.
- ^ R. B. Mowat, A New History of Great Britain: From the accession of James I to the Congress of Vienna (Oxford University Press, 1922) p464
- ^ “A dozen Downing Street departures”. BBC News (2007年5月9日). August 23, 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月14日閲覧。
- ^ Thomas Carlyle, History of Friedrich II of Prussia, called Frederick the Great, Vol. 15 (1865, reprinted by Charles Scribner's Sons, 1903) p319
- ^ Carlyle 1862b, pp. 538–544.
- ^ a b c d 山本 2007, p. 116.
- ^ "Appendix E: History of the Publication", by Paul A. Scanlon in Joseph Andrews, by Henry Fielding (Broadview Press, 2001) p504
- ^ International Military Alliances, 1648-2008, ed. by Douglas M. Gibler (Congressional Quarterly Press, 2008) pp. 88, 105.
- ^ Doane Robinson, History of South Dakota (B. F. Bowen & Company, 1904) p53
- ^ "The Jewish living space in the Grand Duchy of Lithuania: tendencies and ways of its formation", by Jurgita Šiaučiūnaitė-Verbickienė, in Jewish Space in Central and Eastern Europe: Day-to-Day History (Cambridge Scholars Publishing, 2009) p24
- ^ “名古屋大学附属図書館2006年春季特別展「地獄物語」の世界〜江戸時代の法と刑罰〜図録ガイド”. 名古屋大学附属図書館. p. 9. 2021年1月7日閲覧。
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- ^ Colonial Latin America: A Documentary History, ed. by Kenneth Mills, et al. (Rowman & Littlefield, 2002) p302
- ^ 眞鍋 2010, p. 86.
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- ^ 知野泰明「近世の災害2」/ 北原糸子編著『日本災害史』吉川弘文館 2006年 178ページ
- ^ Edward Heawood, "A History of Geographical Discovery in the Seventeenth and Eighteenth Centuries" (Cambridge University Press, CUP Archive, 1912) p267
- ^ An Account of the Foundling Hospital in London, for the Maintenance and Education of Exposed and Deserted Young Children (Foundling Hospital, 1826) p20
- ^ Lorenzo Boturini Benaduci, Idea of a New General History of North America: An Account of Colonial Native Mexico (University of Oklahoma Press, 2015) p6
- ^ Lois Mulkearn, ed., George Mercer Papers: Relating to the Ohio Company of Virginia (University of Pittsburgh Press, 1954) p657
- ^ 遠藤 2017, p. 203.
- ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
- ^ 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “飯田義山とは”. コトバンク. 2021年12月27日閲覧。
参考文献
[編集]- Carlyle, Thomas (1862b). "Book XIII – First Silesian War, Leaving the General European One Ablaze All Round, Gets Ended – May 1741 – July 1742". History of Friedrich II of Prussia, Called Frederick the Great (英語). Vol. III. London: Chapman & Hall. OCLC 1045538020。
- 岩佐愛「捨子養育院における芸術と慈善 : ヘンデルの〈メサイア〉慈善演奏会の背景」『武蔵大学人文学会雑誌』第41巻3・4、2010年3月20日、608-574頁、NAID 120005662247。
- 梶山雄一「資料紹介(1) : 外国図書 (大型コレクション)について デルゲ版チベット大蔵経」『静脩』第20巻第2号、1984年、2-4頁。
- 遠藤元男『江戸時代年鑑』雄山閣〈雄山閣アーカイブス 資料篇〉、2017年。ISBN 9784639024828。 NCID BB23634815 。
- 武田光一『日本の南画』(初)東信堂、2000年7月20日。ISBN 4-88713-347-2。
- ドーリング・キンダースリー 著、藤井留美 訳、樺山紘一 編『ビジュアル版 人類の歴史大年表』柊風舎、2013年11月11日。ISBN 9784864980074。
- 眞鍋周三「18世紀ペルーにおける フアン・サントス・アタワルパの反乱の社会経済的背景」(PDF)『京都ラテンアメリカ研究所「紀要」』第10巻、2010年、85-126頁。
- 山本博文 編『見る、読む、調べる 江戸時代年表』小学館、2007年10月10日。ISBN 978-4-09-626606-9。
- 歴史学研究会 編『世界史年表 第3版』岩波書店、2017年10月28日。ISBN 9784000612265。